イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

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    ハッピーエンドロール全てフィクションです。本作は個人の非公式作品であり、公式、版権元並びに実在する人物、団体とは一切関係ございません。
    ※独自の解釈及び捏造を含みます。



    HAPPYEND ENDROLL

    一、
     
    「ねえ、啓護くん。私と結婚してみませんか?」
    「は?」
     啓護は耳を疑った。一体どうしてこんなことに⁈
     話は幼少期まで遡る。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     鍋島啓護と平尾は年の差は一歳差ではあるものの、住まいが隣近所でいわゆる幼馴染という関係だ。
     啓護は親兄弟、叔父と暮らしていたが、平尾は義理の祖父である出版社社長の去場と暮らしていた。
     物心ついた時から二人ともピアノを習っていて、啓護の場合はプロの奏者を自宅に招いて練習に励んでいた。
     だが、叔父から防音設備がある家でも良いけれど、家だけでなく外の世界を見たらどうかと外へ通うことを勧められ、家族もそれに納得したため、啓護はピアノ教室に通うこととなる。
     そのピアノ教室では幼馴染である平尾も一緒だった。
     平尾のことは、一つ年上であることもあり普段「先輩」と呼ぶ啓護であったが、先輩の装いはいつも上の服装はセーラー服で、下の服装はスラックスであった。
     性別にとらわれることのない着こなしは、眉目秀麗な容姿に似合ったスマートさを醸し出しており、アンバランスどころか掴みどころがないミステリアスな平尾にこそ相応しいとさえ感心したほどだ。
     そんな先輩と気兼ねなく会えるのがピアノ教室であった。同じ教室ということでコンクールに出場し、茶会や懇親会などといった内輪の催し物の際には二人でコンチェルトをやったこともある。
     楽しい時間はあっという間で、幼い頃は毎日この教室に通いたかったほど、子どもながらも啓護は平尾のことを意識していた。
     小学校の卒業式では平尾がさらに可愛く見えて、つい目を追ってしまっていたのだが、式を終えたあと平尾が啓護の方に駆け寄ってきて、瞳の奥を覗き込んでくる。
     琥珀色と夕暮れ色の混じる瞳がキラキラと輝いて見えて眩しかったのを、今でも鮮明に覚えている。そして、その時の会話もいまだに脳裏に焼き付いて離れない。
     幼い平尾はこう言っていた。
    「いま、私のことかわいいって思ってます?」
    「っ! 誰がそんなこと‼︎」
    「ふふ。好きなだけ見ていたらいいですよ」
     そう言って笑いながら去っていく後ろ姿を見て、子どもながらに、この人には一生敵わない。そう考えたほど、平尾という人物は啓護にとって眩しい存在だった。
     小学校を卒業したのち、平尾は中高一貫の学校に進んだのだが、向こうは文武両道の進学校でこちらは男子校に進学予定であり、顔を合わす機会が少なくなっていた。
     通学は二人とも車で送迎されていたため朝の時間帯に挨拶を交わす程度の会話しかせず、連絡こそ取り合ってはいたものの、遊んだりなどの交流はできなかった。
     お互い時間が合わなかったというのも大きかったが、ピアノ教室での交流は途絶え、啓護は親しい友人を作ることもなくひたすらピアノとバイオリンの腕を磨き、音大に進むこととなる。
     各々の道に進むこととなり、今現在――。
     あの時感じた平尾への憧れや尊敬といった感情は、いつの間にか恋慕へと変わっていた。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     啓護にとって、今日もまたいつも通りの一日になるはずだった。
     朝はアラームが鳴るとともに寝覚め、起き上がりカーテンを開けて顔を洗う。
     その後、趣味であるサボテンに水を霧吹きで与えて、歯磨きをしてから朝食を取る。
     食べ終わった食器の片づけをし、身支度を整えたら学校へと向かう。
     このような、普段と変わらない朝を迎えるはずであったが、今朝の啓護は少しばかり寝坊してしまった。
     いつもなら決してしないミス、目覚ましのアラームを設定し忘れていたのだ。
     大学進学を機に一人暮らしを始めたため、このような時はさすがの啓護でも焦る。
     慌てて仕度をして家を飛び出すも、通学路には普段なら見かける同じ学校に通う生徒の姿すら見当たらない。
     遅刻するよりマシだと自分に言い聞かせながら駆け足で進むこと数分、ようやく見慣れてきた町並みが見えてくる。
     そこで啓護は違和感を覚えた。
     (なんだ? 姿は見当たらないが気配を感じる)
     不思議に思いながらもそこまで考えたところで何も変わらないなと足を進めたものの、啓護は改めて違和感を覚えた。
     (――やはり誰かに見られている?)
     そう思った瞬間、全身から汗が噴き出し始めた。心臓の鼓動は速くなり、呼吸をするのも苦しくなるほどの緊張感に襲われる。
     気づいていることを悟られてはいけないと思いつつも、視線を感じる方へゆっくりと振り返った。
     そこには、一人の若い人物がいた。
     年齢は自分と同じぐらいだろうか。
     上下ともにモノトーンで合わせられている服装で、髪の色は赤く胸にかかる程度の長さであり、顔立ちは非常に整っている。
     魅入ってしまうほど人形のように綺麗ではあるが、凛々しい顔立ちながら幼さも残っていて、おそらく背丈は自分よりも少し低いだろう。
     だが、一番印象的だったのはその瞳だった。
     くっきりとしたアーモンドアイ。
     その双瞳が瞬きをする度に、吸い込まれそうなほど黄金色と緋色の混じる。
     強い眼差しを向ける瞳の奥はきらりと光り、ある種の強い意志のようなものを感じられた。
     吸い込まれる容貌に、まるで一つ年上のかつての幼馴染を連想させる。
     気のせいだろうかと思考を巡らせていたとき、相手の方から「啓護くん」と呼ばれて、日本を離れた啓護は聞き慣れた日本語が懐かしく感じる。そして、その声を聞いてすぐにかつての先輩であると分かった。
    「平尾……先輩」
    「はい、キミの先輩ですよ」
     美しく微笑む姿に啓護は思わず喉を鳴らす。先輩はあの頃と変わらないままだった。否、正確にはあの幼い頃の面影を残しつつ、圧巻されるほどの美貌の持ち主へと成長している。
     確か、高校生の頃まだ隣に住んでいたときは黒髪であったはずだが、今は緋色に染め上がっている。
     果たしてどちらの髪色が本来の物なのだろうか。一瞬そのような考えが脳裏をよぎるが、息をのむほど似合っていて、髪色の違いなどもはや気にならなかった。
     先輩の微笑みを見て、啓護は自分の心拍数が跳ね上がるのを感じた。それと同時に、自分が未だ平尾に対して未練があることも改めて自覚してしまう。
     だが今はそんなことを考えている場合ではない。まずは現状の確認をしなければ。
     啓護は周囲をもう一度見渡してみる。
     やはり誰もおらず、自分たち以外の気配はない。
     どうしたものかと悩んでいると、ふと疑問が生まれた。
     そもそも先輩はなぜここに居るのか。
     ここはかつて家が隣近所であった実家周辺ではなく、啓護が一人暮らしをしている場所、つまり東京ではなくプラハだ。東京の大学へ進学した先輩がいるわけがない。
     それに自分の知っている平尾ならば、遠路はるばるここに来る理由もないはずだ。
     (……俺に会いにきた? いや、まさかな。そんなはずはない)
     所詮ただの幼馴染。
     お互い別の学校に進学してからもしょっちゅう連絡が来ているし、もう一人の幼馴染から近況報告が入るためこれといった事情でもない限り、特段会う必要がない。
     (じゃあ、一体なぜ?)
     啓護が自問自答していると、いつの間にか目の前に移動していた平尾が啓護に手を差し出して、そのまま大きく肩を叩いた。
     手加減されたようでこれといった衝撃はなかったものの、久しぶりに再会した相手から触れらた啓護の身体がビクつく。
     過敏に反応を見せる啓護の様子を見た平尾は、目を細めて満面の笑顔を浮かべた。
    「ふふ、考え事ですか?」
     それは先程まで見せていた表情とは一転し、とても意地悪そうで嬉しそうである。
     (――ああ、やっぱり)
     この人は変わっていないんだな。昔から自分をからかい、無邪気に笑うところがあったのだ。
     啓護は安堵したと同時に落胆していた。
     (この人にとって、俺は未だに弟のようなものなのだろうか)
     十八歳を迎えて大学生とはいえ、世間ではもう大人であるというのに、平尾先輩はかつての幼いあの頃の感覚で接してくる。
     おそらくこちらの気持ちなど全く考えていないに違いない。まぁ、想いを伝えたわけでもないし、それはそうなのだが。
     だから相手が弟のように思っていたとして、先輩を責めるつもりは毛頭ない。ないが、ただなんとも言い難い複雑な気分だ。
     啓護はなんとか気を取り直し、平尾に尋ねることにした。
    「……先輩、どうしてここに?」
     なぜここに居るのですか? そう尋ねようとした時、平尾は指を口に当てて制止してきた。そしてゆっくりと瞬きをして首を横に振る。
    「ここでは話したくないです」
     話したくない?
     一体どういうことなのか。ますます意味が分からない。
     啓護が立ち尽くして困惑していると、平尾が「啓護くん」と手招きをする。
     ついてこい、ということらしい。
     返事をする前にどんどん道の先を進む平尾を見て、啓護は言われるままに先輩の後を追いかけた。
     今日はもう講義には間に合いそうにない。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     平尾に案内されたのは大学近くにある公園だった。
     ブランコなどの遊具はなく、浅く座ることしかできないベンチや近代的なデザインの公衆トイレといった必要最低限のものしか置かれていない場所だ。
     普段は子どもたちで賑わっている場所なのだが、今は時間帯が時間帯だからなのか人の気配は全くない。
     平尾はベンチに腰掛けると、自分の座っている隣をポンポンと叩く。隣に座れという合図のようだ。
     啓護はため息をついて促されるがまま、平尾の隣へ移動するとそのままドスンと腰掛けた。
     距離が近いため、顔を近づかせようものなら互いの息遣いが分かるほどだ。
     しばらく沈黙が続き、啓護は何を話したらいいか分からず戸惑っていた。
     一方、平尾は空を見上げながら何かを考えているようだ。
     それからどのくらい経っただろうか。
     ようやく平尾が口を開いたかと思うと、いきなりとんでもないことを言い出した。
     
