My favorite things さらさらと風が草を揺らす音と、遠くのほうで楽しげにしている人々の声がカインの耳に入る。地平線へ目を向けると、どこまでも続く緩やかな丘があった。すう、と大きく息を吸い込むと、爽やかな空気で胸がいっぱいになる。
ここは中央の国の北に位置する丘陵地帯。近くに大きな街はなく、空の青と丘の緑が一面に広がっている。北の国に近いからか、清涼な大気が満ちていて、空は綺麗に澄んでいた。
「気持ちのいい場所だな」
カインの口から思わずそう出た。
その横で、リケとミチルが目をきらきらさせていた。
「わあ、レインディアーがあんなにたくさん……!」
「すごいですね!」
丘には草を食んでいるたくさんの鹿たちがいた。その景色に、リケとミチルは心を奪われている。
今日は、カインとリケとミチルの三人でこの丘へ遊びに来ていた。目当てはレインディアーである。レインディアーは鹿の一種で、中央の国や北の国、東の国に生息している動物だ。
三人がやってきたこの丘は、レインディアーの丘と呼ばれていて、その名の通りレインディアーが多数生息している。ここでは敵となる捕食動物が少なく、レインディアーの警戒心がとても薄い。人が近づいても通常の野生動物のように逃げることはなく、間近に彼らを見ることができる。
「この地域ではレインディアーを大切に扱ってるんです。レインディアーは雨を呼ぶ動物だから、豊作の象徴なんですって」
「へえ! ミチルは物知りだな」
カインが感心していると、ミチルは照れたような誇らしいような顔をした。
リケがミチルに笑顔を向けた。
「今日のためにたくさん調べましたもんね」
リケとミチルは、レインディアーの丘のことを耳にしてからずっと行きたいと思っており、この機会をとても楽しみにしていた。動物と至近距離で触れ合えるという点が、興味をそそるらしかった。
「兄様が来れないのは残念ですが……」
「カイン、今日は一緒に来てくれてありがとうございます」
「ちょうど暇だったからさ」
本来は、ルチルとリケとミチルの三人で来る予定だったのだが、ルチルが急な任務のため行けなくなってしまった。子ども二人だけで遠方へ外出させるのは不安だということで、手が空いていたカインが引率を申し出たのだった。
「ん? あれはなんだろう……」
歩いていると、ワゴンのようなものがカインの目に入った。ざわめく声が聞こえたから、そこそこ人が集まっている様子だった。
ミチルとリケが顔を見合わせた。
「あれってもしかして……」
「持っているとレインディアーの人気者になれるという、レインディアーのおやつですよ!」
興奮したリケがカインの服の裾を掴んだ。リケに連れられて、カインはワゴンに近づいていった。
中を覗くと、クッキーを薄く伸ばしたような丸く平たい菓子が、十枚で一つに束ねられた状態で並んでいた。レインディアーが食べても害のない素材で作られていて、この丘に来た人は皆買うのだと店主が宣伝していた。カインは、おやつを買いに来たらしき観光客と軽く会話を交わしながら、購入を済ませた。
「よし、買えたぞ」
カインがミチルとリケにレインディアー用のおやつを手渡すと、二人はパッと表情を輝かせた。
「わあ、ありがとうございます!」
「早くあげに行きましょう! カイン、ありがとう」
「ああ、気をつけてな」
鹿の群れがいるなだらかな丘に、ミチルとリケが向かっていく。その二人の背中をカインは見送った。
カインは丘のふもとの木のベンチに腰掛け、思いっきり伸びをした。
カインは今日は休みで、明日からは任務が入っていた。明日に備えて魔法舎でのんびり過ごそうかと考えていたのだが、リケとミチルが困っているのを廊下で見かけて、カインが二人に声をかけた。彼らが一緒に出かける予定だったルチルが来れなくなってしまい、かといって子ども二人だけで出かけるのは危ないからと止められてしまったので、どうしようかと悩んでいたらしい。
二人の引率としてカインは偶然ここに来ることになったわけだが、来て良かったと思った。二人の助けになれたし、澄んだ空気のなかで過ごせるのはカインにとって心地よかった。
ミチルとリケがレインディアーを驚かさないようにそっと群れに近づいていくのを、カインは遠くから見守る。レインディアーたちは二人がおやつを持っていることに気がついたのか、わらわらとミチルとリケの周りに集まってきていた。レインディアーに囲まれたミチルとリケは嬉しそうな顔をしている。
二人が楽しそうで良かったな、とカインは思った。
カイン自身は、レインディアーと触れ合いたいというような気持ちはあまりなく、丘を遠くから眺めていた。レインディアーの肉を使ったソテーはカインの好物だったから、可愛いと思うよりも食料としての目線をレインディアーに向けてしまう。
カインは懐から本を取り出した。友人のヒースクリフからもらったもので、最近読み進めている本だった。栞を挟んでいたページを開いて、そこから読み始める。
字を目で追っていくうちに、物語の中へと吸い込まれていく。カインは大勢の人と過ごす賑やかな空間が好きだけれど、自然の中でこうして一人集中する時間も嫌いではなかった。
読書中、肘に何かが触れたような気がした。最初は風か何かだと思ったが、カインは本から顔を上げてぎょっとした。
レインディアーが一頭、カインのすぐ横にいた。匂いを嗅ぐように鼻先を軽く揺らしていた。
「なんだ……? 俺はおやつは持ってないぞ」
食べ物を持っていないことを示すために、カインはレインディアーの目の前で手をひらひらとかざした。それでもレインディアーはカインから興味を失ってはくれなかった。
