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    天狼の影(前編) 汗ばんだシャツが肌に張り付く、暑苦しい夜だった。
     磯臭い潮風が、埠頭ふとうに置かれた資材やコンテナの間をすり抜けていく。工事中で人気ひとけのない港湾だった。
     真っ黒な水面が静かに揺れている横で、一人の男が複数人によって制裁を受けていた。
     殴られている男はすでに鼻の骨が折れ、顔が変形していたが、暴行が止む気配はなかった。体を押さえつけられて、さらに暴行は続く。
     そこへ、踵でコンクリートをこつこつと鳴らす音が近づいてくる。
     彼らの頭目が現れた。
    「あーあ、可哀想。でも、自分で招いたことだって分かってるよね」
     その頭目──オーエンは涼しい顔でそう言った。
     男は鼻血を流しながら、すがるようにオーエンを見上げた。
    「もう勘弁してください……ううっ」
    「自分のしでかしたこと、理解してる? 言ってみなよ」
    「おっ、俺は、組の金を盗もうとしました」
     オーエンは男の腹に容赦なく蹴りを入れた。
    「ぐえっ」
    「それだけじゃないだろ」
     オーエンは蹴った部分をぐりぐりと踵で踏みつけた。男は潰れたネズミのような声を上げた。
    「いッ……」
    「なんのために金を盗もうとしたの?」
    「う……」
     男は涙と鼻血を流しながら体を丸めてうめいていた。オーエンの部下が無理やり体を起こさせる。
    「泣いてるだけじゃ分かんないよ?」
    「っ……」
     なおも黙ったままの男の頭を、部下が殴った。
    「おら、話せっつってんだよ」
    「うう、シャブを買うためです」
     オーエンは、男の頬を足で踏みつけた。男は細かく震えている。
    「うちは覚醒剤シャブは御法度。しかも、さばくほうじゃなくてヤるほうかよ。終わってる」
     オーエンは革靴で男のあごを勢いよく蹴り飛ばした。
    「っあ、は」 
     男は首をがくんと後ろに倒し、かろうじて浅い呼吸を繰り返すだけだった。
    「おまえごときが僕の手を煩わせるなよ、三下が」
    「どうしますか、こいつ」
     部下がオーエンに指示を仰ぐ。オーエンは首を傾げて数秒、男を見下ろした。
    「そういえばさ、こいつ、シャブをどこで手に入れたんだろうね。この近辺で買ったのなら、うちのシマで売ってる不届者がいるってことでしょう」
     極道やくざは「シマ」と呼ばれる縄張りをそれぞれ持っている。シマを支配し、ほかの組から守って金銭アガリを収益として独占的に確保している。自分のシマが誰かに侵入されたり荒らされているとなったら、敵とみなし徹底的に排除するのがヤクザの仕事だ。
    「売人の情報を吐かせます」
    「うん。なにやってもいいから」
     ひい、と男が悲鳴をあげた。
    「え、あの、これ以上はほんとに、勘弁してください……」
    「あはは」
     オーエンは、ぐちゃぐちゃに歪んだ男の顔に自らの顔を近づけ、ささやいた。
    「小指と、耳と、舌べろなら、どこが好き? まあ、おまえに選ぶ権利なんてないけど。ヤクザらしく小指にしようか?」
    「っ……」
     怯えた男をよそに、オーエンは部下たちに向かって言った。
    「もし殺しちゃったら、あっちの土掘って埋めておいて」
     オーエンはそこから数メートル離れたところに視線をやった。基礎工事中の工事現場で、地面の上にコンクリートの型枠が並んでいる。一部はまだ土が見えていて、オーエンはそこを見ていた。いずれはコンクリートで覆われることになるので、死体の隠し場所としては格好の場所である。
    「指は全部切り落として、別のところに埋めて。歯も砕けよ」
     もし男を土に埋めたとして、上にコンクリートが固められ建物が建設されるから、死体が見つかることは稀である。見つかったとしても、指なし死体では指紋で本人確認は不可能である。歯も同様だ。
     男は青ざめた顔で歯をがちがちと震えさせていた。
    「っ、あの、うう、ほんとに勘弁を、すみません……」
    「あ。おいっ、汚ねえな! こいつ」
     男は失禁していた。部下たちが罵声を浴びせている。
    「埋められたくなかったら、怖〜いお兄さんたちの言うことをちゃんと聞くことだね」
     オーエンはそう言うと、くるりと後ろを向いた。
    「じゃあ、あとよろしく」
     オーエンは停めさせている車のほうへ向かった。部下たちは去るオーエンに深く頭を下げていた。
     車の運転席にはすでに運転手が準備している。オーエンは後部座席に乗り込むと、車を発車させた。
     暗い海を横目に、静かに車は駆ける。
     車のバックミラーに、部下たちが暴行を加えている様子が映っていた。
     船の汽笛が聞こえた。オーエンは視線を窓の外へ移す。
    「これから騒がしくなる……」
     微かに笑うと、オーエンは目を閉じた。
     