    「ねえ、啓護くん。私と結婚してみませんか?」
    「はあ⁉︎」
     啓護は自分の耳を疑った。
     今、結婚してみないかと言ったか? 聞き間違いかと思って何度も確認したが、間違いなくそう言ったらしい。
     頭を抱えながらも、啓護はひとまず平尾に問いただしてみる。
    「どういう意味ですか、先輩」
     思考を巡らせても、一体全体どうしてそういう話が出てくるのか、何一つ理解できない。
     とりあえず詳しく説明してもらうことにしよう。
     啓護はそう決意して、詳しい事情を聞き出すことにする。
     平尾曰く、こうなるまでの過程は以下のようなものであったそうだ。
     啓護とは別の中高一貫校に入学して間もなく、平尾はとある財閥の御曹司との縁談を勧められる。
     しかし平尾はそれを断り、それ以降も縁談話が絶えなかった。
     そんな中、高校生の頃に突然義理の祖父が所在不明となる。
     彼が所在不明だったのは数日のことではあったが、その間にあれよあれよと話が進み、平尾が後継者に指名されたという。
     平尾に後継者として白羽の矢が立ち、遺産相続により莫大な資産を得たが、その管理のためには配偶者が必要であるとのことなのだそうだ。
     当の去場は本人がその気があるならと辞意を表明して引退すると、今度はとある編集部の社長になると言い出して、本当にその座に着任したそうで。
     そんなわけで、平尾に対する資産目当ての軽率なアプローチがいまだひっきりなしなのだと言う。
     しかも、今でこそ大学生ではあるが、話によれば未成年の頃から執拗にアプローチされていたそうだ。
    「私も本当に困っていて……」
     世話になった手前、また去場のことも慕っていたため後継者を辞退する気は微塵もないが、結婚はまた別の話ですとも言っていて。確かにその通りであったため先輩らしい。
     しかし、同時に啓護は思わず頭を抱えたくなった。自分は何も知らなかったし知らされていなかった。何より、平尾の異変に気づいてもいなかったからだ。
     それにしても、資産家の跡取りというのは大変なものだ。
     しかし、それが本当だとしたら、相手の者たちは例え家柄が良かったとしても、仮に御曹司であったとしても、平尾に対してとても不誠実であるように思える。
     仮にも親が決めたりしているのならば尚更だ。
     いくら性別や人種が関係ないご時世とはいえ、まだ当時の平尾は未成年である。
     本人にその気がないにも関わらず、そのような、大人の後ろ盾が必要な子どもに対して執拗に迫るなどという卑劣な手段に出るとは。
     これではあまりにも理不尽ではないか。
     (……思い返してみれば、先輩は昔から厄介ごとに巻き込まれていたな)
     かつての平尾はそれは凄かった。何が凄いのかと言うと。
     平尾という人間は、生まれ持った身体能力と容貌のせいで子どもの頃から見知らぬ輩や男子から絡まれるのもしばしばであった。
     そのため本人の意に反する騒動にもよく巻き込まれていた。
     別の道を選び、お互い違う学校へ進学してもそれは続いた。
     そのようなわけもあり、幼少時から高校生に至るまで、学生時代は俊敏に動きやすいスラックスで登校していたのである。
     平尾の通う進学校では、一際目立つ存在だったようで下級生だけでなく同い年や上級生からも「王子」と呼ばれ、各行事イベントがある度に、平尾に対する一大イベントであるかのように告白のための列が連なり長座の列が並ぶほどであったと聞いている。
     それほどまでに、平尾は男女関係なくモテにモテていたのだ。
     だが、そのような時の平尾は相手を無下にはせず優しくなだめたりしていて、上級生や下級生も分け隔てなく接しながらも、そつなく周囲の好意をかわしていたのである。
     よって、先輩は生まれ持った美貌と類い稀なる運動能力を兼ね備えながらも、同級生に疎ましく思われる事はなく学生時代を平穏に過ごしていたと、もう一人の幼馴染である七朗から聞いていた。
     このような事もあり、先輩は自分の恋愛事には無頓着なのだ。
     そんな先輩からのまさかの提案である。
     (にしても、いきなり結婚とはな……)
     もし、本当に御曹司との結婚話が持ち上がっているのであれば、わざわざ自分のもとへ会いに来る必要はないはずだ。
     普通に考えてみれば、相手に不自由するはずもない、他の男性あるいは女性と結婚するかもしれない相手が、かつての幼馴染である自分に会いに来て結婚しようなどと言うのもおかしな話である。
     しかも、成人したとはいえまだ学生の身であるにも関わらず、財産の管理のためだけの婚約者候補。
     どうにも引っかかることばかりだ。
     考えてみれば、子どもの頃から男女問わず告白されていて、全ての相手をきっぱりと断って誰とも付き合ってはいなかった。
     平尾が誰かと付き合っているなどどいった、それらしい噂話すら流れてきたことはない。
     それもこれも、本命とやらがいるからであろう。
     そうなると、考えられる可能性は一つしかない。
     (――これは平尾先輩の嘘だな)
     先輩が自分に会うためにわざわざ足を運んでここまで来るはずがない。
     おそらく自分が勘違いするだろうと踏んで、このような話をしたのだろう。
     その証拠に、先輩の顔を見れば今も掴みどころがない表情をしている。
     まんまとしてやられたというわけだ。
     そんなことを思いつつ、啓護は溜息をついた。
    「あんたって人は、タチが悪い。冗談はよしてくださいよ」
     冷たく言い放った啓護だが、すぐにそんなことがどうでもよくなった。なぜならば、平尾は瞳を見開いたあと、真剣な眼差しを向けてきたからだ。
     その姿を見て、啓護は胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
     真っ直ぐに見つめてくる琥珀色が、少しだけ揺らめいて伏せられる。
     (なぜそんな顔をするんだ。政略結婚がそんなに嫌だったのだろうか……)
     そういえば以前、というよりだいぶ昔の話だが、先輩に対して好きな人がいるかどうか尋ねたことがあった。
     平尾先輩はずっと想い続けている好きな人がいると言っていて、大人になって結婚するならその人とがいい、とも言っていた。
     だから、先輩はその相手と結ばれることがないと悟って諦めているのだろうか。
     想う相手がいる以上、好きでもない相手と添い遂げなければならないなんて、その切なさと悔しさは想像を絶するものに違いない。
     それはとても辛い決断であったはずだ。
     なぜならば、今の自分がまさにそうだからである。自分の気持ちを確信したが、どうやら遅かったようだ。
     だが、それはともかく自分の知らないところで、先輩がこれほど悩み苦しんでいることがわかり、そんな先輩の心の内を理解しようとしなかった自分を恥じた。
    「……言い過ぎました。謝罪します」
     そう言って頭を下げ平尾に謝ったのだが、「別にいいです」と自分がやってしまった時と同じように平尾から突き放される。
     先ほど冗談だと決めつけて冷たく突き放した手前、今の自分には何も言う資格はない。
     だから、せめてもの償いとして、平尾を少しでも楽にさせてあげたかった。
     そう思った瞬間、啓護の口は思考よりも先に動いていた。
    「いいですよ。先輩、結婚しましょう」
     啓護は一縷の望みを託して言葉に出す。
     内心焦っていたため平尾から返事が来るまでの間、時間が停止している感覚に陥る。
    「! 本当にいいんですか?」
    「ッ、いいから言ってるんです。善は急げと言いますし、お互いの家族にも連絡しなければ」
     前向きな返事をもらえて安堵する啓護だったが、平尾の表情を見てさらに不安が払拭された。
     いきなりのことではあるが、平尾を知っているうちの家族の反対はおそらくないだろう。
     我が家は兄が継ぐことになっているため、俺の好きにしても大丈夫なはずだと踏んでの発言である。だが、そのような些細な悩みは杞憂であった。
    「それならうちは問題ありません。啓護くんのことはもう伝えてあります」
    「は?」
    「私は啓護くんしか考えられなかったので」
    「は?」
     (俺しか? それは一体どういうことなんだ。好きな相手がいるんじゃないのか?)
     あっけに取られていると、平尾からさらなる発言を投げつけられ驚きのたまう。
    「もう婚姻届にサインもしてあります。ほらここに。あとは啓護くん側だけです」
    「仕事が早いっ!」
     拳を握りしめてつい叫んでしまったが、本当にその通りのようで。
     ひらりと茶色の線が入った紙を見せられて、自分の目でじっくりと確認しても確かに平尾側の欄は埋められている。
     先輩は昔から行動が読めない人ではあったが、混乱を通り越してこれは実に用意周到だなと感心さえした。
     咳払いをした啓護はなんとか取り繕って、さも大したことないかのように振る舞って見せる。
    「で、ではうちの方に連絡してみます」
    「あ、それもおそらく大丈夫かと。義祖父が今朝啓護くんのご家族に連絡していましたので」
    「は⁉︎」
     何もかもわけがわからない!
     ついていけない。
     本当に一体どういうことなんだ?
     とりあえず確認を取るために家へ電話をかけてみると、平尾の言うように本当に去場から連絡が入ったようで、家族からは全く反対されなかった。
     うちの親からはおそらく反対されないだろうとは予想していたが、あまりにも事が容易に進み過ぎて拍子抜けである。
     結婚とは、こんな簡単に物事が進むものなのだろうか。
     ともあれ、婚姻届の件はひとまず解決したのであとは平尾である。
     啓護は再び咳払いをすると、平尾に向かって確認を取る。
    「ええと、では改めて。俺と結婚しましょう、先輩」
    「はい。しましょう、結婚!」
    「あとですね、結婚するのはいいのですが、お互いを知るためにも結婚後はまず恋人関係から始めませんか」
    「恋人、関係ですか? 結婚するのに?」
    「いや、まぁ……、なんと言うか、仮だとしてもパートナーになるのならば、お互いのことを知っておいて損はないかと」
    「確かに! では、恋人からお願いします」
     ニコニコと微笑む姿が眩しい!
     あからさまに喜ぶ平尾を見て、啓護は胸が熱くなる。先ほどの表情とは打って変わって、こんな表情も見せるなんて。
     しかし、こちとら物心ついた時からずっと想っていたのだ。自覚もした。
     だからこそ、政略結婚でも、仮の恋人であっても構わない。
     先輩のそばに居られるのなら、その立場を最大限に利用して先輩を不躾な者たちから守ろう。決意を新たに、啓護は平尾の方を向いて深呼吸をする。
    「……先輩。その、抱きしめても良いですか」
     そう告げると、平尾は小さくコクリと首を縦に振った。
     啓護はそっと平尾の身体を抱き寄せて、優しく包み込むようにして抱きしめる。
    「……なんだか、緊張します」
    「これから慣れていけばいいんじゃないですかね」
     さも自分はこ慣れているように口にはしたものの、発せられた言葉は震えていて。大したことではないように装ってはいるが、啓護自身も緊張していることは内緒である。
    「まあ、それもそうですね」
     最初は身体を強張らせていた平尾だったが、やがて力が抜けていくのを感じる。
     啓護は未だに緊張が解けないでいたのだが、悟られないように抱きしめている腕の力を強めると、平尾も同じように抱きしめ返してきて、改めて温もりを実感する。
     そんな中、平尾が顔を上げて視線が合う。啓護が「先輩?」と問いかけると、平尾が頬を緩めて小さな声で囁いた。
    「――啓護くん、ありがとう。よろしくお願いします」
    「こちらこそ」
     それから二人はしばらくの間、抱き合ったままだった。


