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    おおねこSSただいま、おかりなさいブックオフコラボの緑色の首輪はないモテる男、鈍い女鈍い女、モヤる男魔法使いパロただいま、おかりなさい

     大外聖生にとって「ただいま」という挨拶は空虚な言葉だった。
     天才外科医である両親は忙しく、物心がつく頃から大外は誰もいない広い家に向かって「ただいま」と口にしていた。勿論返ってくるものはなく、大外の「ただいま」は薄暗い空間に吸い込まれるだけ。
     その度に心臓はムズムズした。年齢を重ねることであれが虚しさだったと気づいても、大外は優秀な大外夫妻の子どもであったから「ただいま」を言わないという選択肢すらも思いつかなかった。
    「ただいま」を言う。空っぽの家に。帰宅するたびに。律儀に大外は口にした。
     ストレスで人を殺した後も。美女を犯した晩も。医大に受かった特別な日も。
     塚原音子という少女に出逢った後も。
     しんと静まり返った家に孤独を感じ、それでもそこは大外の帰るべき場所だった。
     
     

    「おかえりなさい」
     ただいま、と大外が口にするより先にパタパタと足音を立てて塚原が姿を現した。いつもの奇抜な私服ではなく、彼女は大外のパジャマの上だけを着用している。
     大外と塚原の身長差は二十五センチもある。だから大外の目には塚原が丈の短いワンピースを着ているように見えた。
     下着は隠れる長さだ。腿からすらっと伸びた生足に一般的な男性は興奮するかもしれないが、大外は興奮しない。
     何故なら大外の好みはスタイルの良い美女で、塚原は寸胴の平凡な顔立ちの女だ。
     なので大外は身体を冷やすな、と医者らしい言葉を彼女にかけた。
     塚原の額には冷却シートが貼られている昨日の夜大外が貼ってやったものはすでに冷却効果が切れているはずなので、それは塚原自身で貼ったものだろう。見るからに冷却シートの貼り方は雑だ。
    「具合はどうだ」
    「まあ、そんなに悪くないですかね」
     彼女の口から出てくるのはまるで他人事のような台詞だ。塚原らしいと言えばらしい。
     彼女の顔を観察する。顔色はそこまでは悪くない。しかし塚原の頬は赤く、熱は完全に下がっていないように思える。
     いつものように塚原は大外の鞄を受け取ろとしたが、慌てて手を引っ込めた。
    「あ、すみません」
    「何故謝る」
    「良くなったとはいえ、近づいたらうつしちゃうかもしれないですし」
    「塚原、僕がどこで働いているのか分かっているのかい」
    「どこって……病院ですよね?」
     自宅よりも病院の方が危険だという発想は塚原にはないらしい。むしろ持ち帰ってしまう可能性があるから、大外は今もマスクをつけたままだ。
    「そうだ。僕は今から手洗いうがいをする。リビングでも寝室でもいいから座って待っていろ」
     はあい、と普段よりも間延びした返事をした塚原はすぐに引っ込んだ。やはり具合が悪いのだろう。足取りがふらふらしている。
     小さな背中を見送って大外は洗面所へと向かった。カバンを床に下ろし、蓋つきのゴミ箱へ外したマスクを捨てる。中身は空っぽで今しがた大外が捨てたマスクだけが入っていた。今日が燃えるごみの日だったからだ。いつもは塚原が出しに行くが、今日は大外がゴミを出した。
     石鹸を泡立たせてしっかりと手を洗う。それからうがい薬を使用してうがいをした。
     備え付けのタオルで手を拭く。湿っておらず、おそらく大外が帰宅する前に塚原が新しいものと交換したのだろう。
     まさかと思いランドリーバスケットを覗く。塚原が今日の朝に着ていたパジャマとタオルが数枚入っているだけで、どうやら今日の洗濯はしていないようだ。
     安堵の息をついた大外はポケットからハンカチを取り出してバスケットへと放り込む。まとめて洗濯するか一瞬だけ迷ったが、明日回すことにした。明日は大外が休みだからだ。病人に家事をさせるわけにはいかない。
     再びカバンを持ってリビングへ戻る。
     大外の言いつけ通り塚原はソファーに座って目を閉じていた。
     塚原は大外が隣に腰かけても瞼を開かない。呼吸の音はいつもよりも短い。
    「塚原」
     呼ぶと薄く目を開いた。いつも以上に半目なのはまだ身体が気怠いからなのだろう。
    「寝ていても良かったのに」
     暗に出迎えなくていい、と告げるも塚原は首を横に振る。首筋にやわらかい髪の毛がぺたりと張り付いた。塚原の髪の毛は大外の髪の毛よりもずっと細い。淡い色合いのせいで日に透けた糸のようだ。
     なんとなく気になった大外はそっと外していく。
     思った通り塚原の皮膚はいつもよりも熱かった。おそらく今もまだ発熱している。滑らかな肌はじっとりと汗ばんでおり、拭いてやろうかと思ったがハンカチはランドリーバスケットに入れてしまった。滴るほどではないが汗がずっとそこにある状態だ。
     舌打ちしたい気持ちを堪えて、体温を確かめるように彼女の首筋に触れた。
     手洗いを終えたばかりの大外の手が冷たくて気持ちいいのか、塚原の目元がやわらいだ。笑っているようにも見える。もしかしたら本当に笑っていたのかもしれない。
     だって、と塚原が呟く。熱っぽい吐息が零れた。
    「大外さん、嬉しそうなので」
     いつもよりもずっとふにゃふにゃした声だった。薄く開いていたはずの目はいつの間にか閉じてしまっている。
     は? と聞き返すと大外の手に自分の手を重ねた塚原が口を開いた。
    「おかえりなさいって言うと笑うので」
    「……僕が?」
    「はい」
     そんな大外さんは可愛いなあ思います。
     
     そう言って塚原は笑った。
     いつもの人を食った笑みでもなく、半笑いでもない。気を許した相手に見せるような力の抜けた笑顔だった。塚原の言葉を反芻する。
     可愛いなあと思います。
     熱が一気に頬へと集中した。指摘されたことに対しての羞恥もあった。だがそれよりも喜びが勝っていた。
     つまりそれは塚原が大外を見ているということだ。大外自身が気づかないことを塚原が気が付いて、会話を通じて教えてくれる。
     
     ──ああ、そうだ。僕はこんな何気ないやり取りをしたかった。
     
     おかえり、と自分を見て言ってくれる誰かを、ずっと昔から望んでいた。
     大外さん? と塚原が呼ぶ。
     瞼をひらこうとする彼女の目元を手のひらで覆った後、大外はおそるおそる抱きしめた。
     力を入れれば簡単に折れそうなくらいどこもかしも細い身体だ。うつっちゃいますよ、と言うわりに塚原は抱擁を嫌がっていない。
    「……ただいま」
    「おかえりなさい」
     二度目の挨拶だったが塚原は返してくれた。
     一緒に住み始めてから今日まで「ただいま」というと必ず「おかりなさい」が返ってくる。
     そんな当たり前のことが事実になって、大外の心臓はムズムズした。
     だけど大外の中から抑圧した何かは飛び出してこない。その代わり胸付近にじんわりとあついものを感じる。その熱は大外を傷つけない。
     落ち着かせるため息をついた。塚原の肩が小さく跳ねる。残念ながら大外の心臓は落ち着きそうにない。
    「ごめん」
    「ん? どうしたんですか」
     大外の腕の中で塚原がもぞもぞと動いた。目を開けるのも億劫そうなのに大外の顔を見ようと一生懸命もがいている。だけど顔を見られたくないから大外はぎゅっと力を込めた。
     塚原は細いがやわな女ではない。力を入れても壊れない、だから大丈夫だ。
    「今日は君を抱いて眠りたい」
    「っ、……それはつまり、するってことですか」
     多分今日の私完全なマグロです、と申し訳そうな塚原の言葉に大外は笑ってしまった。
     塚原は大外の性欲が強いことを知っているため、こういった勘違いをしてしまうのだろう。
    「それは君が治ってからにするよ。ただ抱きしめたい」
     返答はなかった。そのかわり塚原の手が大外の背中に回されて、ぎこちなく触れる。そして、こくんと頷いたのだろう。糸のような細い髪の毛が上下に揺れて、またもや数本が首筋に張り付いた。
     大外さんのせいで熱が上がりそうです、と小さな呟きが聞こえるまで後少し。
     慌てた大外が塚原を抱きかかえて寝室へと駆けるまで後もう少し先。

