SS詰め合わせ5【いおりく】ロマンティック上等!! 童話をテーマにした『メルヘンドリーム』の衣装。一織の衣装は白雪姫の王子をイメージしたデザインで、簡単に頭から外れそうな帽子を押さえながら、優雅な所作で白馬に跨る。
おそらくアップで撮影しているカメラに向けて、同メンバーの王子様キャラ──実際に本物の皇子ではあるが──のような美しいスマイルを浮かべた。
「王子様……」
景色がくるくると回る中、相方であり、今回の企画の発案者である陸もまた同じように白雪姫をイメージした衣装を身に纏い、うっとりとした表情を浮かべてこちらを見つめていた。
(……いくらなんでも普段と違いすぎませんか!?)
熱い眼差しはすぐに見えなくなってしまう。上下に揺れるメリーゴーランドの白馬に跨ったまま一織は盛大なため息をついた。
***
IDOLiSH7の冠番組である、キミと愛なNightの企画書に目を通し、読み終えて七秒後。顔を上げた一織はにこにこと笑顔を浮かべているマネージャー──小鳥遊紡を睨みつけた。
「……正気ですか」
「はい! おふたりのファンの方は絶対に喜びますし、私も楽しみにしてます」
「何故あなたも楽しみにしているんですか」
「一織さんが考えたロマンチックなデートも楽しみなんですが、企画段階からすでに陸さんの笑顔が増えていまして……番組内でおふたりの素敵なデートを見られるかと思うと私も嬉しくて」
「あなたも大概七瀬さんに甘すぎません?」
一織の指摘に対しても紡はふわりと笑う。可憐な微笑みは肯定も否定もしない。けれど長年の付き合いである一織はわかってしまった。
この企画は絶対に通る。いや、彼女が通させるだろう。
「……私たちに疑似的な恋愛感情を抱いているファンもいらっしゃるんですよ。そういった方々は私と七瀬さんのデートを見たくはないでしょう」
「確かに一織さんや陸さんに恋をしている方もいらっしゃると思います。SNSでおふたりのファンの方の反応を見ていくと、『やっぱり一織くんは陸くんの旦那様だよね』や『一織くんに恋してるけど、現実では陸と結婚してるから』などと前向きな言葉を呟かれていたりしますよね」
「七瀬さんと結婚はしていませんが……待ってください、それは本当に、私に恋をしているファンの方の反応ですか?」
「はい。和泉一織担当と記載がある方々の反応ですね。リアコとプロフィールに書かれている方もいらっしゃいますが」
一織は頭を抱えた。
自分でもエゴサをするためファンの反応やどのような方に和泉一織が好かれやすいのかはわかっている。だがまさか陸と結婚している、などと言われているとは思いもよらなかった。
MEZZO”のふたりが『結婚』や『第二のRe:vale』と言われていることを知っていた一織は完全に安心しきっていた。
「フラウェ推しの方々や〝いおりく〟と〝りくいお〟の方については全く問題ないと思います!」
「いおりくとりくいおのワードは金輪際検索しないでください。特にりくいお、については」
「ええと、SNSの仕組み上ファンアートが自然に流れてくるのですが……」
どんなファンアートが流れているのか知りたくもない。でもすごく素敵なんですよ、とにこにこと笑う紡に一織は声のトーンを落として、静かに発した。
「りくいおを今すぐミュートしてください」
「は、はいっ!」
スマートフォンを取り出した紡に心の中で安堵しつつ企画書を手に取った。念のためもう一度確認しようとページを捲る。
ロケ地はうさみみフレンズパークで貸し切り。衣装はメルヘンドリーム。
朝九時の開園に合わせて撮影開始予定。そこまではいい。
「……なんですか、この白馬に乗った王子様(和泉一織)登場というのは」
「あ、それは陸さんの希望ですね」
「わかりました。本人と相談してきます」
ちなみにこの打ち合わせ時に別の企画書も開いてみたが、『ピタゴラスで最高の結婚式』『MEZZO”の思い出に残る新婚旅行』というサブタイトルを目にした一織はツッコむことをやめた。
各回放送直後のSNSのトレンドは『公式が大手』になるのだろう。予測はできるが回避する気力は到底今の一織にはなかった。
「七瀬さん、入りますよ」
ノックはしたが、返答を訊く前に陸の部屋の扉を開けた。一織の視界に入ったのは、うさみみフレンズパークの園内マップを広げた陸。楽しみだなあ、とふにゃりと頬を緩めるかわいらしい陸の姿は一織の胸に突き刺さった。いろいろな意味で。