黒くつやつやしているレインディアーの瞳からは、何を考えているのかは読み取れない。カインは不可解に思いつつも、読書を再開しようとした。
すると、レインディアーは口を開けてカインの手元を狙ってきた。
「! おっと」
ひょいとカインはそれをかわした。
「……本を狙ってたのか。そういえば、さっき手荷物に注意って言われたな」
ミチルやリケが道中に話していた、レインディアーの丘についての知識をカインは思い出した。ここのレインディアーは警戒心が低く、興味関心が強い。人間をあまり恐れないので、人の持ってるものに興味を持ったり食べようとしたりすることがある。また、噛んだり角に引っ掛けたりして荷物を取られることもあるので、十分注意するようにと聞いたのだった。
本をしまって読書を中断するか、別の場所へ移動して読書を続けるか迷っていると、カインの頭上で一瞬、強い風が吹いた。
「……なんだ?」
カインは空を見上げて目を細めた。遥か上空、小さい影が向こうへ飛び去ったような気がした。鳥か魔獣かが飛んでいたのかもしれない。一瞬だったし、目ではっきり捉えられなかったので、よく分からなかった。
カインが視線を少し下方にずらすと、丘の上のリケとミチルが背を向けて向こうの空を見上げているのが分かった。カインの気のせいではなく、やはり空に何かがあるようだ。
——数度、閃光が空を彩った。
少し遅れて、キィィンと鋭い音がした。
ただ事ではないと感じたカインは、急いで剣を携えベンチから立ち上がった。
丘を登り、リケとミチルの元へ向かう。
「今、何が起こったか分かったか?」
「っ、カイン……。僕たちも何が何だか……」
「あ、でも、空を飛んでいたものが、光って向こうの林に落ちていくのは見えました」
リケとミチルが上ずった声でカインに伝えた。
「ありがとう。……向こうの林に何かあるようだな。俺が確認してくる。リケとミチルはここにいてくれ」
「カインひとりで行くのですか?」
「危なくないですか……?」
心配する二人に向かってカインはニコリと笑顔を向けた。
「リケとミチルには頼みたいことが別にあるんだ」
「なんでしょう?」
「もし、あの林に近づこうとする人がいたら止めてくれないか。どんな危険があるか予想がつかない」
「分かりました!」
「カインさんもどうか、気をつけて」
リケとミチルをその場に残し、カインは林へと走った。
林の入り口に辿り着くと、カインは剣の柄を握り直し、中へと足を踏み入れた。
林は草木が生い茂っていて暗かった。湿気を含んだぬるく重い風がカインの頰を撫でる。
鳥の声も虫の声も聞こえない、しんとした中をカインは進んでいく。目視には頼らず、あらゆる感覚を研ぎ澄ませながら奥へと歩いていった。
カインの鼻が血の匂いを捉えた。足を止めて周囲を伺う。
遠くに、人の姿が見えた。触れずともカインの眼に映る人物は一人しかいない。
「……オーエン」
少し開けた場所で、オーエンが倒れていた。辺りの草が、血で黒く染まっている。
「…………っ、いま一番見たくない顔……、げほっ」
「大丈夫か……? いや、大丈夫なわけないよな。あんまり喋るな」
話せるのが不思議なくらいオーエンはひどい状態だった。どくどくと脇腹から血が流れ続けていて、赤黒い血だまりができていた。カインはとりあえず止血しようとオーエンに近づいた。
「……っ、来るな」
「来るなって言われても、なんとかしないとまずいだろ。それに、いったい何があったんだ? オーエンをここまで追い詰める敵なんて……」
「敵じゃない」
北の魔法使いが苦戦するような強敵が出現したのであれば、賢者たちに急ぎ報告をしなければならない。しかし、オーエンは満身創痍ではあっても焦りや絶望のようなものはないようだった。諦めのような表情が浮かんでいた。新たな脅威があったわけではないようだ。
「敵じゃないってことは……やったのはミスラとか、オズってことか」
北の魔法使いは、殺し合いのような諍いをよく起こす。きっかけはほんの些細なものだとしても、相手が再起不能になるまでねじ伏せることもある。
「分かったら、さっさと失せろよ」
「放って置けるわけないだろ」
「僕が何回でも死ねるって知らないの?」
「知ってるけど、だからって何もしないわけにも……。シュガーは? 回復の助けくらいにはなるんじゃ——」
カインはオーエンにさらに近づいてやっと気づいた。正直なところどう処置しても助からない状態に思えた。止血して魔法舎へ連れ帰りフィガロに診てもらうにしても、到着するまで保たないだろう。
「……そうだ、ここにはミチルが来てるんだ。ミチルなら、鎮痛作用のある薬草を持ってるかも……」
「いらない。……っ、余計なことするな」
「オーエン……」
「……はは、僕がゆっくり息絶えていくところを見て楽しみたいってわけ? 騎士様ってそういう趣味があるんだ?」
「違う! 心配してるんだ」
「心配とかそういうの、いらないって言ったんだ。げほっ、……さっさと消えろ」
オーエンの口からどろっとした血が噴き出した。ひゅうひゅうと細い呼吸が痛々しかった。
オーエンはこのまま死ぬつもりなのだろう、とカインには分かっていた。オーエンは魂を肉体とは別の場所に保管しているから、体が死んでしまっても完全に死ぬことはなく、生き返ることができる。下手に治療するより死んで再生したほうが手っ取り早いということなのだろうが、だからといって死の痛みや苦しみを感じないわけではない。
「……なあ、俺に何かできることはないか?」
「さっきから言ってるだろ、消えろって……」