     二、
     
     二人で日本に帰国して役所に婚姻届を提出したあと、啓護は自分のマンションにいた。もちろん、平尾も一緒である。
     啓護はプラハの大学に進学したが、自分の自由に使えるマンションがドイツと日本それぞれにあるのだ。
     意図しない再会ではあったが直接話すことが久しい上に、経緯はともかく結婚したため、今後のためにも平尾自身のより詳しい事情が知りたかったからである。
     何よりも、今はただ、先輩のそばにいたい。
     窓際に打たれる雨を眺めながら、啓護はぽつりぽつりと鍵盤を弾いていた。
     子どもの頃、家族にせがんで何度も公演やオーケストラ鑑賞に連れていってもらった。それほど大好きで聴きに行ったピアノの楽曲があった。ムソルグスキーの展覧会の絵。この作品が子どもの俺にはとにかく感銘を受けて、衝撃的だったのを覚えている。
     ピアノの音がなだらかながらも鮮やかで、明瞭でいて美術館にいるような錯覚さえ見えてきそうな音階。それを自分でも早く弾けるようになりたかったが、まだ幼かった啓護には鍵盤に指が届かなかったため、悔しい思いをしたものだ。
     (雨の日は、ピアノを弾くと心が落ち着くな)
     雨だれも好きではあるが、自分の中では月の光がしっくりくるのだ。
    「啓護くんは昔からいつも雨の日はドビュッシーでしたね」
    「悪いですか? 好きなんですよ、月の光」
    「ふふ。悪いだなんて言ってないですよ。啓護くんの好きな曲なんだろうな、と思っていつも聴いていましたから。今でも好きだなんて、啓護くんらしいです」
     ソファに座っている平尾は機嫌よく返事をすると、また目を瞑って耳を傾けている。
     それからしばらくのあいだ、お互いに会話もなくただ静かにピアノを弾いていたのだが、演奏が終わったタイミングを見計らったように、啓護の横からすっと手が伸びてきてマグカップが置かれる。
     匂いから察するに紅茶だろう。
     運ばれて来たマグカップをよそにキッチンに目を向けると、そこに立っていた平尾もこちらに気づいたのか、視線が交わる。
    「ありがとうございます」
     素直にマグカップを受け取って感謝の言葉とともに紅茶を口に含むと、お茶の温度がいい塩梅で熱すぎず適温だった。味も好ましい。
    「……美味い。紅茶淹れるの上手なんですね」
    「口に合ったみたいでよかったです」
     ここは大学へ通うための部屋で、家具など調度品はこだわって揃えたが、物は少ない。もちろん、特段貴重品などもない。
     広々としたリビングはただピアノとヴァイオリン、家具、本棚といった必要最低限の物しか置いていない部屋であったため、全て好きに使って構わないとは伝えていたが、こうしたさりげない気遣いができる人なのか、と改めて平尾に感心していると、次に聞こえてきた言葉を聞いて思わず噴き出しそうになった。
    「さっき、間違えてましたよね?」
    「ぶほッ! ……ゲホッ!」
     急にそんなことを言われ、驚いて口に入れたばかりの紅茶を吹き出してしまった。
     幸いなことに吹き出した先は平尾ではなく、自分の手元にあった楽譜だったため、被害は少ない。
    「……よくわかりましたね」
     汚れてしまった箇所を拭きながらも動揺を隠しきれず、少しだけ声が震えてしまう。
     まさか気付かれていたとは思わなかった。それもそうだろう。平尾も幼少期は啓護と同じようにピアノを弾いていたのだから。それにしても、恥ずかしいところを見せてしまった。
    「啓護くんでも弾き間違えるんですね」
    「っ、それは、あんたが一緒だからだ!」
     あ、しまった。そう感じたときにはもう遅かった。
    「おや、そうでしたか」
     楽しそうにクスリと笑う平尾の顔を見て、さらに顔の温度が上昇していくのを感じた。
     穴があれば入りたい気分というのはこういうことを言うんだろうな、などと頭の片隅で思いつつ、なんとか平静を取り繕おうとする。
     だがしかし、バレてしまっているのでもう遅いなと思い直して、啓護は素直に謝ることにした。
     もうこうなってしまえばどうしようもないし、変に取り繕ったりするよりは潔く認めてしまった方が得策であると判断したのである。
     それに何よりも、啓護にとっては今の状況における先輩に対して、隠し事をするのはどうしても嫌だと感じた。
     それは平尾と結婚したから、年上だからという理由ではなく、平尾の置かれている現状を見れば誠実でありたいという気がしているからだ。
     例え仮だとしても、今だけの関係だとしても、これからパートナーとして関係が続く間はともに生きるのだ。
     だから、啓護は正直に打ち明けることにした。
     自分は昔から雨の日になると妙に落ち着かないことがあって、今日のような天気だと特にそうなってしまうということを。
     そして、雨の日はあまり眠れなくなるということも話した。
     その話をするときも、啓護は平尾の目を見て話はしたが、少しだけ気が滅入る。
     嘘はついていないが、全てを話したわけではない。
     幼い頃に負った背中の古傷のことは、なぜだかうまく話せなかった。
     話し終えてずっと床ばかり見つめている啓護であったため、平尾がどのような表情をしていたのかはわからないが、きっと呆れられているに違いない。
     啓護は自分の弱みを人に話すことが苦手なのだ。
     ましてやそれが想い人である平尾相手なら尚更のこと。
     それでもこうして打ち明けたのは、やはり先輩に対する信頼感ゆえだと思う。
     七朗以外、今まで誰にも言ったことのない悩みをこの人は受け入れてくれるのではないかと思ったからこそ、勇気を出したのだ。
     しかし、白状したものの受け止めるかどうかは相手が決めることであり、平尾先輩の出方はわからないわけで――。
     啓護は恐る恐る平尾の方へと視線を向けた。
     すると平尾は、優しい笑みを浮かべたまま、啓護の話を聞き終えるとゆっくりと口を開く。そこから発せられた言葉は意外なものだった。
    「私も同じです」
    「……え?」
    「いえ、同じというよりはちょっと違うかもしれませんね。私は雨が降ると外に出たくなくなってしまうんですよ」
    「そうなんですか?」
    「はい。雨が降っているときって、なんだか憂鬱になります。家に引きこもりがちになってしまうというか、何もやる気が起きないというか……」
    「確かに、雨が降る日はなんとなくそんな感じになるような……」
    「ふふっ。私たち似たもの同士ですね」
    「……はい」
     そんな言葉に、啓護は思わず顔を伏せてしまう。
     平尾は俯いた啓護の頭を優しく撫でてくれたあと、彼の手をぎゅっと握ってくれた。
     先輩の手は温かくてとても安心する。
     心なしか雨音も心地よく聞こえてくるように感じる。こんなにも穏やかな気持ちになれたのはいつぶりだろうか。
     そして同時に考えたことがある。
     もし仮に、自分が平尾の立場だったら果たして同じように接してあげられただろうか。政略結婚に困って、それを免れるために好きでもない後輩の俺と籍を入れて……。
     (――先輩は強いんだな。いや、弱みを見せていないだけなのか)
     そんな先輩が悩んで苦しんでいるとしたら、少しでも手助けしたい。
     この感情は自身の驕りかもしれないが、啓護自身、改めて強く思うようになった瞬間でもあった。
     それから、啓護と平尾はお互いのことをたくさん話し合った。
     好きな食べ物、音楽、本、映画、学校生活、将来の夢。幼馴染であるためお互いなんとなく知ってはいても、こうして言葉にして口にし合うことが嬉しかった。
     普段からあまり自分から積極的に人と関わろうとしない啓護だったが、幼馴染の七朗と平尾は別で、彼らといる時間は啓護にとってかけがえのない大切な時間でもある。
     だから、これからもずっと一緒にいられたらいい、と密かに思っていたりもした。
     そんな中で、ずっと変わらないだろうと思っていた平尾との関係に変化が訪れたのだ。正直言って、考えるだけで胸の内側がチリチリと燃えて苦しくさえある。
     平尾の想い人がどんな相手なのか、自分の知っている相手なのか、そのようなことを考えるだけで息が苦しくなり、胸が締め付けられる。
     この結婚が啓護の中でどんなに大きな変化だったのか、平尾は想像もしていないだろう。
     もちろん、平尾を政略結婚から救済するための措置であるため、傍にいられるだけで今は十分だ。そんなわけで、あえて好意を口に出して言うことなんてできないが。
     というより後輩だと思っていた相手からいきなり好意を告げられたら平尾先輩も戸惑うだろう。
     それでもいつか、想いを伝えられたらと考えてはいる。
    「もう俺のベヒシュタインに触るな、とは言わないんですね」
    「ゴホッ!」
     感傷に浸っていた啓護はそれを聞いて思わず咳き込んだ。
     確かに昔はそのようなことを言っていた気がする。
     幼い頃、自分のピアノを買ってもらえたのが嬉しくて、誰にも触らせたくなかったときがあった。
     昔も今も他人を自分の部屋に上げたりせず、自分のものを触らせたくもなかった。
     だが、再会した今は、平尾に対しては結婚云々ではなく、なぜだか自分の極端なこだわりが和らいで、平尾を部屋に上げることも自然にできたのだ。
     少々潔癖であることには変わりないが、平尾に対しては本当に自分でも驚くほど寛容になれる。
    「ロッカはいいのにベヒシュタインはダメだなんて、面白い子どもだな〜と思ってましたよ」
    「そんなことも覚えているんですか」
    「もちろんです。啓護くんのことは覚えてますよ」
    「というか、あんただって当時は子どもだったじゃないですか」
    「私より年下なんだから十分子どもですよ」
     懐かしそうな顔を見せる平尾を横に、啓護は胸が熱くなる。
     まだ、はっきりと決まったわけではないが、いずれはこの気持ちを伝えたい。
     そうして、啓護と平尾はかつてのようにピアノを弾き合ったり時々会話をしながら、会っていなかった時間を埋めるかのように過ごした。
     生活基盤をどうするのかが今後の課題ではあったが、二人ともそれぞれ家があり、啓護は一人暮らしであったため当分の間はお互いの家を行き来することにした。
     外では相変わらず激しい雨が降り続いているが、二人の間にはゆったりと時間が流れていた。


     三、
     
     まだ肌寒い春始めの季節。
     必要最低限の調度品しか置いていない部屋で、モノトーンの壁紙に映える間接照明に明かりが灯される。
     照明とともに早朝ふと目覚める啓護であったが、肌寒くもぞもぞと身動いでいると自分より少しだけ小さな腕が啓護の身体に伸びる。
     顔を見てみれば腕の持ち主は無意識なのか、その瞳を開けることはない。
     平尾は啓護を片手で手繰り寄せて抱き寄せると、再びすぅすぅと寝息を立てていた。そんな様子に啓護は思わず呆れながらも、自然と頬は緩み口元には笑みが浮かぶ。
     薄手のシーツを平尾に掛け直して自分もまたシーツを上に被ると、啓護は隣で眠る結婚相手の寝顔を眺めて頬を緩ませる。
     それが最近の朝であった。
     一人で暮らしていた時には感じられなかった、愛おしさが込み上げてくる。
     幸せを噛み締めながら、啓護はまた一眠りすることにした。
     
