SS詰め合わせ6【いおりく】偽物の恋
前から見て二段目の端っこ、私から見て斜め前の席がガリ勉くんこと和泉くんの定位置。
目を覆われるくらいの長い前髪で、それでいて分厚い黒のフレーム眼鏡をかけている。
周りは金色、茶色、赤髪なんて子ばかりだし、私も派手ではない暗めのミルクティーベージュ。高校だったら校則で禁止されているけど、ここは大学だからどんな色でもどんな髪型でも許される。
それでも和泉くんは黒髪だ。一度も染めたことないんだろうな、って思っちゃうくらい艶があってさらさらした髪で羨ましくなる。
教授の講義よりも、私の目は和泉くんに向いてしまう。距離があるからどんな字を書くのかはわからないけど、多分綺麗な字なんだろうなって想像することが今の私のブーム。
派手なグループの子たちは、時折和泉くんを話題に出してはダサいと笑うけど、私はそう思わない。
おしゃれな恰好をしているのかと言われたら違うけど、彼はいつも清潔でシャツには皺ひとつもない。薄手のシャツに紺色のカーディガン、カーキ色のチノパンで合わせて、シンプルに着こなしている。
それでもまあ、いつもハイブランドの洋服を着て、ファッションセンスのいい陸くんと比べると、こう……だけど。
少し離れた席から講義そっちのけで和泉くんを見る。長い指で、爪は長くない。周りが長くてネイルばっちりの子が多いから短いことを珍しく思うけど、あの長さがいいなあと思う。
付き合っていた元カレは爪が長いタイプで、えっちするとき嫌だったしゴムが破れないか心配だったから、清潔な短い爪に安心する。中を濡らす時に変に傷つけられないのもいいなあって思う。
あと和泉くん、えっち丁寧そうだし……童貞だと思うけど何回かしたらすごく上手になりそう。一人で盛り上がる性格には見えないし、クールだけどなんだかんだ大切にしてくれそう。
ぼんやりそんなことを思いつつ、和泉くんを眺めていたら長い指が横髪に触れた。一房耳にかけて、現れた耳には赤い石がついたシンプルなピアス。地味な恰好をしている彼の意外な事実。
いつもは隠しているのだろうけど、ごくまれに和泉くんは髪を耳にかけることがある。それも右側だけ。ガリ勉くんと言われている彼が、ピアスを開けているのを知っているのはきっと私だけだと思う。
だって他の子は和泉くんに興味を抱いていないから。
だって私は和泉くんのことが好きだから。
きっかけはよくある流れで、和泉くんが落とし物を拾ってくれた。カバンにつけていたぺろちゃんのぬいぐるみがぽろっと落ちて、私の後ろにいた和泉くんが気が付いたらしい。
落ちましたよ、とそのまま渡すんじゃなくて、ささっとぺろちゃんの汚れを拭って、微笑みながら渡されたその日から私は和泉くんを好きになってしまった。
少女漫画の始まりみたいだった。少女漫画のヒロインの気分になった。
そして目で追うたびに顔が良くて、けれど何らかの理由でダサく見せていて、目立たないように過ごしていることに気が付いた。
告白して上手くいく可能性はないと思う。だって話したのはあの落とし物の一度きりで、後は私が和泉くんをこっそり見てるだけ。
ダサくてガリ勉くんの彼は合コンに誘われることはないし、サークルも入っていないみたいだから接点がない。
講義はいくつか被っていて、でもいきなり隣の席に座る勇気はない。
でも和泉くんのことが好きだから、告白しようとは思ってる。
彼女になれなくても意識してもらえるチャンスだし、友達になって徐々に仲良くなっていけば好きになってもらえる可能性だってある。
思い立ったが吉日という言葉がある。これが終わればお昼休みだし、告白の言葉もずっと前から考えてあった。
今日和泉くんに告白しよう。
友達にはのんびり屋さんだと言われているけど、私は結構決断が早い。ご飯を食べに行くと誰よりも先にメニューを閉じるタイプだ。
決意したところで講義が終わった。席を立った和泉くんの後を私はすぐさま追った。
和泉くんは食堂と反対方向へと歩いている。食堂で見かけたことがないから不思議だったけど、もしかしたら弁当持参なのかもしれない。
適度な距離を保ちつつ後を追う。中庭にでも行くのかな、と思っていたけど和泉くんの足はサークル棟へと向かっていた。
うちの大学のサークル棟は文化系、体育系の分野で二分されている。
文化系の部室が集まっているA棟の一番奥の部屋、文芸部と書いてある部屋へ和泉くんは入って行った。
しまった、と思ったけど扉はきっちりと閉まっていない。ついてる、と喜びながら隙間から中に誰がいるか確認しようと顔を近づけた瞬間、声が聞こえてきた。
「わっ!? 一織? どうかした?」
「黙って。大人しくしててください」
「大人しくって……っ、ちょっ、や……どこさわっ、あっ!」
突如あまく跳ね上がった声に聞き覚えがあった。いつも周りに人が絶えない人気者の陸くんの声だ。
「だから声出さないでください」
「無茶言うなよ……っ、う、あ……んんんっ」
がたがたと何かがぶつかる音と、濡れた音。それよりも一際大きな音が、私の胸の奥の方で響いている気がする。
嫌な汗が一斉に噴き出した。
部屋の中で何が行われているのか、わからないほど幼くない。
隙間から人の姿が見える。和泉くんは人気者で誰からも愛されている陸くんを、抱きしめていた。
「なんで、いきなりキスするの」
「だめでした?」
「だめ、じゃないけど……フレームが当たって痛かった」
「すみません」
なにこれ。
和泉くんは眼鏡を外して再び陸くんに顔を寄せる。
その瞬間鋭い視線が私の方を向いた。小さな唇が動く。そして弧を描き、冷ややかな笑みを浮かべた。
そうして私は気が付いてしまった。これが牽制であることを。
あのピアスの意味も。わざとダサい恰好をしていることも。
「……ひどい」
最初から恋をさせないようにできていた。和泉くんにとって必要な人は陸くんで、だから私の視線に気が付いても、一度も期待させるようなことをしなかったんだ。
偽物の和泉くんを好きになった。
私のあまい恋心は好きとすら言わせてもらえず、喉元に出かかっていたはずの好きは飲み込まれた。やがて、勝手に死んでいくのだと思う。
「馬鹿、みたいっ」
表面ばかりしか見えていない子たちを馬鹿だと思っていた。
だけど本当は。
私だけが和泉くんのことをわかっている、と思っていた自分が一番の馬鹿な子だった。
「っあ、一織だめっ……誰か来たら」
「誰も来ませんし、覗くわけないでしょう」
ね、と疑問符とともに付けられた言葉は私に向けられた敵意だ。
告白もせずに失恋してしまった私は息を殺して、その場から立ち去った。
一瞬だけ向けられた分厚いフレームの無い、素顔の和泉くんの眼差しが真実で、それはこれから先も陸くんだけに向けられるのだろう。
犬と飼い主 番外SS893パロ
最初は花火のにおいだと思った。
父親に支えられ持った手持ち花火の先端に兄の花火が近づく。橙色の火花が勢いよく噴射して、やがて一織の手ある花火もパチパチと鳴き始め、勢いよく光の線が飛んだ。
それは明るい夜のことだった。
そして今は夜ではない。
灰色の煙が視界をぼかす。次第に目が痛み出して、ぽろぽろと涙が零れ始めた。
──ここはどこ。
少年の疑問に答える者はいない。
何故なら返答してくれる両親は彼の隣で死んでいた。一緒に居たはずの兄の姿もない。
このありさまだ。生きているとは思えなかった。
──しぬのか。
ここで。こんなところで。
地獄だった。男たちの怒鳴り声と、運動会でしか聞いたことのない発砲音が鳴っている。少年の鼓膜を震わせる音は、少年の命を脅かす恐ろしい音は警告にすらならない。
逃げる。
家族を喪う前の少年だったなら、その選択肢を確実に選んでいた。