「あ、一織! お疲れ様」
「お疲れ様です」
おいで、と招かれ彼の隣に座った。すぐに場所を空けた陸はお気に入りのクッションを一織に渡す。さりげない労りが嬉しく思う反面抱き着いて来ないことに少しだけ苛立つ。
しかし素直になれない一織は「抱きしめていいですか?」と言うことができず、肩を触れ合わせながら口を開いた。
「マネージャーから番組の企画を聞かされたんですが……本気で言ってます?」
「オレ、メルドリ衣装の一織すごく好きなんだ。恰好良くてお姫様の気持ちになる」
「……ありがとうございます、ではなくて、もっと動きやすい恰好もあるでしょ?」
全否定するのではなく、まずは遠回しに衣装変えを提案する。すっぱりと言い切ると、拗れることを一織は経験から学んでいた。
「一織……嫌?」
訴求力の核となる赤い双眸が至近距離で一織を射貫く。しゅん、と眉を八の字に下ろした陸の姿に庇護欲と支配欲が沸き上がり、何でもしてやりたくなるし、泣かせたくもなった。
「やっぱり男のオレがお姫様役するの変だし、嫌だよな……」
「い、いえっ……嫌とかではないのですが」
しかし子犬のような濡れた大きな目に一織は弱い。ただでさえ七瀬陸に弱いのに、そこに可愛い、稚い、いじらしい。が加わると和泉一織はあっさりと陥落する。そこで唇を薄く開かないで欲しい。うっかりキスしたくなる。
「……っ、わかりました」
「ほんと? 一織、大好き!」
大好きの後、勢いよく飛びつかれ、予想済みだった一織は難なく陸を受け止めた。どきりと跳ねた心臓と熱くなる頬を誤魔化すように、素直じゃない言葉が口から飛び出す。
「ちょっ、いきなり抱き着いたら危ないでしょ!」
「だって嬉しくて、つい」
ぐりぐりと懐くような仕草で甘えてくる陸の後頭部を撫でた。いつもならさらさらと指が滑る髪は完全に乾いておらず、少し湿っぽく冷たい。風邪を引くことはないだろうが、几帳面で細かいA型そのものの性格である一織はドライヤーを持ってくるべきか考えた。だがもうしばらくはゆっくりと抱き合っていたい。
こうして抱き合うのも久しぶりだった。
「ねえ、一織」
「はい」
「あのね……メルドリ衣装で白馬に乗って迎えに来てほしいな」
「……どれだけ要求を積み上げてくるんだこの人は」
「え、何か言った?」
思考が口から出ていたらしい。抱擁はそのままに顔だけ上げて、上目で見つめてくる陸に一織は逆らえない。うっとりと色を濃く乗せた瞳に吸い込まれる。
「だめ?」
瞬時に撮れ高も計算した。瞬間風速でSNSのトレンド上位に入るだろう。メンバーから「よっ、王子様」と揶揄われる未来も想像がつく。
「わかりました! あなたにパーフェクトな王子を見せつけてやります」
「わあい!」
もうほぼやけくそだった。
恋人が可愛いとか、陸が喜ぶからだとか、幸せにしたいとか。様々な感情が綯い交ぜとなり、すべては七瀬陸の幸せをキープするために一織は動く。
それにアイドルである以上表立った行動はできない。好きな人が望んだとしても、堂々と手を繋いで街中を歩く、そんな簡単なことすら叶えてやれない。
「手繋いで、園内歩こうね」
喜びで赤らんだ頬がほころんでいた。ささやかな願いがいじらしい。絶対的な「好き」の気持ちが陸から伝わってきて、重なったところだけではなく、胸の奥までもがあたたかくなる。
「七瀬さん」
「なあに?」
「キスしてもいいですか?」
問うとさらに顔を真っ赤に染めた陸はこくんと頷く。長い睫毛が震え、訴求力の核である瞳が閉じたのを合図に少し突き出している唇へと顔を寄せた。
***
幻想的な音楽とともに回っていた景色も止まった。少しふらつきを感じながら、メリーゴーランドの白馬から下りた一織は陸の元へと向かう。
明るい虹彩はとろりと蕩けている。一織だけしか知らなかったその表情が、抜かれていることに舌打ちしたい気分だった。
跪き、そっと左手を取る。本来なら手の甲へとキスを落とすのが定石だが、袖をずらし手首へと唇を押し当てた。
「今日一日、私と過ごしていただけますか?」
「っ、……はい」
ぱちりと瞬いて、すぐに陸はとろけるような笑顔を浮かべた。立ち上がり、唇を落とした手を取ると、すぐに指が絡まりきつく結ばれる。堂々たる恋人繋ぎにさすがにこれはまずいのでは、と思ったが、隣でひどく嬉しそうな陸を目にしてしまえばもう何も言うことができない。
「はあ……ずっとオレの心臓どきどきしてる……心臓止まるかも」
