そうして舞台の幕があける。 ずっと、傍らに在る。
そう信じて疑わなかった。
初対面の印象は、さほど良くはない。
いけ好かない男。やる気も見せぬくせに、能力の備わった天才。
今おもえば、なんとも愚かしいことだ。
彼がおかれている立場も知らず。彼の身も慮りもせず。
噂など、只の噂に過ぎないと言いながら、心の奥底では結局のところ才能化と半ば決めつけてしまっていた己に気づかされ、辟易とする。
だから、きっと。そうした過去の報いを受けているのだ、と。
いまとなってはそう強く思う。
――もうなにもかも、遅いのだろうけれど。
***
すでに決定事項と化した話を聞かされたのは、朝も早いうちだった。
起き抜けに使用人を介し父の執務室に呼ばれ、身なりを整えて伺えば、伝えられたのはたったひとこと。
自分と彼女の婚姻が正式に決定したという。そんな、面白くもなんともない。冗談のような真実の話であった。
おかしな話だ。
当事者である自分には、なにひとつ聞かされていない。おそらく、もう一人の当事者である彼女にだって。
だのに、大人はさもそれが当然のように話を進め、結論だけを告げる。
そこに、子供が反論する余地はなかった。
はじめから、考慮されていなかったと言って良い。
そういうものだった。
それが、当然の世界だった。
いつのころからか。薄らぎ、忘れてしまっていただけで。
長く浸かっていたぬるま湯に、夢を見てしまっていただけで。
本当はなにひとつ。現実なんてものは変わりやしなかったのに。
努めて従順に頭を下げ、喉元までせりあがっていたはずの言葉を飲み込む。
いまさら、どれだけ抗おうと結論は覆りやしない。
わかっていたことじゃないか。
何を望まれているか。どう立ち振る舞うべきなのか。
きちんと理解して、これまで敷かれたレールの上をただ導かれるままに歩いていたはずじゃないか。
想定通りの結末だ。
覚悟は、はじめから決めていた。
自分はどうあるべきか、なんて。それこそいまさら考えるまでもない。
それが、役目だ。役割だ。あの家に生まれた自分の。父の人生から、ただ分離しただけの枝葉にすぎない、己の。
それでも。
胸に沸いた感情がどうしたって、気を急かせた。
いつもより雑な歩調で、美しく整えられた廊下を歩く。
歩きなれたはずの道筋が、いやに遠く感じてしかたがない。
すれ違った後輩からのあいさつを、足も止めぬまま返す。らしくもない姿をさらしている自覚はあった。
きっと、あの男が見ていれば揶揄いの種にしただろう――と、考えて浮かぶ姿が舌を打つ。
彼は、自分が今朝聞かされたばかりの話を知っているだろうか。
確かめたくて、騎士の宿舎にいの一番に乗り込んだけれど。出鼻はくじかれてしまった。
いつもはこちらが叩き起こすまで惰眠を貪るくせに、今日に限って早起きとは、いよいよ嫌な予感がする。
長い廊下の果て。窓から差し込む日の光に羽織ったマントを翻す。
ここまでくれば、目的の部屋までは目と鼻の先だ。
逸る気持ちに急き立てられ、いっそう歩調が早まる。
咎めるものは、誰もいなかった。
それどころか、自分以外の気配がまるでない。
おかしい。
ここは――この、場所はこの世でなによりも守られなければならない存在がいるはずなのに。
いつもは誰かしらが、それこそ門番よろしく立ちはだかっているというのに。
それが、どうして。
重厚な扉の前で立ち止まり、急く気持ちを抑えて扉を叩く。
ややして返る声は、常と比べて随分と慎ましい。
無礼を承知で扉を開けば、やはりそこに佇むのは、ただひとり。
本来、この場に居るはずの男の姿は、きっと広い部屋のどこを探しても見つからないだろう。
部屋の中央。普段の姦しさをひそめ立つ彼女の手にする見慣れた団服が、それを証明していた。