だが今は、あっという間にすべてを失った彼にはすべてがどうでもいいことだった。
『死ぬの?』
辺り一面は火の海。今か今かと少年と両親を包み込もうとしていた。
黒煙の中でもその色は霞むことなく、少年の網膜に焼き付いた。
よく通る声だった。怒声と悲鳴と発砲音と爆ぜる音の中、穏やかな口調で語るその人の声は、あまく聞こえた。
スーツを着ていてもその人物が大人だとは思わなかった。天使なのだろうか、と一瞬だけ考えてしまったくらいで。スーツにはところどころ血が付着しているというのに、死神というよりも天使だと思う方が自然だった。
『このまま終わりにしてもいいの?』
突如現れた青年の問いかけに、少年の思考は動き始めた。
『……たくない』
『そう。君の名前は』
少年は名も知らぬ青年に自分の名前を告げた。それが契約だと思ったからだ。
『……一織。いい名前だね』
あまやかな声で名を呼ばれ、脳髄が痺れた。
『おいで、一織』
そうしてこの日から和泉一織は七瀬陸の犬になることを、決めた。
「七瀬様。芸術的な寝癖がついております」
「婉曲に言わなくても今日は一段とひどい寝癖ですね、くらいでいいよ」
「失礼な奴認定してます?」
許しを得て寝室へと入室した一織は朝の挨拶を交わした後、丁寧な口調で指摘した。そんなことで機嫌を悪くする主ではないと一織は知っている。
「歯に衣着せぬ発言が多いだろ」
「どちからと言えばその言葉は七瀬様のためにある言葉ですよ」
「今から一織のこと、失礼な奴認定するから」
軽口を叩きながらドライヤーを取り出す。起き上がっているものの布団から出ていない陸の隣に座った。
「これは……ヘアアイロンの方がいいか」
「もしかしてオレの髪、ストレートにする気?」
それかカールか。
可愛がっている従者で、言わば弟のような存在の一織の発言に流石の陸も苦笑いを浮かべる。
「今まで私にされた記憶がありますか」
「いや、ないけど。でも今まで寝癖を直すために、ヘアアイロンを持ってくるなんてこと一度も言わなかっただろ」
「その方法を検討してしまうほど、ひどいものなので」
「最初の言い回し必要なかったよな」
御身に触れてもよろしいでしょうか。
失礼な発言は鳴りをひそめ、許可がおりるまでは陸に一切触れることなく一織は待つ。
その姿はまるで躾の行き届いた犬だ。行儀がいいから涎をたらすこともない。
陸が答えるまで微動だにせず、じっとその場で待ち続ける。情に訴えることなく、淡々と主の答えを待つ。
「いいよ、一織」
陸の返答が一織の望む答えだとしても、決して喜びを表さない。そのかわり、機嫌がいいなあと陸が感じ取ってしまうくらいには行動に透けていた。
手櫛でやわらかい陸の髪を梳く。勿論指に絡まることはなく、するすると指の間をすり抜けていく。
毎日入浴を終えるとせっせとドライヤーを片手に、ヘアオイルまで着けてケアしているのだ。
陸としてはそこまでしなくていいと思っているようだが、一織がやりたいので好きにさせてくれている。一織の主は無茶ぶりが多く甘ったれに見えるが、意外と年下に甘いところがあった。
「かけますよ」
「うん」
気の抜ける音が聞こえた後、整髪剤特有の匂いがする。
手順はわかっているため口にしなくとも驚きはしないが、気に掛けるようにひとつひとつ声をかけてくれる従者の思いやりが陸には心地よかった。
「熱かったら言ってください」
一織はドライヤーのスイッチを入れる。熱いと感じない距離を保ちながら湿った髪を乾かしていく。手慣れたものだった。
何故なら拾われた時からずっと一織は主の髪を乾かしてきた。
敬愛するこの人が硝煙と鉄臭いにおいをまとわせて帰宅した日も、一織が初めて人を殺した日も。ひどい怪我を負った時も痛む身体を動かして、彼の髪に触れた。
この人の傍にいることを自分だけが許されているのだと実感するために。自分の存在意義を確証させるために。
一織がいなければ困る、と思ってもらうために。
──私無しでは生きられないように。
「オレ、一織がいなかったら生きていけないかも」
ドライヤーを止める。寝癖がついていた髪を触りながら陸はそんなことを言った。
──嘘ばかり。
陸を失うと一織は生きていけないが、陸は違う。
かわいがっている愛犬が一匹死んだところで彼は生きていける。
悲しみはするだろう。惜しみもするだろう。
けれど自死を選ぶことなく前に進める。
「だからあっさりと死んではいけないよ」
ね、一織。
一織の飼い主は無邪気な笑顔でそう言った。
「はい。七瀬様のお心のままに」
何故なら私は。和泉一織は。
七瀬陸の犬であるから。
吸血鬼の七瀬陸
七瀬陸は吸血鬼である。
「や……やだあっ」
「七瀬さん」
主食は勿論人間の血。人間なら血液型問わず何でも構わない。
「オレは嫌だって言ってるの!」
「我が儘言わないで」
普通の食事で栄養を取ることもできる。しかしそれでは生命維持はできず、最低一ヶ月に一度は人間の血を摂取しなければならない。
「ちゃんと飲むから」
「それとっくに期限切れてるでしょ」
「冷凍保存してたから大丈夫!」
「この人、冷凍保存を過剰に信用しているな……。ではなくて、それで具合悪くなったらどうするんですか!」
「……我慢する」
「馬鹿ですか」
「馬鹿じゃないよ。吸血鬼だもん」
目の前の極上の餌があったとしても、陸は牙をむかない。むしろそれよりも顔も知らない誰かの血液がいいと言う。
正直腹立たしい。
彼の友人で、彼に恋をした和泉一織は自ら彼に血を分け与えているのに。
「吸血行為を嫌がるくせに何が吸血鬼だもん、ですか」
「っ、だって痛いよ!?」
「痛いのはあなたではなく相手の方です」
「相手の気持ちに立って言ってる!」
「馬鹿ですか」
「二回も言うなんてひどい!!」
シャツの釦を第二まで外し、寛げているというのに警戒した子犬のように陸は距離を取る。だが彼の双眸は正直者で、一織を食べたいと言っていた。
仕方ない。
もうひとつ釦を外して、右肩を晒す。瞬間彼の目の色が変わった。
「は……はしたないよ一織」
あと、風邪引いちゃうから。
まるで初心な乙女のように視線を逸らした陸の姿に、一織は口の端を上げて艶然と笑う。
「あなたがそうさせているんですよ」
七瀬さん。
度の入っていない眼鏡を外す。灰色の目で陸を射貫くと、抵抗していた彼の足が一歩、二歩とゆっくり動き始めた。
「おいで」
「っ、いおりぃ」
泣き出しそうな子どもの顔に罪悪感を覚えないわけではない。卑怯な手を使っている自覚はあった。
それでも和泉一織は七瀬陸を失いたくなかった。
狼さんは血を分け与えたい。
「っは……」
「んぐっ、んっん……」
興奮を隠しきれない吐息が首筋にかかる時よりも、鋭利な牙で刺される時よりも、背筋を震えるのは必死に彼が自分の血を啜っている時だと思う。
──あれほど嫌がっていたのに。
一織の袖をぎゅっと掴み、血を飲んでいる。血管から血液を吸い出されている音は決して気持ちのいいものではないが、嚥下している音はひどく艶めかしく聞こえる。
自分の血が好きな人の血肉になるのだと思うとぞくぞくした。
──……っ、まずい。
興奮を覚えた身体はやがて渇きを覚える。しかし、やっと陸に血を飲ますことができたのだ。
彼が満足するまでは我慢すべきだろう。
「はっ……」
普段コントロールしているだけあって、一織の自制心は一族の中の誰よりも強い。
この血に流れる本能を引き出すのは今のところ満月の夜だけだ。
──七瀬さんにバレたら、食べるしかないな。
本気で泣かれても止めてあげられない。
キスで口を塞いで、まともに血を飲まない力の弱い彼の手を片手で押さえて、細い身体を暴く。