オーエンは拒絶の意思を崩さなかった。カインは一瞬迷って、軽く頭を振った。
「分かった。去るよ」
ぼろぼろのオーエンを残していくのは心苦しかったが、去ること以外にカインにできることはなかった。
北の魔法使いどうしの苛烈な喧嘩も、オーエンが死ぬことも、魔法舎で暮らしていく中で日常のようなものになっていったが、やはり死ぬことは苦しいことなんじゃないかと、オーエンの痛々しい姿を見たばかりのカインは思う。
死ぬといったってオーエンにとっては人生の終わりではない。でも、死の苦しみを味わうことには変わりなく、そうであれば誰かがそばにいて手を握ってやるとか、話をしてあげるとかをしたほうが、苦しさが紛れるのではないか。カイン自身が死にかけたとき、手を握り名を呼んでくれる人たちがいた。冷たい暗闇に意識が呑み込まれていく中で、カインのことを想う声が生へと繋ぎ止めた。
世界が色を失い冷えていくあの死の感覚を、一人きりで迎えるというオーエンの選択は、カインには理解し難かった。
カインは小さくため息を吐いた。死を何回も経験するオーエンが望んだのだから、そうでない自分に口を挟む資格はない、と無理やり飲み込む。
カインは林の入り口へと戻りながら、あれは北の魔法使いの矜持だろうかと考えた。弱っているところを見られるのは彼らにとって屈辱なのだ。気持ちは分かるが、だからといって一人になることを選ぶなんて、そんなの寂しいだろうとカインは思ってしまう。カインは北の魔法使いの強さに憧れを感じているが、誰にも弱さを見せないことは強さなのかはよく分からなかった。
林を抜けると、視界いっぱいに晴天が広がっていた。先ほどは美しいと感じていたはずの青い空が、なんだか異様に眩しすぎるような気がして、カインは息が詰まる感覚を覚えた。
ミチルとリケが、林から出てきたカインに気がついた。
「お帰りなさい!」
「どうでしたか……?」
「林にいたのはオーエンだった。北の魔法使いどうしの喧嘩だったらしい」
「なんだ、事件かと思いました……」
「ホッとしましたけど、所構わず喧嘩するのはやめてほしいですね。……オーエンは無事だったのですか?」
カインは二人に向かって微笑んだ。
「……ああ。少し休めばなんとかなるってさ」
「よかったです」
カインがオーエンの正確な状態を言わなかったのは、それを聞いたリケとミチルが心配すると思ったからだった。優しい彼らだから、胸を痛めるかもしれない。今日はせっかく楽しみにここへ来たのだから、思いっきり楽しんでほしかった。
それに、オーエンだってきっと知られたくないのではないかとカインは思った。
風がカインの赤い髪を揺らした。
「……あのさ、もう一つ頼みがあるんだけど、聞いてくれないか?」
カインはリケとミチルに、林に向かって加護の魔法を一緒にかけて欲しいと頼んだ。二人は快く承知してくれた。
「どうして魔法を?」
「林になるべく人や動物が近づかないようにしたいなって……」
「オーエンを静かに過ごさせてあげるんですね」
「まあ、そんな感じだ」
あの範囲に魔法をかけるには、カイン・リケ・ミチルでは魔力や技量が足りないかもしれない。効力だって大したものにはならないかもしれない。
カインはそれでもよかった。強固な魔法というより、ちょっとしたおまじないをかけるくらいのつもりだった。心配されたり気遣われたりすることをオーエンは煩わしいと感じるだろうけれど、カインはオーエンに何かしたいという気持ちがあった。オーエンを心配する者がいると伝えたかった。カインはオーエンに寄り添いたかった。
オーエンのことを理解できているわけでもないのに、寄り添いたいと言われてもオーエンは不快だろう。
カインはこれが自分の気持ちの押し付けだと気づいている。迷惑だと睨むオーエンの顔がすぐに頭に浮かぶ。
オーエンがどうあることが一番なのか、カインには分からない。それでも、オーエンにとって安らかな時間があってほしいと、カインはそう願う。
「グラディアス・プロセーラ」
「サンレティア・エディフ」
「オルトニク・セアルシスピルチェ」
三人の魔法使いが静かに呪文を唱えると、虹色のベールが現れた。ベールは林全体にふわりと広がると、きらきら光りながら沈むように消えていった。
「二人ともありがとう。戻るか」
その場を後にして、三人はレインディアーのいる丘へ戻ってきた。
「そうだ、カインさん。林で狼を見なかったですか?」
「え?」
ミチルがカインに話しかけてきた。
「ここのレインディアーが多いのは、人が面倒を見てあげてるのもあるんですけど、レインディアーを食べる狼が少なくなったことも理由なんですって」
「へえ……」
「狼……。僕のいた教団では、狡猾な動物だと言われてました」
リケが神妙そうな顔で呟いた。
「いまは、ここにはほぼいないそうです」
「いなくなったのか?」
「昔、この辺りで狼狩りがあって、それで数が少なくなったんです。でも時折、林や森で狼らしき影を見る人がいるって……」
「そうなのか。俺は見なかったな……」
「あ、ミチル!」
リケが遠くで何かを発見した。
「どうしたんですか?」
「あそこにレインディアーの親子がいます」
「わあ、本当だ! 警戒されないくらいの距離まで近づいてみましょう」
リケとミチルの楽しんでいる様子を見て、カインも笑顔になる。
彼らを丘に残して、カインは先ほど座っていたベンチに戻った。
空を見上げて一息つき、カインは読書の続きを始めようとした。
「あれ……」
本が見つからない。しまっていそうなところを確認しているのだが、見当たらなかった。