     眞谷しんや署の巡査・カインは、暴力団幹部の事務所周辺で警備業務にあたっていた。
     極北きょくほく組の幹部の放免祝いが開かれるというのである。
     放免祝いとは、刑務所で服役していた暴力団員の出所を祝う催しである。刑務所から出てきた者へ金品を贈ったり、昇進させるなどして破格の待遇で迎える。暴力団にとって、組のため刑務所で服役し出所することは「お勤めご苦労様です」——名誉なことなのである。
     暴力団関係者が高級車を乗り付け、続々と邸宅に集まっていた。緊張が走る。
     とはいえ、眞谷署に配属されたばかりのカインの持ち場はあまり重要な場所ではなく、喧騒からは離れていた。
    「すごい屋敷だ……」
     カインは暴力団幹部の事務所兼自宅を眺めて呟いた。荘厳な日本家屋だった。
    「暇だからって、ボケっとするな」
    「すみません」
     先輩警察官に注意されて、カインは謝った。警察学校で上下関係はしっかり叩き込まれている。
     事件が起こらなくても、いつ市民に見られているか分からないため一時いっときも気を抜けない。
    「まあ、血の気の多い若者には退屈かもな」
    「いえ……」
    「少し早いが、休憩行ってきていいぞ」
    「あ、ありがとうございます」
     何時間もずっと立っているだけだったので、飽きるというのが正直なところではあった。腹も空いている。
     カインは休憩スペースへ向かった。
     休憩といっても、サッと食べて、また持ち場に戻るくらいの時間しかない。休憩所のテントの中には長机があり、そこに食料や飲み物が置いてあった。いくつかつまんでカインは外に出る。
     どこか適当に、人目のつかない場所を探してカインはうろうろした。
    「ん……?」
     十メートルほど先。
     道をふらふら歩いている人物が目に入った。
     カインはその人物に近づいて声をかけた。
    「大丈夫か? この辺りはあんまり安全じゃないから早く離れたほうがいいぞ」
     話しかけた人物がカインを見た。赤い瞳が印象的だった。
    「お巡りさん?」
    「ああ、そうだ」
     その人物はダークスーツを身にまとい、黒のネクタイをかっちりと締めている青年だった。銀色しろがねいろの髪をして肌は青白く、一見病弱そうに見える。だが、浮世離れしたような、少し変わった雰囲気があった。
     青年の頬にまつ毛の細い影が落ちる。
    「おいしそうなの持ってるね」
    「え?」
     青年はカインの手元を見ていた。
     カインの手には、先ほど休憩スペースから持ってきた食料があった。食料といっても、菓子パンや菓子類など甘いものしか残っていなかったから、しかたなくそれを持ってきただけだった。
    「それ、くれない? これと交換で」
     青年は、白いレジ袋を差し出した。
     急な申し出にカインは困惑した。
    「ええと……」
     青年はカインに向かって微笑んだ。
    「さっきもらったんだけど、僕はこういうのあんまり好きじゃないから」
     差し出された袋の中を見ると、プラスチックの使い捨て容器に唐揚げや巻き寿司、惣菜などが詰められていた。匂いがカインの食欲を刺激する。
    「俺としてはありがたいけど……」
    「じゃあ、交換成立」
     カインは不思議に思いながら青年と食料を交換した。受け取った袋の底に触れると温かかった。袋の隙間から揚げ物の香りがしてきて腹が鳴る。
    「道は分かるか?」
    「大丈夫」
     青年は機嫌良さそうに菓子パンをかじりながら歩いて行った。
     変わった人物だな、とカインは遠くなっていく青年の背を見ながら思った。
     休憩時間はわずかしかないので、カインは急いで口をつける。なかなか美味しかったために名残惜しさを覚えながら素早く食べ終えた。
     カインは持ち場に戻りながら、あの青年はどこでこれをもらったのだろうと思った。
     暴力団幹部の邸宅からは、宴会のような声が聞こえてきていた。
     ずっと立ち続けていなければならない自分たち警察官と違っていい気なものだな、とカインは少しだけ恨めしく思った。
     
     カインは警察学校を卒業して、眞谷署に配属されたばかりの新人警察官である。
     今日は、眞谷署の先輩に同行して地域をパトロールしていた。警察官は道案内も仕事なので、眞谷署に配属されたばかりのカインには地理を覚えるという意味もある。
     住人たちと挨拶を交わしながら街を歩く。
     ある場所で先輩がピタリと足を止めた。険しい顔の視線の先、道路越しに雑居ビルがあった。
    「あれは極北組傘下の狼道ろうどう会の事務所だ。外に立ってるのは舎弟たちで、今事務所から出てきた男は若頭補佐だ」
     カインは覚えるべきことを必死に頭に叩き込む。
     ヤクザの組織は徹底した上下関係で成り立っている。権力者たる「親」に、絶対服従の「子」。そして、大きな団体の下に、下部団体と呼ばれる暴力団組織が連なっている。今、カインたちが見ている狼道会は、極北組という暴力団の下部団体のひとつにあたる。
    「ん……?」
     狼道会の事務所前に一台の黒塗りの車が停まった。事務所前にいた狼道会組員らが一斉に頭を下げた。
     車から降りてきたのは、カインが見たことのある人物だった。カインは先輩のほうを振り返った。
    「あれって……」
    「極北組幹部のオーエンだ」
     光を反射する銀髪。病的なほど白い顔。
     屈強な男たちに囲まれて、そこだけ違う世界のように見えた。
     柘榴ざくろの実の色をした双眸そうぼうがこちらを向いた。
     オーエンはカインたちに向かって優雅な笑顔とともに手を振った。
    「え?」
    「はあ、からかってるんだろうな……」
     先輩は苦々しくため息を吐いた。
    「ヤクザは大概危険な奴らだが、あいつは特に要注意だ」
     事務所へ入っていくオーエンを見ながら先輩は呟いた。
    「要注意、ですか」
    「見たろ、あいつは警察のことを舐めてる。舐めてるどころか……」
     警察官をたぶらかす。あいつは悪魔だ。
     カインはぎょっとして先輩を見つめた。
     先輩は「これは噂だが」と前置きして語り始めた。
     ──オーエンは何人かの警察官を懐柔しているらしい。警察内にオーエンの協力者がいる。ガサ入れの情報も何もかも筒抜けになっている。
     誰がオーエンの息のかかった人間なのかはまだ分かっていない。
     ヤクザを取り締まる側の警察官が、ヤクザに操られているなんてとんだ酷い話である。幹部級のヤクザと関わることはそんなに多くはないだろうが、あいつには近づかないように気をつけろ。
     カインは神妙な顔でうなづいた。
     ただ、オーエンがいくらやり手だからといって警察官がヤクザにそそのかされているなんてカインには信じ難かった。
     一般の人間が、脅されてヤクザの犯罪の片棒を担がされるならともかく、警察官がヤクザの手先みたいなことをするだろうか?
     カインたち警察官は、治安を守るために正しくあれ、強くあれと厳しい訓練を受けてきた。
     先輩も「これは噂だが」と留保をつけて語っていた。あまり信じすぎないように、だがオーエンには重々注意しようとカインは肝に銘じた。
     