「もっとですよ。心臓は止めないで」
すでに決めているアトラクションへと向かう。時間を計算しつつ、会話を続けていると突然ぴたりと陸が足を止めた。
どうしたのだろうか。もうすでに彼の心臓に負担がかかりすぎたのか。
「七瀬さん?」
俯いていた陸がゆっくりと顔を上げた。
「もし心臓止まったらさ……」
空いている方の指が一織の唇をそっと撫でる。あまやかな、けれどもどこか悪戯っぽい微笑みを浮かべて、陸はうすく唇を開いた。赤い舌が覗いている。
「王子様のキスで起こしてよ」
「~っ!!」
一気に顔に熱が上がる。やられた、と手の甲で口元を隠すと同じくらい頬を赤らめた陸がはにかんだ。
「小悪魔……」と悪態をつくと「お姫様だよ」とコントロールを失ったボールが返ってくる。照れた顔を隠すため一織は陸の手を引いて、足を進めた。
くすくすと笑い声の後「耳まで赤くてかわいい」の呟きには、勿論聞こえていない振りをするしかない。
陸が乗りたいと言った絶叫系アトラクションへと乗る。弱点など存在しないかのように見える一織だか実は三半規管があまり強くない。休み休みならいいが連続で乗り続けられない。しかし陸がずっと楽しそうに笑うから、結局満足するまで付き合った。
そして七つ目のアトラクションを乗り終えた頃、青い顔で自分の口元を押えるという格好悪い姿を晒していた。
「一織……」
心配そうな表情を浮かべる陸に、大丈夫だと告げる。
「少し休めば、良くなりますから」
「わかった。そこで休もう」
支えられながら近くにあるベンチへ腰掛ける。珍しく距離を空けて陸が座り、一織の頭に触れた。帽子が外され、両足を揃えぽんぽんと自身の膝を指し示す。
「さすがにそこまでは」
「いいから。一織、おいで」
絶対スタジオでいじられるな、と思ったが、世話したい、甘やかしたいオーラを出して待っている陸にあらがえず頭を乗せた。多少揶揄われる覚悟をしていたが、そのような言葉は彼の口から一切出てこない。
労わるように指先でさらりとした髪を撫でて、やさしくこめかみをくすぐる。
心地良くて、だからこそぽつりと弱音がこぼれた。
「……恰好悪い王子ですよね」
今の一織はパーフェクトから程遠い。楽しませる相手を心配させて、デートも中断させてしまっている。
手の甲で目を覆うとくすりと笑い声が降ってきた。
「王子様の一織が恰好良すぎて心臓が止まる寸前だったから、かえって良かったなあって思ったよ」
あまい声は一織の耳に入ってきて、歯がゆさを抱いていた心を落ち着かせる。目を覆っていた手を掴まれそっと導かれた先で、いつもよりも早い鼓動を知った。
照れたように笑う陸に心臓が大きく跳ねる。勢いよく熱が込み上げてくる。
「ほら、ね」
一定のリズムを刻んていた一織の心臓が早鐘を打ち始め、やがて陸と同じものへと変わる。
呼吸が浅くなり、少し苦しい。けれど不快ではない。
「心臓の音、すごいですね」
「一織だって……すごいよ」
気まずそうにスタッフのひとりが声をかけてくるまで、ふたりだけの世界が続いていた。
休んだおかげなのか、それとも陸がずっとかわいいおかげなのか。普段よりも早いリズムを刻んでいた鼓動もようやく落ち着き、デートを再開した。
パーク内のレストランで食事を取り、メンバーへの土産を購入する。カゴいっぱいにグッズやお菓子で溢れさせた陸に呆れつつも陸の手からカゴを取って、会計前まで運ぶ。
「こんなに買って、って叱らないの?」
「叱られたいんですか。叱りませんよ、デートなんですから」
おそるおそる顔を覗き込んできた陸に思わず苦笑がこぼれる。きょとんと瞬きした後、陸は頬を緩めて幸せそうに笑った。
「そっかあ、デートだもんな」
「そもそもあなたが企画したんでしょ」
「そうだった。楽しすぎて本当にデートしてるみたい」
「みたいって、だからデートなんです」
大きな紙袋にまとめられた荷物を受け取る。店を出てすぐそばにあるコインロッカーへと向かおうとすると、会計を済ませたらしい陸が慌てて追いかけてきた。
走らない、と注意したものの陸は息を弾ませながら一織の隣で足を止めた。
「待って、一織。オレが持つよ!」
「あなた両手で荷物持つと躓くでしょ」
何故か陸は両手が塞がると何でもないところで躓くのだ。転ぶ寸前で支えるよりも、最初から持たせない方が安全だと一織は学習したため、日常の買い物でも一織が荷物持ちをしている。
「うっ……でもオレが買ったものだから」