どこかで落としたのだろうか、とカインは首を傾げた。最後に本を開いたのはこのベンチだったから、落としたとすれば林に向かったとき以降だった。
カインは立ち上がって、ベンチの周りをぐるりとまわった。
ベンチの下、短い芝の上に小さな白いものを発見した。カインはそれを拾ってよく見てみた。
小さな紙片だった。
カインは嫌な予感がした。
地面に目を凝らすと紙片はほかにもいくつか落ちていた。
「もしかして……」
本を食べようとしていたレインディアーを思い出した。
カインは周りを見回した。あのレインディアーがまだ近くにいないだろうかと思ったのだ。
「あれ、さっきの赤い髪のお兄さん。きょろきょろして、どうしたんですか?」
カインに話しかけてくる人がいた。レインディアーのおやつの屋台で会話をした観光客だった。
「あ。ちょっと探し物をしていてさ……」
カインは本をなくしたこと、レインディアーに持って行っていかれたかもしれないことを伝えた。
「そうなんだ……。あ、そういえば。厚さのある緑色のものをくわえているレインディアーをさっき見たかも。……え、あれって本だったんですかね……」
「やっぱり……。教えてくれてありがとう」
嫌な予感は当たったらしい。カインの無くした本は、深い翠の装丁だった。カインがここから林へ向かう際に、このベンチに置いていったか落としたかして、それをあのレインディアーがくわえていってしまった、ということだろう。
カインは、レインディアーがたくさんいる丘を見渡した。カインの本を持ったレインディアーはいったいどこにいるのか……。
気の遠くなる心地がしたが、カインはぶんぶんと頭を振った。本を探しに、カインは鹿の群れへと向かっていった。
動物と話ができればいいのに、とカインは思う。「本を持っているやつはいなかったか?」とレインディアーたちに聞けたなら、見つけやすかったのかもしれない。
日が傾くまでカインは本を探し続けたのだが、結局見つけることができなかった。
カインは橙色に染まり始めた空を見て、ミチルとリケに声をかけた。
「そろそろ帰ろう。ネロが夕食を作って待ってる」
「でも……いいんですか?」
「無くした本はまだ見つかってないんですよね……?」
ミチルとリケも、カインの本が見つかるかどうか気にかけてくれていた。
「二人ともありがとう。これだけ探しても見つからないんだ、仕方ない。今後、誰かが見つけてくれたら知らせてもらえないか、ここの近くの人に聞いてみるよ」
カインはこの近辺の村人に、紛失した本が見つかったら知らせてもらえないか頼んだ。見つかる可能性は低いだろうと村人は渋い顔をしていたが、頼みは聞いてくれるようだった。カインは、本を無くしたのは目を離した自分が悪いと申し添えて頭を下げ、連絡先を伝えた。
「さて、お腹が空いたな。早く帰ろう。今日は楽しかったか?」
「はい! いっぱいレインディアーがいて可愛かったです」
「おやつをあげるの、楽しかったです。カインさん、今日は一緒に来てくれてありがとうございました」
三人はレインディアーの丘を離れ、魔法舎へと向かった。
沈みかけた太陽が、丘陵の芝を黄金に照らしていた。
夕食後、カインは魔法舎の自室で荷造りをしていた。翌日から始まる任務のためだった。
「まあ、こんなもんか」
数日間に及ぶ任務で荷物が多くなるから、荷造りには時間がかかるかと早めに準備を始めたのだが、思いのほかすぐ終わってしまった。
空いた時間に何をしようかとカインは考えた。剣の手入れは昨日済んでいるし、バーに行くのは酔いすぎた場合明日に響くので良くないし、ここはのんびり読書でも——と思考を巡らせたところで、無くしてしまった本のことを思い出し、苦い気持ちになった。
晴れない気分になった時は、運動をするに限る。
負荷の大きい運動は明日の任務に支障が出てしまうと困るので、軽めのものにすることにした。
カインは魔法舎近くの森に行くと、剣を取り出した。
闇に包まれた森の中、剣が空を切る音とカインの呼吸の音だけが響く。
何度か素振りをしたあと、カインは目を瞑り、集中して呪文を唱えた。
「グラディアス・プロセーラ」
剣先から巻き起こった風が周囲を切り裂く——つもりだったが、実際に起こったことは、しゅるるるると音を立てて煙が一筋立ち上っただけだった。
戦いの中でテンションが高まったときに攻撃魔法を発動させることは容易いが、平静さを保ったまま魔法を発動させるのは、カインにとって苦手なことだった。
「うーん……」
素振りを再開しながら、カインはオズの指導を思い出す。魔力のコントロールが大事、魔力と感情の発露を紐付けすぎないように……。
騎士になるべく剣の技を磨いてきたカインだが、魔法使いとしてはまだまだだった。
魔法が上達すれば、強い魔法が使えるようになるだけではなく、魔法使いの魔力を感じ取ったり、精霊を感知したりということができるようになる。ずっと人間として生きてきたカインが見ている世界と、魔法使いとして生きてきた者が見たり感じたりしている世界は、全く別の景色なのだろうとカインは思う。
賢者の魔法使いとしての任務で、何かを探したり調査したりすることはよくあるが、年長の魔法使いたちのように魔力の痕跡を辿ることが楽にできるようになれば、かなり便利だ。
「あ。じゃあ練習してみようか……?」
紛失した本のことがカインの頭に浮かんだ。
カインは箒を取り出すと、夜空を北へ向かって飛んで行った。