     その後、アラームが鳴りいつも通りの時刻に目覚めた啓護だったが、隣にいるはずの平尾がいないことに気が付きベッドから身体を起こす。
     窓際のカーテンは開けられていて、朝日が差し込み眩しく感じていると、すぐに隣部屋の向こう側から声がかかった。
    「おはようございます、啓護くん。今日も良い天気ですよ」
     窓の外に広がる白い太陽と青く澄んだ空を見上げながら話しかけてくる平尾の姿に、啓護は改めて感慨深く感じた。
     お互いの家を行き来し、平尾がたまに啓護のところへ泊まるようになって、すでに半年以上の月日が経過していた。
     結婚してはいても基本的に遠距離のため、朝の早い時間や夜遅い時間帯などには顔を合わせることはあっても、こうして二人きりでゆっくりと話をすることはあまりなかった。
     だが今日はたまたまお互い時間が合うため、このようにゆっくりできている。
    「……おはようございます、先輩」
     結婚してからも、啓護は相変わらず平尾のことを『先輩』と呼んでいた。
     あれから、平尾は自分のことをあまり語ることはない。
     啓護が尋ねれば答えてくれるのだが、必要なこと以外は話さないし、聞かれないものは自ら話すこともなく。
     平尾にとって必要な情報以外は何も話さない上に、求めてもこなかった。
     なんでも、学生ながら義祖父である去場の仕事を手伝っているためとのことである。
     平尾自身、学生と秘書の両立で多忙を極めており、なかなか時間も合わないため、こんな風にゆっくりとした時間を過ごして他愛のない会話をするのも珍しいことだった。
     啓護はのろのろと上体を起こすと、隣の部屋に移動して窓を開きバルコニーに出る。するとそこには既に朝食の準備をしている平尾がいた。
    「……料理ができたんですね」
     思わず出た言葉だった。
     普段の食事は外食かコンビニ弁当で済ませることが多いと聞いていたため、啓護にとって驚きを隠せなかった。
     啓護自身ある程度の料理はできるので、コンクールの期間など忙しい時期以外は極力自炊をしているのだが、ましてやあの平尾だ。
     今までも啓護が料理を振る舞うことはあっても、平尾がしてくれたことは記憶にない。
     それでなくても、義祖父から引き取られて大事に育てられたであろう平尾が、調理のためにキッチンに立つ姿を見たことがなかったので、手作りの朝食を出されるなんて想像もつかなかった。
    「ふふ、自分のために作らないだけです」
    「……?」
     微妙に噛み合っていない返答に啓護は首を傾げるが、「キミが喜んでくれるならこれからも作ります」と穏やかな顔で返されたので、それ以上は何も言わずテーブルに着く。
     (まぁ、昔からなんでもそつなくこなす人だったしな)
     用意された朝食に手をつけ始めた啓護を見て、平尾もまた自分の食事を摂り始める。
     しばらく無言の沈黙が続く中、啓護は何気なくスマホを確認する。しかし、表示されたメールの内容に眉を寄せた。
    「――また、ですか……」
    「はい、またです」
     どうやら同じ内容が平尾の方にも来ていたようで、二人してため息を吐いた。
    「表向きとはいえ結婚したと言うのに、まだ先輩を諦めていないみたいですが」
    「そのようですね」
    「……しつこい輩もいたもんですね」
    「全く……。私としては迷惑な話です。啓護くんと結婚して、新しい生活が始まったというのに……」
     そう言って平尾が顔をしかめたので、啓護は「まったくですね」と言ってすべてをたいらげ「ごちそうさまでした」と箸を置くと、空になった食器を持って席を立ちあがりバルコニーから出て行く。
     その後ろ姿を見送りつつ、平尾は苦笑いを浮かべていた。
     啓護が食器を洗っていると着信が入り、隣の部屋で電話に出た啓護だったが、平尾の方を見れば先輩もまた何やら忙しくしている様子であった。
     やがて電話を終えて戻ってきた啓護が再び椅子に座り、「すみません、お待たせしました」と言ってタブレットを片手にニュースをチェックし始める。これは啓護の毎朝の日課である。
     平尾もちょうど電話が終わったようで、二人は改めてバルコニーに着席すると、お茶に口をつけて束の間のまったりと時間を堪能するのであった。
     (相変わらず先輩の淹れる茶はうまい)
     そんなことを考えつつ、啓護は向かいの平尾に視線を向ける。
     平尾は優雅に口元へティーカップを運んでいて、ただそこに佇んでいるだけで絵になる。啓護の視界に映る景色が別に切り取られて絵画や物語の話を眺めているような感覚だ。
     平尾をじっと眺めていた啓護であったが、視線に気がついたのか平尾が「そんなに見ても何も出ませんよ」とからかってくる。
     そしてそっと顔を近づかせて、琥珀と茜色の交わる瞳で啓護を覗き込み、不意打ちのように耳元で囁いてきた。
    「今日は、このまま二人でのんびりするのも悪くないですね」
     それはいつものバタバタした忙しい朝とは違う、甘いひと時の始まりを予感する囁きだった。


     四、
     
     それからさらに数ヶ月が経過して、日本の季節は冬を迎えている。
     結婚した鍋島啓護と平尾の関係性は、ゆっくりではあるが確実に変わりつつあった。もちろん、良い方向にである。
     より人間関係が深まった、とでもいったところだろうか。
     例えば二人で外を歩いていたら、こちらが手を伸ばせば自然と平尾の手も伸ばされて繋いでくれる。
     こちらが腕を広げれば、何をいうわけでもなく懐に納まるように入って来て、そのまま啓護の身体に腕を回して抱きしめてくれる。
     このような、小さな、でも例えようのない嬉しい変化に啓護は心が震えた。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     もうすぐバレンタインということで、啓護は日本に帰国して平尾としばらく過ごすこととなる。
     世間ではあちらこちらでチョコレート売り場が賑わっているそんな時期の中、啓護と平尾はとある駅にいた。
     というのも、二人の結婚記念として国内ではあるが、三泊四日の旅行に行くことになったのだ。とはいえ、極力肌を出したくないので海やプールのある施設は控えたいと言う啓護への配慮で、平尾がセレクトした旅である。
     どこに行くのかと尋ねても、先輩は目元を細めながら人差し指を口に当てて「当日までのお楽しみです」と言うだけで、啓護は日程を調整する程度で行き先がどこであるかも知らされていなかった。
     平尾は何事もしっかりしているため、何も心配はしていなかったのだが、思ってもみなかった展開でまだ思考がついていけない。
    「さあ、到着しましたよ。啓護くん」
    「……まさかコレに乗るんですか?」
     飛行機を乗り継ぎ地下鉄に乗ること数分。目の前に広がる光景を飲み込めないでいる。荷物を片手に啓護が眉をひそめ尋ねてみると、平尾はにっこりと笑みを浮かべて「そうですよ」と肯定した。
     啓護は停車している列車に目を奪われる。
    「これは一体……」
    「さぁさぁ、行きますよ」
     グイグイと肩を押され、平尾に手を引かれるがまま着いて行く啓護だが、もう一度尋ねてみるとやはりこれに乗るらしい。
     だが乗車前にやることがあるらしく。
     二人が訪れたのは豪華列車の出発式典だった。
     列車は列車でも、漆黒に近いワインレッド色に包まれた車体と、きらりと光る金のエンブレム。そのモチーフには七つの星があしらわれている。先頭車両が黒く光り、より一層際立っていた。
     ここまでの移動中、向かう先は人混みのない空間であると聞かされていたため、啓護自身今回の旅行を内心楽しみにしていたのだが、目の前にある列車に度肝を抜かれてしまう。
     普段から電車は乗り慣れない啓護ではあったが、目前のものがそれらと違うことは一目瞭然だった。
     豪華列車があるとニュースで見かけたりしたことはあったが、まさか自分が乗るとは思ってもいなかったのだ。
     しかも、啓護の知る限り予想通りの列車であれば、おそらく競争倍率もかなり激しいはずで。
    「……先輩。この列車、もしかしてクルーズトレインですか?」
    「はい、その通りです。よくわかりましたね」
     旅行を好まない啓護くんが知っているなんて意外です、などと言っている平尾を横目に、啓護はただただ呆然とする。
    「よく予約が取れましたね」
    「たまたまですよ。さあ、行きましょう。啓護くん」
     たまたまだと⁉︎ 倍率の激しい列車の予約はそんな簡単に取れるはずがないのだが。
    「人が多い場所は苦手だと記憶していたので、このクルーズトレインの規模が啓護くんにはちょうどいいかと思いまして」
     平尾なりに考慮してのことらしいが、まだ思考が追いつかない。
     かといって、そんな平尾を無下にもできず……できれば先に話してほしかったと一人ごちる。
     豪華列車なんて聞いていない。こちらにも心の準備が必要なのだが。
     戸惑いを隠せない啓護をよそに、平尾は「まあまあ」と幼子でもなだめるかのようにポンポンと啓護の肩を軽く叩いて諌める。
    (結局、結婚しても平尾先輩は俺のことを弟とでも思っているのだろうな)
     互いの家に泊まりはしても、同じベッドに入って眠っていても、それ以上のことは何もないので仕方ないといえば仕方ない。平尾の尊厳を無理に奪うつもりは毛頭ないのだ。
     それはそれとして、弟のようだと思われているとしたら。
     複雑な心境の啓護だったが、悩む間のなくあれよあれよとことが進み、あっという間に式典を終える。
     そんなに時間は経過していないものの、ようやく肩の荷が降りたと一息ついていると、一人のクルーに挨拶をされた。その人物に促されるがまま啓護たちは列車に乗り込む。
     話によれば、クルーは乗客に対して一人一人付く専属の接客係のようなものと聞いて合点がいった。
     多国語が堪能で客に合わせて言語を使い分けるエキスパートらしい。
     言われてみれば言葉遣いといい、立ち振る舞いといい、所作も行き届いていて洗練されているように見える。
     挨拶を行ってきた人物が今回の自分たちの旅の間、色々と世話をしてくれる担当クルーとのことだ。
     礼儀正しく「何かございましたら何なりとお申し付けください」とも言われたが、こちらには何事にも機敏で周到な平尾がいるため、おそらく世話になることはないだろう。
     定員が多くないため利用客も人目を気にせず、というより相手の詮索をするような野暮なことはしないため、各々が伸び伸びと楽しめるとも聞いて、啓護はホッと胸を撫で下ろす。
     平尾はその容姿から他者からもとても目を惹くようで、旅行中はそんな平尾にもゆっくりしてほしいと考えていた。
     ただそれだけで、先輩を独占したい気持ちはあるものの、トロフィーのように連れて歩きたいとも思わない。美しい人を、他の人間に見せびらかしたい、なんて気持ちもない。ただ単に、好きで仕方ない平尾と一緒に過ごしたかった啓護にとっては嬉しい誤算であった。


    「外観だけではなく、内装も凝っていますね」
     中に踏み込んでみれば、そこは心地よい、しかし普段見慣れない空間だった。
     安らぐ木々の匂いが鼻腔の奥に広がる。
     車内を見渡せば、薄橙とこげ茶色を基調とした落ち着いたデザインでありながらも、所々に木製で繊細ながらも緻密な細工が施されている。
     触れてみれば滑らかな表面で手触りも良い。
     古来の日本家屋を思わせるその空間は、目につく調度品は日本の伝統工芸品が主だっており、日本伝統と西洋のいいとこどりの、いわゆるジャパニーズモダンと純和風テイストが混じったような内装である。
     客室はもちろんのこと、バーラウンジのような車両もあり、食事のための車両もあった。
     客同士が交流できるよう車内にテレビは設置されていない。その代わりにサロンがあり、車内全てがまるで高級ホテルのような作りになっていたのだ。
     そして極めつけが後列にある展望デッキらしき車両だ。
     ちなみに部屋からも景色は十分堪能できるらしい。
     自分たちの部屋に移動した二人だったが、やはり先ほどの展望デッキが気になったため、クルーから説明を受けて早々にそちらの方へと移動したのだった。
     