    ブックオフコラボの
    「大外さんが眼鏡をかけるとラノベの主人公みたいですね」
    「それは褒め言葉か?」
     眼鏡をかけた大外なんて初めて見たものだから、つい思ったことを塚原は口に出した。
    「そういう君は……いつもよりも頭が良さそうに見えるな」
    「それ褒めてないですよね」
     軽口の応酬はもう慣れたものだ。
     普段よりも遅い時間に起床して、溜まっている洗濯物を干した後ふたりで出かけることとなった。
     知り合いに声をかけられたくないという理由から大外はラフな服装で、せっかくなので塚原も彼に合わせた服を選んだ。
    「あっ」
    「どうしたんだ?」
     先に靴を履いた大外とまだ靴を履いてない塚原の目線は同じ位置にある。
     振り返った大外の手を掴んでぐっと顔を寄せた。レンズ越しの視線が絡み合い、大外の目が大きく開く。
     かつん、と分厚いガラス同士が先にぶつかって唇同士が触れ合ったのはその後だった。接触は一秒にも満たないほんの一瞬のみ。かたく閉じた唇を舌先で舐められ、塚原は慌てて後ろに引いた。
    「今のは?」
     舌を入れようとした男が問うこと自体可笑しい。
    「眼鏡同士の人がチューするとどうなるのかと思いまして」
     大外とキスしたかったと思われたくなかった塚原は単なる好奇心です、と言葉を付け加えた。
    「それで感想は?」
    「しずらいですね」
    「キスする角度の問題だろうな」
     行くぞ、と今度は大外が手を差し出す。
     ごく自然にその手を取って靴を履いた。


     外に出るといくつもの赤い糸が張り巡らされていた。初めて見た時はただただ驚いたものだが、見慣れた今はまるで毛細血管のようだなあ、などと思う。
     血管を彷彿させる赤い糸は手を繋ぐ男女の小指同士に巻き付いていたり、ひとりで歩く男性の小指に絡みついてどこかに繋がっている。あるいはぷつりと切れた糸をぶら下げて歩いている人も時々見かける。
     小指と小指を結ぶ赤い糸はいわゆる運命の相手を指し示しているのだろう。
     近くに相手がいれば糸はぴんと張り詰めている。逆に相手がその場にいなければたるみ、あるいはちぎれてけばった糸がぷらぷらと揺れる場合もある。また糸には濃い赤色のものから薄く朱色がかったものまであり、親密な関係であればあるほど濃い赤色。ここ最近で気が付いた。
    「……塚原。塚原」
    「なんですか」
    「獲物を追う猫みたいな目をしてるぞ」
    「おおっと」
     視線を大外へと向けると彼は塚原を見て目を眇めた。やがて視線は手へと落ちる。
     レンズで隔てているせいか、大外の目が冷ややかなものに見えてしまう。
    「しかし顔よりも手ばかり見ていたな」
     洞察力の高さに塚原は嘆息をついた。
     大外の言う通りだったからだ。
     塚原はレンズやガラス、鏡を通すことで運命の赤い糸を見ることができる。しかし糸に触れることはできず、ただ見えるだけだ。
     しかも昔から見えていたのではない。時を戻して大外の共犯者になることを選んだ後、運命の赤い糸が見えるようになってしまった。
    (ターゲット選びには使えるけど)
     親密な相手が近くにいる相手を狙うのは得策ではない。リスクを避けるために塚原はこの力を利用していた。
    「そうですか?」
    「ああ」
     黄昏ホテルに関する話はすべて大外に話してあるが、この力については伝えていない。伝えるつもりもない。聞いたところで馬鹿にするだろうし、運命の相手なんてワードを口にしてしまった瞬間大外は阿鳥の名前を上げるはずだ。
     それだけは避けたい。
    (まあでも糸の動きとか繋がりってついつい見ちゃうんだよな……)
     黄昏ホテルで起きた数々の出来事から大外が優秀であることを知っている。言い訳を口にすれば逆に怪しまれてしまうだろう。
    「……大外さんと手を繋ぐ方法を考えていました」
    「普通に繋げばいいだろ」
    「知り合いに見られたら困るなあと」
     大外と塚原は恋人関係ではない。
     共犯者でお友達だ。
     そして塚原にとっては現世においても彼が運命の相手だ。
     こっそりと大外の手を見た。彼の小指に巻き付いた糸は塚原の小指に巻き付いた糸と繋がっている。
     元々は白い糸だった。塚原が仕事を手伝い始めた辺りから糸は殺した相手の血で染まった。
     他の人とは全く違う。大外と塚原を繋ぐ糸は手繰り寄せれば相手の指を引きちぎろうとするほどに強固で、だからこそ切れない。地獄に落ちるときはともに落ちるのだろうと思う。
    「困るのか」
    「え? 大外さんが困るんですよね?」
     現在進行形で五股をしている男だ。勿論それを知っているのも塚原だけ。
     それでも大外とは恋人同士ではない。大外聖生を理解している人間というだけだ。
    「僕は困らない」
     するりと小指同士が絡む。指切りのようで、しかし一度絡むと外れはしない。
     驚いて大外を見上げると珍しくやわらかな笑みを浮かべていた。

    ***

     塚原音子の小指には鎖が巻き付いている。
     錆びたそれは大外の左の小指と繋がっており、互いの赤色の細い糸を覆い隠している。
     小指同士を繋いだ後塚原はそっぽを向いてしまった。顔を覗き込まない限りどんな表情を浮かべているのかわからない。
     うなじがうっすらと色づいているところから見て、おそらく照れているのだろうと大外は思った。
     街を歩く人々の小指には赤色の糸が巻き付いてはぶらさがっている。それは老若男女関係なくどの人間にもあるべきものだ。
     大外の両親も互いに糸で繋がっていた。彼らの仲の良さは示しているように糸は太く、鮮やかな赤色だった。
     大外の五人の彼女たちの小指に巻き付いた糸は、大外以外の人間と繋がっていた。その事実は大外を落胆させなかった。
     所詮はステータスで選んだ恋人たちだ。他の男のところへ行かないよう適度に機嫌を取っていたものの、彼女たちに大外は執着や嫉妬をいっさい覚えたことはなかった。
     たったひとりを除いて。
    「塚原、君は運命の人を信じるかい」
     勢いよくこちらを向いた塚原は探るような目で大外を見た。警戒心を剥き出しにした野良猫のようだ。
    「……信じます」
    「そう。僕もね最近信じるようになったよ」
    (この奇妙な赤い糸が見えるようになってからだが)
     普段は見えないが眼鏡をかけることで赤い糸が見える。
     糸が見え始めた頃は多忙とストレスによってとうとう自分の頭がおかしくなったのかと思った。
     しかも大外の小指には赤い糸と錆びた鎖が巻き付いている。糸が誰と繋がっているのかはわからない。鎖の方は塚原と繋がっていたので大外は考えることを止めた。
    「もしかして大外さん、最近そういう人に出逢ったんですか」
     ぎゅっと繋いだ小指に力が入った。
     じっと見つめてくる塚原の目には嫉妬のような色は見えない。その代わりどことなく焦りのようなものを感じる。
    「そうだな……出逢っていたことに気が付いたと言うべきか」
    「そう、ですか」
     塚原の目が細くなる。繋いだ指へと視線を下ろして、また再び大外の顔へと戻した。
     空いていた塚原の片手が上着のポケットに隠れる。何かをいじっている動きをしている。
    「運命の相手について聞いてもいいですか」
    「ごめんこうむる」
     塚原にも赤色の糸が見えているのだろう。眼鏡をかけている時だけ彼女は他人の指を凝視している。
     しかし彼女の行動から推測するに、おそらく大外とは違うものが見えているのだと気づいた。塚原には見えていないのだ。自身の指に何が巻き付き、誰と繋がっているのか、が。
     塚原の小指には巻き付いた赤い糸は自分ではない、別の誰かと繋がっているのだろう。だから彼女は時々眼鏡をかけて外に出て、自分の運命の相手を探している。
     大外以外の誰かを。
    (塚原の方からお友達になろうと言ったくせに)
     大外は苛立ちを覚えた。
     これは嫉妬だ。
     両親に愛される阿鳥へ抱いたものよりもずっと強くて、許せない。
    「塚原、君の運命の人は?」
    「は……? 何を」
     小指以外の指もすべて絡めて恋人繋ぎへと変える。
     子どものような塚原の手は強く力を入れれば折れてしまいそうなほど細い。
     すぐ近くに見えていたビル間の細い路地へと引きずって、抵抗する素振りを見せた塚原の唇を塞いだ。
    「ん、んんんっ!」
     驚いた拍子に開いた口腔へ舌を差し込んだ。レンズ同士がぶつかり、かたい音が吐息に重なる。縋るように繋いだ塚原の指に力が入った。
     舌同士を絡ませて、細い身体が地面へと崩れ落ちないように腰を抱く。鎖が擦れて冷ややかな音を立て、反対に大外の身体は熱を帯びた。
    「っは……いきなり何を」
    「眼鏡をかけた状態でのキスに興味を示していただろ?」
    「そうですけど、そうじゃなくてですね」
     珍しく顔を赤くさせた塚原の小指へ口づける。唸り声を聞きながら大外は鎖の隙間から出ているほつれかけた塚原の糸を歯で噛みちぎった。
     塚原が痛みを訴える。ぷつんとあっけなくそれは切れて、誰かに繋がっていた糸だけが地面に垂れた。
     錆びた鎖は大外と塚原の間を結んでいる。
     ようやく大外は安堵を覚えた。
    「何で人の指を噛むんですかっ」
    「好奇心は猫を殺すと言うだろう」
    「理由になってない……」
     大外の糸も、塚原の糸も、互いに繋がっていない。しかし細い一本の糸よりもずっと強固だ。
     もしも塚原の手によって地獄へ落とされるのであれば、繋がっている彼女も落ちるはずだ。片一方だけが助かることはできないだろう。
     進んで地獄に落ちたいとは思わないが、塚原が一緒ならそれもいいかもしれないと最近の大外は思う。
     明日にはこんな女と地獄行はごめんだと思うかもしれないが。
    「さっさと買い物を終わらせて家に帰るぞ」
    「さっきまで殺気立ってたくせに……まあ、いいですけど」
     夕焼けに人々の同色である赤色の糸が沈む。
     しかし大外と塚原を繋ぐ錆びた銀色の鎖だけは血の色を反射させながらもその身を主張していた。