眼下に広がる街の明かりは、北へ向かうにつれて少なくなっていく。カインが降り立ったのは、昼間にリケとミチルと訪れた丘陵地帯である。日中とは異なり、ひやりとした空気が満ちている。日が差しているときはのどかに過ごしていたレインディアーたちが、今は静かに地面に腰を下ろしていて、遠巻きに来訪者を見つめている。
カインは、街灯などの人工的な明かりのない暗闇に煌々と浮かぶ月を見上げた。大いなる厄災と呼ばれ、この世界の人々に忌避される夜空の支配者は、そこに美しく鎮座し続けている。
カインは深い呼吸を何回かした後、意識を集中させた。
「グラディアス・プロセーラ」
キラッと光の粒が現れた。だが、すぐに消えてしまう。
何度か同じことを繰り返したが、追跡の魔法をうまく発動させることができなかった。
カインは、ふうと一息つくと、どうすればできるようになるのだろうと考えながら、夜の丘を散歩し始めた。
草を踏む音と、風が広い丘を駆け抜ける音だけがする。考えごとをするにはちょうど良い環境だ。誰もいないから歩いていてもぶつかることはないし、魔法を使っても咎められることはない。カインはしばらく月下の丘を歩き続けていた。
——すっ、と怜悧な刃を肌に当てられたような感覚が一瞬して、カインはハッと意識を外に向けた。四方に注意を張り巡らせる。
「…………」
呼吸を潜めて辺りを伺うが、近くに何かがいる気配はない。
「……気のせいか?」
この時間に、明かりもなく町の外を出歩く人間は普通はいない。魔法使いだって、こんなところに用はないだろうし、いたとしてもトラブルは避けたがるはずだ。もし、魔法使いがなんらかの理由でカインを襲撃したとしても、中央の国の騎士団長を務めたカインにとって、並みの魔法使いに負ける気などさらさらなかった。——並みの魔法使いであれば、の話である。この場所は北の国に近いから、マナ石狙いの北の強い魔法使いがいる可能性に、カインはすぐに思い至らなかった。
その時、カインの左後方から、ザザザと音を立てながら豪速で迫ってくるものがあった。
カインは後ろを振り返り、迎え撃つため素早く剣を構えた。
目の前に来たタイミングを見計らって足をぐっと踏み込み、剣を振り下ろす。
しかし、なんの手応えもなかった。
「しまった、囮か!」
体勢を立て直そうとする前に、カインの背中に強い衝撃が加わった。
「——ッ!」
攻撃を防ぐ間もなく、吹き飛ばされて前に倒れる。はじめに迫ってきていたのはカインの気をそらすための陽動で、まんまと引っかかってしまった。人間ではありえない動きだったから、魔法使いによる攻撃であることは明らかだった。
うつ伏せになったカインを上から何かが押さえつける。カインは起き上がろうとしたが、地面に縫いつけられてしまったかのように動けない。
「っ……、な、なんだ!?」
「人目を避けて夜にコソコソしてる悪い魔法使いがいると思ったら、騎士様だったなんてね」
上から聞こえてくる声は、カインにとって覚えのあるものだった。
「オーエン……」
「ふふ。こんばんは、騎士様。こんなところで一日に二度も会うなんて、ただの偶然?」
「ぐっ……」
オーエンがカインの背に腰掛けてきた。カインは小さく声を漏らす。
うつ伏せになっているカインはオーエンの顔を見ることはできなかったが、オーエンがいつもの薄笑いをにやにや浮かべているのは話しぶりで分かる。
露に濡れた芝がカインの頰をちくちく刺していた。
「……オーエン、退いてくれないか?」
「嫌」
「…………」
「あはは、苦しそうにしてる騎士様の姿、見ていて最高に楽しい」
オーエンの気が済むまで、解放してはもらえなさそうだとカインは悟った。
オーエンの意図を探ろうと、カインはオーエンと会話を試みる。
「オーエンはここで何をしていたんだ? ……もしかして、生き返るのにこの時間までかかったのか……?」
「ふうん、白々しい質問。ねえ、おまえがここに何をしに来たのか、当ててやろうか」
オーエンの嘲笑の中にかすかに苛つきのようなものが混じっている気がして、カインは困惑した。
「……?」
「瞳を取り返しに来たんでしょう? 死にそうになってる僕からなら、弱い騎士様でもそれが可能だと思って」
「え? どうしてそういう話に——ぐっ、うう」
カインはオーエンに頭を後ろから押されて、うめき声を上げた。それを見てオーエンは、くっくっと笑った。
「笑えるのは、夜にわざわざここへ戻ってきたことだよ。昼は子どもたちと一緒に来てたんだろ? 弱ってる僕から瞳を奪い返したら、卑怯者だって彼らに失望されただろうね。だから、ほかの誰にも見られない時間にここに戻ってきたんだ。中央の国の元騎士団長様が、夜になったら不誠実で不様な姿を晒すなんて、こんな面白いことほかにある?」
オーエンはカインの後頭部から手を除けると、今度は襟首を掴んで上へ引っ張った。
「残念だったね。僕はもうすっかり回復してる。目論見が外れて悔しい? ねえ、いまどんな気持ち?」
「だから……っ、どうしてそういう話になるんだ……」
「違うの? それとも、しらばっくれて、誠実な騎士のふりを続けるつもり?」
オーエンはカインの襟からパッと手を離した。カインの首ががくんと下に揺れる。
「……俺はそんな追い剥ぎみたいなことはしない。自分の力で取り戻すさ」
「へえ。……じゃあ、騎士様はここに何しに来たの」
「昼間来たときに本を紛失したから、それを探しに来たんだ」
「……は? なにそれ。暗くて探しにくいだろ」
カインは、追跡の魔法の練習も兼ねていることをオーエンに話した。
オーエンはカインの話を聞いたあと、ふうんと小さく呟いた。
「騎士様にはまだ無理じゃない?」
「やっぱりそうなのかな。ちゃんと習った訳ではないし……」