壊さないように抱き潰して、つがいになれと迫る。
──……最低だな。
冷静に考えても最低だとは思う。思うが、おそらく実際そうなったら理性は捨てるだろう。
考えているうちに啜っていた音は止み、突き刺さっていた牙が抜ける。痛みはなく、むしろ痛覚を感じない。
「は、ん……い、おり」
血を飲んだ直後の陸の双眸は煌々と輝く。美しいルビーの宝石に朝焼けの色を溶かし込んだ色へと変化して、蕩けた眼差しを一織に向ける。唇は血の色に染まり、まるで紅を引いているようだ。
「七瀬さん」
「んん……?」
吸血には催淫効果があるとされる。吸血されたものは酩酊感と凄まじい快楽を得るというものらしいが、その言い伝えは逆なのでないかと一織は思う。
赤らんだ頬にそっと触れる。
たったそれだけの接触で陸の身体はぴくりと震え、目を閉じて切なげな吐息を吐き出す。
「七瀬さん」
「いお、っ……んっ」
唇を重ねるとすぐに口がひらいた。奪うように舌が入り込んでくる。血の味に思わず眉根を寄せたがすぐに気にならなくなる。
先ほどまでは袖口を握っていた陸の手は、しがみつくように一織の指と自分の指を絡めて繋いでいる。
「んん、んぅっ」
動きは拙いが少しずつ一織のキスを覚えていっていることに興奮を覚えた。
互い舌を吸って、口の中を舐め回す。はあ、と息をする間を与えず一織は酩酊している陸の後頭部を掴んでさらにキスを深めた。
純文学風官能小説いおりく
数年に一度の寒波襲来による気温の低下が、とお手本通りの発音で気象予報士が読み上げた。窓の外では白いものがちらちらと降り始めて、室内は快適な温度を保っているため寒さは感じない。
食後の一服にと一織が豆から挽き淹れた苦みの強い珈琲が底に差し掛かった頃、何気なしに顔を見合わせた瞬間唇を啄まれた。
ん、と声が洩れたのは驚きとクセのようなもののせいで。軽いバードキスが数回、くすぐったさに自らひらくとキスがほどかれる。
なんで、とやや拗ねた声が出てしまったのは、仕掛けた相手が余裕のある顔をしていたせいだった。
「愛情表現のつもりだったので」
「……一織の馬鹿」
悪態をついた陸は一織の両肩を掴んだ。腰を浮かせ膝の上に乗り上げて向かい合うと目線が高くなる。涼しげな顔でうっすらと笑う小さな唇を塞いだ陸はそっと舌を這わせた。
唇の形をわざとゆっくりなぞる。傷がつかないように軽く歯を立てながら肩を掴んでいた手を首に回して密着させる。
ゆるやかな刺激を与えるつもりで腰を前後へと揺すった。鼻から洩れた音に艶めいた響きが含まれていたことに、ぞくりと背筋を駆け抜けたものは一介の優越感だろうか。
うっすらとひらいた口の中へ舌を忍ばす。まず先に触れた舌の粘膜から薄くなった苦みが繋がった先から伝わる。しかし深く絡み合わせればすぐさま気にもならなくなった。
タートルネックによって隠れた頸骨を指先で辿る。同じシャンプーを使っているというのに良く跳ねる陸とは違って一織の髪はまっすぐだ。つうっと上へ指を滑らせると細い髪の毛があたる。巻き付けるの癖のないさらりとした髪はすぐに陸の指からほどけた。
こら、と低い囁きが陸を咎める。
耳朶を齧られ絡めた舌が外れてしまう。同時にああ、と色事を彷彿させる声が飛び出てしまった。
行儀よく革張りソファの上に置かれていた手が陸の腰を掴んでいた。まるでセックスのように持ち上げられて力強く落とされる。
質量はここに収まっていないというのに。
強張ったものが同じくらいかたくなった陸のものと擦れているというのに。
「あっ、だ、め……っ」
くちゃりと粘ついた粘液が下着に付着し、揺れるたび淫靡な音を立てているのだろう。
はっはっと発作のような短く浅い呼吸がすっきりとした一織の頬の撫でた。
「どうしてですか」
「だって、まだお昼で……んっ」
一織の手のひらが陸の臀部を鷲掴んだ。ぐにぐにと捏ねるように揉みしだかれ燻っていた熱が一気に上がる。
「お昼だと駄目ですか」
覗き込まずとも至近距離で絡み合う視線の先では灰色がかった瞳が面白そうに笑っている。
恥ずかしい、なんて言い訳は即座に嘘だと見抜かれるだろう。そもそもお昼だから、という言葉すら経験済みのふたりの間では通用しない。
嫌ではなくて、したい。
セックスをしたいのは陸も同じだ。
ただ余裕のない顔で恋人に求められたいだけ。
付き合ったばかりの、羞恥と性欲に満ち溢れていた頃のように、「抱いてもいいですか」と同意を求めるのではなく断言された時のように自分を欲しがってほしいだけだ。
「ここじゃ、だめ」
「ベッドにいきましょうか」
頷きそうになった首を押し止めて横に振った。冷静に見える一織の瞳が驚きを表す。
「一織、オレを抱きたい?」
何を、と続く言葉をキスで塞ぐ。舌を絡めて混ざり合った唾液を飲み干して、うっすらと赤らんだ一織の頬を包み込んだ。
「抱きたい、って言って」
「……七瀬さん」
「欲しがられたい。一織に……めちゃくちゃにされたい」
──私が必ず、あなたをスーパースターにします。
そう言い切った時のようにオレを欲しがって、一織。
雪はちらちらと降り続いていた。雨とは違い質量を感じさせないそれは静かに降り積もり、すべてを覆い隠す。
冷え切っていた寝室の空調設備のスイッチを入れた後、唇を重ね合うことで互いの熱を分け与えて、着衣したままベッドに転がったのは少し前のこと。
リビングでの戯れですでに火はついていた。年下扱いはされたくない、と余裕のある男を演じたのに、天性の甘え上手な年上の恋人はたった一言で一織を煽った。
──一織にめちゃくちゃにされたい。
明るい虹彩はほんの少し濡れていたようで、情欲を帯びた双眸に捉えられた瞬間、余裕な振りをすることはできなくなった。
空調が稼働する音とふたつの荒い呼吸音が寝室に満ちていた。冷えたシーツは火照った身体で温められ、時折滴る汗と体液で濡れる。
ああ……、と出会った頃よりも落ち着いた声が一織の耳を打つ。陸の声は歌声よりもあまく、しっとりと艶めいて、熱っぽい吐息が耳朶をくすぐった。
「い、一織……」
繋がった箇所がひどく熱い。何度も受け入れてくれるその場所は一織の形を覚え、拒絶することなくねっとりと絡みつく。
「きもちいい……?」
蕩けた眼差しが切なげに揺れた。当たり前でしょう、と少し乱暴になった口調で返すと潤んだ赤い瞳を細めていとけなく笑う。その微笑みに何だか泣きたくなった。
貴方のことが好きだ。
泣きたくなるくらいほどに愛している。
求めていい、貴方を好きな私を信じてほしい。
もっと貪欲でいい。私を欲しがって。
「まったく貴方は……人のことばかり」
「違うよ、一織のことばかりだよ」
一途な言葉は一織の心臓を跳ね上げさせる。もう十年もずっと一緒にいて互いの好きなもの、弱いところ、抱き合ってきた数だけ知っている。たくさんの言葉を交わしたことで、陸の発言など一織は予測できるはずなのに。
「貴方といると、心臓が止まりそうです」
「それってホラー的な意味? それとも──」
「情熱的な愛の言葉の方です」
発しようとした陸の言葉を被せた一織は思わず笑ってしまった。
「そんなに驚かないでください」
「オレの言いたいことわかってるみたいで」
「お見通しですよ。全部私には」
「さりげなく解決ミステリーしないでよ」
じゃれている間にも熱は馴染んできた。小刻みに揺らすと複雑そうな表情が甘美なものへと変わる。
「あっ、それっ、もどかしいっ」
「すごい締め付けですけど」
「んああ、ばかあっ」
おさまった腹を撫でながら事実を淡々と告げればあまやかな罵倒が飛んできた。
自ら腰を揺らして好きなところに当てようとする陸の腰を掴んで動きを止める。なんで、と言いたげな瞳に一織はふっと口の端を上げた。