     
     動き出してみれば、ガラス張りになっているデッキからは眼下に自然が広がり、遠くには山々が連なって見える。
     更に視線を上げれば、そこには雲一つない青空が広がっている。コントラストが際立っていて、まさに絶景である。
    「なんと言うか、圧巻ですね」
    「啓護くんが気に入ってくれたようで良かったです」
     自然が少なく、人も多い場所で生まれ育った啓護には、見慣れない新鮮な光景だ。
     ここぞ見どころとばかりの場所では列車の速度を落として、乗客ができるだけ景観を眺められるよう配慮もあり楽しみが続く。
     乗車してからしばらくはその景色に夢中だった二人だが、落ち着いたところでようやく自分たちの部屋に移動する。
     その間に、自分たち以外の乗客の姿に視線が移った。
     すると、啓護はあることに気が付く。
     それは乗客達の年齢層が意外にも幅が狭いということだった。
     小さな子どもはおらず自分たちのような学生らしき層もほぼいない。
     おそらく一回りやそれ以上は上の年齢であろう、壮年以上の方などが目につく。
     中には貴族や諸外国の人たちもいて、自分でも知っている名のある有名、著名人だ。今回だけかもしれないが、このクルーズトレインでは乗客が日本人とは限らず、海外からの訪日外国人も少なくないという。
     日本の列車とはいえ少しだけ驚いたが、啓護はすぐに思い直す。
    (人混みを避けてゆっくりとした時間を楽しみたい人のための列車でもあるのだろうか)
     以前、何かの記事で見た記憶があるのだ。クルーズトレインは乗客が安らぎとくつろぎを味わえる格別な空間である、と。
    (……賑やかな場所が苦手な俺にとっても、確かにここは安らぐ)
     そんなことを考えていると、平尾から声をかけられる。
    「啓護くん、あちらに行きますよ」
     平尾は啓護の手を引いて歩き出したため、どこに行くのか尋ねてみると、そろそろ食事の時間とのことで。
     向かう先は食事処として飲食を提供する車両。そこで昼食をとのことだ。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     上等な生地に包まれた触り心地の良い椅子を引いて席に着くなり、平尾は窓の外に広がる光景を見て息を呑んでいた。
     山の天気は移ろいやすく、外はすっかり曇り太陽が隠れている。
     空からはポツポツと雨が降っているが、それですらうまく景色に溶け込み、味わい深い情景が広がっている。
     そんな山々を抜けると目の前に広がるのは、青々とした大海原。運が良いことに、海の向こう側には本州らしきものが小さく見える。
     山を越えると雨はすっかり上がっていて、そこに映る陽光は海面をキラキラと輝かせている。
     ふと横を見ると、隣にいた平尾はその美しさに見惚れていた。
     そんな平尾の表情を見た啓護は思わず笑みをこぼしてしまう。
     啓護にとって、今の平尾は自分の知っている平尾とは別人のように見えた。
     学生の時はどこか大人びた雰囲気があり、表情は柔らかいもののあまり感情を出すことがなかった。しかし今は、こうして子どものような一面を見せてくれる。
     それが嬉しくて仕方がない。
     啓護は平尾の横顔を見つめながら、改めて一緒に旅行していることを実感したのだった。
     そんな啓護の様子が気になったのか、平尾が小首を傾げて顔を覗き込んでくる。
    「啓護くん? どうしました?」
     琥珀色と緋色の混じる瞳がこちらを覗き込んできて、啓護は少しだけ気後れしてしまう。
    「あ、ああ。いや、綺麗だなと思いまして」
    「ふふ。確かにこの光景は綺麗ですね。とても趣深いです」
     いや、景色もそうではあるが、自分が見惚れていたのは他ならぬ平尾自身なのだが。
     しかし、そんなことを言っても名ばかりのパートナーである自分から言われるのは気に障るだろう。
     ここは先輩の言うがまま、訂正することなく景色が綺麗だということにしておこう。
     せっかくの新婚旅行なのだ。
     余計な水は差したくないし、平尾に不快な思いはさせたくない。
     他愛ない会話をしながら食事を終えた啓護と平尾は、席を立って再び後方のデッキへ足を運んでみる。
     窓からは広大な景色が広がり、改めて眺めていてとても心地が良い空間だった。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     乗車の際、担当のクルーが何なりとお申し付けくださいと言っていたことを思い出した啓護は、平尾がリラックスルームに行っている間にクルーに頼んで食事の付け合わせを尋ねていた。
     先ほど降車した地域では地酒の試飲体験ができて、平尾が嬉々として試飲していた様子を見た啓護は、ノンアルコールの特産品を購入していたのだ。
     本当は平尾の好みのもの、つまりアルコールを購入したかったのだが、いかんせんまだ十九歳。
     飲酒もできない、購入すらできないのでそこは諦めることにした。
     担当クルーに自分が購入した飲料を見せて、食事の内容に合うならば一緒に出してもらえないかと申し出たところ、快諾されたので啓護はホッと胸を撫で下ろす。
     もちろん、平尾が喜ぶとも限らないので、その時はその時、方向性を変えてみればいいだけである。
     よくよく話を聞いてみれば、他の大人たちも食事の際地域で購入した地酒を楽しむらしく、旅の醍醐味でもあるらしい。
     ともあれ、今回の旅行は自分のために配慮してくれた内容なわけで。先輩にもより楽しんで欲しいと感じていた啓護は、夜の食事が待ち遠しかった。 
     
     
     夜の食事はドレスコードがあるため、二人ともフォーマルな服装に身を包む。
    「啓護くん、フォーマルな装いも似合いますね。ピアノの演奏の時とはまた違っていて新鮮です」
    「っ!」
     世辞を言われるとは考えてもいなかった啓護は思わず赤面してしまう。
     自分でもわかるほど首の後ろも熱い。
     そのため、平尾が暗に啓護のピアノの演奏を見に来ていることには気づけなかった。
    「あ、あまり見ないでください!」
    「そう言われても、一緒にいるので無理な話では?」
     それは確かにそうである。
     だが悔しいので、平尾の服装に対してこちらも何か一言言ってやりたいが、相手の服装を見てそんな気持ちは吹き飛んだ。
     平尾はというと、深みがかったグレーに繊細な模様が浮き出ている細みのパンツスタイルで、上はそれに合わせられたジャケットを着用していた。生地はおそらくビロードだろう。この季節にぴったりの装いだ。
    「……平尾先輩も、よく似合っています」
    「ふふ。ありがとうございます。啓護くんもそんなことが言えるんですね」
     平尾にからかわれたようだが、今の啓護はそんな事も気にならない。
    (――それにしても、平尾先輩は何を着ても様になるな)
     平尾の美しさに見惚れながらも先輩の服装をよく見ると、ジャケットには見る角度の加減で模様が浮かぶ特別な刺繍が施されており、間違いなく今まで見た平尾の服装の中で一番煌びやかな服装だ。
     見慣れない先輩の姿に心なしか、色気さえ醸し出されえていて、啓護は思わず目を逸らす。
    (っ、……直視できない!)
     何も言えずにただ咳払いをしていた啓護であったが、その様子を見ていた平尾はくすくすと笑っている。そんなとき、係のクルーに促されて場所を移動することになった二人は、案内されるがまま足を進めた。
     そこはクラシックの演奏に包まれている食事処だったが、平尾の前に座っているため、ディナーの席でありながら説明を受けても食事の内容が頭に入ってこない。口にしても、味わう余裕すらない。
     口数も少なく俯いて銀食器を動かす啓護を見た平尾は、「可愛いですねえ、啓護くんは」と機嫌が良さそうだ。
    (可愛いのはどっちだ!)
     啓護があたふたしていると、先ほど手配しておいたサプライズがやってきたのだが、どういうわけか平尾のためにサプライズとして用意したノンアルコール飲料は結局本人にバレていたようで、差し出されたドリンクを笑顔で「美味しいですね! どんどんいけます」とあっという間に飲み干した平尾であった。
     
     ◇ ◇ ◇
                       
    「さて。食事も済んだことですし、そろそろお風呂に入りたいですね」
    「そ、それもそうですね。では部屋に移動しましょうか」
     結局、せっかくの豪華なディナーも味がわからないまま部屋に移動すると、平尾は早々とバスルームに向かう。バスタブこそないものの(列車であるためそれは仕方がないが)シャワールームが部屋に備えられており、上質な檜で縁取られている。
    「平尾先輩、お先にどうぞ」
     平尾が先に風呂に入り出したいと言ったのだ。ここは先に譲るのが正解だろう。
    「ありがとうございます。では遠慮なく」
     ウキウキと効果音が出るようなほど浮かれていた平尾はそのままシャワールームへと消えていった。
    「これが三泊四日続くのか……」
     お互いの家を行き来したり、お泊まりもするものの未だ二人は清い関係である。
     当然、平尾の肌、というか生まれたままの姿も見た事はない。
    「こんなことで心が乱れてしまうなんて、先輩に知られたら即離婚だろうな」
     平尾ならやりかねない。先輩がシャワーから帰ってくるまで、啓護は平静を装うべく脳内でショパンを流して煩悩を取り払うことに専念していた。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     クルーズトレインでは車内での洗練されたもてなしだけではなく、訪れる先の現地で体験型見学会がある。
     今回啓護たちの旅では日本伝統のアクティビティ体験として、古風な佇まいの陶芸家の元で茶碗作りを行うことになった。
     窯元から工程の説明を受けたあと早速作業に取り掛かる。
    「やったことがないので楽しみです!」
     平尾はウキウキとした様子で、そんな平尾を見て啓護も胸が弾む。言葉にはしないが、啓護も経験がないため楽しみであった。
     現地に到着してひと通りの説明を受け、次は実際に体験することに。てっきり土作りから行うのかと思ったが、列車の出発時刻上難しいようで、乗客たちは既に捏ねられた土を使わせてもらい、各々好きな形に仕上げればいいと言う。
     着色もできるとのことだったので、啓護は密かに平尾の瞳の色を選択したが、どうやら向こうも同じ考えだったようで、先輩は啓護の瞳の色である紫紺色に着色していた。
    「啓護くんの色にしてみました」
     着色した器を嬉しそうに見せてくる平尾先輩を見て、正直なところ悪い気はしない。いや、本当はかなり嬉しい。
    「思いのほか難しかったです」
     そんなことを言っていた平尾だったが、啓護から見れば十分上手くできているように見えて、なんだか微笑ましく思えてくる。
    「先輩は昔からなんでもできたでしょう。自分に厳しいだけでは?」
    「そうでしょうか?」
    「そうですよ」
    「啓護くんの器は趣深いというか、個性的ですね」
     平尾としては褒めたつもりだろうが、自分でも不慣れであったため出来の悪さはわかっている。しかし、フォローを入れてきた先輩がなんだか面白く思えて、啓護は「フハッ」と声を出して笑ってしまった。
    「褒めたつもりでしたが」
     口を尖らせて不満を見せる平尾であったが、言葉とは裏腹に見せる平尾の表情は、ツアーのアクティビティ体験の中で一番の笑みであった。
     出来上がったものは窯で焼き上げたあと、厚意で家に送付されるそうだ。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     このクルーズトレインの目玉として、現地でのアクティビティや車内の宿泊だけでなく、訪れた観光地の旅館にも宿泊できるということである。
     旅館では季節折々の会席料理が広げられ、料理、というよりは芸術のような作品に見える。
     しかも、啓護が普段利用したりするような料亭の料理ではなく、これまた外国人向けとして彼らが好みような純朴な和の器に盛り付けられ、彩も繊細で侘び寂びを思わせる。
     食事を口に運ぶと、これまでの旅では味わったことのない、素朴でいて素材の味と調味料が喧嘩しない、とても純朴な食事を振る舞われた。
     口に含むと精進料理のようだが、外国人観光客にも合わせてあるのか、味が薄いながらも出汁がよく効いていて、おそらく香草の類いであろうハーブがところどころアクセントとして生地の中に丁寧に織り込んである。見た目でも楽しませてくれるもてなしに、啓護も平尾もほうとため息が溢れ、手の混んだ繊細は料理に感動していた。