「っ、リシャ!」
「……楠葉」
呼びかければ、うっそりとこちらへ向けられる眼差しに、言葉を失う。
大股で数歩。傍に酔ったところで、突き付けられた現実が変わることはついぞなかった。
胸の内で暴れ、のたうち回る感情に唇を噛み締める。
馬鹿野郎。そう脳裏に過る幼馴染のひとりを詰ろうと、その権利が自分にないことは痛いほど理解していた。
「残してくれたのは、これだけ」
手にした団服に目を落とし、静かに零された声に手を握りしめる。
ああ、そうだ。
騎士団の宿舎に、もともと彼のものと呼べるものはほとんど置かれていなかった。
意図的に、そうしていたのだと思う。
いつでもここを発てるように。未練を残さぬように。
否、はじめから『そう』決めていたのだろう。
時がくれば、ここを去ることを。
わかっていたはずだった。
理解していたはずだった。
それでも、自分と――それから彼女が楔であれたら。
そんな、的外れの期待を抱いていた。抱かずにはいられなかった。
そうあることくらい、許される距離にいるのだと。信じて疑わなかった。
――驕りにもほどがある。
「リシャ」
「ねぇ、貴方は聞いたかしら」
なにを問われているのかなんて、子細を聞かずともわかった。
微かな頷きに、彼女が小さく鼻で笑う。
「俺は」
「……巻き込んで、ごめんなさい」
彼女らしくない、言葉だ。
同時に、ひどく彼女らしい台詞だとも思う。
続けるはずだった言の葉を飲み込み、ただ静かに首を振って応える。
謝る必要など、どこにもない。どこにも、ないのだ。
自分ではどうにもならない現実に、ただ無力な己が立ち尽くしている。それだけのことで。
謝るべきなのはきっと、自分と――それから、この場にいない。もう一人の幼馴染のはずだった。
「それでも、貴方にお願いしたいの」
手にした団服を胸に抱き、再びこちらへ向けられた双眸には薄く水の膜が張られている。
けれど、彼女はそれを一滴として零すことはなく。恭しくその小さな頭を下げた。
「この茶番に、付き合って」
おもむろに頭が上がる。
手が、こちらに向けて差し出される。
眼差しが揺れていた。
そこに宿る。自分の姿も。
それでもやっぱり光に似た色の眸から零れ落ちる雫はなく。一切の感情をその小さな体の奥底へ押し込んだ彼女の姿は、きっと誰が見ても痛々しいものだった。
俺で良いのか。そう、問おうとして、やめる。
差し出された手を掬うように取って、舞踏をはじめるように恭しく礼をした。
いいのか、なんて。きっと問うまでもない。
本当は、望んでなどいないだろう。
彼女の気持ちは、はじめから知っていた。
それくらい、近くにいた。いることを、許されていた。
それこそ、焔火と出逢うよりずっとずっと前から。ふたりだけの小さな世界に、いたときから。
だから、彼女の心が緩やかに彼へ向ける恋心に満たされてゆくのを、誰よりも近い位置で見守っていた。
心が痛まなかったといえば、嘘になる。
そこではじめて、己の恋心を自覚した愚かしさも。
けれど、二人が結ばれるのであれば、どれほど己の醜い心が痛もうと、よかった。
誰よりも。なによりも近い距離で、幸福に満ちた二人の姿を見守る。
それがどれほど贅沢な夢だったか。今ならわかる。今になって、ようやっと理解した。
「リシャの――イリーシャ様の、望まれるままに」
私は、貴方の騎士ですから。言い終え、折った腰をゆっくりと正す。
交えた眼差しは、やっぱり雫ひとつ零しはしなかった。
音なく紡がれた謝罪の言葉には、ツキリと痛んだ胸と共に気づかないフリをする。
ただ、静かな微笑みに倣い目を細め、いまだ胸に抱かれたままの団服へと心の内で悪態を零した。