「私がめちゃくちゃにするので」
「ふへ?」
何を言われたのかわからない、と陸の顔には書いあった。しかし濡れた唇をゆっくりとなぞると上気した頬がさらに真っ赤な色へと染まる。
あ、とかう、とか言葉にならない音を零した恋人に一織は計算された美しい笑顔を浮かべた。
「だって、いまお昼なのに、っ」
「時間が巻き戻りましたね」
大胆な言葉で人を誘うわりに迫られると初心な反応を示す。
逃げようと腰を浮かせた可愛い恋人の腰を今度は引き寄せる。強く締め付けられた内部に一織の呼吸も乱れた。
今からめちゃくちゃ抱きます。
決して陸に請われたからではない。本能のままに、理性を捨てることを自分で選び決めた和泉一織は問うのではなくただただ断言した。
有休を認めます
東京、令和六年、十二月十五日。
「二階堂さん、有給下さい」
「そんなもの、うちにはありません」
メンバーが自然に集まる小鳥遊寮のリビング。和泉一織は最長年でありこのグループのリーダーである二階堂大和に要求した。しかも手を差し出し、涼しげな顔立ちにはどこか疲労が見えている。
ぽんと一織の手の中にテーブルの上に置いてあるまんじゅうをのせた。
「おまえが休みを欲しがるなんて、一体どうしたんだ?」
「一織くんは人一番仕事を引き受けているから珍しいですよね」
「いおりんは社畜の素質があるもんな」
「OH、イオリのせいで明日は雪が降りますね」
「一織のせいじゃなくても、大寒波が来るから明日は降る予報だぞ」
「皆さん、少し黙っていてください」
各々好き勝手に話すメンバーたちをじろりと睨みつけて一織は再び大和へと向き直る。
「ちなみにいつ休みたいんだ?」
「元旦、ブラホワが終わった後ですね」
十二月三十一日の大イベント『BLACK or WHITE COUNTDOWN 2024』にIDOLiSH7は毎年出場している。選ばれることは光栄なことで、アイドルにとって栄誉ものでもある。
しかしデビュー九周年と同じ数だけ出場し、さらにはクリスマスから大晦日にかけてのライブ。それ以外にも年始番組の収録、ドラマの撮影、バレンタインデーイベントの準備、そして一番最初に誕生日を迎える一織は忙殺される。
「そもそもその日はオフだろ?」
「ええ。なので、七瀬さんとふたりきりで過ごしたいんです」
「七瀬さんとふたりきりのところ、強調したな……」
「照れすらしない一織くんの成長を感じますね」
後方でひそひそと話している実兄の和泉三月と、常識人の位置づけである逢坂壮五の存在を一織は無視した。
「で、俺たちにどうしろと?」
「簡単なことです。皆さんで初詣にでも出かけてください」
「雑すぎっ!! いつにましても雑な計画!」
「なんか……いおりんPらしくねーな?」
「恋とはそういうものですよ」
ひそやかな声で恋を語る貴人の六弥ナギと、まだ恋というものがピンとこない四葉環は首を傾げた。
「難しいことはないでしょう? 毎年恒例ですし」
「……リクは? 納得してるのか」
目を眇め大和は問いかけた。
この場にはいない大人数で過ごすことが好きなセンターはどう思っているのか。新年早々不貞腐れる姿やふたりが喧嘩する姿は見たくなどない。
「当日了承させます」
「ちゃんと考えて!!」
普段の一織らしくない計画に大和は叫んだ。
疲労から来ているのか、彼の頭が回っていないように思える。さすがに大和も心配になってくる。
「七瀬さんの……いえ、恋人の機嫌取りは得意なので」
「ねえ、何で言い換えた? もしかして俺牽制されてる?」
「してませんが?」
急に声のトーン下げるのはやめてほしい、と大和は思った。
「……皆さんと初詣に行きたくないわけではないんです」
ぽつりと一織が呟いた。
十七歳の頃にはなかった素直さと色気に、そういやイチも大人になったんだもんなあと、と当たり前の事実を思い出す。
昔だったらこうして自分の我が儘を吐露することはなかっただろう。子どもの成長を喜ぶ親のような気持で心の中で目頭を押さえていると渋い顔をした一織がゆっくり口を開いた。
「その、……私も男なので」
「ああ……そうだな」
──こういうときどんな顔すればいいのか分からないの。
先週ナギに見せられた某アニメの台詞が脳裏に浮ぶ。笑えばいいと思うよ、とアニメの主人公が続けるのだが、ここで笑ったら二度と一織は自分に心を開いてくれないだろうな、と大和は察した。
「できれば五時間は私の部屋のドアをノックしないでください」
「具体的な時間を言うのはやめて……」
「ふたりきりの時間が来年の私の誕生日プレゼントで構いませんので」
「しかも、ぐいぐい畳みかけてくる!」
愛されセンターである七瀬陸の影響を少なからず受けている。が、あちらはことんと小首を傾げて「大和さん、だめですか?」と訊ねるのだが、一織はただただ押しが強かった。
「えっ、俺いおりんの誕生日プレゼント、注文したんだけど」
「僕もようやく厳選が終わって、最終候補まで絞ってる」
「ワタシ、イオリにプレゼント贈りたいです」
「大和さん、誕生日プレゼントは別だって言ってくれ」
「後ろ、少し黙って!」
声を張り上げた大和もすでに一織の誕生日プレゼントを購入している。だから断じてふたりきりの時間を誕生日プレゼントにするわけにはいけない。
「……あのさ、イチ」
「はい」
一織の聡明な瞳に期待が見え隠れしていたことを、大和は見逃さなかった。
最初からすべて彼の手のひらの上で踊っていたのだと気が付いて、しかしそれでも最年長でリーダーの大和は小さく息をついた。
「有給を認めます」
「ありがとうございます」
「まんじゅうが潰れる!」
ガッツポーズする一織を慌てて大和は止める。それから後方で静観は決してできていなかった他のメンバーへと振り返った。
「イチの我が儘により今年は五人で初詣だが」
「棘のある言い方しますね」
「事実だろ。おまえらもそれでいいか?」
リーダーが許可したのだから、と四人は頷いた。
「そもそも今年は忙殺されていましたし」
「りっくんからも変な色気出てたし」
「リク、イオリとゆっくり話せなくて寂しいって言ってました」
「一織には言わなかったけど、少しでもいいからふたりきりになりたいって零してたぞ」
「リク、年々弱音を吐かなくなってるからなあ……。イチ存分に甘やかしてやれよ」
「勿論です。私は陸さんの恋人ですから」
IDOLiSH7というグループを誰よりも強く想っている最年少は疲労を滲ませながらも、不遜に笑った。
有給休暇中のこと。
令和七年、一月一日。小鳥遊寮内、和泉一織の私室にて。
『BLACK or WHITE COUNTDOWN 2024』を無事に終えた和泉一織は、疲労感と常に身体に漲っている高揚感をにこにこと笑う恋人の腕を引き、すでに呼んでいたタクシーに乗り込んで帰寮した。
玄関の扉を開けて、同時に入り交互に「おかりなさい」「ただいま」を繰り返す。習慣の手洗い、うがいを済ませ初詣の準備をしなくては、と私室へ向かう七瀬陸の手を再び握ったのは一織だった。
「一織?」
上向かなければ目線は合わない。
やや上目がちの視線に気まずさを覚えた一織はそっと逸らした。
「これは……何か隠してるな?」
「別に何かを隠しているというわけではないのですが」
「後ろめたい時の一織はやや視線がずれる」
「嘘でしょう!?」
視線が交わった瞬間落ち着いた表情の陸は悪戯っぽく微笑み、鮮やかな双眸で一織を捉えた。ついでにぺたりと両の手で頬を挟み込まれる。力は入っていないため、振りほどくことも可能だ。
「ふふっ、どうかなあ」
「……そんな可愛らしい顔をして、キスしますよ」