「大した重さではありませんし、七瀬さんが転ぶ方が困ります」
「そんなに転ばないよ」
不満そうに呟いて、けれど続いた「もう、恰好良いなあ……」の言葉に口元が緩む。かさばる紙袋を片手にまとめ、振り返った。空いた手を少し後ろを歩いている陸へと差し出す。
「お手をどうぞ」
──私のお姫様。
「~っ、やっぱり恰好良くて、ずるい」
文句を言いながらも手を繋ぐ。
繋がれた手を力を込めて握ると、頬を淡く色づかせた陸はまたもや、本当にずるいなあと呟いた。
園内が茜色に染まる。ふたつの影がまっすぐに伸びていく中、観覧車乗り場へと向かった。辿り着いた途端陸は「定番だなあ」と笑った。
「悪かったですね」
「でも王子様は選びそう」
「フォロー下手ですか」
さすがにカメラは入れないため、小型カメラを借りて撮影する。セット後、観覧車に乗り込み、向かい合わせに座る。
扉を閉められ、ゆっくりとふたりきりの時間が始まった。
「あっという間に終わっちゃうね」
「まだ終わってませんよ」
ゆるやかに天辺に向かってゴンドラは上昇する。名残惜しそうに微笑む陸に一織はそっと席を立ち、目線を合わせた。赤い瞳が大きく開く。
「一織?」
「どきどきしてますか」
「……うん、最初からずっと、今もどきどきしてるよ。確かめてみる?」
「確かめなくてもわかりますよ……私もそうですから」
差し込む西日に照らされているせいか、ふたりの頬は赤かった。この距離だからこそ表情がわかり、少し離れた位置にあるカメラでは表情までは映せないだろう。
あと十七秒。もうすぐで頂上へと辿り着く。
帽子を取り、口元を隠す。
「……オレの心臓が止まっても、王子様がちゃんと起こしてくれるんだよね」
「ええ。キスで起こしてハッピーエンドまで導きますよ」
「自信満々に言うなあ」
「パーフェクト王子ですから」
七秒前、そっと瞼を下ろした陸の姿にどきっと心臓が跳ねた。
六秒前、衝動的にキスしようとする本能を抑える。
五秒前、陸の手の甲へ自分の手を重ねた。
四秒前、ゆっくりと顔を近づけていく。
三秒前、ちいさな吐息が唇を撫でた。
二秒前、キスをしているように見せるため顔を傾ける。
一秒前、小さな揺れが白いマントを揺らした。
「……んうっ」
「ん!?」
そしてゼロ距離。想像していないほどの揺れにバランスを崩し、唇が重なった。たった一瞬の接触がほどけ、はあ、と呼気の音が一織の唇をくすぐった。瞼が開き、ゆらゆらと赤い双眸が一織を見つめる。
とろりと蕩け、熱を帯びた瞳にきっと自分も同じ熱を映しているのだろうと思った。
「あれ、予定と違うね?」なんてことを陸は口にしない。その代わり頬をこれ以上ないほど真っ赤に染めて、見上げてきた。
「ええと……おはよう? オレの王子様」
「っ、おはようございます……私のお姫様」
果たしてこれは、ロマンチックなデートであったのだろうか。
だがそんな野暮なことは一織も、そして陸も決して口にはしなかった。
一織の計算通り、カメラはふたりのキスシーンを完全に捉えていなかった。
しかしどう考えてもキスしているとしか思えないこの場面が放送された瞬間、ラビッターのトレンドはIDOLiSH7に関するワードで埋め尽くされた。
某お絵描き小説の総合SNSサイトはメルヘンドリームの二次創作ばかりになり、いおりくの作品が急激に増えてしまうことをまだ和泉一織は知らない。
My Sweet teddy
『テディベアを贈る』をテーマにした雑誌の撮影は難航することもなくスムーズに終えた。
ミルクティーカラーのテディベアの首元にはそれぞれのメンバーカラーのリボンが結ばれており、赤色のリボンをくんと軽く引っ張りながら陸はにっこりと笑った。
「ほどかないでくださいよ」
「ほどかないよ。でもかわいいなあって思ってて」
ふわふわした可愛らしいテディベアに心を奪われたらしい陸の指はぬいぐるみの丸っこい耳をなぞったり、少し高い鼻先をつんと突いては遊んでいる。
こっそりとカメラを向けると気が付いたのか、ぎゅっと抱きしめては可愛く笑ってみせた。
「撮影のイメージと真逆じゃないですか」
「オフショなんだからいいだろ」
撮影時は大人っぽい、けれども甘い表情を浮かべて大きなテディベアの腕を肩に乗せて、しかし片手で抱きあげるなど少し男らしいポーズだったのだ。しかし今はテディベアと戯れて、ただただかわいい。
「……いおりぃ」
「匂わせる気ですか」
「ラビッターには載せないから!」