     カインの所属は眞谷署地域第一係である。警察署・交番に勤務し、パトロールや道案内、落とし物の対応等の業務を行なっている。眞谷署は繁華街を有する地域の管轄なので、人や事件もそれだけ多く、カインは日々忙しく過ごしていた。
     ある夜、飲食店の店内で客が暴れていると通報があった。カインが駆けつけると、厳つい顔の男複数人らが他の客を殴ったり店内を破壊したりしていた。
     まずは殴られている被害者の救出にあたった。カインは殴っている男を羽交締めにして、被害者から引き剥がす。
    「離せや!」
    「この……ッ、大人しくしろ!」
     カインよりも背の高い大男だったが、カインも負けじと対抗する。暴れる男の腕がカインの顔に当たり、カインの口の中が切れた。同僚の警察官の手も借りてなんとか現行犯逮捕に至ったが、暴れていたほかの何人かは騒動の合間に逃亡しており、取り逃してしまった。
     カインは飲食店を飛び出して辺りを見回した。賑わう客らが道を行き交っている。
     カインは視線を感じた。
    「大変だったみたいだね? お巡りさん」
    「! おまえ……」
     部下を連れたオーエンがカインを見ていた。にやにやとカインに笑いかけている。
    「ここの辺りはもう僕たちの組のシマになるから、そんなに張り切らなくてもいいよ」
    「一体なんの話……」
     オーエンたちのいる付近の物陰から人間の足が見えているのにカインは気づいた。近づくと、複数の人間が倒れていた。
    「こいつらは」
     先ほど店内で暴れていた、カインらが取り逃した男たちだった。
    「ご覧の通り、僕たちが始末した。今後、うちのシマで狼藉を働いている奴がいたら、うちの組で対処する。おまえたち警察は役立たずみたいだし?」
    「……っ」
     カインはオーエンに鋭い視線を向けた。オーエンの部下たちがオーエンを守るように、オーエンとカインの間に立つ。オーエンは冷ややかな笑みを浮かべていた。
     暴力団はみかじめ料やショバ代と称して、組の縄張りシマで営業している店に対して金銭を要求する。その代わり、用心棒として暴れる客を制圧する等の庇護の役割もしている。
     今回通報のあった店は、オーエンの所属する極北組の支配地域ではないはずだった。しかしオーエンの言葉から、どうやら勢力図に変化があったことが窺い知れた。別の組と勢力争いがあり、極北組が勝利したのだろう。
    「この街を守るのは俺たち警察の役目だ。おまえたちヤクザは、社会を乱す悪でしかない」
     カインがそう言い放つと、オーエンの部下がカインの目の前まで歩いてきた。顔をカインに近づけ、至近距離で睨んでくる。警察が怖くないということなのか、あるいはカインが若いから舐めてかかってきているのか。カインは睨み返した。
    「ふふ……」
     オーエンが低い声で笑った。
    「おまえらも、子犬相手にむきになるなよ」
     オーエンが部下に声をかけると、部下はカインから離れた。
     オーエンが馬鹿にしたようにカインに言う。
    「せいぜい頑張れば?」
    「おまえに言われなくても」
     カインがそう答えると、オーエンは薄笑いを浮かべながら、部下を伴って去っていった。
     応援のパトカーのサイレンが聞こえてきて、カインははっと我に帰る。
     夕方頃には幾分か涼しく、火照った身体を風が冷ましていく。ちりんちりんと鳴る風鈴の音を聞きながら、カインは帰途についていた。
     今日は剣道の大会があった。カインは小学生のときから剣道をやっており、警察官となった今でも続けている。
     警察官は術科訓練といって、職務執行に必要な体力や技術を養うために柔道や剣道、逮捕術等の訓練を日常的に行なっている。
     日々の勤務でも身体は動かすが、純粋に剣道に打ち込む時間は心地よい疲労感があって、頭もすっきりする。
     騒がしくなり始めた飲み屋の前を通り過ぎようとした、そのとき。
    「あ、今日はお巡りさんじゃなくて騎士様だ」
     聞き覚えのある悪戯っぽい声が耳に入り、カインは声のしたほうへ顔を向けた。
     薄笑いを浮かべたオーエンが立っていた。
    「なんでおまえが……」
    「はは。ヤクザだって散歩くらいするでしょう。なにかおかしい?」
     カインはオーエンと一定の距離を保ったままオーエンを見た。
     白いシャツにスラックスという出立ちで、いつものスーツ姿と比べるとラフな格好だった。一目見ただけではヤクザには見えないだろうなとカインは思った。普段連れている部下たちはいなかった。
    「別に、道を歩いていただけで逮捕なんかしないが、わざわざ俺に話しかけてくるのはなぜだ?」
     通常は、ヤクザは警察と関わりたくないはずである。オーエンの意図は分かりかねるが、オーエンと最近よく顔を合わせるのは偶然ではないのではないか、とカインは思い始めていた。
     オーエンは塀に身体をもたれながらカインに言った。
    「おまえ、僕の犬にならない?」
    「…………は?」
     カインの素っ頓狂な声が往来に響く。
    「ふふ、間抜けな声」
    「っ、おまえが変なこと言うから」
     オーエンはくるりと後ろを向いて歩き出した。カインは迷いながらもオーエンについていく。
    「犬って? どういうことだ」
     カインの頭には、以前に先輩から聞いた話が浮かんでいた。
     オーエンの息のかかっている者が警察内にいる。
     オーエンの発言は、カインに警察を裏切り、オーエンの下につけという誘いだと思われた。
    「犬っていうのは、僕のために忠実に働く奴のこと」
    「なるわけないだろ」
     カインは憤慨した。
     オーエンは急に足を止めると、カインの腕を引っ張った。細腕とは思えない、強い力だった。カインは身体のバランスを崩して、オーエンに倒れ掛かる形になった。
    「最初はみんなそう言うんだ」
     甘い声で、しかしそれでいて腹にずっしり響く声でオーエンはカインの耳元でささやいた。
     カインはオーエンの腕から抜け出した。
    「冗談じゃない……!」
    「はは」
     意地の悪いオーエンの笑顔を見ていると、カインはむかむかした気持ちが湧いてきた。なぜかオーエンは嬉しそうだった。
    「俺は正義の味方だ──って思ってる奴を、僕の犬にするのが最高に楽しい」
     悪魔だ、とオーエンが評されていた意味がカインにも少し分かる気がした。
     警察も、任務遂行のために情報提供者──エスと呼ぶこともある──を使って情報を集めたり、スパイのようなことをさせたりする。エスはスパイの頭文字だ。しかし、それはあくまで事件を解決するためなどの目的があってのことだ。
     オーエンのように、楽しいとか、自らの欲望のためにそんなことをするなんて、カインにとっては言語道断だった。
     警察官をたぶらかす。あいつは悪魔だ。
     カインは、以前に先輩から聞いたオーエンの話を思い出して、オーエンをキッと睨みつけた。
    「ふふ。そんな怖い顔しないでよ、騎士様」
    「…………きし……? なんだ?」
     今日会ったときもオーエンはそう言っていたような気がして、カインは怒りながらもオーエンに尋ねた。
    「騎士様」
     オーエンは、肩を指差した。
     カインの左肩には竹刀袋があった。
    「──ああ、剣を持ってるから『騎士』……? 剣というか竹刀だが。それに、どちらかというと『剣士』じゃないか……?」
     オーエンは目を細めてにやにや笑っていた。
    「まあ、さっきの話、考えといてよ」
    「考えるわけない!」
     カインは怒りを込めて返した。
     オーエンは軽く手を振って、日没の空に向かって去っていった。
     カインがむっとしたまま立っていると、道のかどからサングラスをかけた大柄な男が現れた。カインを一瞥すると、オーエンの後を歩いていった。おそらくオーエンの護衛だろう。さすがに、護衛を付けないということはないのだなとカインは思った。
     オーエンの協力者になるよう誘われたのは腹立たしいことではある。しかし、少し冷静になってみると、警察内では一番下の階級である自分に、なぜオーエンが声をかけたのか不可解だった。正義感を持った警察官をたぶらかすのが楽しいという、それだけの理由で? それに、あんな誘い方でオーエンの協力者になる警察官がいるとは思えなかった。
     カインにとってオーエンはなにを考えているか分からない。目論見が不明な以上、関わらないのが一番であるしカインとしても関わりたくないのだが、今後も度々会うことになる気がしてならなかった。
     カインは沈んでいく太陽を見て、ふうと息を吐いた。
     