    緑色の首輪はない

    「ごめん、ねこを飼っているんだ」
     誘われた相手に対し一部の隙もない申し訳そうな表情を向け、大外聖生の唇はそんな言葉を発した。


     カードキーを端末へとタッチするだけ。たったそれだけの動作で部屋の鍵は開く。玄関に足を一歩踏み入れると人感センサーによって明かりが点いた。
     扉を開けるとすぐにパタパタと騒々しい(と大外は思っている)足音を立てて姿を現すそれは大外が靴を脱ぎ終えても、上がって靴を揃えてもやってこなかった。
    「塚原?」
     たとえ火を使っていても、好きなアイドルのライブ映像を観ていても、大外が帰宅すればすぐに彼女は出迎えてくれる。
    「おかえりなさい」と言い、それに対して大外は「ただいま」と返す。
     疲れ果てて陰鬱な大外へ優しい微笑みを浮かべるのではなく、死んだ目で、けれども「お疲れ様です」と労いの言葉をかけてくれる彼女に救われた日もあった。
     音子、と言い慣れていない名前を口にした。しかしそれでも姿を現さない彼女に大外の心臓は早鐘を打つ。
     疲労した脳は嫌な想像を立てる。
     
     いなくなったのか?
     
     君は──とうとう僕の前から消えてしまったのか。

     いつものように手洗いうがいをするつもりだった。しかし洗面所へと向かうはずの大外の足はリビングへと進路を変えた。
     焦る気持ちで廊下を進み、リビングへと続く扉を開く。
     開けたら閉める、なんて当たり前のこともできない。扉閉めてくださいよ、と口うるさい同居人の声を求めている大外はリビングを通り過ぎようとしたところで気が付いた。
    「……なんだ」
     探していた相手はソファーの上で眠っていた。憎たらしい表情を浮かべる琥珀色の瞳は閉じられている。
     深く息をついた。嫌な音を立てていた大外の心臓はその呼吸を境にゆっくりと静まろうと努力する。
     
     灯りは最初からついていた。
     
     考えなくともすぐにわかることだったのに。
     
     薄い腹の上で手を組み静かな寝息を立てる塚原のそばで大外はしゃがみこんだ。そのまま腹よりはやわらかい胸に顔を埋める。膨らんでは、萎んで。薄っぺらい胸はポンプのように規則正しい収縮を繰り返し、生を大外に教える。
    「……生きてる」
     普段ならその慎ましさにため息をつくところだが、大外がついたのは安堵の息だった。
     肌触りのいい麻のワンピースから伝わる塚原の体温と心臓の鼓動。吸い込むと風呂上がりの清潔な匂いがした。
     
     
     すでに言い訳ではなくなっている。
     

     
    「ねこの写真? ああ、撮ろうとするとすぐに逃げてしまうんだ」
     見たい、と甘ったるい声を出す化粧の濃い看護師に大外は苦笑しながらそう言った。
     半分は嘘で半分は真実だ。
     彼女は写真を撮ることが好きだ。けれども大外は彼女を映すことが苦手だった。


     んん、と鼻から抜けるような声が聞こえてきた。
     起きるのだろうか、と左胸に耳をつけたまま大外は塚原の顔を見上げる。
     先ほどまでは死人のような寝顔だった。しかし今は小さな唇をうすくひらき舌を覗かせている。SNSでたまに見かける飼い猫たちのようだ。
     しかし塚原は大外に大人しく飼われるタマではない。
    「まるで猫だな……」
     字は違うがその名の通り猫のような女だった。物申したい時ほど大外の心の中を覗こうとするようにじいっと見つめてくる。こちらが近づけば感づいたようにさっと距離を取る。なのに大外が傷ついた時は臆せず踏み込んで体温を分け与えようとする。
     共犯者で友だちであった彼女との距離感をを間違えてしまったのだろう。
     いつしか大外は熱すぎず冷たすぎない、ぬるま湯の温度を心地良いと思うようになった。
    「……塚原?」
     胸の下で組んでいた手は外れ、何かを探すように動く。指先が大外の髪に触れた瞬間包み込むように後頭部を掴まえた。上から下へ、流れるように頭を撫でていく。
     短く切りそろえられた爪は頭皮を引っ掻くこともなく、朝つけたワックスを取るように髪を梳いた。手慣れたような手つきだった。
     起きているのか、と目を凝らして塚原の顔を眺めるも一向に瞼は開かない。
     まあ、いいかと思った大外は彼女の好きなようにさせた。髪を撫でる手つきがだんだんと子どもに対する撫で方に変わってきているような気がする。性格が出ているのか、とても乱雑だった。
     けれど不思議と不快にならない。
     ひらいていた口が次第にもぐもぐと動き始める。大外の頭を撫でながら唇は弧を描く。
    「いったいどんな夢を見ているんだ……」
     親よりも、以前いた五人の彼女たちよりも、きっとこの女が一番大外の髪に触れているだろう。
     覚醒しきらない朝の時間。帰宅した大外の顔色を見て瞬時に浴室へと連れ込む時。共にベッドを過ごす夜の時間。
     よく頑張りましたね、と労りを込めて大外の髪を撫でる手がいつの間にか大切なものになっていた。
     優秀でなくとも、特別ではなくても、自然に与えられる愛情のような触れ合いは大外がずっと欲しかったものだった。
     思考する大外の耳にふふっと軽やかな笑い声が聞こえた。
     依然として彼女の瞼は閉じている。しかし塚原の顔は微笑んでいた。
     にやついた笑みとは全く違う。無垢な笑みを目にした途端頭ではなく先に身体が動いた。スラックスのポケットからスマートフォンを取り出す。
     間抜けな恰好だという自覚はあったがそのままカメラを起動して塚原へと向ける。
     撮るのは得意だ。画面の枠内に塚原をおさめてシャッターを切るだけ。しかし大外の指が白い丸を押す前に映っていた塚原の瞼がひらいた。
     迷うことなく琥珀色の瞳は大外を捉え、おそらくピントが合わさったのだろう。見つけた塚原はふにゃりと笑った。
    「おおそとさん、おかえりなさい」
     それから今日もお疲れ様です。
     空いた手が戸惑う大外を繋ぎ止めるように重なり、やがて指同士が繋がる。細くてやわらかい女性の手は目覚めたばかりなのに力強くて。
     スマートフォンは手の中から滑り落ちる。塚原が、ではなく大外の意思だった。
    「ああ……ただいま」
     結局大外はシャッターを切ることはできなかった。
     