「習ってないの? じゃあ、なおさら無理だろ。思いつきでなんとかできるほど、騎士様は魔法が上手じゃないよ」
「……」
オーエンの正論にカインは何も返せない。
閉口してしまったカインが面白いのかオーエンは、カインの一つ結びにされた後ろ髪を軽く引っ張ったり指に巻き付けたりして弄んでいた。
「魔力を感じ取れるなら、わざわざ毎朝魔法使いたちに触れる必要はない訳でしょう。姿が目で見えなくても、存在が魔力で分かれば廊下でぶつかることはないんだから。騎士様はまだまだ赤ちゃんみたいなものだって自覚しなよ」
「う……」
「そもそも、その探そうとしてる本ってさ、魔力が込められてるものなの?」
「……? 魔力って、自然にものに宿るとかそういうんじゃないのか?」
「魔法使いが触れるものには痕跡は多少残るけど。魔法を使い始めたばかりのやつが魔力を辿りやすいのは、はっきりと魔力が残ってるものだよ。長く使ってるとか、よほど愛着があるとか、魔法をかけてあるとかしないと、濃い魔力は宿らない」
紛失した本は最近読み始めたものだから、オーエンの話だと魔力はこもってないかもしれないとカインは思った。
「あ、でも愛着はあるぞ」
「愛着があるのに、なくしたの?」
カインはまた言葉に詰まった。
追い討ちをかけるようにオーエンが続ける。
「大事なものなのにどうしてなくすの? うっかりなくしちゃうくらい雑に扱ったのなら、本当は大事じゃなかったんじゃない?」
「大事なものだ! ……大事なのに大切に扱っていなかったのではと問われると、それは言い訳できないが……」
カインは歯切れが悪くなる。
カインが本を大事に思っていたのは本当だ。あれはヒースクリフがカインにおすすめしたいとプレゼントしてくれた本だった。カインはそれを一ページ一ページ噛みしめるように読んでいたし、いつも持ち歩いていたから、ページの端が少し折れてしまっていた。
オーエンが立ち上がり、地面に伏せているカインを見下ろした。
「こんな広い場所なら、普通は見つからないよ。追跡の魔法だって、ある程度の範囲を絞ってから使うものだ。なくした騎士様が悪い」
「……」
自分の不甲斐なさに、カインは拳をぎゅっと握った。
カインはゆっくり起き上がると、服についた草や土を払った。
「まあ、そうだよな。俺が悪い。注意不足なのがまずかった。あれは、ヒースにもらった本だったのに」
本そのものは特別貴重というわけではないが、ヒースクリフがカインのために、と選んで贈ってくれたあの本はこの世に一つしかない。次にヒースクリフに会ったときに、しっかり謝ろうとカインは思った。
カインが顔を上げると、オーエンと目が合った。てっきり、皮肉に満ちた表情を向けられているものだとカインは思っていたのだが、意外にもオーエンの表情は、静かに落ち着いているものに見えた。まぶしいものを目にしたときのように、目を細めてカインを見つめていた。
「…………ていうかさ、どうしてなくしたわけ。なくしてから必死になるくらいなら、自分の手元にあるうちから大事にしてなきゃいけなかったのに」
「それは、本当にそうだと思う。弁明のしようもない……。うっかり目を離した隙に、レインディアーに持ってかれたみたいなんだよな」
「……は? 何? レインディアー?」
「レインディアーって、紙とか本を食べようとするんだな。びっくりしたよ」
「…………」
オーエンは眉根に皺を寄せてカインを見た。
「ねえ、いくら騎士様が間抜けだったとしても、鹿にまんまと本を奪われるなんてことあるの?」
「ええと、本を読んでる途中に用事ができて、一旦そこを離れるときに本を置き忘れたっぽいんだよな。その間にレインディアーが……」
「用事?」
「林のほうに何か落ちたって聞いたから確認しに行ったんだ。そうしたら血まみれのオーエンがいてぎょっとしたよ。北の魔法高いの喧嘩って、見ているこっちの心臓に悪い……」
「…………」
オーエンは、首を傾げてにやりと口角を上げた。
「……はは、運が悪かったね騎士様。きみの不幸は全部僕のせいだよ。大きいものも、小さいものも」
「え?」
「僕に関わると、騎士様はかわいそうな目にあうって話」
オーエンは口を歪めて笑った。
「……そうか?」
「……偽善者ぶったお節介とかさ、そういうのをやめたらいいのに」
オーエンの言っている意味がよく分からなくて、カインは少し考え込んだ。
「…………。お節介、というのが何を指してるかは分からないが、俺がオーエンとどう関わるかは俺が決めることだ。オーエンのせいでどうこうとかは思わないし、別に気にしない」
「ふうん。それって、なんだか傲慢だね。僕が嫌がっても、騎士様は僕に構ってくるってわけ? ひどいな」
オーエンは大げさに、嫌味っぽくそう言った。
傲慢、と言われてカインは少しむっとした。
「嫌がってる相手に無理に関わろうとするのは、もちろん良くない。嫌がらせでしかない。でも——」
「でも?」
オーエンはにやにやしながらカインの次の言葉を待った。
カインは視線を上へさまよわせた。
「お前は案外、俺のことをそんなに嫌いじゃない気がする……」
「はあ?」
普段よりずいぶん大きな声をあげたオーエンに、カインはびっくりした。
「な、なんだよ……」
「…………」
オーエンは不機嫌そうな顔をして黙っていた。
冷たい風が丘を吹き抜ける。カインは身震いした。
夜が深まるにつれて、気温も下がる。カインとオーエンの吐く息は白かった。
明日は任務だからあまり長居もしていられないな、とカインは思った。
「なあ、寒くないか?」
「……全然。騎士様が貧弱なんじゃないの」