腕を広げた陸は大きな瞳できゅるんと見上げた。言葉はなくとも、陸が何を望んでいるのか一織には即座にわかってしまった。
「一織の双子も抱っこしたい」
「誤解を招く発言は控えてください」
「二人きりなのに」
「普段から発言を気を付けてないとうっかり出てしまうでしょ」
撮影を終えて今は楽屋で小休憩だ。今日はスケジュールに余裕があるため、あと二十分はゆっくりとできる。 「もう言わないから、ちょうだい?」
撮影で使った一織のテディベアは二体。自分の手元に手触りのいいテディベアがいるというのに、他の子も抱っこしたいのだと彼はねだる。
撮影に使うものだから清潔に保たれているのだろうが、基本的にこれは陸の身体には良くないものだ。
使用するぬいぐるみの材質や構図など細かくマネージャーである紡と確認し、問題がないと判断したから一織は静かに見守ったが、しかしこれ以上の接触は控えるべきだろう。
「だめ?」
「七瀬さん。わかっていっているでしょ」
一織が断らないことを陸は気づいている。
顔に近づけないでくださいね、と一言釘を指した一織は二体のテディベアを抱いたまま近づき、陸の隣へと腰かけた。転がらないように膝に乗せてやる。
「わあい。一織大好き!」
「……まったくこの男は」
要望が通れば好きに好きだと言う。
なのに、一織のことは眼中になく三体のテディベアを見てふにゃふにゃと頬を緩めた。
「かわいいなあ」
「そうですね」
丸っこい小さな耳とつぶらな丸い瞳。あまいミルクティーカラーのふわふわのぬいぐるみもだが、陸もかわいいと一織は思う。
小さな頭を撫でて、かわいいおててを握って、ぷにぷにと膨らんだお腹を突いた。時折じゃれるように青いリボンに指を滑らせて、普段見せない色香をほんの少し見せつける。
うっすらと開いている唇に口づけてしまいたくなる。
「一織、写真撮って」
「はい」
赤いリボンを結んだテディベアを真ん中に置いて、両隣には青いリボンのテディベア。
ちょっと複雑だな気分だと、微かな嫉妬心を燃やしていれば正面を向いていたぬいぐるみはくるりと方向転換をした。
「えへへ奪っちゃった……なんて」
二体の、一織の子だと言ったテディベアの頬に口、いやほとんど鼻ではあるが押し付けた本人が何故か頬を赤く染めるのだから、もう無理だった。
「七瀬さん」
「……ん」
名前を呼ぶと陸の手が伸びてくる。一織の衣装の首元、青いリボンを掴んで、ぐっと身を乗り出して頬に──ではなくて唇に触れた。あまい感触に触れて、胸が満たされる。
「……唇、奪っちゃった」
「っ、黙って」
つぶらな瞳を手のひらで塞ぐ。どんなに可愛い存在でもこの顔だけは見せるものかと思いながら。
しゅるりとリボンがほどかれる。濡れた吐息の音が続いて、また唇が合わさった。
手のひらに触れる柔らかな手触りよりも、しっとりとした唇の感触に溺れて、視線が絡み合うたびに何度も何度も唇を重ねた。
付き合って順調に進んじゃったからこそ、一織のアレの大きさを気にして練習する陸の話
ずっと好きだった人に告白されて、オレはものすごく舞い上がっていたんだと思う。大事なことを思い出したのは、恋人らしい触れ合いをし始めてからだった。
触れるだけのキスは告白から一週間後。おやすみ、を言おうとしたら熱っぽい眼差しを感じた。ああ、するんだと思って瞼を閉じた。
吐息が唇をくすぐって、それから触れる。ほんの一瞬の感触だったけど初めてのキスが嬉しくて、はにかむと一織は照れたように目を伏せた。
その日から一織の部屋で過ごすたび、キスをした。触れるだけ、に慣れると次は舌先で唇を舐める。ぴっちり閉じたそこをぬるぬると擦られてくすぐったい。でも気持ちよくて、お返しに同じことをしてやると一織は「うひゃあ」とびっくりした声をあげた。なんだかオレの方が恥ずかしくなってしまった。
日を追うことにキスの攻防戦は激しさを増していった。開けて、と低くも興奮を隠せてない声に、唾液で濡れた唇を開けるとぬるりと舌が入ってきた。
絡め合わせて、口の中で呼吸がぶつかりあって、くちゅりといやらしい音が響く。ようやくオレはキスがとてもえっちなものだと知った。
口の中を舐めて、宙で舌を引っ付けて、溢れた唾液は飲まされて、飲まれて。貪る勢いのキスは気持ちよくて、夢中になっていれば裾から入ってきた手に背中を撫でられる。普段はひんやりと低い体温なのに、オレの身体を撫でまわす時は熱くて、だけどオレが変な声を出したらぴたりと動きを止めてしまう。