     
     
    「うちのは首輪を嫌がるんだ。気が付いたら外されている」
     例えば仕事の帰り道、いきつけのカフェに入る前の時間。ガラス越しの美しいアクセサリーに塚原が目を輝かせている姿を何度か目撃したことがあった。
     欲しい物でもあったのかい? と遠まわしに買い与えようとすると塚原は必ず首を横に振った。
     
    『見てるだけでいいんです。今は身に着けたい気持ちはありませんし、欲しくなったら自分で買いますよ』
     
     塚原音子は飼われてくれないから。彼女なりのプライドか、はたまた大外が平然と浮気ができる男だと知っているからか、男の所有欲を示すアクセサリーを受け取らない。

     
    「思ったよりも早い帰宅で良かったです」
    「三日だぞ……三日ぶりの帰宅だ」
     呻く大外に塚原は面白そうに笑う。
     君は寂しくなかったのか。なんて重たい彼女のような言葉は飲み込んだ。
     かつていた五人の彼女にもそんな言葉は一度も口にしたことがない。
    「明日はお休みですか?」
     帰宅する数時間前に大外からメッセージを送っている。「今日は帰る」と「明日は休みだ」という簡潔な内容のものだ。
     送った後すぐに既読の文字がついて、「お疲れ様です」と面妖な目玉の生き物のスタンプが送られてきた。だから塚原のこの質問には『明日は休みのままで間違いないですか』の意味が込められている。
     研修医の時に比べれば労働環境は断然マシになったものの、医師はいつでも忙しい。担当患者が急変を起こせば即座に呼び戻され、過酷な環境も相まって慢性的な人手不足だ。
     同居人である塚原にもその火の粉はふりかかり、大外のスケジュールに合わせて彼女も動く。忙しい大外に変わって家事をこなし、病院泊まりが続く時は着替えを持ってきてくれる。一週間分の洗濯物にも文句を口にせず、ただただ「本当にお医者さんって大変ですね……」と遠い目で呟いた。
    「ああ、休みだ」
    「それならゆっくりと過ごせますね」
     今からお風呂用意しますね、と身体を起こそうとする塚原に大外は首を横に振った。
    「まだいい」
    「まだって……お湯に浸かって疲れを取りましょうよ」
    「今入ったら溺死する」
    「大外さんが? それは笑えますね」
    「僕はひとつも笑えない」
     ──僕が溺死する原因を作ったのは君だよ。
     塚原が出迎えなかったせいで、大外の心臓のペースは乱れた。
     眠っていたからという比較的平和的な答えではあったが、たった一瞬の焦燥は恐怖へと移り変わり、大外にもしもの可能性を考えさせた。
     責任を取ってくれ。
     掠れた声に塚原は「何の責任ですか?」と首を傾げる。
     問いかけに答えず、大外は強く胸へ耳を押し付けた。
     塚原の心臓は一定のリズムで動いている。大外の心臓の鼓動は多分彼女のものよりも速い。
     細い首をじっと見つめながら大外は空想した。
     もしも彼女が猫だったら、ゲージに閉じ込めて最後には彼女の死に姿を見送ることができる。
     こうやってしょうもないことで不安を抱くこともないのに。
     塚原の首には何もついてない。首輪も、ネックレスも。そもそも大外の前で彼女はアクセサリーのひとつも身に着けたことがなかった。
    「あと十分だけですよ。その後はお風呂に入ってください」

     結局のところ大外聖生は塚原音子に緑色の首輪をつけることができない。


    「嫌がらない方だろうけど、僕が洗おうとすると嫌みたいだね」
     えーかわいい、と頬を染めて話す女は大外の飼っているねこに対して興味ひとつ抱いていない。
     ピンク色のアイシャドウに、マスカラを塗って濡れたような色のまつ毛で縁取られた目の奥。ぎらぎらと獲物を狩る前の獲物の色をしていた。
     熱い視線を軽く流しながら思うのは、化粧っ気のないとある女のことだ。
     普段は死んだ目で大外や周りを見つめているというのに時折見せる意思の強い眼差しで、優秀な外科医の息子であるべきはずの大外を、ただの大外聖生として認めてくれた。
     友だちで、共犯者で、よき理解者で、少女だった彼女はいつの間にか女になった。

     
    「かゆいところないですか」
    「ない」
    「というか本当に良かったんですか」
     大外の髪を豪快に洗いそうに見える塚原だが意外にも丁寧な手つきだ。指の腹で頭皮をマッサージするように撫でて泡のついた髪の毛を梳く。そのたびに女性が好みそうな花の甘い香りが大外の鼻孔をくすぐった。
    「めっちゃいい匂いしますよ」
    「知っている」
     風呂上がりの塚原から香る秋の花を大外は存外気に入っている。
     その香りを初めて嗅いだ時、彼女らしくないと思った。奇抜な恰好を好む塚原に似合うのはチョコレートのような甘いお菓子の香りで、花といったフローラルで女性らしいものは似合わないし、好まないだろうとも思っていたのだ。
     だが今では慣れたというべきか。その匂いを嗅ぐたびに塚原だ、と思うようになった。
    「大外さんからチームAutumnの匂いがするのは解釈違いなんですけど」
    「うるさい」
     医者の大外聖生なら絶対に選ばないシャンプーだ。そもそもイメージにそぐわない。
    「こんなイケメンなのに花の匂いがするなんて、って驚かれますよ」
    「明日は家から一歩も出ないから問題ない」
    「うわー……堂々と引きこもり宣言かあ」
     ふたりでもゆったりと入れる浴室にはそれぞれが使用する洗剤を置いてある。共有するものと言えば身体を洗うボディソープくらいだ。
     キュッと水栓が開く音に続いて、流しますよ、と塚原の声が響いた。
     顔にかからないように額へと手を添えられる。少し痛いくらいの水圧で泡が流れ落ちて、香りもまた薄くなっていく。
     完全に泡が落ちたところで塚原の手からシャワーを奪った。邪魔な前髪を後ろへと流した後大外は振り返った。
    「交代だ」
    「え、私本日お風呂二回目なんですけど」
    「いいから座れ」
     あからさまに嫌そうな顔を浮かべる塚原を強引に座らせて頭からシャワーを浴びさせる。
    「うわっ! もうちょっと気づかいとかないんですか」
    「そんな余裕は今の僕にない」
    「そんな状態で人の髪を洗わないでください」
     ぎゃーと叫ぶ塚原に色気がないなと大外は笑う。まるで飼い主に無理矢理現れている猫のようだ。しかし暴れることはなく、にゃーにゃ―と鳴くこともない。
     何だかんだ言いつつも塚原は大外のやりたいように身を任せてくれる。甘やかされている、と感じるのはきっと自惚れなどではないのだろう。
     細い肩にぺたりと張り付く塚原の髪を大外は丁寧に洗う。二十歳を超えたあたりで彼女の髪型はボブから背中を覆う長さになった。
     
    『そういえば、大外さんはロングヘアが好みでしたもんね』
     三年前くらいだろうか。犯す女性のリストを眺めながら塚原はそんなことをぽつりと呟いたことがあった。
     リスト内の女性はロングヘアばかりではない。ショートカットもいれば、肩につくぐらいの長さもいた。
     大外は訝しげな表情を浮かべる。
    『何故僕の好みを知っているんだ』
    『大外さんが言ってたんですよ』
    『僕が?』
    『黄昏ホテルだったかな……明らかに私を煽っていたので心の中でコノヤローって思ってました』
     存在しなかった未来の話を語るときほど塚原は表情をやわらげる。懐かしむというよりもどことなく郷愁を感じさせる。
     あの世とこの世の狭間にあるホテルの話を大外はおよそ信じていない。しかしオカルト話は嫌いではないため塚原の話を聞いている。
     そんなことも話していたのか。妙な居心地の悪さを感じた大外はぽつりと呟いた。
    『寸胴の時点で対象外なんだが』
    『私、大外さんのために伸ばしているわけじゃないんですけど』
     