地を這うような声でオーエンはぼそりと言った。
かなり機嫌が悪そうだと判断したカインは、箒を取り出した。
「そうか。俺はそろそろ帰るよ」
「……」
オーエンは視線をあちこち散らせながら、いらいらしている様子だった。
カインは箒に乗って、空中にふわりと浮上した。オーエンの耳がほんのり赤く染まっているようにカインには見えたが、夜だから見間違いかとも思った。去る前に、「風邪引くなよ」とオーエンに言おうとしたが、さらに不機嫌にさせるような気がして、カインはオーエンに特に何も言わなかった。オーエンを残してカインは魔法舎のほうへ飛び立った。
丘へ向かったときとは反対に、進むにつれて眼下の明かりは増えていく。とはいえ、夜が更けてきたためか寝静まっている家も多かった。
カインは魔法舎の自分の部屋へ戻ると、手早く寝る支度をしてベッドへ潜った。
目を閉じると、先ほどの丘を去る時の景色がカインの脳裏に浮かんだ。なぜか、妙に印象に残っていた。
ああ、いつもと逆だからか、とカインは思った。
カインとオーエンの別れ際は、オーエンのほうから去ることが多い。今日はカインのほうから立ち去ったから、珍しかったのだ。
暗闇の中で白く浮かぶ厄災とオーエンの姿を思い返しながら、カインは眠りの中に沈んでいった。
賢者の魔法使いの任務は、当初の想定よりも円滑に進み、かなり早い日数で完了することができた。ちょっとした観光をするくらいの余裕があったほどだった。
任務から帰ってくると、カインはまず魔法舎の自室へと向かった。
荷物を置いてから、ヒースクリフに本をなくしたことを謝りに行くつもりだった。
「あれ……」
窓際の机の上に、何かが置いてあるのが見えた。任務に出かける前に机の上は整理していったはずだった。
近づいてよく見てみると、机の上にあったのは、くすんだ緑色の何かだった。
「…………あっ!?」
紛失したはずの、ヒースクリフからもらったあの本だった。
おそるおそる手に取る。表紙に傷があり、下の角と小口が少し欠けていたが、思っていたよりも被害は少なかった。表面の汚れを優しく払うと、表紙の翠が少し戻った。
カインは嬉しさに浸ったあと、これがなぜカインの手元に戻ってきたのか、不思議に思った。
丘で発見した誰かが、カインに送ってくれたのだろうか。もしそうなら、差出人の書かれた封筒や、何か一言添えたものがあるはずなのに、そういったものは見当たらなかった。
魔法舎の生活をサポートしてくれているカナリアに、カインは本のことについて聞いてみた。カナリアはカインの不在だったこの数日間を思い返したが、心当たりはないとのことだった。魔法舎宛の郵送物なら、カナリアが把握していないはずはなかった。
カインは不可解に思いつつも、なくした本が見つかって戻ってきたのだから素直に喜べばいいか、とも思い始めていた。
「繊細さに欠けるというか、大雑把で、物事に無頓着だよね」
そんな声がどこかから聞こえてきて、カインはどきりとした。
遠くで聞こえたから、カインに向かって放たれた言葉ではないはずだった。気になったカインは、声のした方向へ歩いていった。
魔法舎の外、木陰から、わんと犬の吠える声がした。犬が誰かの手によってなでられていた。
「誰にでもそうやってにこにこするなよな。悪いやつに騙されるよ」
「あ、オーエン……」
犬に話しかけてなでているのは、オーエンだった。カインが先ほど聞いた声も、オーエンが犬に放った言葉だったようだ。
オーエンはカインに気がつくと、わずかに目を見開いた。しかしそれは一瞬で、すぐに冷笑を浮かべて顔をそらした。
「なに? 騎士様。きみに構ってる暇ないんだけど」
「え、ああ……」
迷惑なら去ろうとカインは思ったが、ふと気になったことがあってオーエンに聞いた。
「俺がなくした本、見つけてくれたのはオーエンか?」
「……何の話?」
オーエンはカインのほうは向かず、すり寄ってくる犬のほうをずっと見ていた。
「さっき、任務から帰ってきて部屋に行ったら、なくしたはずの本が置いてあったんだ」
「そんなの知らないけど」
カインは、オーエンが犬と話しているのを見て、もしかしたらと思ったのだった。あの広い丘で、たくさんいるうちのどのレインディアーが持っていったかも分からない本が、偶然見つかる可能性は低い。動物と話せるオーエンなら、まだ発見できる可能性が高いと思った。
「いや、でもそんなことする理由がないよな……」
「なんなんだよ。独り言ならあっちでやれよ」
丘で別れるとき、カインはオーエンの機嫌を損ねていたし、オーエンがわざわざ探してくれたというのは考えづらかった。本人も知らないと言っているから、オーエンではないのかもしれない。
「まあ、いいか。あ、そうだオーエン」
「…………おまえさあ、人の話を——」
「これ、オーエンにあげようと思ってたんだった」
カインは、懐から取り出したものをオーエンに差し出した。
オーエンはきょとんとした顔をして、手に収まるくらいのそれを差し出されたままに受け取った。
「……?」
「任務先でさ、少し時間ができて観光してたんだ。そのお土産というか、あと……まあ、いろいろお礼というか」
オーエンは、包装を取り去って中身を見た。
オーエンは興味深そうな目をしたあと、ふっと笑った。
「はは……。何これ、月と狼?」
それは薄い金属を加工して作られた栞だった。長方形の薄い板のような形状をしていて、月と狼が描かれている。
カインが任務に行った先にあった、雑貨を扱う店で手に入れたものだった。ふらっと入った店だったが、店内を見ているうちにこの栞が目に留まった。