     元々忙しかったが、以前にも増してカインは業務に追われていた。
     このところ、暴力団の抗争と見られる事件が続いていた。あちこちで喧嘩が起こっているとか発砲音がしたとか、そのような通報が相次いでいた。
     先日、カインが取り押さえた飲食店で暴れていた男たちは、内籐ないとう組に所属する組員だと取り調べで分かった。内籐組は、極北組と対立している暴力団組織である。
    「最近、極北組は勢いがあって内籐組のシマを荒らしまわってててさ……」
     暴力団にまつわる事件を担当している刑事がぼやいていた。
     以前カインも警備業務に駆り出された、極北組幹部の放免祝い。あのとき出所したのは、極北組幹部のブラッドリーという人物だった。ブラッドリーが組に復帰してから、極北組は勢いづいているのだという。
     極北組は、対立している内籐組の事務所や組員を次々に襲撃していた。
     カインの担当業務は暴力団対策ではないが、暴力団の抗争によって市民に被害が出るのは許せなかった。
     オーエンのにやにやした笑顔を思い出して、カインは強く拳を握った。自分の楽しみや欲望のために他人を傷つけるのは許さない。
     カインはやる気に燃えながら、パトロールに向かった。
     夜の巡回は、酔って騒いでいる人間や、言い合いでトラブルに発展している人間が多い。未成年と見られる若者には積極的に声をかけていく。
     ある時間を過ぎると、騒いでいる人間よりも、酔い潰れて倒れている人間が多くなり、繁華街もだんだん静かになっていく。
    「あのー、ちょっと。そこのお巡りさん」
     気だるけな声が聞こえてきて、カインは振り返った。
     調理服をきた青年がカインのほうに向かって歩いてきた。
    「あの、さっきうちの客がさ。──ああ、俺はそこの小料理屋をやってる者なんだけど。三丁目二番地のクラブで騒ぎがあったって言っててさ。よかったら、そっちのほうもパトロールしてくれねえかな」
    「ああ、そこならパトロールの範囲内だ。見てみるよ」
    「ありがとさん」
     カインはいつもと少し順序を変えて、そのクラブへ先に向かうことにした。
     クラブへ行くと、入り口の前でスーツを着た男らが言い争いをしていた。激昂した男が、懐からなにかを取り出した。
    「おい!」
     男が持っていたのは短刀だった。カインは警棒を手に、男に向かって走っていった。
     男はカインを見ると、「まずい」という表情をした。その隙にカインは男の短刀を警棒で叩き落とし、男を取り押さえる。
     カインは無線で応援を呼んだ。
     眞谷署の警察官が到着し、店内からも数人客が出てきてざわつき始める。
    「内籐組のやつだな。お手柄だ」
     暴力団担当の刑事がカインの肩を叩いた。
     そういえば、とカインは辺りを見渡した。
     カインが捕まえた男と言い争っていた相手側の男たちの姿が見えない。内籐組の組員と騒動を起こしたのは、対立している極北組の者の可能性もある。内籐組の組員が取り押さえられている間に逃げたのだろうか。
     やがて朝日が昇る。カインは署に戻り、睡眠を取るため仮眠室のベッドに入った。
     忙しい日が続いていた上、ヤクザと取っ組み合ったのでカインは疲れていた。すぐに眠りへと落ちていった。
     
     その後も、内籐組が暴れているとか、内籐組の組員が拳銃を所持しているとかそのような情報がカインに入ってくることが多くなった。
     カインが交番に勤務中、電話が鳴った。
    「はい。眞谷署地域課──」
    「二十時半。四番街ビル。内籐組がチャカの取引をする」
    「え? あの……」
     そこで電話が切れてしまった。
     カインは顔を上げた。
     最近はこのような匿名でのタレコミが多かった。伝えられた場所に向かうと、たいてい内籐組の組員が暴れていたり、銃や薬物の取引を行なっている現場に居合わせる。
     いたずらの可能性もあるが、向かわないわけにもいかないので向かう。大抵は情報の通りだった。
     ただ、カインが捕まえるのはいつも内籐組の組員だった。
    「最近調子いいな?」
     交番で調書作成中のカインに、厳つい顔の刑事が話しかけてきた。膨らんだ耳が特徴的な刑事だった。柔道など武道をしているとこのような耳になることがある。
    「内籐組ばっかりパクってよ……」
    「もっと精進します」
     ばん、と机を刑事に叩かれた。
     机の上にあったボールペンなどの小物がわずかに跳ねた。
    「おまえ、極北組に肩入れしてんのか?」
    「……!? それはないです」
     カインは否定したが、刑事に胸ぐらを掴まれた。
     鼻のぶつかりそうな距離で刑事がカインをぎょろりと睨む。
     刑事の形相は恐ろしかった。ヤクザにも劣らないだろうとカインは感じた。
     ヤクザ担当の刑事はヤクザのような風貌になるとカインは聞いたことがあった。ヤクザ担当の刑事は通称・マル暴と呼ばれる。この刑事はおそらくマル暴の刑事だとカインは思った。
     刑事の眼光を浴びていたのは数秒のことだったが、カインには長く思えた。
     刑事はカインを離すと、「どうだかな」と吐き捨てるように言って去っていった。
     極北組に便宜を図っていると疑われた。カインにはショックだった。
    「大丈夫か? 大変だったな……」
     先輩が心配してカインに声をかけた。
    「あの刑事、内籐組担当のマル暴なんだ。ほら、暴力団担当って暴力団と持ちつ持たれつの関係の刑事もいるからさ……。内籐組のやつばかり逮捕されると困るんだろう」
     カインは先輩にそう聞かされたが、自分が極北組に肩入れしていると思われかねない状況に危機感はあった。
     内籐組の戦力が削られて得をするのは、対立している極北組だ。
     内籐組の組員を捕まえたという自分の行動が、極北組の利益になっているというのはカイン自身耐え難かった。カインは街を守るために仕事をしているという自負があった。
     カインの脳裏には、この状況を作り出したと思われる人物の顔が浮かんでいた。
     