こんな台詞で怯むとは思っていない。ただ少しくらい動揺するかと思いきや、ぐっと距離が縮まって唇に小さなリップ音とともに小さな感触が降ってきた。
面白そうな声にくすぐられる。
「その表情は、物足りないって顔?」
「ええ、そうです。もっとください」
「王子様がねだるの? ここはお姫様がねだるところじゃない?」
「わかってるのならねだって」
仕方ないなあ、と一織にとってどこまでも甘い言葉が聞こえた後、掴んで引き離さない魅力的な赤の瞳が閉じた。未だ背伸びしてくれる恋人の姿にくすりと笑った一織は少しかがんで口づける。
貰ったものよりも長く、目の前にいる男は余裕がないのだと伝わるように。
「ん、ふ……ふふっ」
啄み、くすくすと笑う唇を舌で湿らせると、一織の胸のうちに気が付いたかのようにうすくひらいてくれる。抱擁すると、応えるように腕が背に回された。
探る必要ない。舌でつつき押し返しては絡まる陸を捕まえる。んん、と洩れる甘い声とともに背を抱く指先が震えて、少しくすぐったい。噛みつくように下唇をやわく噛むと、潤んだ目で睨みつけられる。
「もうっ、一織の馬鹿」
「すみません。可愛くてつい」
「煩悩しかないじゃん……。好きだから許すけど」
「ありがとうございます」
まだここは廊下だ。コートとマフラーで防寒していたこともあり、寒さは感じない。
部屋に入ろうよ、とドアノブに手をかけた陸を一織は再び抱き込んだ。
「一織」
「陸さんに言わないといけないことがあるんです」
「ここで? 部屋の中に入って……」
「部屋に入った瞬間、確実に貴方を押し倒しますよ」
「ここで聞く」
脅しが聞いたのか、陸は一織の腕の中で背筋を伸ばす。笑いをかみ殺した一織は神妙な顔つきで口を開いた。
「有給を取りました」
「有給を……。え、そもそもうちって有給制度あった?」
「ありませんが取りました」
沈黙の後、陸はおそるおそる呟いた。
「どういうこと? もしかしてこれ解決ミステリー始まる流れ?」
「私が自白するので始まる前に終わります」
「考える時間もなかった」
顔を上げ、目線を合わせたまま陸はこてんと小首を傾げる。
二〇二五年も変わらずかわいい人だな、と一織は思う。過ごした時間とともに関係性は思ってもいなかったものに変化したが、彼は二十六歳になっても一織のかわいい人だ。
「その、陸さんとふたりきりの時間が欲しいとねだりまして」
「ねだったんだ……」
「初詣には行けません」
「うん」
「せめて五時間は邪魔しないでくださいと伝えました」
「五時間……えっ」
赤みは引いていたのに、一織の言葉の真意に気が付いた陸は顔を真っ赤する。もしかしてえっちする? とストレートに問いかけられ、首を縦に振った。
「します。……嫌ですか」
敢えてそう聞いたのは、ずるさからだ。
「嫌、じゃないよ。オレも……したかったし、でも」
「でも?」
言い淀む陸の言葉の続きを一織は予想していなかった。顔を覗き込むと真っ赤な顔をした陸は恥ずかしそうに視線を逸らす。
「久しぶりなので、うんとやさしくして」
「約束します。絶対にやさしくします。嫌だって言わせないくらいにうんとやさしく抱きます」
「嫌は言わせてくれないんだ」
「そればかりは、私もその男なので……触れられなかった分を補いたいです」
だめですか、と不安げな言葉は重なった唇の向こうへと消えていく。強めの、ぶつかるような口づけがほどけて、ドアノブに手をかけたのは陸だった。
「あのさ……姫はじめになっちゃうけど、いい?」
「嬉しいです、とても……どんな理由でも貴方に触れられることが」
──幸せです。
真っ暗な部屋に足を踏み入れたのはどちらが先だっただろうか。
どちらともなく唇を合わせて、一織は後ろ手に施錠した。
味覚を失った陸の話
あれ、と思った。
目の前に座っていた三月が「陸?」と名前を呼ぶ。咀嚼して喉へと流し込んだ後、口の中が空になってから言葉を発した。
「あ、オレこの味好きだなあと思ってびっくりしただけ」
「隠し味にケチャップ入れてるからかな」
「あ、だったら好きかも」
培ってきたアイドルスマイルを浮かべる。自然に緩まない頬の代わりに口もとと目をぎゅっと細めるだけ。そうすれば微笑み以上笑顔未満の出来上がりだ。
また皿の中身を箸で掴んでは口の中に入れて噛み砕く。
これは多分肉だと思う。味付けはいっさいないちゃんと焼いてある肉のかたまり。味の無くなったガムを噛んでいるようで、だけどもう味がないから捨ててしまう、なんてことはできない。
飲み込めるくらいの大きさになるまで、無心で噛み砕く。もちろん嫌な顔なんてせず、今日のご飯美味しいよ、と言うように。
今ならグルメ番組に出られそうなくらい、完璧な作り笑いを浮かべていたと思う。
賽の目に切った豆腐と青々しいわかめがぷかぷかと浮いたお味噌汁。沈殿した味噌をかき混ぜるとすぐに見慣れた汁物に変わる。
腕を持ち上げ、ふうと息を吹きかけた。
「…………」
あたたかい白湯を飲んでいるような気分だった。
啜るとふにゃりと力ない感触が入り込む。元々味という味を感じない豆腐だけどいっさいの味を感じなくなると、ただただ変な感触の物体だ。
「みっきー、次は豚汁がいい」
「じゃあ炊き込みにするときに一緒に作るか」
「だったらひじきご飯で」
みんなの会話を聞きながら、確かめるように食べてみる。
やっぱり。
どれも味がしない。
つやつやした炊き立ての白ごはんも、豚肉のソテーも、ほうれん草のおひたしも、味噌汁も全部。
不味い、ではない。匂いもわかる。
美味しそうだな、って頭ではわかるのに口に入れたら透明に変化して味わうのではなく飲み込むためだけに咀嚼する。
それはただの作業だった。
味がわからない。それはまるで味の薄い病院食のその先にあるようなもので、苦痛という二文字が思い浮かんだ。
「七瀬さん」
「うん?」
一織が自分の眉間を指で突く。皺寄っていますよ、と言いながら一織のそこもくっきり皺が寄っている。
「苦手なものでもありましたか」
苦手なものならまだ良かった。好きじゃない味を感じられるから。
「あー……ちゃんとしたご飯食べたからかな、胃もたれしてるみたい」
「大丈夫ですか」
「んー、食べきれないかも」
ごめん三月、と作ってくれた三月を見ると心配そうな顔で首を横に振った。
「俺がりっくんの分、食べるから」
「ありがとう環」
せめてもう少し減らそうと箸を伸ばす。味は全く感じられなかった。
「……っ」
むしろひどくなっていった。
砂を噛む。ぼろ布切れを噛む。泥水を啜る。
小説で見かけたことのある、味覚を失った主人公の苦痛を表した表現をオレも体験していた。
吐きたい。吐きたい。思いきり吐いてしまいたい。
覚えのある感覚が胃の奥から競り上がってくる。だが皮肉なことに酸っぱいという強烈な感覚も感知できず、代わりにあるのはひりひりと喉を焼かれる痛みだけ。
じゃり、と今オレの口の中で鳴ったのは何だろうか。
砂なんて、入っているわけがないのに。だけど噛むたびに細かな砂同士のぶつかる音が聞こえるような気がして、気分が悪い。
「陸くん顔がものすごく青いよ」
「すみません……」
「無理をするな。歩けるか?」
「ワタシが運びましょうか」
みんなが食事を止めてオレの周りを囲む。伸びてくる複数の腕にオレは首を横に振った。
「……大丈夫です」
みんなが迷う中で一織だけが冷静にオレの腕を掴んで立ち上がらせる。
「トイレに連れて行きます。水を用意してください」
「だから大丈夫だって」
「そんなわけないでしょう。いいから行きますよ」
引き摺るように連れて行かれて、嘔吐が許された安心感もあってかオレはえずく。