     停車駅では幼稚園児であろう子どもたちが先生らしき大人たちに引率されて、クルーズトレインに向かって一生懸命小さな手を振ったり旗を振っている。
     この車両には十三歳以下の子どもは乗車できない。
     それであるのにも関わらず、子どもたちの笑顔や懸命な姿を窓越しから眺めるのはなんだか気が引ける。
    「ほら、啓護くん。かわいい子どもたちが手を振っていますよ。キミも振り返してください」
    「……、なぜ?」
    「そういうものなんですよ、啓護くん」
     疑問に思い平尾に問うと、クルーズトレインが停車するのは平尾曰く地域の活性化や町おこしのようなものだと言うので、啓護は割り切って手を振り返した。
    「ふふ。やればできるじゃないですか」
    「……」
     普段し慣れない行為ではあったが、子どもたちの無垢で無邪気に見える笑顔を見届けて、列車は再び動き出す。
     大人の限られた空間ではあったのだが、こうした時間も設けられるのだなと改めて啓護は考えさせられた。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     夜になり、窓から見える景色に星空が広がる。
     列車の木星で食事をとり、デザートを楽しんでいると向こうから何やら豪華な箱が運ばれてくる。
     誕生祝いの歌が流れてきて、前に並んでいたクルーが箱を開けると、甘い匂いが流れてくる。
     それは、花と飴細工で装飾された美しいケーキだった。
    「お誕生日おめでとうございます」
    「は?」
    「今日はキミのお誕生日でしょう?」
     言われてみれば、確かに今日は二月十四日。
     つまり、啓護の誕生日である。
     多忙を極めている上に、もう十九歳なので誕生日祝いをする歳でもなく(否、正確には今日を迎えて二十歳になったが)、正直言って先輩がこうして祝ってくれたことに驚いた。
    「ありがとうございます。てっきり、俺には興味がないのかと」
    「それだったら最初から旅行に誘ったりしませんが」
    「そうなんですか?」
    「それに、一緒にいたいと言ったでしょう? 啓護くんったら鈍いですね〜」
     ふふっと笑いながらも率直に気持ちを伝えてくる平尾に対して啓護は照れてしまう。
    (鈍いのは先輩の方だろ!)
     内心突っ込んでみたものの、啓護には疑問が生じた。
    (ん? と言うことは、この旅行は俺の誕生日祝いということか。やたら日程を聞いてきたり、変更は不可だと言ったりしていたのは俺への配慮だったのか?)
     自分の食事には頓着もしない、そんな人が。他人に対しては細やかな気配りのできる人なのだろうと思っていたが、今日改めて実感した。
     他者に対してスマートに対応し決して踏み込ませることはなく、かといって無下に扱うこともなく適度にかわしておきながら、一方で他者をよく見ている平尾に感心する。
     嬉しさが込み上げてきたが、ただの仮のパートナーであるため、ここで素直に喜びを伝えていいものかと啓護は迷い、結局伝えることはできなかった。
     
     ◇ ◇ ◇
     
     三泊四日の旅行も最終日を迎え、啓護たちのクルーズトレインは最後の目的地に向けて走っていた。最後の目的地は文化機関にも認定された国内有数の自然公園である。
     ここは公園に管理された、しかし自然の生態系であるため、運が良ければ野性の動物と出会えることもあるらしく。
     壮大な景色に囲まれパーク内では動物たちが悠々自適に過ごしている。
     啓護が目の前に広がる雄大な山と自然に感動していると、顔に出ていたようで平尾がクスッと笑う。
    「啓護くんが喜んでくれて、とても嬉しいです」
     試行錯誤した甲斐があったというものです。とも言っていて、ああ、俺はこの人に大事にされていたのだなと感極まってしまった。
     胸の奥がじんわりと熱く感じて、心臓の鼓動も大きく一向に鳴り止まない。
     だが、それも束の間の、仮のパートナーである今の間だけなのだ。
     なんせ平尾には好きな人が、結婚したい相手がいる。
     相手が誰かは知らないが、幼少の頃より好いている相手にはきっと敵わない。そう考えると、今の時間を噛み締めたいと強く思い一層涙腺が弱くなる。
    「――先輩。この旅、俺とで良かったんですか?」
     しまった、と思ったが遅かった。口からこぼれた言葉は元には戻らない。せっかくの旅を台無しにしたくなくて、どう取り繕うか考えていた矢先、平尾が微笑んで啓護の頬を両手で包み込む。
    「誰と行くか、ではなく誰と一緒がいいか、だと思いますよ。私は啓護くんと一緒が良かったんです」
    「っ!」
    「啓護くん、もしかして泣いてます?」
     思いもかけず涙を流してしまった啓護であったが、「そんなことありません」と否定しながら、啓護の頬に涙が伝う。
    「け、啓護くん! 大丈夫ですか? あの、私、何か啓護くんの気に触ることでも言いましたか?」
     今まで先輩の前で泣いたことがなかったため、先輩が慌てふためいている様子を見て、その様子がなんだかおかしく見えて。それでも、改めて先輩の優しさに胸が打たれ、啓護はしばらくハラハラと涙を流すのでった。
     俺はなんて幸せなんだろう。幸運にも束の間の幸せと、先輩の隣に立てる権利をもらえるだなんて。
    「……先輩。先輩さえよかったらまた、一緒に来ましょう」
     声が上擦ってしまったが、平尾もそれに気づいているようで、啓護の頭をよしよしと撫でる。
    「啓護くんがそういうのなら、また来ましょう。私も啓護くんと一緒ならとても嬉しいです」
     ふと平尾は立ち止まり、辺りをキョロキョロと見渡している。
     そして、隣にいる啓護の腕に自分の腕を絡めて身体を寄せてきた。
     突然の行動に啓護も戸惑いを見せるが、それでも嫌な気は全くしない。
     むしろ嬉しいくらいで、そのまま平尾のしたいようにさせることにした。
     ふと隣を見ると、太陽の光を浴びてキラキラと光る先輩が目に入る。
    「……平尾先輩、かわいいですね」
    「っ!」
     不意に昔の言葉を思い出した啓護は、ついあの時と同じ言葉を口にしてしまう。
     太陽を背景に光り輝いて見えた平尾が、綺麗で唯一の光のように見えて、当時の恋慕を思い出したので、ここはきっと『綺麗ですね』が適切だったのかもしれない。
     あの頃は、平尾の方が「今、私のことかわいいって思ってた?」みたいなことを言ったので、そんなことない! などとムキになりと天邪鬼な言い方をした気がする。
     もう随分昔のことなので、おぼろげではあるが、確かそのようなやり取りだったと思う。
    「平尾先輩」
    「な、なんですか。啓護くん」
    「やっぱり、先輩は可愛いですよ」
     昔のことを思い出して夢でも見ているかのように熱い眼差しで啓護が平尾に答えると、平尾の方もようやく思い出したのか、ハッと口を押さえ出す。
    「……相変わらずですね、啓護くん。あの時とはすっかり逆転になってしまいました」
     しばらくすると、平尾はおもむろに口を開く。
     そして、啓護にだけ聞こえる声でこう言った。
    「――啓護くん。私、幸せです」
     だから、これからもずっと一緒にいてくださいね。そう言って穏やかに微笑む平尾に対して、啓護は満面の笑顔で応える。
    「もちろんです」
     即答する啓護の答えに満足したのか、平尾は絡めていた腕を一層強くして、啓護にもたれかかってきたので、そのまま腕を回して抱きしめた。
    (別れが来たとしても、この瞬間を忘れることはないだろう)
     胸に秘めた衝動を表に出すことはなく、啓護は平尾を抱きしめていた腕の力を強めたのだった。
     このまま時が止まればいいが、そうはいかない。このタイミングを逃せば、おそらく啓護は永遠に思いを告げることはないだろう。意を決した啓護は、抱きしめたまま腕の中の想い人に短い言葉で気持ちを伝える。
    「好きです、先輩」
    「ふふ、どうしたんですか。今日の啓護くんは饒舌ですね。私も好きですよ、啓護くん」
    「は⁈」
    「は? とはなんですか。自分から言っておいて」
     頬を膨らませて不満を隠さない平尾をよそに、啓護は同じ言葉を返されたことが信じられず戸惑いを隠せない。
    「好きですよ、啓護くん。じゃなきゃ、旅行も一緒に来ないです」
    「そ、それはそうかもしれませんが」
    「それに、結婚もしないです」
     好きな人がいると言っていたのに? なぜ⁈
     心の中で疑問が浮かんでいたが、どうやら口に出していたようで、平尾は呆れた顔を見せる。
    「そ、そもそも! 結婚だって俺が断るとは考えなかったんですか?」
     まだ思考が追いつかない啓護だったが、もうここまできてしまったので、全ての疑問を聞いてしまえとばかりに口に出してみる。
    「だって啓護くん、昔から私のことが好きでしょう? 私の好きな人もずっと前から啓護くんなんですよ」
     ずっとだと? いつからなのか気になるところだが、それはつまり両思い、ということになるのか。
     というか、もしかして自分はそんなにわかりやすいタイプだったのか?
     狼狽えながらも、喜びと感動が込み上げてきて、引っ込みかけていた涙が瞳の縁から再びハラハラと流れ出す。
    「ふふ。相変わらず鈍いですねぇ、啓護くんは」
    「……それは先輩もです」
     涙が止まらない啓護を優しくなだめて、「これからも末長く、よろしくお願いします」と言ってよしよしと頭を撫でる平尾先輩の手のひらは、これまでにないほど温かかった。
     
     
     旅行最終日、訪れた旅先である国内有数の自然公園で、壮大な景色に囲まれ動物たちが悠々自適に過ごしている中で。
     展望デッキで二人一緒に眺めた豊かな自然の風景がこれまでにないほど鮮明に見えて、より一層美しく見えた。
     これから改めて、二人の時間を歩んでいこう。
     
                        

     END
     
    みそ子 Link Message Mute
    2023/07/15 11:58:18

    ハッピーエンドロール

    人気作品アーカイブ入り (2023/07/16)

    #魔入間 #オペラ #二次創作 #二次創作小説 #カルオペ #ナベリウス・カルエゴ #なべひら

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    • 平凡な日常のようでバビデビif人間界2用に書き下ろした、なべひらSSです。 #二次創作 #ナベリウス・カルエゴ #オペラ #カルオペ #なべひら #魔入間みそ子
    • UR My Sweetieカルエゴ先生とバラム先生のほのぼの自由解釈本を一部公開します。表紙のバラム先生はエゴ先生視点になります。
      頒布は7月以降の予定です。 #二次創作 #ナベリウス・カルエゴ #バラム・シチロウ
      みそ子
    • 僕と君の物語Xでの大人の絵本企画の総集編です。本編は18禁のため、その箇所は省いて展示します。
      絵本や寓話をモチーフとした、年齢差など捏造も含みます。
      #二次創作小説 #魔入間 #二次創作 #ナベリウス・カルエゴ #BL #バラム・シチロウ
      みそ子
    • 星空の下の物語カルシチ短編集。if人間界、女装、年齢差あり。 #二次創作小説 #二次創作 #魔入間 #ナベリウス・カルエゴ #BL #バラム・シチロウみそ子
    • ダブルシュガー #二次創作小説 #二次創作 #魔入間 #オペラ #カルオペ #ナベリウス・カルエゴ #なべひらみそ子
    • 真心と愛情真心を君に、愛情を先輩に
       