     休日とはいえ、直接会いに行くのははばかられた。かと言って他にあてがあるわけでもないので、カインは狼道会事務所の付近をうろうろしていた。
     三十分ほどそうしていたが目的の人物は現れず、カインは帰ろうと思った。このままここにいては、ただ怪しいだけだった。
     会いたくないときには現れて、会いたいときに姿は見えない。
     カインは頭を振った。会わないなら、それでいいのだ。会ったとして、今後自分に関わるなと、それだけ告げるつもりだった。
    「!」
     突然、カインは後ろから腕を引かれた。背後の路地に連れ込まれる。
     カインは掴まれた手を振り払い、前を見据えた。
    「……オーエン」
     オーエンとその部下たちがいた。
    「ふふ、久しぶり。こんなところでふらふらして、そんなに僕に会いたかった?」
    「まさか」
     オーエンのいつもの薄笑いを浮かべていた。カインは拳をさらに強く握った。
     オーエンは随分と機嫌が良さそうだった。
    「僕の犬になるつもりで来たの?」
    「違う、話をしにきただけさ」
     カインは深呼吸をした。
    「俺に情報を流していたのは、おまえだろ?」
    「うん」
     あっさり認めるんだな、とカインは思った。
    「僕の情報のおかげで、騎士様はいい成績出してるんでしょう。お礼してくれてもいいんだよ」
    「おまえの犬になる気はない。そもそも、俺はこんなこと頼んでいない……! 今後こういうことはやめろ」
     オーエンは目を見開き、口を開けて笑った。
    「ははは! ……ねえ、騎士様って、どうして警察官やってるの?」
    「そんなの、おまえに関係ないだろ」
    「ふうん」
     オーエンはカインの目の前に歩いてきた。
    「これ、なんだと思う?」
    「……?」
     オーエンは三枚の写真をカインに見せた。
     一枚は、坊主頭の男が若い男になにかを渡している場面の写真。
     次の一枚は、坊主頭の男の顔を正面から撮ったもの。
     最後の一枚は、若い男の写真。ただし、半殺しにされた状態だった。
    「なんなんだ……」
    「こっちの男は警察官で、こっちは覚醒剤の売人。売人を拷問して情報を吐かせた。売人はこの警察官と覚醒剤をやり取りをしたと言っている」
     カインは目を見張った。
    「でたらめだ」
    「そう思うなら、こいつに聞いてみたら」
     オーエンは、二枚目の写真をカインに突きつけた。真面目そうな坊主頭の男が写っている。
     カインは写真から目を逸らし、オーエンを見た。オーエンは憐れむような顔をしてカインに言った。
    「騎士様は、警察官が正義の味方だと思ってるんでしょう?」
    「…………」
     カインはオーエンの手から写真を取った。写真をじっと見る。
    「警察官がこんなことするわけない。……でも、もし犯罪に手を染めてしまったら、それは、ちゃんと捕まって裁かれるべきだ」
     苦々しい心地のカインに、オーエンのあざけるような視線が刺さる。
    「……というか、こういうのをやめてくれと言ったんだ。どうして俺に情報を流すんだ。おまえたちがなにを望もうが、おまえたちの得になるようなことは俺はしないぞ」
    「あはは。今はそうかもね」
     カインはオーエンをキッと睨みつけた。オーエンは涼しい顔でカインの視線を受け止める。
    「でも、これまで得をした分は返してもらわないと。そっちだけ良い思いをするっていうのも、ね」
     そっちが勝手にやったんだろうとカインは思った。むしろ、良い思いどころか、警察組織内から疑惑を持たれかねない状態になっている。
     カインは周囲を確認した。
     カインの背後にはオーエンの部下たちが近づいていた。
     おそらく、脅されるのだろう。多人数相手にどう立ち回るか、カインは頭の中で考えを巡らせた。
     オーエンがカインの顎を掴んだ。
    「お礼、これでいいよ」
     オーエンの親指が、カインの下唇を柔く押した。
    「──!?」
     オーエンの顔が近づいてくる。
     カインはわけが分からず固まった。
     互いの唇が触れるか触れないかの距離でオーエンは静止して、ふっと息を吹きかけた。カインの肩がわずかに跳ねる。
    「あはは、びっくりしちゃって。……怖かった?」
    「──っ」
     カインは頭がかっと熱くなった。
    「馬鹿にするな」
    「へえ、そう?」
     オーエンに憐憫の表情を向けられて、カインは怒りのような、恥のような感情が渦巻いた。
     ──カインは、オーエンの胸ぐらを掴み自分に引き寄せた。オーエンの唇に自分の唇をぶつける。キスというには乱暴だった。唇越しに歯ががちんと鳴って、少し痛かった。
     顔を離すと、オーエンはぽかんとして目をしばたいていた。
    「なめるな」
     カインはオーエンを押し除けて路地から抜け出した。手の甲で口を拭いながら道を駆ける。オーエンや部下たちが追いかけてくる様子はなかったが、念のためしばらく走り続けた。
     やはり、オーエンはなにを考えているか分からない。
     オーエンの目的が分からない以上、今後も接触してくる可能性は依然ある。
     カインは、足を止めて一息吐いた。
     口の中で微かに血の味がした。
     