ぐるんと胃がひっくり返りそうな感覚の後、喉を焼く痛み、それから食べたものが消化不良の状態で口から吐き出される。
それでも独特的な酸の味と苦みは感じられなかった。
味覚を失った理由で一番最初に思いついたのは、ストレスだった。
だけどここ最近発作は起きていない。片鱗すら見せない。その次に風邪によく似たやっかいな感染症を疑った。簡易キッドを使用して二回自分で検査したが陰性だった。
誰かに相談することはできなかった。だって相談した瞬間にドクターストップならぬ、メンバーストップをかけられてしまうから。
オレの赤いスケジュール帳は半年先の予定まで埋まっている。味がわからないので休みます、なんて言えない。
ただでさえこの間の食事でみんなが心配している。
あの日からオレは食事をすることが怖くなっていた。
だけどオレはアイドルだから。
ファンの子とコンサートチケットで約束をしている。
きらきらの夢を見せる仕事だ。
オレひとりの力で、夢を、ステージを作り上げているんじゃない。
だから、こんなことで止まることは許されない。
前向きに考えても、好物のオムライスを食べても、味覚は戻らない。むしろ固形物は口にしてはいけないことを学んだ。
ゼリーやうどんのような、具合が悪い時にでもするんと食べられるものは問題なさそうだった。飲み物に関しては水なら元々味がないから飲める。お茶やコーヒーは無理だった。脳内で泥水に変わって、口に含むだけでも吐き気を覚えた。
人前で食事をしないように気を付けた。しなくてはいけない時には意識的に表情をつくった。真実に嘘を練り込んで、「すみません、ちょっと体調がすぐれなくて」と断りを入れる。
そうやって誰にも気づかれないように、いつも通りの七瀬陸をオレは演じた。
他の人は騙せても問題は一緒に暮らすメンバーの方だった。特に一織。一織が一番危険な相手だとオレは知っている。
危害を加えるという意味ではなく、オレ自身が気づかない事柄でも察知し、改善策を考えることだ。
一織は頭がいいだけじゃない。インターネット、本、他人から知識を集めて答えを導き出す。
IDOLiSH7の和泉一織でありながら、影ではマネージメントをしてたくらいだ。厳しいけど頼れる相手で、だけどオレは一織にだけは知られたくない。
昔みたいに就寝前の一織お手製ホットミルクを飲む時間はお互いに許されなくなった。
今だからわかることだけど、あのささやかな夜の時間はオレのためにあった。
最高のパフォーマンスができるように。いつだって一織はオレを支えようとしてくれた。言葉通り支えてくれた。
ノックが三回。控えめで規則正しいリズムのノック音は一織そのものだ。どうぞ、と扉の向こうまで届くように声を上げた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
一織の手にはマグカップがふたつ。オレが使っているものと、一織が使っている愛用のものだ。
そこから白い湯気がゆらゆらと立ってはすうっと消えていく。味覚を失う前ならオレは即座に喜びを表していた。だけど今のオレにとって食事は苦痛の時間だ。
「はちみつ入りのホットミルク?」
「ええ、久しぶりに飲みたくなりまして」
控えめに微笑む一織の姿にどくんと心臓が跳ねた。
それは一織の笑顔が恰好良いからだけじゃない。もしかしたら、一織が淹れたものなら味がするのかもしれない。
確証はなかったが、オレはひそかに期待した。
前から今もずっと一織は精神安定剤みたいなものだ。だから即効性の薬のように、オレを楽にしてくれるかもしれない。
「火傷に気を付けて」
「はあい」
意図せず甘えたような声が出てしまった。一織とふたりで過ごす時間が久しぶりだったから、なんて聞かれてもいない言い訳を心の中で呟く。
マグカップをお湯で温めてからホットミルクを淹れてくれたのか、唇に触れるひやりとした温度は存在しなかった。
ふうふうと息を吹きかける。そろそろかな、とオレはゆっくりマグカップを傾けた。
ひとくち分のホットミルクが口の中へ流れ込む。どっどっどっと高鳴っていたオレの鼓動は動きを止めた。
「……甘いものを飲むとホッとするね」
味わったものは落胆という感情だった。泥水を飲んでいる感覚はない。これはさらさらとはしていない白湯だった。
それでもオレはふにゃりと頬を緩めた。多分これが正解だと、聡い一織に怪しまれない表情でまたひとくち含み、喉奥へと流し込む。
「甘すぎませんか?」
「そんなことないよ。疲れた身体にちょうどいい」
ぼろがでないように、具体的には口にしない。一織にしては珍しい。甘すぎるということは、はちみつを入れ過ぎたのかもしれない。
味のしないホットミルクを飲み終えて、空になったマグカップをテーブルの上に乗せる。コトリ、とぶつかった音に続いて一織も同じようにマグカップを置いた。
一織のカップの中身は半分以上残っていた。
「ひとつ嘘をつきました。これははちみつ入りじゃないんです」
砂糖すら入れていないですよ。
まるで犯人を暴く探偵のように、一織は言った。
退寮の日のこと
本日の晩ご飯は七人がキッチンに立ち、各々が一品ずつ料理をこしらえた。
ひとりふたりでは決して狭いなどと感想を抱くことはなかったが、成人男性七名になると広々としたキッチンが狭く感じる。
粉を吸い込まないで。指切らないで。火傷に気を付けて。
陸が下ごしらえをしようとすれば、包丁を握ると、フライパンを用意するだけで、一織の注意が飛んでくる。
「大丈夫だから」と返せば真顔で「貴方が大丈夫と言って、大丈夫なことは大抵ありませんでした」と返ってくる。陸からすれば覚えがないのだが、周りを見るとメンバーは苦笑を浮かべ、微笑ましい表情のナギに「それがリクの持ち味ですよ」とフォローされれば認めるしかなかった。
そんなこんなで出来上がった料理は絶品のものもあればそこそこの仕上がりもあった。
食卓を囲み、この寮で過ごした思い出を口々に語って笑ってはべろべろに酔った年長組は涙ぐんだ。
明日の引っ越し作業のため、また酔っ払いの次の日の惨状を良く理解している陸たちはあまりアルコールを口にしなかった。
そろそろ休みましょう、と年下の一織の言葉で宴会は幕を閉じる。
大和と三月はもう少し飲みたいから、と新しい缶を開け、ナギはそんなふたりに付き合いつつもリビングのテレビでまじかるここなを再生した。
環は酔ってぐにゃぐにゃした壮五を部屋まで誘導する係で、一織と陸は顔を見合わせて笑った。
「いつも通りだ」
「あまりにもいつも通りで呆れますね」
本当に明日ここから出て行くとは思えないほど、変わらない日常だった。
ふたりで廊下を進む。一織は角部屋で陸はその隣だ。だから扉を開ける寸前までふたりはおやすみの挨拶を交わさない。
七部屋が連なった廊下は長いはずだが、今日は不思議と短く感じた。すぐに自室に到着してしまった。
本来ならばここで「おやすみ」と言うべきなのだろう。
同じく扉の前で止まった一織へ顔を向ける。おやすみ、ではない言葉を必死に考えた。
もう少しそばにいたい。
本音はすでにあって、けれどそれを素直に口にできるほど陸は幼くない。
どうしよう、とぐるぐると巡る思考を止めたのは突如腕を掴まれたせいだった。
「もう少し、話しましょう」
話しませんか、ではなくて話しましょうだったから陸は迷うことなく頷いた。
一織の部屋はロフトベッドだけがぽつんと残っている状態だった。
ラグやクッションはすでに仕舞っているのだろう。壁際に寄せられたダンボール箱の側面には几帳面な字で物の名称が書かれている。
「座るところがないので、ベッドの上に」
「うん」
先に一織が登り、陸がその後に続いた。