     うっとうしい、とたまにぼやく塚原は髪を短くしない。
     ──今は自惚れてもいいのだろうか。
     長い髪を梳く。
     短い爪先で肩甲骨に触れた瞬間、肩を跳ね上げちいさな吐息を洩らす。じわじわと赤らむ頬に気が付いた大外はくすりと笑った。
    「敏感だな」
    「悪戯するなら、っあ……大外さんっ」
     濡れた指先で胸の尖りを弾けば塚原はさらに甘やかな声を響かせる。だめだと言うように大外の手首を掴んで、けれども力は入っていない。弱々しく手の甲をひっかくような仕草は「仕方ない人ですね」と言っているようだ。
     顎に手をかけ顔を寄せれば長い睫毛は震える。瞼が下りたと同時に水滴はゆっくりと頬へと流れた。
     

    「迎えたばかりのねこの警戒心をとく方法? それは僕も知りたいね」
     塚原は木の小箱を肌身離さず持ち歩いている。
     出会った頃の奇抜な服装も変わり、目玉のキャラクターのポシェットに入れていた小箱は落ち着いたカバンへ移された。
     一緒に暮らすようになり、同じベッドで眠っても、肌を重ねた後も彼女はそれを手放さない。
     大外が枕の下にナイフを忍ばせているように、小箱を守るように塚原は小さな手のひらの中に収めていた。

     
    「ん、んんっ」
     ドライヤーで乾かしヘアオイルをつけた髪はシーツの上に散らばった。舌で口の中に触れながら、大外の鼻孔はあまい香りにくすぐられる。
     湿った自分の毛先からも同じ匂いがした。そのことに興奮と、それよりも小さな幸福を感じた。
     時間をかけてとかしたそこはとろりと濡れている。ゆっくりと挿入しながら大外はあやすように塚原の頬へ唇を落とした。
    「……平気?」
    「は、い」
     塚原はふうふうと息をする。絡みつくなかに今すぐ動きたくなるのを我慢して、たわんだ背中に手を差し込み大外は細い身体を抱き上げた。
    「あ、んっ」
     胸同士をぴたりと合わせる。平たい大外の胸と慎ましくもやわらかな塚原の胸。過去にいた彼女たちのように大外を包み込むことはできないが、重ね合うことで大外の心を落ち着かせる。
     しばらくの間そのままでいた。
    「は……もう動いて、いいですよ」
    「いや、もう少しこのままで」
     せわしなかった塚原の心臓の鼓動も呼吸とともに穏やかになる。
    「大外さん」
    「何だ」
    「もしかして、寂しいですか」
     どくん、と跳ね上がる。勿論大外の心臓が、だ。
    「……どうしてそう思った?」
    「なんとなく、なんですけど」
     普段は大事そうに小箱を握りしめている小さな女性の手が男の手に触れた。火照りを帯びて汗ばんでいるのにするりと指は入り込み、やがてぎゅっと繋がる。
    「お帰りなさい、って言った時に大外さんの表情がゆるんだのと、私はお風呂入っていると言ったのに無理矢理引きずり込んだことですね」
    「風呂の件については、君も承諾しただろ」
    「いや、してませんけど」
     ぼんやりとしていた塚原の目が半目になりむっと唇を閉じる。大外は続きを求めるように濡れた唇を啄んで「答えてくれ、探偵さん」と呟いた。
     ほんの一瞬だけ驚きを浮かべた塚原が口を開く。
    「私が使っているシャンプーで髪を洗って欲しいって言ったでしょう。今まで一度たりとも言ったことないのに」
    「気分転換かもしれない」
    「まあこれについては明日がお休みで、お家に引きこもるからかなあとも思いましたが」
     悪戯気に頬を撫でる指を掴まえた。塚原は抵抗しない。
    「それに私たちが出会って四年は経ったじゃないですか」
    「そうだな」
    「いつも見ているんだから、さすがに大外さんの考えていることがわかるようになりましたよ」
    「……そうか。そうなのか」
     それは何気ない言葉だったのだろう。塚原の声はいつも通りで、だから余計に大外の声がかすれてしまった。
     うなじに顔を寄せる。きつくない甘い花の香りを嗅ぎながら薄い皮膚を舌で濡らしてそのまま強く吸った。残すために、刻み付けるために。
     ──今僕の心臓が激しく動いていることが、君にわかってしまうんだろうな。
     でもわかってもいいよ。僕の心が誰に大きく動かされているのか、君には知っていてほしい。
    「っあ」
    「僕からも君と同じ匂いがすると思うと違和感がすごいな」
    「違和感ありまくりですよ」
     でもたまにならそれもいいかもしれませんね。
     襟足に鼻先を突っ込まれる。くすぐったさに思わず声が出ると、塚原が奇妙な笑いを立てた。
    「うはは、大外さんがフローラル」
    「それは君もだろ」
    「私はいつも通りなんですよ、っと」
     うなじに何か刺さる感触がする。そこまで痛いとは思わない。
     むしろ嬉しかった。
    「……こら、噛むな。吸うんだ……っ、下手くそ」
    「む、こちとら五股していた大外さんと違って経験値が低いので」
     もうすでに過去の話だろうと大外は思う。しかし未だに塚原はこの話題を引っ張ってくる。
     嫉妬からであれば良かったが、そうでないことはすぐにわかってしまう。
     上手く痕がつかないからか、何度も大外の首筋を甘噛みする。しがみついた背中に短い爪を立てながら。
     じゃれつく猫のようで、笑いを堪えながら大外は冷静に突っ込んだ。
    「君は猫か」
    「音子ですが」
     言葉で遊び、大外は唇をゆるめた。うなじから離れて耳朶を舌で突く。びくりと跳ねた細い身体をしっかりと抱いて囁いた。
    「そうだな。“音子”だ」
    「──ッ、あ、やっ……まっ、て」
    「動かすぞ」
     腰を揺らすと一際縋る手の力が強まる。いつも小箱を握りしめている右手に隙間などないようにきつく握って、大外はあまい声で鳴く塚原へと口づけた。




     まったく持ってその気がない女性に誘われたから断りも兼ねて大外はねこの話をした。
     しかし動物を飼っていることがプラスに転じたのか誘いは激しくなった。
     それでも大外はねこの話を続けた。途中でこれは惚気なのか、と冷静になりつつもよく聞かされる同僚の嫁自慢のようにねこの──塚原音子の話をした。
     いっさいの好意もない相手に毎回のように誘われることへの苛立ちもあった。ストレスを与えられる代わりに、敢えて惚気話をしていたのだと今ならわかる。
     おそらく何かを感じ取ったのだろう。最初はうんうんと聞いていた女性は大外を誘わなくなっていった。
     ストレスはひとつ消えたが、ある問題が起こった。
     
     大外聖生は愛猫家だという噂が病院中に流れてしまった。


    「……猫を飼う」
    「いいんじゃないですか」
     新品の猫グッズをいじりながら塚原は笑う。
     貰った、と大量の餌や猫のおもちゃを疲れた顔の大外が持って帰ってきた瞬間、大爆笑した女だ。
     これ、もしかして私に使うんですか? と涙を拭きながら悪戯ぽく笑った塚原をその晩大外はめちゃくちゃに抱いた。
    「私も寂しいと思ってたんです」
    「僕がいるのにか」
    「あなたほとんどいないでしょう」
     不満を表したように手に持ったおもちゃのねこじゃらしが揺れた。自分で揺らしているというのに、興味を示す塚原に大外はカメラを向ける。
    「盗撮でいいんですか」
    「こっちを見ろ。ついでに笑え」
     細い首には首輪、ではなく緑色の石のネックレス。この前贈ったばかりで、気に入ったのか塚原は毎日身に着けてくれている。
    「本当に不器用なひとですよね、大外さんって」
    「君に言われたくない」
     シャッターを切る寸前、視線が大外の方へと動く。そしてにっこりと笑顔を浮かべた。
     
     初めて撮った塚原の写真は非表示フォルダーに仕舞われる。その写真を一枚だけフォルダーに仕舞った大外は宝物のようだ、と思ったし、悪くないなとも思った。
     

     