     カインは、オーエンから取り上げた写真を眺めていた。
     覚醒剤の売買に携わっていたという警察官。
     オーエンの言うことを信じたくはなかった。だが、もし万が一でも警察官が悪事に手を染めていたら──。
    「あれ、その人……。なんでそんな写真持ってるんだ?」
     同じ部署の巡査部長がカインの手元を見て言った。
    「え、この人知ってるんですか」
    「原敷署の四課の刑事だよ」
     警察官であることは確からしい。
     覚醒剤売買についての真偽を確かめるには、直接この刑事に話を聞きに行くべきか。
     ただ、真正面からいったところで素直に認めるとも思えない。
     証拠がオーエンからもたらされた写真だけというのも心許なかった。
    「この人、この辺りで見かけたことあるか?」
     カインは普段の職務中に、刑事の写真を示して情報を集めることにした。
     すると得られたのは、刑事は二週間に一度ほどの頻度でこの近辺に現れるという情報だった。
     カインは覚醒剤売買の現場を自分で直接確認しようと、非番の日に刑事を探すことにした。
     目につきづらい狭い路地などを重点的に見ていく。相手は刑事なので、パトロール経路から少し外れた場所や隠れやすい場所については詳しいはずである。
     刑事が現れる頻度が二週間に一度ほどという情報は得たものの、具体的に何曜日とか何日だとかは不明である。今日でない可能性は十分にあった。
     だが、犯罪捜査はこのような地道な作業の積み重ねなのだろうとカインは思う。
     カインは、殺人事件や傷害事件を担当する捜査第一課を志望していた。現在は新人警察官としてパトロールや道案内などが主な業務だが、いずれは捜査第一課に配属されて、犯罪捜査に携わりたいと思っている。
    「……! いた」
     刑事を見つけた。私服姿ではあるが、写真で見た通りの顔である。
     刑事は左の脇道へ入っていった。
     カインは数メートル後ろから刑事を追う。
     刑事は細い脇道を何度か曲がった。
     見失わないよう、カインは歩みを早めた。
     前方に集中していたため、カインは後ろから迫るものに意識を払っていなかった。
     右肩に触れられて、「わっ」と声を上げそうになった。後ろから回ってきた手に口を塞がれたため、声は漏れずに済んだ。
    「ちょっと」
    「……!」
     後ろを振り向くと、オーエンがいた。
    「ターゲットにそんなに近づいたら、気づかれるよ」
     オーエンはカインにだけ聞こえる声量でそう言うと、カインの口から手を離した。
    「なんでおまえが……」
    「こっち。いいから着いてきて」
     カインの話を遮り、オーエンは歩き始めた。
     カインが不審に思っていると、オーエンは顔だけ後ろに向けてカインを見た。いつものにやにやした笑顔ではなく、真面目な表情だった。今は話をしている時間はないということだとカインは理解し、オーエンの後に続いた。
     一分も歩かないうちに、オーエンが足を止めた。
    「あそこ」
    「!」
     オーエンが顎で示した先に、カインの追っている刑事がいた。ビルとビルの合間の、人目につかない場所である。
     しばらく刑事を注視していると、陰からもう一人現れた。刑事よりも頭ひとつ分背が高く、スーツを着ている人物だった。刑事となにかを話している。
    「覚醒剤の売人か……?」
     もしそうなら、覚醒剤売買の決定的瞬間だ。カインは気分が高揚してきた。だがこういう時こそ油断が生じるものである。カインは深呼吸をした。
    「……オーエンはどうしてこんなところにいるんだ?」
     カインは先ほど聞けなかった問いを聞き直した。
    「僕が用事あるのはあっち」
     オーエンがスーツの人物を指した。
    「なるほど……」
     オーエンはカインとは別に目的があったようだった。しかし、オーエン自らこうして捜査のようなことをする必要はないように思われた。
    「オーエンって暇なのか?」
    「は? ……休日に仕事してるやつと比べたら、誰だって暇ってことになるんじゃない?」
     カインはむっとしてオーエンを見た。
     思っていたより顔が近くて、カインはなぜか焦った。唇に視線が行ってしまう。カインは顔を逸らした。オーエンと会うのは、以来だったことに気づく。
    「おい。いま、渡してる」
     オーエンの声にカインははっと意識を取り戻した。前方に目を向ける。
     刑事がスーツの人物から小包と封筒を受け取っていた。刑事は封筒を開けると中身を取り出した。
     札束だった。
     ──刑事が小包を受け取った上に、金を受け取った?
     カインは混乱した。
     あの小包が覚醒剤だとして、なぜ金まで受け取るのか。刑事が覚醒剤を買うのではなかったのか?
    「がめついなあ、あの刑事も」
    「……!?」
     オーエンは納得している様子で、カインはますますわけが分からない。
    「賄賂だよ。金だけじゃなくて、覚醒剤まで納めさせてるなんて」
     オーエンが愉快そうに話すのを、カインは呆然として聞いた。うまく頭に入らない。
    「あ、こっちに気づきそう」
     刑事たちがカインたちのほうを見ていた。
    「逃げるぞ!」
     カインはオーエンの手を取って駆け出した。
    「別に、一人で走れるって……」
     オーエンは小さく文句を言ったが、カインの手を振り解こうとはしなかった。
     二度銃声が響いた。
     カインが後ろを振り返ると、スーツの人物が銃口をこちらに向けていた。
    「は!? なんで覚醒剤の売人が銃を…!」
    「あいつは売人じゃなくて内籐組の組員」
    「そうなのか!?」
     さっき教えてくれたっていいのに、とカインは思ったがそれを伝える余裕はない。
     カインとオーエンはそのまま走り続けた。再び銃声がした。
     カインの手から、オーエンが崩れ落ちた。
    「おい! オーエン……!?」
    「……いッ……」
     オーエンの脇腹に血がにじんだ。
    「まさか当たるなんて……。大丈夫か!?」
    「はあ……。ぐっ。──おまえ、あの刑事のほうを捕まえろ」
    「なに言ってるんだ。まずはその怪我を……」
    「僕の部下が近くにいる。そいつらに僕を医者に連れて行かせる。……あの刑事、いまなら現行犯でしょっぴけるだろ。おまえはそっちをやれよ」
    「……分かった」
     オーエンの部下が駆け寄ってくるのを確認し、カインは刑事を追いかけることにした。
     カインはオーエンの手を握った。
    「死ぬなよ」
    「…………」
     痛みのせいなのか、オーエンの顔が一瞬歪んだ。
     カインは立ち上がって、刑事の去った方向へ走り出した。
     
     カインは苦い思いを抱いていた。
     カインは刑事を捕まえることはできたが、引き渡した後、事情聴取前に自殺したと聞かされたのだった。
     カインは、署長からあの日のことは一切話すなと言われた。意味が分からず抗議しようとしたが、話すな、の一点張りだった。あの刑事が覚醒剤売買に関わっていたこと、暴力団員から賄賂を受け取っていたことについて報告は許されなかった。
     信じたくないが、警察は刑事のことを隠蔽するつもりなのかとカインはぞっとした。
     普段の職務にもなんとなく身が入らない。周囲もそんなカインの様子に気がついていたはずだが、それについてなにか話をするようなことはなく、皆いつも通りを演じているようだった。カインには、なんだか気味が悪かった。
     また、カインにはオーエンが無事なのかどうか気がかりだった。あの後極北組や狼道会の者と関わる機会がなく、オーエンの状態が知れずにいた。
     カインの無線に連絡が入る。通報があったとのことで、パトロール中のカインは指示された場所に向かった。
     喧嘩もだんだん見慣れてきた。カインが駆けつけると、二人の男が殴り合っていた。片方が圧倒的に優勢で、一方はもう倒れそうな様子だった。
     カインは優勢なほうの男を一方の男から引き剥がした。
    「二人とも大人しくしろ」
     劣勢だった男は諦めたように座り込んでいた。カインに捕まった男はしばらく暴れていたが、駆けつけたほかの警官らの協力もあり制圧された。制圧された男の袖から、刺青が見えた。暴力団組員だった。
    「ちっ、極北組の幹部の一人が消えたって聞いて運が回ってきたと思ったのに、サツに捕まっちゃしょうがねえ……」
    「なに……? どういうことだ?」
     極北組の幹部が消えた?
     カインが問うと、男は言った。
    「極北組幹部のオーエンが行方不明。あいつがいなくなりゃ、だいぶやりやすくなったと思って調子に乗ったらこのざまだ……」
     
