本当の願いはたったひとつ――叶わないと知っているの。
星空を見上げて息を吐く。
白くくゆる吐息が月光に照らされ、やがて空気に溶け込んでゆくのを見送って、また一度。上書くように同じ色を重ねた。
冷えた手を擦り合わせ、自室から持ち出した毛布を胸元に掻き寄せる。
それでも、夜空を美しく澄ませた外気は凍てつき、寒さに赤らんだ頬がずずっとみっともなく鼻を啜り上げた
なにか、暖かい飲み物でも持ってくるべきだったかもしれない。失敗した。けれど今更、部屋に戻って用意していれば、肝心の『その時』は過ぎてしまうだろう。
――って、約束を取り付けた当人はとっくにここには居ないのに。
何を律義に、アタシは守ろうとしているのか。なんて、自明の問いに苦笑を零す。
それは、他愛もない。それこそ、幼い時分に交わした。何気ない約束だった。
四隅の汚れた絵本に描かれた、満天の星空。振り落ちる流星と、祈りの言葉。
これが見たいと言い出したのは、アタシ。彼は、それを叶えようとして、短い小指を絡めて『いつか』を契ってくれた。
いつの日か。満天の星と、降り落ちる流星をふたりで見にいこう。この絵本にかかれているような――これよりも、もっとすごい星空を、ふたりで。なんて、子供らしく。希望に満ち満ちた誓い。
本に描かれた星の降る日を調べたのは、それから少ししてからのことだ。
先生に頼み込んで使わせてもらった電子端末で得られたのは、先日契った『いつか』をもう少しだけ具体的にしてくれた。
「……ねぇ、カゲ」
貴方は、覚えているだろうか。
生きていたのなら、貴方はここに居てくれたんだろうか。
ふたり――いいや、律命くんも巻き込んで。三人仲良くこの夜空を見上げる。そんな未来がどこかにあったのだろうか。
「女々しいなぁ、もう」
苦々しく吐き捨てて、首を振る。
きっと、彼は忘れてしまっているだろう。そう、思いたいのに。彼と歩んできた人生のすべてが、そんな夢想を否定した。
彼は、きっと覚えている。
生きてさえいたのなら、ここに居て。星を見上げて。
そうして、くだらない願いを三度繰り返して笑うのだ。
――そんな姿は、どこを探したってもう見つけることはできないのだけれど。
震える唇を噛み締める。胸に沸いた感情を昇華する方法は、あの頃からずっとわからないままだ。わだかまりが、いつまでも胸の中に巣食っている。
アタシが、忘れられればきっとよかった。
後生大事に、叶えよう、だなんて。思えなければよかった。
合わせた手のひらを互いにぎゅっと握りしめる。そうして薄く爪を立てたところで、寒さにかじかんだ皮膚は痛みをぼかすだけで、気を紛らわせてはくれないことがもどかしい。
あの頃、彼は何を願うと言っていただろうか。
アタシは、何を願いたいと思っていただろうか。
きっと、他愛もないものだった。
お菓子がもう少し食べたい、だとか。お金が欲しい、だとか。
どこか、遠いところに旅へ出てみたい、だとか。冒険に出てみたい、だとか。
はやく大人になりたい、だとか。
そんな、ありふれたものだったに違いない。
深く、深く息をする。冷えた空気が肺を冷やして、胸が痛んだ。
そうだ。きっと、全部寒さの所為なのだ。らしくもなく、女々しくなってしまうのも。ずっと、ずっと胸の奥底に閉じ込めていた想いが蓋を押し上げ、顔を覗かせようとしているのも。
視界が潤む。こぼれる雫を堪えるように星空を見上げれば、煌めく星がひとつ流れた。
「……あいたい」
それに、促されるまま言の葉がほろりと落ちる。
一度口にしてしまえば、あとはもうとめどころなく。壊れたラジカセのように唇は同じ言葉を繰り返した。
あいたい、あいたい。
あなたに、もう一度。もう一度だけでいいから。
笑ってほしい。そんなに泣いたら目が晴れて、律命に笑われるよ、と。誰よりも笑いながら言われて、零れる雫を拭ってほしい――甘やかして、欲しい。
嗚咽が胸を引き裂く。
わかっている。知っている。
ちゃんと、理解している。
彼はもうここには居ない。この世にいるはずもない。
願いはかなわない。
約束が果たされる日は、訪れない。
それでも、生きることを決めたのは、アタシ。
貴方の居なくなった世界で、生き続けることを選んだのは、アタシ。
だのに、ふとした瞬間に思い出す。蘇る。
ふたり、過ごした時間が。これまで歩んできた道程が。
ここに居てほしい。傍に、居てほしいと心を叫ばせる。
胸を押さえ、待ち望んだはずの流星に背を向けた。頬を滑り落ちた雫が、ぽたぽたと欄干にまだら模様を描く。
絞り出した声は、飽き足りず同じ言葉を繰り返し。数多降り注ぐ星は、三度その言葉が繰り返されるよりもはやく、夜空に瞬き消えていった。