ベッドの上に座り下を覗き込む。何もない部屋はどことなく寂しさを感じる。
「なんかこの景色、あれっぽいかも」
「あれとは?」
「ノアの箱舟」
「……なるほど。確かに言い得て妙ですね」
ノアの箱舟は、旧約聖書『創世記』に登場する。神に命じられたノアは巨大な船を作り、神が起こした大洪水からノアや彼の家族、動物たちを救ったという話だ。
「まあ私たちはつがいではないですが」
「でもつがいがするような行為はしてるよね」
淡く色づいた一織の頬に唇を寄せる。そのまま軽く押し付けて離れた後、悪戯っぽく微笑んだ。
「あ、もっと赤くなった」
「そんな可愛いことされたら照れもしますよ……」
と言うわりには一織は陸の顔を押し倒して唇を啄む。舌は絡めず唇だけを触れ合わせているのに、不思議と息が上がった。ふっと鼻から洩れる吐息が何だかいやらしい。
これ以上のいやらしいことを彼としてきているというのに。
そう考えて身体が火照った。
「いおり……」
甘えるような声で囁き、一織の袖を掴む。端整な顔立ちの男は困った顔で微笑んだ。
「だめですよ」
「……最後なのに?」
敢えて具体的には言わなかったが、一織にはきちんと伝わったようだ。
「声、響くでしょ」
「ちゃんと我慢するから」
「それに明日も早いんですよ」
「一回だけで終わるから」
どうにか説得しようとする陸が可笑しかったのか、一織はくつくつと笑う。
「私の方が七瀬さんを抱いて、一回では済ませられないので」
「え!」
あまりにもあけすけに言われたせいで陸の頬は熱くなった。
それって、つまり、と一織の言葉の意味を口にしようとするとまた唇で塞がれる。今度はくちの中を舐められて呼吸すらも奪っていく濃厚な口づけだ。溺れそうになりながら掴んだ袖をぎゅっと握りしめると、そうじゃないと言うように奪われた。やがてシーツへと縫い留められて、もがいてもほどいてくれない。
「っは、ばかいおり……っ」
「かわいくてつい」
かわいいと言えば許されるとでも思っているのか。
一織のかわいい、はある意味好きという意味の同意語だったため陸はあっさり許した。
「やっぱりしたい」
「煽らないで」
陸の横におさまった一織は穏やかに微笑む。
部屋の物が無くなってしんと静まり返るような寂しさで、だけど一織の匂いがするロフトベッドで、一織は陸のそばにいるのだ。
「声我慢できるよ?」
「そういう問題ではなくてですね……」
実際のところ、陸は声を殺すのは上手くなっていた。
身体を重ねることができるのは一織か陸の部屋で、運が良ければ地方ロケの撮影の宿泊先で同室になった時くらいだ。
一織が入ってくるタイミングの時にぎゅっと唇を結べば、声は噛み殺せる。そのかわりふうふうと短い息をついて、胸を喘がせなければいけない。そうしないと苦しいからだ。陸が息を吸わなくなった途端に一織は行為をやめてしまう。どれだけ陸のなかで一織が高ぶっていても、興奮を覚えていてもだ。快楽よりも陸のことを最優先して、それが嬉しくて時々切なくなることもあった。
「オレね、一織の部屋でそういうことするの好きだったよ」
「そうなんですね」
「うん。狭くて窮屈だけど一織にぎゅっう、ってくっつくことができるし、一織の匂いばっかりだからいつでも安心できた。それと雨の日は、ちょっとだけ声出してもいいんだなあって勝手に思ってて」
「ああ……だから、晴れの日よりも貴方の声が聞こえたわけだ」
「しみじみ言われると恥ずかしいな……」
雨の日はそのあたりをほんの少し緩くしていた。しとしとと降る雨音が情事の音をかき消して、肌寒さも相まってかいつもよりも積極的になれた。聴覚が一生懸命一織の呼吸音を聞こうとして、雨音のバックミュージックのなか堪えるような息遣いを拾うと陸の身体は興奮を覚えた。
「でも雨の日は一織もそうで……荒い呼吸が聞こえると一織も気持ちいいんだって気が付いて嬉しかったなあ」
「当たり前でしょ」
一織の顔は照れていた。赤裸々に性行為を振り返ることはないので、照れるのも仕方ない。
「って、なんか変な思い出語りでごめん……っ。そろそろ寝ようか」
これではまるで一織の身体目当てみたいだ。反省の意も込めて顔を背ける。おやすみ、と後ろにいる相手に声をかけた陸は目を閉じた。
「まったく……言い逃げなんてずるい人ですね」
「言い逃げなんて……っあ、んーっ……」
肩を掴まれてくるりと半回転させられ再び一織と向き合う。三度目は性急に唇を重ねられた。
強引で、快楽を引き出す──気持ちいいキスに熱が灯る。
「明日眠たくても頑張って作業しましょうね」
気遣い屋の恋人はどこに行ってしまったのだろうか。
熱っぽい眼差しに喜びと大丈夫かなと明日の自分への心配を抱きながら陸の方から一織の指を絡め取った。
ÉPHEMÈRE
──お会いできて嬉しいです。
第一声でいともたやすく画家の心を奪わっていった。
『見つけてくれた君へ託すよ』
描いたばかりの絵を大事に抱き、黒づくめの青年──Twilight Troupeのクラウンは優雅に一礼してみせる。ひらりとマントを翻して、窓枠から飛び降りて夜の闇へと消えていった。
一晩の夢にもならなかった儚い出来事から、数ヶ月が経った。
隙間風も雨も差し込まない新しい居住で画家は絵を描きつづけている。
「……だめだ」
集中できない。握っていた木炭を置いた画家は大きなため息をつく。
キャンパスに描かれているのはひとりの青年だ。マントで全身を覆い隠した、Twilight Troupeのクラウン。
さらりとした黒髪に切れ長の瞳を縁どる長い睫毛。鼻梁は高く、唇は小さめ。見たまま正しくクラウンを写し取ったはずなのに、何かが足りないような気がしてならない。
「体躯? ……それとも表情?」
絵の中のクラウンは答えない。指でなぞってもざらりとした布の手触りが画家の心を沈ませる。
描いても満足できないのは納得できていないからだろうか。それとも──。
「……君はどんなひと?」
──あの夜、僕に何をしたの。
昔からただただ絵を描くばかりで、キャンバスへと向き合う時間の方が多かった。
人に興味を抱かず、親しい者と言えば庭師だけ。それでも何も困ることはなかった。人との会話よりも無言で絵を描く方がずっと楽しかったからだ。
差し出された手に、生まれて初めてこの人のことを知りたいと思った。
どんな顔をするの。どんな風に笑うの。
どうやって君は、人に触れるの。
「マントで覆い隠したその身体は、一体どうなっているの」
「どうって、確認なさいますか?」
「っ、いいの……?」
どうしてここに、と最初に思い浮かんだ疑問はしっとりとしたあまい声にかき消される。振り返るとまるであの夜の再現のようにクラウンが部屋の中に立っていた。
「知りたいのでしょう?」
大きくもなくけれども決して小さすぎることもない。よく通る声にくらくらと眩暈を感じた。
勝手に頬が火照る。胸の内側でばくばくと心臓が鳴っていることすら気が付かない。他人と最小限の関わりしか持たなかった画家は自分の状態を理解できない。
ただ喉がひどく乾いている気がした。
***
たった一脚だけ置いてある椅子に腰掛けてもらい、画家はクラウンへと手を伸ばす。マントを外すとそれはあっけなくすとんと床に落ちた。
円型のステージ上でおどけ開始の合図をしていた道化師は、顔料やテレピン油、木炭が無造作に置かれたこの部屋の中にいる。
差し出された手を取るのではなく、そこを覆い隠す黒い手袋に触れた。絹のような滑らかな感触におっかなびっくりしながらもゆっくりと外していく。
しゅるり、と普段自分の着替えで聞き慣れているはずの衣擦れの音が艶めかしく聞こえる。薄い手袋を外すと白く長い指が現れた。