     終業後、カインは焦燥感を覚えながら帰途に着いていた。
     オーエンが行方不明。
     カインが離れたあと、オーエンは部下に医者の元へ運ばれたはずだった。
     まさか、助からなかったのだろうか?
     カインは落ち着かなかったが、確かめる術はない。カインはオーエンの関係者ではないし、関係者であってはいけないのだ。
     どうしようもできない。
     無力感を抱えながらカインはアパートの自室のドアを開けた。
    「あ。騎士様」
    「……!? な……」
     四畳半の部屋の窓際。壁にもたれかかるオーエンがいた。夕陽の光が畳の上に落ちている。
    「え? ど、どういうことだ? どうやって入った……?」
    「ボロアパートの鍵なんか、ちょっといじれば簡単に開く」
     オーエンは人差し指をくるくると回した。ピッキングしたのだろう。
    「ここ、一応警察の寮として借り上げてるアパートなんだが……」
    「それは安心だね? 泥棒や犯罪者なんか怖くて入れやしない」
     オーエンはにこりと笑った。カインは苦笑いするしかなかった。
    「無事だったんだな。行方不明だって聞いたからさ」
     カインは脱力してオーエンの向いに座った。
     カインはオーエンを見た。撃たれたのは腹だから、服の上からでは傷がどうなったのかは判別できない。オーエンの表情を見る限りでは普段のオーエンと変わらなかった。
     オーエンが首を傾げる。
    「おまえはなんか、しょんぼりしてない? 捨てられた犬みたいな顔してる」
    「え? あー……」
     カインは、あの刑事が亡くなったことを伝えた。また、署長から今回の件について口止めされたことも伝えた。
    「なんか、おかしいと思うんだ」
    「そうだろうね」
     オーエンはにやにや笑っていた。
    「オーエンはなにか知ってるのか」
    「まあね」
    「教えてくれよ」
    「じゃあ、食べもの持ってきて。お腹空いた。甘いものがいい」
     そろそろ夕飯の時間だった。
     カインは食堂へ向かった。カインのアパートの隣に比較的築年数の浅い宿舎があり、そこの一階に食堂があった。本来であればこの宿舎に眞谷署勤務の警察官が暮らすのだが、定員を満たしてしまったため新人や若い警察官らは隣の借り上げ寮に住んでいる。宿舎に住んでいる者も借り上げ寮に住んでいる者も、基本的にこの食堂で食事が提供されている。
     カインは食料を調達して自室へ戻った。甘いものはお菓子と缶詰の果物くらいしかなかったが、オーエンはそれに手をつけたのでカインはとりあえず安心した。
    「あの刑事、覚醒剤と金を受け取っていたよな……。賄賂って、どういうことなんだ?」
     カインがオーエンに問うと、オーエンは菓子を頬張りながら話し始めた。
    「内籐組が覚醒剤を密輸するのを見逃してるんだ。原敷署ぐるみで、泳がせ捜査のためにね」
     海外マフィアが覚醒剤を密輸するのをわざと見逃して泳がせ、油断して次に大量に密輸したところを摘発する。
     原敷署上層部は、内籐組から金と引き換えに、覚醒剤の密輸を見逃すよう持ちかけられた。通常であればいくら金を積まれようが、原敷署が応じるはずもない。だが、警察庁の覚醒剤摘発キャンペーン真っ只中、当時原敷署は課せられたノルマを達成できないでいた。
     密輸を三回見逃せば、四回目は油断して覚醒剤百キロを海外マフィアが持ち込むだろう。百キロを摘発すればニュースにもなる大手柄だ。内籐組はそう言って、原敷署はそれに乗った。
     亡くなった刑事は、原敷署と内籐組の仲介役だった。金だけでなく密輸された覚醒剤の一部も原敷署に秘密で自分の分としてくすねていた。
     売人を使って売り捌いて稼いでいたらしい。
    「正直信じられないが──」
     もしそれが事実なら、警察が隠匿しようと動くのも納得がいく。原敷署の手柄のためにわざと覚醒剤の流入を見逃すのも、暴力団と裏取引をするのも、警察官が覚醒剤を売るのも、あってはならないことだった。
     カインは暗い気持ちになった。
    「あの刑事は金のためにこんなことをしたのか? そんなに金が欲しいものなのか……」
    「金や遊びが大好きな警官もいるし、あと、エスを作るんなら金はいくらあっても足りないよ」
     エス(情報提供者)を抱えるために、エスを接待したり金の工面をしてやったりするのは、暴力団担当の刑事がよくやることだとオーエンは言った。
    「それに、倫理とか自分の利益とかは別に、組織の言う通りに動く──そういう警官も多いだろ」
     オーエンはつぶやいた。カインはどきりとした。
    「オーエンの話はどれくらいの信憑性しんぴょうせいがあるんだ?」
    「まあ、推測も多いけど。売人を拷問して得た情報と、原敷署の僕の犬から得た情報を合わせるとこうなるって話」
    「じゃあ、そうじゃない可能性も……」
    「でも、おまえは口止めされたんだろ。おまえのところのボスに」
     カインのかすかな希望はすぐに潰されてしまった。
     それどころか、カインの所属する眞谷署も原敷署の所業を知っていて、隠蔽に協力しようとしていることに気づいてしまった。
    「もっと最悪だ……」
    「警察なんてクソだよ」
     オーエンはあざけるように笑った。
    「でも、眞谷署になんの利益が──」
    「合同で摘発するとか、そうやって一枚噛んでるんじゃない? あとは……、ああ、内籐組に覚醒剤流してうちのシマ荒らさせて、うちと内籐組が抗争起こして共倒れしてくれればいい、って考えてたとか。それと、覚醒剤やるやつが増えたら逮捕する人数もそれだけ増えるでしょう。覚醒剤所持のノルマを達成しやすくなる」
     カインは頭がどうにかなりそうだった。
     覚醒剤を根絶するために摘発数を増やそうとしているのに、摘発数を増やすために覚醒剤を広めている——とんでもないことだった。
     こんなこと許されるはずがない。
    「どうしたらいいんだ」
    「この件で動いたら、おまえも消されるよ」
     オーエンは真顔でそう言った。
    「……そんな」
    「あの刑事だって、自殺かどうか怪しいだろ。全部押し付けるために殺されたんじゃない?」
     カインは絶句する。
     オーエンは意地悪な顔をした。
    「ねえ、おまえはどうして警察官をやってるの?」
    「……悪いやつや危ないことから皆を守る警察官のことを、かっこいいと思っていた。憧れだった。でも……」