月の下で、白銀の毛の狼が一頭たたずんでいる絵柄。
任務前日の夜、丘から魔法舎へ帰るカインが見た、丘に残るオーエンとその後ろに浮かぶ月を連想した。
「ふん、騎士様って趣味悪いんだね。嫌われものの厄災とけだものなんて」
年に一度、世界を滅ぼそうと迫る大いなる厄災。
人々に恐れられることの多い狼。
これらのモチーフを好む人は珍しいだろう。変わり者の職人が作ったのだとカインは聞いた。
この絵柄だから、案の定なかなか売れずに残ってしまったと雑貨店の店主は苦笑していた。
オーエンは趣味が悪いと言いながら、にやにやして栞を眺めていた。
わん、とオーエンの足元にいた犬が吠えた。
「ああ、おまえのこと無視してたわけじゃないよ。……なに、これが気になるの? 僕のだから、だめ」
栞に興味を示した犬を諭すように、オーエンは柔らかい声で言った。カインはぼうっとした顔でオーエンと犬を眺めていた。
「ほら、おまえが迷わないように誘導してあげる。ふわふわ光ってるこいつについて行けば、おまえはもとの家に帰れる」
オーエンは魔法で小さな光の球体を作った。その光は犬の目の前でふらふら揺れると、魔法舎の敷地の外へ向かって飛んで行った。犬は何度かオーエンのほうを振り返っていたが、光を追って外へ駆けていった。
「……あの犬は? 助けてあげたのか?」
「まさか。あいつ、犬のくせに鼻があんまり利かないんだって。帰れなくなって魔法舎に迷い込んで、あの木が自分の家の庭にあるやつと似てるからって、そこにいた僕を飼い主と勘違いしてた。雑過ぎるし、間抜けだよね」
間抜け、と言いつつも犬を見送るオーエンの表情は、穏やかなものにカインには見えた。
「ここに居着いたら、僕にまとわりついてくるだろ。そんなの、うざくてやってられないし」
オーエンはそう呟いた。
こうしているとカインには、オーエンが優しい人物のように見えてきて、こそばゆいような変な気持ちになった。
オーエンがふいにカインへ顔を向けた。
カインとオーエンの目が合った。その瞬間、カインは心臓がきゅっとしめつけられるような感覚がした。
カインはつい顔をそらしてしまった。
「は? なんなの」
「え? あー、いや…………」
なぜそうしてしまったのか、カイン自身にも分からなかった。
なんとなく気まずくて、いたたまれなくなった。
「すまない、時間取らせたな」
そう言って足早に去ろうとした。
「騎士様は自分の好きなように僕に構ってくるくせに、騎士様の都合が悪くなったら僕から逃げるんだ?」
いたずらっぽい声にカインは立ち止まった。
「……別に、逃げるわけじゃない」
「へえ」
冷笑を浮かべているであろうオーエンの視線がちくちく刺さる。
「自分勝手だって言いたいのか」
「何も言ってないけど?」
「……っ」
オーエンが面白がっているのは声色で分かった。
カインはしどろもどろになる。
「……忙しいところを邪魔したのなら、悪かったなと思ったんだ」
「ふうん? 今更?」
「っ、気づかないよりは、まだ……いや、往生際が悪いな……。すまなかった」
普段ならもう少しうまくオーエンに返せるはずなのに、カインはなんだか調子が悪かった。何をしてもオーエンに絡め取られそうな——蜘蛛の巣にかかった羽虫の気分だった。
「なあに、降参?」
笑い声とともに、こつこつと靴音が近づいてきた。伏して地面を向いているカインの目に、白い革靴の先が見えた。
「変な騎士様」
オーエンが顔を覗き込んでくる気配をカインは感じた。オーエンのまとう冷たい空気が、カインの頬を撫でる。
目を合わせたくなくて、カインは顔をそらす。
「……っ」
オーエンは不審に感じただろうかとカインは思った。それでも、カインはオーエンの顔を見返せなかった。
「…………」
オーエンは無言だった。
静かな場に、自分の鼓動だけがやけに大きく響いているようにカインは感じた。追い詰められたような気持ちになる。
「うわあ!」
突然、頰にひんやりと冷たいものが触れてカインは驚いた。
「はは……」
カインが大きく目を開くと、薄笑いを浮かべているオーエンが眼前にいた。
栞を手に持ち、ひらひらと軽く振りながらカインを面白そうに眺めていた。
「あ、栞……」
金属製の栞は、肌に触れると冷たく感じる。先ほど頰に触れたものはオーエンが手にしている栞だろうとカインは思った。
「おまえ、僕を振り回そうとなんて思うなよ」
目の覚めるような笑みを浮かべてオーエンは言った。
「え? 別にそんなことは思っていないが……」
むしろ、振り回されているのは自分のほうだとカインは思っていた。
「ふん」
オーエンは目を細めて栞を見つめると、困ったように笑った。
そのまま、白い外套を翻して音も立てず消えていった。
カインは紅と金の瞳を、オーエンのいた場所にしばらく向け続けていた。
胸に少しの切なさが込み上げてくる。
『分かっていても、それでもなお、惹かれるがままに追っかけてしまうのが、恋ってものなんじゃないのか?』
かつて自分の言った言葉をカインは思い出した。
しかし、今胸にあるのは勢いよく燃え上がる炎ではなく、じりじりと灼くような、ゆっくりと、しかし確実に内部まで熱が侵食してくるような、そういうものだった。
甘くも酸っぱくもなく、じわりとにじむ苦さや切なさがある。
がむしゃらに追いかけたいという気持ちは湧いてこなかった。
ひとつひとつを心に留めて、大事に思い返したいと思った。駆け出す必要はない。速さはいらない。ゆっくりでいい。
カインは服の胸元をぎゅっと掴んだ。
困ったように笑ったオーエンのあの表情の余韻が、ずっとそこに残っていた。