「……ん、はっ、いおり?」
「今日はここまでにしましょう」
明らかに我慢している男の顔をしながら、熱くなった頬に小さな唇を押し当てられる。くすぐったいキスを受け止めながら、本音はもっとしていいよ、したいって言いたかった。
でも、オレも次の段階へ進むことに躊躇している。
キスはクリアした。触り合うのもまあクリアしていて、じゃあその次は、となるともうそれはえっちしかない。
一織の部屋から戻り、自室のベッドの上でじんと重たげな熱を帯びた自分の股間を見た。
完全にたってはないけど、入るのかな。
これ。
「悔しいけど、一織の方が大きかったよなあ……」
たった一度、お風呂場で一織のモノを見たことがあった。オレよりも、まあ少し大きいかなってくらい。
ものすごく大きい、ではないけど、オレの指三本分以上ありそう。
男性同士のえっちではアレをお尻の穴に入れる。BL漫画で知ってからオレは一織のアレに想いを馳せていた。
「オレが一織に入れた方が良さそうだけどなあ……」
初めてキスをした次の日から、オレは自分のお尻の穴に指を入れていた。
専用のローションを通販で購入し、コンドームを被せ一本ずつ入れて広げた甲斐もあってか、二本は入るようになった。感想としてはあまり気持ちいいと思えない。自分でしているせいなのかもしれないけど、えっちのときちゃんと喘ぎ声とか出ちゃうんだろうか。
今日もまたオレは自分のお尻を触っている。しかし一織とえっちするための練習するとすぐに眠くなってしまうのだ。
睡眠導入剤並みだ。気持ちいいとか良くないとか、そういうのは全くなくてただただ眠い。
えっちしてる時に寝たらどうしよう、と考えながら寝てしまった。
仕事が終わり、ほんの少しの逢瀬の時間。夜は一織の部屋で過ごして、それからキスをする。とろとろと動く舌が気持ちよくて、離れようとする唇を吸う。びくりと跳ねた舌ごと啜るとあまくだけど噛み返された。
「んんん……っ、ふあっ、きもちい……」
「……素直であることは美徳だと思いますが、煽らないでください」
「別に煽ってないよ?」
「……男心がわからないひとだな」
何かぶつぶつと呟き、何となく視線を落としたそのときだった。
「あ、一織勃ってる」
「っ! 見ないでください」
パジャマの上から指を使って宙で測る。人差し指を立てて、おそらく先端部分を想像しながら片方の人差し指も立てた。
根元がここだから、多分ここくらいまであると仮定する。もしかしたら大きいだけではなくて、一織のアレは結構長いのかもしれない。
「ちょっと! 何測ってるんですか!!」
「何って一織の、お──……」
「うわあっ!? 言わないでください!!」
聞いてきたのは一織の方なのに。
手のひらで口を塞がれたので、ぺろりと舐める。汗ばんでいるからか、ちょっとしょっぱい。
「七瀬さん!!」
「一織がオレの口塞いだからだよ」
真っ赤な顔で怒る一織の上に乗り上げた。油断していたのか、背中から倒れた一織の胸に顔を近づける。ばくばくと早い心臓の音が聞こえ、何だかすごく嬉しくなった。
「聞いて、一織」
「何を!?」
「オレね、一織とえっちしたくてひとりで練習してた」
「……は?」
一秒、二秒、七秒経ってオレの言葉を理解したのか一織の顔がさらに赤くなる。ものすごく熱いんだろうなって思って真っ赤な頬を包み込むと、何故か熱いとは感じなかった。
「……七瀬さんも真っ赤だからでしょ」
「ほんとだ」
「それで……ひとりで練習とは具体的にはどういうことですか」
「一織のここに入るかなって想像しながら、お尻に指入れたり」
「は?」
さっきよりもワントーン低い声。お腹に当たっていたものがさらにかたくなって、おおよその長さがわかった。臍にあたるくらい。三本分の指よりも太くて、ここまで入る長さだと思ったら吐息が洩れた。
「あっ……」
「っ、だから煽るなと」
きつく抱きしめられ、抱擁を返す前に体がくるりと反転する。すぐ真上には怒ったような顔の一織。恰好良いなあ、と思ったことを口にすると、かたいものが押し当てられた。
「抱きますよ」
「うん、抱いて」
えっちすればきっと、もうこれ以上一織のアレについて考えなくなるだろう。
今日からすっきりした気持ちで眠れるはずだ。
唇が降ってくる。夢心地で熱烈なキスを受け止めながら、実際に見た一織のアレが、大きすぎてちょっとだけ怖気ついてしまうのはもう少し後のこと。
Flay away!