    「警察組織は悪事に加担していた。失望した?」
     カインは力無くオーエンを見た。オーエンは憐れむような目をした。
    「かわいそうな騎士様。正義だと思っていたものに裏切られて、どんな気持ち?」
     いまは、言い返す元気はカインにはなかった。
     カインは畳の上に横になった。天井をぼんやりと眺める。
    「──オーエンは警察が憎いのか?」
    「いいや? 好きだよ。自分は正しいって顔してるやつらの、黒い腹をぐちゃぐちゃに暴くのが好き」
     カインは横目でオーエン見た。
     日が沈んだ暗い室内で、オーエンはぞっとする笑みを浮かべていた。
    「僕の犬になったやつらだってそう。崇高な信念を持って警官やってるつもりだったんだろうけど、裏では悪さしてるやつとか、金に目がくらむやつとか、中身はくずだったよ」
     オーエンはくっくっと笑った。
    「あいつら、正体を暴いたら気まずそうにしてるけど、でも全然悪いと思ってないんだ。だから警察でありながら僕の犬もやれてるんだろうけど」
     いつのまにかカインの近くに来ていたオーエンが、上からカインの顔を見下ろしていた。暗くてカインにはオーエンの表情はよく分からなかった。
    「俺は、おまえのお眼鏡に叶ったのか?」
    「騎士様は『自分は正しいことをしてる』って顔をしてる。すごく」
    「でもおまえの犬にはならない」
     オーエンの手がカインの首筋に触れた。
    「じゃあ、このまま警官続けるの。不正に目をつむったまま」
     カインは眉間に皺を寄せた。
     嫌に決まっている。
    「だからって、やめてもなにも変えられないだろ。俺は……、俺が思う正しい警察官をやっていくしかない。足元から、地道に。そうやって頑張って、皆に認められるような警察官になって、ずるなんかしなくても周りから認めてもらえるって示せたら——今回のようなことは減らせるんじゃないか」
    「ふうん、絵空事だね。でも、まあ、やってみたら」
    「え?」
     オーエンの言葉にカインは驚いた。
    「ふふ、だって、無理だもの。大体の警察官はエスの情報をもとにノルマを稼ぐ。地味な手段しかない騎士様はすぐ音を上げて、みじめに僕に縋りついてこればいい。犬にしてくださいって」
     オーエンは嬉しそうな声で笑った。カインは顔をしかめる。
    「だから、おまえを頼ることはないってば。なんだってそんなに、俺を犬とやらにしたがるんだ……」
     カインは体を起こして、座っているオーエンと目線を合わせた。
    「俺がオーエンの犬になったとして、オーエンになんのメリットがあるんだ?」
    「メリットというか、強情な犬を跪かせるのは楽しいでしょう」
     オーエンは美しい笑顔でそう言った。
     オーエンの言っていることはよく分からない。カインは意味を考えるのは諦めた。ただただ、目の前の人物はずいぶん楽しそうだなと、それだけを思った。
    「……で、なぜオーエンは俺の家にいるんだ?」
     オーエンは口を尖らせた。
    「いろいろ、面倒臭いんだもの」
     ヤクザが警察官の家にいるこの状況のほうがカインにとっては面倒臭かった。
    「僕が撃たれて弱ってるって聞きつけたやつらが、僕の命を狙ってくる。僕を憎んでいるやつらは山ほどいるから」
    「警護の部下はどうしたんだ」
    「あいつらだって変わんないよ。僕が強いうちは渋々従ってるけど、きっと僕が憎い。さんざんこき使ってるしね」
    「自分が憎まれている、という割には嬉しそうに見えるんだが……?」
    「人の悪意って大好き。でも、わらわら僕を殺しにくるのは少し面倒臭い。僕が完全に回復したら相手してあげようと思って。誰が上なのかもう一度分かるように調教し直してやる」
    「回復したらって、傷は深いのか……?」
     カインが尋ねると、オーエンは急に苦しそうな顔をした。
    「うん。見た目では分からないだろうけど……。ねえ、僕が回復するまでここで匿ってよ」
    「え」
    「弱ってるんだよ? ぼくが可哀想でしょう? ねえ」
    「ええ……」
     上目遣いのオーエンに、カインはたじたじになった。
     確かに、ここを襲ってくるヤクザはいないだろう。飛んで火に入る夏の虫もいいところだ。オーエンにとっては安全かもしれない。
    「でも狭いし古いし汚いな、ここ」
    「匿ってくれと頼む割には失礼だな!?」
    「はあ。眠くなってきた……」
     オーエンは、部屋の隅に畳んであった布団に倒れ込んだ。
    「なんだ、寝るなら布団敷くから一旦退いてくれ」
     カインは布団を広げて寝られるよう準備した。すぐさまオーエンは布団で横になる。
    「騎士様の匂いがする……」
    「汗臭いってことか? 布団はそれ一組しかないから我慢してくれ……って、うわっ」
     カインは腕を引かれてバランスを崩し、布団の横に倒れた。
    「なんなんだ……。自由すぎるぞ」
    「ふん」
     カインがもぞもぞと動くと、後ろからオーエンの手が回ってきて、背中から抱かれるような形になった。
    「ここで寝ろって?」
    「もし、誰かが襲ってきたらおまえを弾除けにする……」
     ひどいなとカインは思ったが、やがて背中から穏やかな寝息が聞こえてくると、誰かを安心させてやれるのならそれでいいか、と思い目を閉じた。
     警察官をやっていると夜中に叩き起こされることもあるし、職業柄少しの物音でも目が覚めてしまう。
     この日カインは、久しぶりに一度も起きることなく朝まで眠った。
    うー🍤 Link Message Mute
    2023/08/06 2:44:26

    天狼の影(前編)

    8/6開催オーカイwebオンリー「忘れたって何度でも!Summer Special」展示作品です。

    警察・ヤクザパロのオーカイ小説。
    全年齢。2万字くらい。
    モブがちょくちょく出てくる。

    すみません、未完です…!
    一応、キリのいいところまでは書いております。
    イベント後に加筆か、次回イベントがあったらその時に続き書く感じになるかと思われます。
    よろしくお願いします!

    #オーカイ #まほやくBL

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    オーカイ 警察・ヤクザパロ
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