     いつかの未来。大外は「僕の妻と猫です」と猫好きの上司に写真を見せる日がやってくる。
     ちりんと鈴の音を鳴らして、黒い子猫を抱いた塚原が疲れた大外を出迎える。
     大外のついた嘘は真実へと変化して、ひそかにあった塚原音子を失うことへの不安はほんの少しだけではあるが減った。


    モテる男、鈍い女

     ああ、なるほど。五股が成立するわけだ、と彼を見ていて納得する瞬間がある。
     例えばそれは五人の彼女の名前を間違えない器用であったり、デートや記念日といったタスク管理。浮気をするならばこれは最低不可欠だ。
     しかし何より大外の高いステータスがあって、五股という複数の相手との恋愛が成り立つものではないかと塚原は思う。
     さらに彼のステータスを掘り下げるならば、落ち着いた色合いで清潔感を感じさせるストレートの髪は好印象を与えるだろう。
     そして母親譲りの中性的な顔立ちにすらっとした立ち姿。
     おそらく彼が女性に生まれていたら、美女であっただろうと想定するのは難しくない。
     聡明な色をした瞳の裏側には、残酷で軽薄な一面を隠している。
     穏やかな顔は数多くの友人や五人の彼女への顔。残酷で軽薄な顔はストレス解消で殺される男や女へ、さらに情欲を継ぎ足した時は犯す美女へと向けられている。欲を満たす男の顔を塚原は無機質なカメラのレンズを通しているので、よく知っていた。

     彼は聞き上手だ。理解して、相手の欲しい言葉を与える。残念ながら塚原はそういう対象ではないため、八割以上適当な相槌で流される。しかし意外と自分の話を聞いてくれていたんだな、と驚かされることが度々あり、塚原は彼のことを優秀な人間だなと思う。

    「大外さんは五人のうちの誰かと結婚した後も四股を続けますか?」
    「何だ、藪から棒に」
    「大外さんって結婚適齢期じゃないですか。医者になってそろそろ三年経ちますし」
     車道側を歩く大外に塚原は訊ねた。
     塚原の左手は先ほど立ち寄ったスーパーの袋で塞がっている。中身は朝食で使う食パンやインスタントのスープといった軽いものばかりだ。
     大外の右手は塚原と同じように食料品が入ったスーパーの袋。ただし中身は調味料や野菜、肉といったかなり重たいものがみっちりと詰まっている。塚原が会計をしている間に荷物を詰めたのは大外で、先に出たのも大外。
     塚原は平均と比べると小柄な女性に分類されるが、重たいものが持てないわけではない。ステージの設営などの肉体労働も経験しているし、非力でもない。
     先に出た大外を追いかけて、荷物持ちます、と声をかけたのは塚原。わかった、と頷いて軽い袋を差し出したのは大外だ。そして当たり前のように車道側を歩くものだから、塚原は五股が成立するわけだと改めて感心した。
    「仮に僕が君以外の女性と結婚した場合、君はどうするんだ」
    「どうもこうもひとり暮らししますよ」
    「できるのか?」
    「大外さんも同じ条件じゃないですか」
     塚原が大外と同居を始めたのは五年前。大外の『仕事』を手伝うためと、彼のストレスを減らすためだ。
     家族以外、他人と暮らすのはお互いが初めてで、お互いひとり暮らしの経験はない。
    「できますよ。家事の負担がひとり分減るだけです」
    「食事が粗末になりそうだ」
    「金銭面な問題なのでそれは仕方ないです」
    「いや、塚原ひとりだと手を抜くだろ」
     よくわかっているな、と塚原は密かに感嘆した。
     労基も真っ青なほどの労働環境の大外はへろへろの状態で帰宅する。突如休みが返上されることもあるし、彼の帰宅を待っていたら突然電話がかかってくることもある。そういう時は大抵「着替えを持ってきてくれ」で、塚原はアイロンをかけたシャツや下着やゼリーやら栄養補助食品を詰めて彼の病院へと向かうのだ。
     忙しい人が同居相手なので、食に手を抜くことができない。大外が数日家を空けると分かっている時は、もっぱらお湯を注いで三分の即席ラーメンが塚原の食事だ。言い換えれば大外の存在によって、塚原の生活クオリティは高水準を保っている。
    「意外とちゃんとするかもしれませんよ」
    「無理だろうな」
     大外の歩く速度はいつもよりも遅い。自分に合わせてくれている、ということを塚原はとっくの前から気づいていた。
    「それで大外さん、結婚の話なんですが」
    「両親じゃなくて君に急かされるとはね」
    「急かしてないです。ただの純粋な興味です」
     今も大外が五股を続けているのかは定かではない。
     学生の頃と比べて忙しく、デートをする時間はないように思える。
     今日は十日ぶりの休日というのに、何故か塚原と一緒に近所のスーパーで買い物をした。さすがに塚原も心配になってくる。
     大外は好き好んで恋愛をする男ではない。
     ひとりでもいいから、この寂しいひとを繋いでくれる存在がいてくれるなら。
     友人の塚原はそう願う。
    「不倫を推奨するわけではないですけど、止めることもしませんよ」
    「塚原」
     個人の自由なので。そう続けるつもりが真剣な大外の声を耳にしたことで塚原は口を閉じた。
     大外が足を止めた。隣を歩いていた塚原の足も止まる。
    「君は自分のことになると鈍くなるな」
     空いていた手が大外に手によって拘束される。それはいわゆる恋人繋ぎという、指同士が絡み合うもので振りほどくことが難しい。
     端正な大外の顔がゆっくりと近づいてくる。
     だから塚原は。
     いつものように瞼を下ろした。

     多分それが答えだったのだろう。
     
    「本当は分かっているんだろ?」
     唇に触れた熱が、焦がれたような声色が、塚原の胸をざわつかせる。
     はあ、と洩れた吐息は湿っている唇をくすぐった。
     もう言い訳すらもさせてもらえない。
     覚悟を決めた塚原は繋いだ手に力を込めた。







    鈍い女、モヤる男


     塚原音子は縋らない。

     ふっーと猫の威嚇のように息をつく。女性らしい小さな手は必死にシーツを握り、薄い胸は忙しなく上下していた。
    「塚原」
     異物感がすごい、と初めての時にそんなことを言っていた。おそらく今もその感覚があるのだろう。
     ううっと唸る声が可哀想だ。常に半目の、死んだような目がじわりと潤んでいる。弱さを隠す彼女の、そんな姿に興奮を覚えてしまう。
     だが大外は入れた後すぐに動かない。さっさと腰を振り、やわらかい粘膜で擦り上げて、自分の快楽を追求したい欲はある。
     大外自身身勝手な男だからだ。以前の自分であればそうしていた。だが現在の大外はそれを選べない。
    「大丈夫か」
    「っは、……は、いっ」
     言葉を間違えた。大外は舌打ちしたい気分になった。
     大丈夫、と訊ねると大抵の人は大丈夫だと答えるものだ。勿論塚原音子も例外ではない。
    「私っ……傷みにはかなり強い方ですよ」
    「静かにしてろ」
    「注射とか結構好き……んんっ」
     減らず口を叩く塚原の唇を塞ぐ。舌を入れるような深いものではなく、唇をやわく食むような軽くものを繰り返した。キスをするということは唇が塞がるということで、男性経験がない塚原は息が切れる。
     鼻で呼吸しろ、とキスの合間に何度か説明したことはあったが、未だに上手くできないようだった。
    「はっ……ん」
     キスの間も、大外と繋がっている時も、傷みが伴う場合でも気持ちいい場合だとしても塚原音子は大外に決して縋らない。
     苦しいのなら爪を立てればいいものを、と思うたび大外の心臓はムズムズする。
     気持ちいいのなら振り落とされないようにしがみついてくれたらいいのに、と他の女たちには思わなかったことを思う。
    「も、動いてもいいですよ」
     そうして塚原音子は献身的に自分の身を大外に捧げ、大外の好き勝手を許すから、大外は大切な言葉を言えずにいた。
     憎まれ口を叩く彼女はこの時だけは健気な女性になる。
    「もう少し、このままで」
    「気遣いは無用です」
     前言撤回。可愛げのないことを言う。
     はあ、と熱を逃がすために息をついて、大外は瞼を開いた。可愛げのない女の顔を覗き込む。
    「何、動いて気持ちよくなりたいって?」
    「言ってな、っ、う~……」
     身じろぎすらも痛みになるようで、固く瞼を閉じ睫毛の先から涙の雫が頬へと伝う。
    「痛かったよね? ごめんね」
    「っは……謝られるのすごくムカつく」
     シーツを引き剥がしてしまうのではないかと思うくらいに塚原の指はきつくシーツを握っている。その手に自分の手を重ねて大外は浅い呼吸を繰り返す塚原の口を塞いだ。