      「平尾先輩」
       啓護は平尾を呼び止める。ここは啓護の部屋だ。二人は多忙な時間をすり合わせて束の間の逢瀬を堪能していた。お互い仕事優先であり、なかなか会えなかったのだ。
       この逢瀬でも会うやいなや、挨拶なんていらないとばかりに顔を引き寄せられ荒々しく唇を喰み合い、服を脱ぐことさえ惜しらしく、お互い吐息を溢し口づけを交わしながら、服も剥ぎ取ってベッドへ向かう。
      「はぁ、啓護くん。もう、待てない」
       激しく啄むような口づけを交わしながらそう話す、珍しく余裕のない先輩に、啓護は思わず喉がゴクリと鳴らす。息を切らして上目遣いをこちらに向けてきて、待てないとは。可愛らしいところもあるものだな。そう感心しているうちに、啓護のシャツは平尾に脱がされ剥ぎ取られた。
       思わす身震いをした啓護だったが、自分ではなく平尾がこういうコトに積極的なのは珍しい。
      「待ってください」
      「は?」
      「あー、えっとですね。今、スキンを切らしているのでやりたくてもできないんですよ」
       そういうや、平尾は明らかに不機嫌になりそんな態度も隠さない。避妊具はセックスに置いて必需品だ。これは俺を守る役目、というよりも平尾先輩を守る役目が大きい。万が一を考えての最優先事項なのだ。
      「……わかりました。仕方ありません。今夜は我慢します」
       子供のようにわかりやすく不貞腐れる平尾を見て、啓護は愛おしさが込み上げる。仕事の時は無愛想で完璧主義で完全無欠の秘書が、自分の前ではあどけない仕草を見せるのだ。
       疑問に思って前に一度尋ねたことがある。なぜ、俺の前では幼くなるんでしょうねぇと嫌味も含めて。しかし、返ってきた答えは意外な、否、想定外のものだった。
      「君のこと、信頼していますから。それに、私は真心を君にあげたいんです」
       今思い出しても鮮明に思い出されて目頭が熱くなる。嬉しくなった俺はそのあと、平尾先輩に対して自分が持てる精一杯の言葉を返したものだ。
      「啓護くん?」
      「あ、はい。すみません。考え事をしていました」
      「またですか。相変わらずですね、啓吾くんは。私、もう帰りますね」
       そう言って平尾は玄関や寝室の脱ぎ散らかした自分の衣服をかき集めて、それを着用しようとしている。
      「待って、待ってください、先輩」
       呼び止めると平尾はため息をついてこちらに顔を向ける。
      「だって、今夜はもうしないんでしょう。ここにいる意味がない」
      「別に、体を繋げるだけがセックスではないですよ。というか、セックスしなくったって、あんたと一緒にいたい。それだけじゃだめですか?」
       平尾の手を握りしめて真剣に話す啓護をよそに、平尾はいたずらっ子な顔を見せて舌をちろりと出すと、「私、欲張りなので両方欲しいです。君とセックスしたいし、一緒にいたい。他愛もない会話で笑い合いたい。ただ手を握って夜の眠りにつきたい」
      「ははっ。じゃあ、それ全部やりましょうよ。」
      「でも、さっき避妊具は切らしているって」
      「セックスは、挿入だけがセックスではないので」
       不敵な笑みを浮かべて平尾に話す啓護だったが、平尾はイマイチ理解していないようで小首を傾げて見せる。その仕草が啓護にクリーンヒットしたらしく、そのまま平尾に思いっきり抱きつくと「しきり直しです。挿入はしなくても、あなたをきっと満足させてみせますよ。先輩」
       啓護の言葉を聞いた平尾はイマイチ意味がわからないでいたが、ふふっと笑うと着衣が乱れたまま啓護の首に腕を回すのであった。
      「楽しみにしていますよ、私の可愛い啓護くん」
        #魔入間 #オペラ #二次創作 #二次創作小説 #カルオペ #ナベリウス・カルエゴ
      真心を君に、愛情を先輩に
       
      「平尾先輩」
       啓護は平尾を呼び止める。ここは啓護の部屋だ。二人は多忙な時間をすり合わせて束の間の逢瀬を堪能していた。お互い仕事優先であり、なかなか会えなかったのだ。
       この逢瀬でも会うやいなや、挨拶なんていらないとばかりに顔を引き寄せられ荒々しく唇を喰み合い、服を脱ぐことさえ惜しらしく、お互い吐息を溢し口づけを交わしながら、服も剥ぎ取ってベッドへ向かう。
      「はぁ、啓護くん。もう、待てない」
       激しく啄むような口づけを交わしながらそう話す、珍しく余裕のない先輩に、啓護は思わず喉がゴクリと鳴らす。息を切らして上目遣いをこちらに向けてきて、待てないとは。可愛らしいところもあるものだな。そう感心しているうちに、啓護のシャツは平尾に脱がされ剥ぎ取られた。
       思わす身震いをした啓護だったが、自分ではなく平尾がこういうコトに積極的なのは珍しい。
      「待ってください」
      「は?」
      「あー、えっとですね。今、スキンを切らしているのでやりたくてもできないんですよ」
       そういうや、平尾は明らかに不機嫌になりそんな態度も隠さない。避妊具はセックスに置いて必需品だ。これは俺を守る役目、というよりも平尾先輩を守る役目が大きい。万が一を考えての最優先事項なのだ。
      「……わかりました。仕方ありません。今夜は我慢します」
       子供のようにわかりやすく不貞腐れる平尾を見て、啓護は愛おしさが込み上げる。仕事の時は無愛想で完璧主義で完全無欠の秘書が、自分の前ではあどけない仕草を見せるのだ。
       疑問に思って前に一度尋ねたことがある。なぜ、俺の前では幼くなるんでしょうねぇと嫌味も含めて。しかし、返ってきた答えは意外な、否、想定外のものだった。
      「君のこと、信頼していますから。それに、私は真心を君にあげたいんです」
       今思い出しても鮮明に思い出されて目頭が熱くなる。嬉しくなった俺はそのあと、平尾先輩に対して自分が持てる精一杯の言葉を返したものだ。
      「啓護くん?」
      「あ、はい。すみません。考え事をしていました」
      「またですか。相変わらずですね、啓吾くんは。私、もう帰りますね」
       そう言って平尾は玄関や寝室の脱ぎ散らかした自分の衣服をかき集めて、それを着用しようとしている。
      「待って、待ってください、先輩」
       呼び止めると平尾はため息をついてこちらに顔を向ける。
      「だって、今夜はもうしないんでしょう。ここにいる意味がない」
      「別に、体を繋げるだけがセックスではないですよ。というか、セックスしなくったって、あんたと一緒にいたい。それだけじゃだめですか?」
       平尾の手を握りしめて真剣に話す啓護をよそに、平尾はいたずらっ子な顔を見せて舌をちろりと出すと、「私、欲張りなので両方欲しいです。君とセックスしたいし、一緒にいたい。他愛もない会話で笑い合いたい。ただ手を握って夜の眠りにつきたい」
      「ははっ。じゃあ、それ全部やりましょうよ。」
      「でも、さっき避妊具は切らしているって」
      「セックスは、挿入だけがセックスではないので」
       不敵な笑みを浮かべて平尾に話す啓護だったが、平尾はイマイチ理解していないようで小首を傾げて見せる。その仕草が啓護にクリーンヒットしたらしく、そのまま平尾に思いっきり抱きつくと「しきり直しです。挿入はしなくても、あなたをきっと満足させてみせますよ。先輩」
       啓護の言葉を聞いた平尾はイマイチ意味がわからないでいたが、ふふっと笑うと着衣が乱れたまま啓護の首に腕を回すのであった。
      「楽しみにしていますよ、私の可愛い啓護くん」
        #魔入間 #オペラ #二次創作 #二次創作小説 #カルオペ #ナベリウス・カルエゴ
      みそ子
    • スモーキング・アンド・ラブここはとあるマンションの一室。
       煙草をふかしている主が再度息を吐くと、出された煙が部屋の中に充満する。
       この場所は鍋島啓護のマンションの一室でるため、煙草を吸っているのは他ならぬ啓護である。
       今日は平尾は訪れてるため、遠慮してキッチンの換気扇の下で吸っているのだが、黒革のソファに座っている平尾は嫌そうな顔をしている。
       それでも啓護は気にした様子もなく、くつろいで煙草をふかしていた。
       匂いに敏感で煙草の匂いもそれの類なのだそうで、苦手という平尾のためにタバコの臭いが充満しないよう配慮したつもりだが、換気扇でも緩和することはできなかったらしい。
       そんな啓護に平尾はため息をつくと、黙って手を差し出す。「これ、よかったら」と短く伝えると、手に持っていた袋を啓護へと差し出した。
       袋を広げて確認してみると、中に入っていたのは大量のコーヒー豆と瓶に入っているミルクだ。
       それをみて啓護は苦笑する。あの後、結局のこうした方がお互いのためだということで、このマンションの合鍵を渡していたのだが、上手く活用したようだ。
      「せっかくコーヒー豆を頂いたので、淹れてあげましょうか?」
       という問いに、平尾は首を振った。そして、そのかわりにといって渡されたものがあと一つ。どうぞと言って渡されたが、中身に見当がつかない。
      「甘いものは苦手でしたよね。なので、こちらも持ってきました」
       渡された物はチョコレートだった。
       煙草を嗜む啓護にとって甘味の嗜好品などというものはあまり縁がないものだった。
       しかし、先輩が自分のために選んだと言っていたので、たまにはこういうものもいいだろうと思って受け取った。
       平尾先輩曰く、こちらはビターチョコなのだそうだ。一口だけ口に含めてみると、確かにあまり甘くないタイプの類ではあるが、やはり自分には甘くないコーヒーやカフェオレの方が性にあっているのだなと再確認させられるだけだった。
       それでも、せっかくもらったものを無下にするわけにもいかず、何より悪い気もするので一応全て飲んでみることにする。
       それにしても、わざわざ自分の好みを覚えていてくれて、それに合わせてくれたというのは嬉しいものだ。
       そう思いながら、コーヒーを飲む。
       うん、やっぱり自分はこちらの方のほうが口に合っている。
       そして一通り飲み終えたところで、ようやく本題に入ることにした。まず最初に言っておかなければならないことがある。それは今回の件についてだ。そもそもこれは自分ひとりの問題であり、他人を巻き込むべき問題ではない。だから、この件に関しては礼を言うつもりはなかった。
       むしろ巻き込んでしまったことを謝ろうと思っていたくらいなのだから。だが、いざ口に出そうとするとなかなか言葉が出てこなかった。そんな自分が情けなく思えてきて、ますます焦りだけが募っていく。
       そんな時、ふいに声をかけられた。
      「――ありがとうございました」
       いきなりお礼を言われて戸惑ってしまう。一体なんのことだろうか? 確かに色々と世話になってしまったことは事実だし、こうして助けてもらったこともそうだ。だが、それだけなら別に礼をいう必要はないはずだ。それに今のお礼の意味もよくわからない。
      「……何の話ですか?」
       だから素直に疑問をぶつけることにした。それに対して、平尾は笑顔を浮かべるだけで何も答えようとしない。それが余計に不安を感じさせる。そして平尾の手がゆっくりと伸びてきたと思うと、頬に触れられる。少しひんやりとした感触が伝わってくる。そこから伝わる温もりはとても
      「私はあなたに助けられたのです」
       先輩が再び口を開く。そこで初めて気づくことができた。さっきの言葉は自分に言われたものではなく、平尾に向けられたものだったということに。つまりあれは自分の心の声が聞こえてしまったということなのか。
      「だから私からも言わせてください。本当にありがとうございます」
      「それとすみませんでした」
       啓護は思わず目を丸くしてしまう。何故先輩が謝罪する必要があるのか理解できなかったからだ。むしろ迷惑をかけてしまったのはこちらだというのに。
       しかし、その疑問はすぐに解けることになった。
      「本当はもっと早くにこうしなければならなかったんです……でも、どうしても怖くて出来なかった」
       その一言で全てを察することができた。
       おそらく先輩自身の過去のことを指しているのだと。
       そういえば以前、こんなことがあった。あの時は確か屋上でのことだ。あのときも同じように手を伸ばしてくれていた。その時、自分はどうして先輩に触れられることをあんなにも恐れてしまっていたのだろう。それはただ単に恥ずかしかったからというだけではなかったような気がする。もしそうなら、今も怖いだなんて思うはずがない。
       それは多分、この人があまりにも優しく触れてくれるせいだったんだろう。まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に扱ってくれているのがわかる。だからこそ、なおさら自分の汚さが際立ってくるようで辛く感じてしまうのだ。
       そんなことを考えながら、目の前にある顔を見つめ返す。そこにはいつもと同じ優しい笑みがあった。その表情を見て安心したのか、自然と体が動いていく。
       そのまま平尾の抱きつくようにして身を預けると、平尾もまた察したようですぐに頭を撫でてくれた。その心地よさに身を委ねるように目を閉じる。
       (ああ、ようやく理解できた。俺は……これが欲しかったのだ)
       俺は先輩に抱きしめてもらいたかったのだ。
       ずっと寂しくて仕方がなかったのだ。
       それを自覚した途端、涙が流れ出してきた。
       一度溢れ出た感情は止まることはない。
       次から次に押し寄せてくる波に流されないように必死に耐えようとするけれど、とても耐えられそうにはない。
       今はただ泣きじゃくるしかなかった。そんな自分を包み込むように先輩は強く抱きしめていくれる。その優しさに甘えるように啓護は声を上げて泣いた。
       そしてどれくらい時間が経った頃だろうか。ようやく落ち着きを取り戻した啓護は顔を上 げた。まだ目は赤く腫れぼったくなっているだろうし、鼻水も垂れてしまっている。そして酷いことになっているであろうその顔面をじっと見つめられてしまい、どうにも落ち着かない気分になってしまう。
       しかし、平尾は特に気にした様子もなく微笑んでいる。
       それがなんだか悔しくなって、仕返ししてやろうとおもい、至近距離まで近づいて耳元で囁いてみる。
      「あんたも泣いたっていいんですよ」
       驚いた顔を見せてくれると思ったのだが、逆に嬉しそうな笑みを浮かべられてしまう始末。どうにも敵わないなと思いながらも、啓護は満足げな笑みを返した。