プレイリストからランダムで曲を再生する。最近リリースした新曲の再生が終わり、続いて流れてきたイントロと今思えば真っ直ぐな歌声が聞こえてくる。
「オレと一織の初めてのデュエット曲……懐かしいなあ」
あらゆる汚れを落とし、乾燥までばっちりのドラム式洗濯機から取り出した洗濯物を畳みながら陸は呟く。ふわふわした手触りのタオルが気持ちいい。日当たり良好のリビング。大きな窓から差し込んだ春のやわらかな陽射しを浴びながら、曲に合わせて口ずさむ。
「あなたには弱音など吐いて欲しくないですね……今と逆だなあ」
甘えは捨てて高みへと一緒に行こう、とどこまでも強気で前向きな楽曲はあの頃だから歌えた曲だろう。まだ一織とは仲は悪くないが、良くもなく、些細な喧嘩をしていた。
ユニット曲のダンス練習の時もだ。
もっと仲良くなりたい、と遊びに誘ったのに三月の話ばかりする一織にムカついて、喧嘩別れをしてしまった。
仲直りするために送ったラビチャはマネージャーである紡に宛ててしまい、後日一織も間違えて送っていたスクショを送ってもらった。その画像は今でもたまに見返している。
「あの時の一織かわいかったなあ……」
黒のタートルネックを畳みながらくすりと笑う。後ろからそっと近づいてくる存在に気が付かず、陸はサビ部分を口ずさんだ。
「ご機嫌ですね」
「わあっ!? ……びっ、くりした、っあ、ちょっ……ん」
「すみません。可愛らしくてつい」
「つい、で頬にちゅうする? オレもう二十六歳なんだけど」
「二十六歳の男性がちゅうって言い方します?」
まるびを帯びた幼い輪郭は細くシャープな形へと変わり、端整な顔立ちの恋人は頬を膨らませた陸を後ろから抱きしめる。デュエット曲を歌っていた頃によく浮かべていた仏頂面はもうどこにも見当たらない。今はただ甘やかな笑みを浮かべて、陸を甘やかしてくるのだ。
そっと瞼を下ろす。ふっと吐息で笑った後、唇にやわらかな感触が降ってきた。
やわく啄まれ、擦り合わせるものが心地よい。うすく開くと舌で湿らされ、んっと漏れた音がとけていく。
「……っは、完璧すぎて可愛くないなあ」
「陸さんの憎まれ口はいくつになっても可愛いですね」
睨んでも一織はどこ吹く風だ。
「……マネージャーに誤爆したくせに」
「…………まあ、そうですね」
つい昨日も一織は誤爆してしまった。陸に送るつもりのメッセージを紡に送ってしまい、あまつさえそこに「好き」の二文字を入れてしまったのだから、ちょっと面白くなかった。
紡からそのやり取りのスクショが送られてきて、気遣いができるマネージャーに感謝しつつ保存した。
「ヤキモチ妬いてます?」
「妬いてる。現在進行形で妬いてるし、間違いなのもわかってるけどさ……」
洗い立ての一織のシャツを手に取って抱きしめる。鼻を近づけると薄くなった一織のにおいがした。
きつい匂いが苦手な陸のため香料無しの洗剤を使っている。そのため、どんな洗濯物からは自分と一織の匂いが微かに残っているのだろう。
彼のにおいにすらあまく胸がときめくのだから、本物はもっとだ。振り返って抱き合えば、きっと心臓は大きく跳ねてしまう。
「不安にはならないけどさ、面白くない」
一瞬だけ目を瞠ったが、すぐに一織は頬を緩めた。白い頬が赤らみ、涼しげな顔に喜びを浮かべるからこの男は、と思う。
「ごめんなさい」
気が付けばデュエット曲は終わっていた。今流れている一織がセンターを務めていた曲を停止させる。少し皺になったシャツも先ほど畳んだタートルネックへと重ねた。まだ畳まなくてはいけない洗濯物が残っている。
だけど久しぶりのオフだから、後でも構わない。
振り返ると端整な顔が近づいてきた。少し低い温度の一織の鼻梁がぶつかって、くすぐったい。
「オレが満足するまで」
キスして。
続いた言葉は小さな唇に塞がれ、彷徨った手はすべての指を絡ませるように繋がれる。
あたたかな陽射しを浴びながらふたりで熱を生む。
八年前の自分は思いもしなかっただろう。喧嘩ばかりしていた相手が、一番近くにいることを。
そして揺るがない幸福な日々が続いていくことを。
「一織……好きだよ」
「私もです。陸さん」
好き、は唇が触れる距離で、またすぐにふたりの間でとけていった。
向日葵が隠してくれるから
国内の花屋市場のトップであり、花屋としては珍しいチェーン店を展開している『apporter du bonheur』とコラボが決まったのは去年の夏のこと。
公開は一年後、と他のコラボと比べると長い企画だ。これは生き物である花の一番美しい瞬間をカメラで切り取る、という目的も兼ねている。生きものである以上、どれだけ美しく咲いたところで永遠ではない。
刹那の煌めきを見せるアイドルとの親和性が高く、また忙しい社会人の目を楽しませたいという想いからこのコラボが始まった。
誕生花とその月の生まれのアイドルは、誕生花をイメージした衣装に身を包み、コラボ先である『apporter du bonheur』の特別なブーケとの撮影がある。ロケーションは様々で、たとえば一月の担当の一織の時は、素朴なスイートピーに合わせてセットを組んだ。
撮影後、「恰好良かったけど一織が結婚するみたいで複雑だった」と珍しく陸はふてくされていた。
一織からスタートし、IDOLiSH7では一番最後となる陸の撮影は、広大な向日葵畑で行われることとなった。
「暑いー……」
七月入ったばかりだが、すでに夏らしい気候となってしまった。初夏とは呼べず、陽射しから逃れるように一織が差していた日傘の中に入った陸は汗を拭いながら呻く。
「ちゃんと水分は取りました?」
「取ったよ。でもずっと汗が止まらない」
「衣装の生地が厚めですからね」
「……一織、あのさ」
はっと何かに気が付いたように陸は顔をあげた。
とろりと、どことなく艶めいた瞳で見つめられて、思わずどきっとしてしまう。つうっと汗が垂れたところで唇がうっすらと開いた。
「オレ……汗臭くない?」
「別に臭くないです」
艶めいた表情とミスマッチな会話のおかげか、跳ねた心臓も次第に落ち着きを取り戻す。
よかったあ、と安心した顔で笑う陸は可愛いものだ。普段とは違うヘアスタイルで見慣れない七瀬陸の姿にふと悪戯心が湧く。
「まだ撮影再開まで時間ありますよね?」
「えーと……あと十五分くらいかな」
「少しの間だけ回りましょう」
近くにいたスタッフへ周辺を散歩することを告げる。誠実な仕事を心がけ、進行を崩さないIDOLiSH7の評価は高い。
あっさりと許可は降りて、一織は陸の手を引いた。向日葵畑に向かって歩き出す。
「一織?」
姿が見えない距離まで離れたところで一織は掴んでいた手を外した。しかしすぐに指を絡め、繋ぎ直す。手の甲だけではなく手のひらまでしっかりとケアしている陸の手は汗ばんでいた。
「えっと……」
一織の顔と繋がれた手と、何度か行き来する陸にいつもと逆だなと一織は笑う。
本来積極的なのは陸の方で、一織は咎める方。しかもここはいつ誰に見られるかわからない外だ。一織らしかぬ行動に陸は言葉の選択を迷っているようだった。
困った顔で、しかし繋いだ手に力がこもる。離さないで、というように。
「……いいの?」
繋いでいていいの? 繋いでいてくれる?