    魔法使いパロ

    一番くじからのネタ





     魔法という不思議な力が明確になった頃から人間は魔法使いを忌み、魔法使いは迫害を受けた。
     魔法使いたちはありもしない罪をかけられて処刑され、一方では奴隷のように扱われ、人間への憎悪を募らせていた。
     膨れ上がった憎悪の果ては大いなる犠牲であった。
     人間、魔法使いに関わらず世界の半分以上を占める人口が死に至り、結果互いに共存の道を選ぶこととなる。


        1
     
     ──異端の子が来たぞ。異端の子には気を付けろ。
    「ん? 異端の子?」
     塚原音子の使い魔である鴉がひと鳴きした。塚原にしか聞こえない声で警戒を促す。
     同時にざわめきが大きくなり、聞こえてくるのは賞賛と畏怖を混ぜ合わせたような声。中心に人だかりができていた。
     大外聖生だ、と誰もが口にした名前を塚原は知らない。鴉に彼のことを問うも、自分の役目は終えたと言わんばかりに、塚原の細い肩の上で羽を休めている。
    「大外聖生って有名人ですか?」
     仕方ないので、隣に立っている女生徒に聞く。すると彼女は信じられないというように、塚原の顔をまじまじと見つめた。
    「アンタ知らないの!? 大外と言えば国一番の魔法使いで、国立魔法学園の創立者とも言われているわ」
     あの人混みの中心にいるのが、息子の大外聖生。
     女生徒が指し示した方向へと視線を向ける。周りよりも頭一つ分背が高いので、小柄な塚原でも見つけやすかった。ここからだと横顔しかわからない。それでも品の良い顔立ちをしている。
     級友らしい生徒に話しかけられており、笑顔で返しているようだ。
    「へ~、何だか胡散臭そうな人ですね」
    「……あの大外にそんな感想抱く人、初めて見たわ」
    「それほどでも」
    「褒めてないわよ」
     呆れた表情を浮かべた女生徒に礼を述べて、塚原は校舎へと向かった。



     国立魔法学園。本日より無属性である塚原音子が通う学園だ。
     魔法とは人の力では達成できない不思議な術のことを指す。
     この世界では魔力を持たない人間と、魔力を持つ人間の二種類の種族が共存している。魔力を持つ人間を『魔法使い』というくくりで分類し、魔法使いは魔力を持たない人間の導となるべき者を指す。
    「さて……まずはパイセンを探そう」
     肩の上で待機していた使い魔に命じる。鴉はひと鳴きした後、音子の影の中へと飛び込んだ。
     影はぐんぐんと伸びる。階段を上り、廊下を進み、奥の部屋で止まった。きっとそこに音子の探し人がいるはずだ。
     細い影が示す道を辿る。通常であれば教師陣のところへ向かい、指示を仰ぐべきところではある。しかし気まぐれな猫のように、自由気ままな性格の塚原は普通の行動を選ばず、恩人である先輩の面会を望んだ。
     手紙でのやりとりはしていたが、実際に顔を見合わせるのは五年ぶりだ。
    「阿鳥先輩!」
    「せめてノックはしようよ」
     音子ちゃん。
     突如現れた来訪者に驚く素振りを見せず、青年──阿鳥遥斗は軽く苦笑を浮かべていた。
     塚原の使い魔は阿鳥の手首に掴まり、首筋へと顔を寄せている。滅多に聞くことのない甘えた鳴き声を洩らす鴉に、塚原は息を呑む。
    「やっぱり産みの親が一番好きなんですね」
    「うーん? そんなことないと思うけど」
     鳥は阿鳥の眷属で、さらに言うならば鴉は阿鳥の魔力で作られた鳥だ。
     主は塚原だが、鴉にとって居心地の良い相手は、産みの親である阿鳥だろう。
    「この子クセが強いんだよ」
    「そうですね。命令には従ってくれるけど、雑談にはあんまり付き合ってくれないところとか」
    「基本使い魔とは、雑談をしないものなんだよ」
     阿鳥に可愛がられて満足したのか、鴉は塚原の元へと飛んできた。いつもの定位置である左肩に止まり、羽を上下に扇がせる。
     たまに鴉がやる謎の行動だ。髪の毛が浮き上がってぐしゃぐしゃに乱れるから、正直やめてほしい。
    「こらやめろ」
    「懐いてるね」
    「どこがですか!?」
     乱れた塚原の髪を阿鳥の指が梳く。こうして阿鳥に髪を梳かれるのは二度目だ。
     一度目は初めて会った時で、当時の塚原はまだ自分の力を理解していない子どもだった。
    「言いそびれてたんだけど、音子ちゃん綺麗になったね」
    「またこの人は、そういうことを簡単に言いますね」
    「簡単にじゃないよ。本当にそう思ったから言っただけ」
     特に深い意味はないのだろう。
     じいっと見つめると阿鳥は苦笑を浮かべた。美人が苦笑しても美人なのだから、何だかずるい。
    「ところで音子ちゃん。担任の先生には挨拶したの」
    「……えへっ」
    「俺を訪ねる前に挨拶しないと、だめだろ」
    「すみません、阿鳥先生」
     梳いていた指がこつんと塚原の額を弾く。
     積もる話はまた今度、と微笑まれては部屋から出るしかない。
    「約束ですよ、先輩」
    「約束するよ後輩」
     阿鳥に見送られた塚原は部屋を後にした。


        2

     なかなか現れない塚原に、教師陣は肝を冷やしていたらしい。
     なにせ塚原音子は阿鳥悠斗による推薦入学生であり、珍しい無属性の魔法使いであるからだ。
    「塚原音子、本日よりお世話になります」
     教師陣へと向かって元気よく挨拶をした数日後、塚原は阿鳥に説教されることとなった。
     
     
     火、水、風、土、雷の五属性に貴重な光と闇の二属性を合わせた七属性が存在する。
     一般的な魔法使いは七属性のうち一種類の属性を有するが、魔力の高さと天性の才能によって、複数の属性を操る者もいる。
     例えば、国立魔法学園を創立した大外夫妻は闇と水を除いた五属性を操れる。
     特に癒し手としてトップクラスの腕を持ち、しばしば王城に呼び出されることも多いようだ。
    「その息子も風、土、光の三属性を操れるってことか」
     塚原が積極的に大外を調べたのではない。これらはすべて、新入生たちの噂話から得た情報だった。
     天才も大変だなあ、と暢気に欠伸をしているとその噂の中心の大外と目が合う。視線がぶつかった瞬間相手は心底嫌そうな顔をした。しかしすぐに微笑みへと変えて近づいてくる。
    (あれが素なのかな)
     大外に周りの女生徒たちは色めき合った。全方位から突き刺さる嫉妬を含む眼差しが、かなり痛い。
     変わってほしい、と囁き声に「名乗り出るなら変わってあげますが」と心の中で吐き捨てた。
    「君が今日の課外授業の、僕のパートナーになる塚原さんだね」
    「どうも。塚原音子です」
     嫌味っぽく聞こえるのは、気のせいではないだろう。
     今日だけの、一時的なパートナーであることを強調するような言い方だったので、塚原も「よろしくお願いします」という言葉は口にしなかった。
     まさかそっけなく返されるとは思っていなかったのだろう。大外は驚いたように目を瞠り、女性受けのいい笑みを浮かべた。