塗料が入り込んで黒ずんだ自分の爪とはまったく違う。色も形もまるで精巧な人形のような、作り物めいた美しさがある。職業病上じいっと眺めれば、吐息が上から降ってきた。
「あっ、ごめんなさ……んっ」
指は熱を持った画家の頬をするりと撫でた。くすぐったさに吐息交じりの声が洩れて、慌てて閉じようとするも耳朶を擦られて止められない。
「ふふっ、あなたはかわいらしいひとですね」
「っは、かわいい? 僕が?」
「ええ」
小首を傾げる画家にクラウンはくすりと笑う。空いていた画家の手を掴み、自身の胸元へと導く。
とくんと大きく跳ね上がったのは自分の鼓動だろうか。それとも彼のものだろうか。
「知りたいのなら、ここをひらいていいですよ」
「こんな上質な服……僕には脱がせられないよ」
青色のジャボタイをどうやってほどけばいいのか画家にはわからない。弱々しく首を横に振る。
するとクラウンはにっこりと笑みを浮かべた。
「それではここは私が」
パチンと指を鳴らす。上品なジャボタイは一瞬で消え、派手な装飾も外れた。残すは後一枚のみだ。
「これならどうですか?」
「え……、あれ?」
画家の指はクラウンが着ているシャツの釦にかかっていた。何かに操られたように、指が勝手に動いては上からひとつずつ外していく。
「……っ」
ぷつりと、ひとつずつ外れるたび白い肌が目の前に現れる。
日に当たらないのか、透き通るような肌の色は艶めかしい。貧相な自分の身体とは比べ物にならないほど引き締まっていた。
そしてみっつめの釦を外して、画家は息を飲んだ。
ひきつった赤黒い肌が張り付いている。その周りには鋭利な刃物で切り付けられたような線がいくつもついた。
痛々しい傷跡から視線を外さない画家の姿にクラウンは唇を歪める。しかし続いて聞こえてきた言葉に驚愕した。
「……綺麗」
「っ、!」
画家は大胆にもクラウンの傷跡に触れた。そっと労わるような手つきで、しかし形を確かめる好奇心を含んだ指の動きにクラウンの息があがったことにも気が付かず、夢中でなぞる。
「そっか、これが君なんだ」
マントの下に隠されていたのは、彼の矜持だ。虐げられた者の痛みを決して表には出さず、むしろ鮮やかに笑ってみせている。
だからこそ惹かれてしまうのだろうか。自分にはない強さを持ったこの人に。
今なら最後まで描けそうな気がする。足りなかったものを埋められる。クラウンの肌に触れていた手を外し、画家は立ち上がった。
「ありがとう、これで完成させられ……っ」
「ああ、なんてあなたは魅力的なひとでしょうか」
大人しくされるがままだったクラウンもまた立ちあがった。見上げなくてはならないほどの身長差に威圧感すら感じてしまう。浮かべた笑顔は道化師そのものだ。
「ええっと……」
「貰いすぎた対価を払うつもりでしたが、気が変わりました」
腰を抱かれ、次の瞬間には地面から足が離れていた。軽いな、と彼が洩らした小さな呟きは聞き取れず、不安定な体勢が恐ろしくて急いでクラウンの首に手を巻き付けた。
「おや」
「僕を……どうするつもりなの」
「夢を見せるだけです」
「夢?」
ベッドに連れて行き、眠らせるということだろうか。
「ええ、そうです。だから私に身を委ねてください」
「うん……」
緊張がとけて一気に睡魔が襲ってくる。ふわりふわりと微睡みに誘われて瞼を閉じた画家には、クラウンという男がどんな表情を浮かべていたのか知るはずもなかった。
éternité
喉の渇きを感じてゆっくりと瞼を持ち上げた。
画家が一番最初に見たものはようやく見慣れてきた天井だった。さらっとした手触りの良いシーツは爪に引っかからない。上半身を起こし、まだ覚醒しきらない頭でぼんやりと辺りを眺める。
日は少しずつ昇り始めているのか、空は淡い青とピンクが混ざった色をしている。指で小窓を作り、どこが一番美しいのだろうと写し取ろうと動かした瞬間、それは飛び込んできた。
「っ!」
美しい青年が隣で眠っていた。
薄暗い部屋でもはっきりと透き通るような白い肌。この距離で見つめても毛穴ひとつさえもわからない。すっと伸びた鼻梁に小さな薄い唇。計算されたようにひとつひとつのパーツが美しく、神自らがこの顔を作り上げたかのように思えてしまう。
烏羽色の髪は寝乱れて少し癖がついていた。
薄手の掛け布団から覗く長い指には歯型が残っている。血は出ていないようだが赤黒く変色し、痛々しさに表情を歪める。
ふと気が付く。青年の手袋を外したのは画家で、この美しい指には傷一つなかったはずだった。
「これ……僕が?」
小窓をほどき、青年の指に触れようとして画家はぴたりと動きを止めた。
昨夜の記憶が逆回しのフィルムのように、ゆっくりと画家の中へ戻ってくる。
彼の服を脱がせ、見つけた痛ましい傷跡に唇で触れて、美しい、と口にした瞬間ベッドへと押し倒されていた。困惑している間に衣服はすべて剥ぎ取られ、生まれたままの姿に恥じらう暇もなく長い指であらゆる箇所を弄られた。
触れられたところから熱が生まれ、身体の中に隠されているすべての神経が、剥き出しになったのかと思うくらい全身が痺れた。涙を零せば、雫が伝った場所へと冷たい唇が這う。聞いたことのない艶めかしい声が、自分の口から迸っている。
息があがる。心臓が苦しい。
指一本すら動かすことも億劫で、けれども彼の指が触れるたび意思に反して身体が跳ね上がる。陸に打ち上げられた魚のように。
真上から糸で操られた人形のように、美しい指に身体も心も支配されている。
淫らな声が止まらない、止められない。いつの間にか上質なシーツはひどく乱れていた。次々と快楽を与えられ突っぱねた足先がたわんだ布にひっかかり、逃れられない。
自分でも触れることのないところまで指は進んだ。
引き裂かれるような痛みと、それ以上に内部でわからされる感触や形、長さと皮膚の厚さ。内側で身体を作り変えられて、やがてそれらは官能と呼ばれるものに変換される。
身体を撫でる手つきはやさしいのに逃げることは許されず、画家は泣き叫ぶ。
ぎゅっと噛んだ唇をあやすように別の指が撫でて──噛んでもいいですよ、と低く沈むようなあまい誘惑に画家は落ちてしまった。
「あ……っ」
生々しい情交の記憶に熱が回る。心臓を落ち着かせるために息を吐き出し、昨夜の情交をさらに深く思い浮かばせてしまい逆効果となった。
「っ、……ん……」
聞こえてきた声に起こしてしまったかと慌てたが、長い睫毛が何度か揺れるだけだった。また規則正しい寝息を立てた。
美しい寝顔を眺めながら、そっとベッドそばに置いてあるサイドテーブルへと手を伸ばす。そこには絵を描くための道具を置いてあり、見ずとも手に取ることができる。
木炭とスケッチを掴んだ画家はじっと目を細める。網膜に焼き付けるように瞳にその姿を映し、しばらくして指が動き始めた。
思考はいらなかった。見たままに、記憶したままに、描くだけ。
かたく粗悪な紙には穏やかに眠る青年の姿ではなく、昨夜垣間見た獰猛で美しいクラウンが描かれる。無駄のない肢体、しなやかな手足、長い指、それから痛々しい傷痕。
灰色に青が混ざり合った狼のような瞳には、一体どんな感情が浮かんでいたのだろうか。
どうして自分は、目を閉じてしまったのだろうか。
「…………」
表情だけは画家の想像上のものにした。腕の中にある白黒のクラウンに命が吹き込まれる。
髪の毛の一本一本にすら生命を感じ取れるように。
絵は一時間ほどで完成した。興奮を隠せない赤らんだ頬を緩め完成したばかりの絵を抱き込もうとした瞬間、腕を強く引っ張られる。
思わず上げた驚きの声はひんやりと冷たいもので唇に塞がれて、しっかりと抱いていたはずのスケッチは床に転がった。