       啓護は自宅のリビングで一人寛いでいる。ソファに深く腰掛けて天井を見ながら、ぼんやりと煙草の煙を吹き上げる。それでも、以前のような虚しさは込み上げてこない。それは間違いなく平尾のおかげである。愛しい人からの力は絶大だ。これからも、鍋島啓護は煙草を吸うたびに平尾から救われたことを思い出すだろう。 #魔入間 #二次創作 #二次創作小説 #カルオペ #オペラ #ナベリウス・カルエゴ
      ここはとあるマンションの一室。
       煙草をふかしている主が再度息を吐くと、出された煙が部屋の中に充満する。
       この場所は鍋島啓護のマンションの一室でるため、煙草を吸っているのは他ならぬ啓護である。
       今日は平尾は訪れてるため、遠慮してキッチンの換気扇の下で吸っているのだが、黒革のソファに座っている平尾は嫌そうな顔をしている。
       それでも啓護は気にした様子もなく、くつろいで煙草をふかしていた。
       匂いに敏感で煙草の匂いもそれの類なのだそうで、苦手という平尾のためにタバコの臭いが充満しないよう配慮したつもりだが、換気扇でも緩和することはできなかったらしい。
       そんな啓護に平尾はため息をつくと、黙って手を差し出す。「これ、よかったら」と短く伝えると、手に持っていた袋を啓護へと差し出した。
       袋を広げて確認してみると、中に入っていたのは大量のコーヒー豆と瓶に入っているミルクだ。
       それをみて啓護は苦笑する。あの後、結局のこうした方がお互いのためだということで、このマンションの合鍵を渡していたのだが、上手く活用したようだ。
      「せっかくコーヒー豆を頂いたので、淹れてあげましょうか?」
       という問いに、平尾は首を振った。そして、そのかわりにといって渡されたものがあと一つ。どうぞと言って渡されたが、中身に見当がつかない。
      「甘いものは苦手でしたよね。なので、こちらも持ってきました」
       渡された物はチョコレートだった。
       煙草を嗜む啓護にとって甘味の嗜好品などというものはあまり縁がないものだった。
       しかし、先輩が自分のために選んだと言っていたので、たまにはこういうものもいいだろうと思って受け取った。
       平尾先輩曰く、こちらはビターチョコなのだそうだ。一口だけ口に含めてみると、確かにあまり甘くないタイプの類ではあるが、やはり自分には甘くないコーヒーやカフェオレの方が性にあっているのだなと再確認させられるだけだった。
       それでも、せっかくもらったものを無下にするわけにもいかず、何より悪い気もするので一応全て飲んでみることにする。
       それにしても、わざわざ自分の好みを覚えていてくれて、それに合わせてくれたというのは嬉しいものだ。
       そう思いながら、コーヒーを飲む。
       うん、やっぱり自分はこちらの方のほうが口に合っている。
       そして一通り飲み終えたところで、ようやく本題に入ることにした。まず最初に言っておかなければならないことがある。それは今回の件についてだ。そもそもこれは自分ひとりの問題であり、他人を巻き込むべき問題ではない。だから、この件に関しては礼を言うつもりはなかった。
       むしろ巻き込んでしまったことを謝ろうと思っていたくらいなのだから。だが、いざ口に出そうとするとなかなか言葉が出てこなかった。そんな自分が情けなく思えてきて、ますます焦りだけが募っていく。
       そんな時、ふいに声をかけられた。
      「――ありがとうございました」
       いきなりお礼を言われて戸惑ってしまう。一体なんのことだろうか? 確かに色々と世話になってしまったことは事実だし、こうして助けてもらったこともそうだ。だが、それだけなら別に礼をいう必要はないはずだ。それに今のお礼の意味もよくわからない。
      「……何の話ですか?」
       だから素直に疑問をぶつけることにした。それに対して、平尾は笑顔を浮かべるだけで何も答えようとしない。それが余計に不安を感じさせる。そして平尾の手がゆっくりと伸びてきたと思うと、頬に触れられる。少しひんやりとした感触が伝わってくる。そこから伝わる温もりはとても
      「私はあなたに助けられたのです」
       先輩が再び口を開く。そこで初めて気づくことができた。さっきの言葉は自分に言われたものではなく、平尾に向けられたものだったということに。つまりあれは自分の心の声が聞こえてしまったということなのか。
      「だから私からも言わせてください。本当にありがとうございます」
      「それとすみませんでした」
       啓護は思わず目を丸くしてしまう。何故先輩が謝罪する必要があるのか理解できなかったからだ。むしろ迷惑をかけてしまったのはこちらだというのに。
       しかし、その疑問はすぐに解けることになった。
      「本当はもっと早くにこうしなければならなかったんです……でも、どうしても怖くて出来なかった」
       その一言で全てを察することができた。
       おそらく先輩自身の過去のことを指しているのだと。
       そういえば以前、こんなことがあった。あの時は確か屋上でのことだ。あのときも同じように手を伸ばしてくれていた。その時、自分はどうして先輩に触れられることをあんなにも恐れてしまっていたのだろう。それはただ単に恥ずかしかったからというだけではなかったような気がする。もしそうなら、今も怖いだなんて思うはずがない。
       それは多分、この人があまりにも優しく触れてくれるせいだったんだろう。まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に扱ってくれているのがわかる。だからこそ、なおさら自分の汚さが際立ってくるようで辛く感じてしまうのだ。
       そんなことを考えながら、目の前にある顔を見つめ返す。そこにはいつもと同じ優しい笑みがあった。その表情を見て安心したのか、自然と体が動いていく。
       そのまま平尾の抱きつくようにして身を預けると、平尾もまた察したようですぐに頭を撫でてくれた。その心地よさに身を委ねるように目を閉じる。
       (ああ、ようやく理解できた。俺は……これが欲しかったのだ)
       俺は先輩に抱きしめてもらいたかったのだ。
       ずっと寂しくて仕方がなかったのだ。
       それを自覚した途端、涙が流れ出してきた。
       一度溢れ出た感情は止まることはない。
       次から次に押し寄せてくる波に流されないように必死に耐えようとするけれど、とても耐えられそうにはない。
       今はただ泣きじゃくるしかなかった。そんな自分を包み込むように先輩は強く抱きしめていくれる。その優しさに甘えるように啓護は声を上げて泣いた。
       そしてどれくらい時間が経った頃だろうか。ようやく落ち着きを取り戻した啓護は顔を上 げた。まだ目は赤く腫れぼったくなっているだろうし、鼻水も垂れてしまっている。そして酷いことになっているであろうその顔面をじっと見つめられてしまい、どうにも落ち着かない気分になってしまう。
       しかし、平尾は特に気にした様子もなく微笑んでいる。
       それがなんだか悔しくなって、仕返ししてやろうとおもい、至近距離まで近づいて耳元で囁いてみる。
      「あんたも泣いたっていいんですよ」
       驚いた顔を見せてくれると思ったのだが、逆に嬉しそうな笑みを浮かべられてしまう始末。どうにも敵わないなと思いながらも、啓護は満足げな笑みを返した。

       啓護は自宅のリビングで一人寛いでいる。ソファに深く腰掛けて天井を見ながら、ぼんやりと煙草の煙を吹き上げる。それでも、以前のような虚しさは込み上げてこない。それは間違いなく平尾のおかげである。愛しい人からの力は絶大だ。これからも、鍋島啓護は煙草を吸うたびに平尾から救われたことを思い出すだろう。 #魔入間 #二次創作 #二次創作小説 #カルオペ #オペラ #ナベリウス・カルエゴ
      みそ子
    • ベルベット・ラプンツェル #二次創作 #二次創作小説 #魔入間 #カルオペ #オペラ #ナベリウス・カルエゴみそ子
    • アナスタシオスの憂鬱オペラさんは性別不詳です。 #二次創作 #二次創作小説 #魔入間 #オペラ #ナベリウス・カルエゴ #カルオペみそ子
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