     今回の授業は新入生のレクリエーションも兼ねた課外授業だ。
     校外にある北の森にて、魔物の討伐並びに薬草採取が課題となる。学園が管理している森であるため、飛行する魔物は存在しない。よって自分たちの手に負えない魔物と遭遇しても、飛行魔法で宙に逃げることが可能だ。
    (この人強そうだし、楽できそうだなあ)
     レクリエーションがメインなので、討伐や採取がゼロでも成績には響かない。なので今回使い魔の鴉は自分の影へとひっこめた。勿論抗議されたが、魔力の高い相手には視えてしまうので、隠すしかない。
     ちょっとした遠足だと思えばいいよ、と阿鳥の言葉を思い出しながら、塚原は横目でパートナーの姿を見た。
    (ああ、この人……難儀なひとだ)
     余裕そうに微笑んでいるが、緊張を滲ませている。魔物への恐怖心というよりも、自分の立場によるものなのだろう。
     いい成績を取らなくてはいけない。
     手を抜いてはいけない。
     そんな重ぐるしいプレッシャーが伝わってくる。
     正直それらは塚原には無縁のものだ。
    「大外さん質問いいですか?」
    「なんだい、塚原さん」
     大外がこちらを向いた。緑色の瞳は聡明さを感じさせる。
    「万が一、自分たちの手に負えないほどの魔物と遭遇したとします」
    「まあその万が一はあり得ないと思うけど。それで?」
    「私飛行魔法は使えないので、その時は抱えてもらっていいですか?」
    「は?」
     大外は理解できない、というような顔をしていた。その反応は至極当たり前だと思う。
     飛行魔法は属性関わらず、魔力を持つ者ならば誰でも使用できる初歩的な魔法だ。言わば魔法の基礎である。
    「お姫様抱っことか贅沢言わないので、こう荷物みたいに抱えてもらって」
    「何メートルなら浮遊できるんだい?」
    「残念ながら一ミリも地面から離れることができません」
     答えた瞬間、大外の顔が引きつった。
    (マジかコイツって顔してるな)
     塚原自身も飛行魔法を習得するために努力した。
     阿鳥に習い、嫌いな教科書を熟読し、最終的には鴉にも教えを乞うた。
     だが結果は伴わなかった。
    「飛行魔法は、理論を覚えなくてもできるだろう?」
    「理論も読み込んだうえで、無理だったんです」
     誰もができるはずの飛行を塚原にはできない。それが事実であり現実だ。
     自ら弱点を晒した塚原に、大外は唇を噛んだ。優等生の皮が剥がれる様を、塚原はただ黙って眺める。
    「それなのに君はあの人に……」
    「っ! 大外さん!」
     不意に鴉が影の中から鳴いた。突如ふたりの間へと突進してきた何かに大外は飛行し、塚原は跳躍して躱す。帽子が茂みの中へと落ちる。しかし今はそれどころではない。
     土煙が晴れ、自分たちを襲った魔物の姿を目にした大外は舌打ちをし、塚原は首を傾げた。
    「おおっー、おっきなワンちゃんですね?」
    「君はバカなのか」
     大外の足元に魔法陣が浮かび上がる。陣の色は緑。つまり風属性の魔法を仕掛けるのだろう。
     術式はすぐに完成し、黒い毛並みの犬に似た魔物へと向かって突風が吹いた。塚原の目には見えないが、鋭い風の刃が魔物の肉を切り裂く。
     やがて複数の切り傷から鮮血が噴き出して、魔物はその場に崩れ落ちた。
    「さすがですね」
    「油断するな。立ち上がるぞ」
    「へ?」
     大外の言葉が聞こえた瞬間、魔物は立ち上がり大きく吠えた。音ではなくもはやこれは衝撃だ。塚原は杖を地面に突き刺し、飛ばされないように踏ん張る。
    「へえ、なかなかやるね」
    「高いところから見てないで、可愛い後輩を助けてくださいよ」
    「可愛いのか?」
    「可愛いでしょう」
     いつの間にか魔物の傷は再生していた。チートすぎやしないか、と呟いた塚原に魔物が飛びかかる。
    「っ! おわあっ! うっ、くびがじまるううっ……」
    「抱えろと言ったのは君の方だろ」
     襟元を掴め、とは一言も言っていない。
     文句を言いたいところだが、自分の体重で首が締まる。慌てて塚原は術を展開した。ようやく息ができる。
     新鮮な息を吸う塚原に、大外は唖然とした。
    「……今何をした」
    「私にかかる重力をゼロにしました。首が締まって死ぬところだったので」
     は? と目を丸くする大外の顔を覗き込んで塚原は口元をほころばせる。できるだけ可愛い笑顔を作ったつもりだった。
    「気持ち悪いな」
    「女の子に向かって言う台詞じゃないですね」
     さてと、と軽い調子で塚原はロッドを魔物へと向ける。振り上げて放出した無属性の射撃攻撃は、魔物の腹を撃ち抜いた。貫通した熱量によって、大きな空洞が生まれる。しかし見る見るうちに傷口は塞がり、さらには攻撃を受ける前よりも魔物の凶暴性が増していた。
    「この魔物は一撃で仕留めないと強化するんだ」
    「そういうことは、もっと早く説明してくださいよ!」
     つまりちまちまと攻撃をすればするほど強くなるということか。致命傷を与えても、再生する速度を上回る速度と威力で攻撃しなければいけないということらしい。
    「心なしか身体もおっきくなってません?」
    「実にわかりやすいよね」
    「ちなみに上限とかあるんですか?」
    「さあね。まあ僕の両親なら簡単に仕留められるだろうけど、この大きさのこいつは僕たちじゃ無理だと思うよ」
     緑色の瞳が翳る。その奥にある感情は塚原にも見覚えがあった。
     諦めだ。
     傷つかないように、最初から戦うことを放棄している。
     飛ぶことを諦めてしまったあの日の塚原と同じだ。だからついついお節介の方が勝ってしまった。
    「大外さん、ご提案なのですが」
     アレ、一緒に討伐しましょう。


    ***
     
     ついていない日だった。
     学年首席の大外は当然のように新入生のレクリエーションに駆り出され、しかも組まされた相手は塚原音子。
     美女の素質がある女生徒ならまだしも、五つも離れた子どもには興味ない。何より塚原音子は大外が密かに敬愛する人──阿鳥遥斗が目をかけている新入生だ。
    (腹立たしい)
     聞けば飛行魔法もろくに使えやしないし、バカ丸出し。大外が嫌うタイプで、しかもよくわからない無属性の魔法を操る女だった。
    『アレ、一緒に討伐しましょう』
     提案と言ったくせに、塚原の中ではすでに決定事項だったのだろう。
     大外の返事を待たず言葉を続ける。
    『えー実は私、相手の力を増幅する魔法がそこそこ得意でして』
    『増幅? 初めて聞いたが』
    『無属性の特色なんでしょうかね? よくわかりませんが、百聞は一見に如かずというでしょう』
    『失敗した時はどうするんだ』
    『失敗? そんなものを考える必要はないです』
     だって大外さん、学年首席の強い魔法使いですよね?

     初めて大外の名前ではなく、大外聖生として見てもらえたと思った。

     大外聖生として見た女は、遠慮なしに大外と手を繋いで、説明もなく術式を展開する。
     彼女の足元に現れた陣の色は紫。春に咲く素朴な花の色をして、風に吹かれ細くさらりと揺れる髪の色と同じだ。
     ひとまわり小さな手が大外の手を握る。その力強さにも驚かされる。大外が握り込めば骨は砕けてしまうような、女性というよりも子供っぽい手なのに。
    「何でもいいです。一発ドカンとお願いします」
    「……やれやれ、とてつもなく頭の悪い発言だな」
     触れたところから流れ込む魔力を受け止めながら、魔力消費の激しい代わりに威力の高い術式を展開した。


    ***
     
    「うわ……えげつない」
     地面に下ろしてもらった塚原が確認したのはぼろぼろに刻まれた魔物、ではなく大外の魔法によって出来上がった深さ三十メートルほどのクレータだった。
    「一発ドカン、と言ったのは塚原だろ?」
    「それでも限度があると思うんですけど」
     幅も広いため、うっかり足を滑らせた生徒が落下して怪我をする可能性が高い。飛行魔法は使えるだろうが、それでも地面へと激突する前に展開できるとも限らないのだ。
    「大外さん、土属性も操ることができましたよね?」
    「ああ、できるとも」
    「じゃあこの穴埋めお願いします!」
    「無理だな」
    「え」
     塚原の帽子を手に持っていた大外は、飛行魔法を解いて隣へと立つ。やや強引に帽子を被せられたせいで、視界が塞がった。
    「魔力切れだ」
    「だからかー!」
     その場に崩れ落ちる塚原は、大外が浮かべた表情に気が付かなかった。
     ひどく面白そうに笑って、興味深いなと口を動かしたことも塚原は知らなかった。
    水無月ましろ Link Message Mute
    2025/05/10 19:30:13

    おおねこSS

    #おおねこSS

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