葛藤の末の短い問いかけだった。敢えて二文字の返答では返さず、一織は別の言葉で肯定した。
「少しの時間ですけど……デートしましょう」
陽があたるからこちらへ、と自分の方へ引けば陸は嬉しそうに身を寄せてくる。暑さからだけではなく喜びから赤く染まった頬が愛らしい。
さあっと吹く湿った夏風が青々しい草と土のにおいを連れてくる。群生する向日葵の葉を揺らし、大輪の花もまたかすかに首を振っては連結した影が揺らめく。
「七瀬さん」
「うん?」
自分たちの姿を覆い隠すため日傘を傾ける。そうすると日陰から日向に変わり夏の陽光が一気に降りそそいだが、陸は眩しさに目を細めるだけだった。
鮮やかな黄色と青々とした葉の色は、夏生まれのアイドルによく似合っている。
強い日差しを浴びながら、それでも天に向かって顔を上げる、強い生命力の感じさせる七月の花。赤茶の髪が燃えるように色を濃く染め上げた。感情を豊かに映し出す双眸はじっと一織を見つめていた。
圧倒的な向日葵の花々にも負けない存在感に胸がざわつく。
まるで夏の太陽だ。眩しいとわかっていても、つい見上げてしまう。直接直視することを許されない恒星。
ぽたりと汗が滴りやわらかな畑の土へと落ちた。
「ん……っ、ふっ、ぁ……」
数時間前にほどこされた血色をよく見せるための口紅は、どんなに深く口づけを重ねてももう移らない。少し塩辛い舌先を吸って、あまい声は一織の口の中でとけた。
さらりとしているはずの肌はしっとりと湿り、触れてまた熱が上がる。ほどいて、上気した頬を草のにおいとともに風が撫でていった。
潤んだ瞳と喘ぐような声が一織を誘う。
「あ、つい」
「あついですね」
それでも陸は一織から離れないし、むしろもっととように赤い顔を肩口へ寄せる。
まだ熱は引きそうにない。
くすぐるように濡れた唇は汗ばんだ首筋を這い上がる。夏の日差しにも似た強い眼差しに逆らえるはずもなく、葉が擦れる音を聞きながら一織は唇を寄せた。
くらげの心臓
ふわりふわり。
やわらかな傘をひろげてはとじて、下降しては上昇するこの生き物には心臓がない。脳も血液もなく、その代わり全身にはりめぐっている神経の刺激で泳いでいる。
円形の水槽の中に設置されたライトが切り替わり、さまざまな色のくらげに変えてしまう。青と赤、緑と橙色。自分たちみたいだ、とはしゃいだ彼が口にしたのは三年前のこと。
真っ暗な館内でゆらゆらと泳ぐくらげたちを照らすライト。一織の隣で静かに水槽を見つめる彼の表情はわからない。
「いつだったかな。くらげには心臓がないんだよ、って一織に言ったことあったよね」
「去年の冬ですね」
「よく覚えてるな」
「無理矢理連れて来られたので」
棘がある言い方だなあと彼は笑った。それは一織の嫌いな笑い方だ。見えなくてもわかってしまう。
出会って十年。彼に恋して九年、今もまだ不毛な恋を続けている。
「その後に続いた言葉も覚えています」
「うん」
「オレもくらげだったら良かった、と言ったんですよ」
残酷な言葉だった。一織の気持ちを知っていて、そのうえで一度も応えなかった男の我が儘だった。有無を言わせず手を繋ぎ、呼んであったタクシーへと乗り込んだ。
陸の勝手な行動には慣れているものの、行き先も告げない陸に一織は困惑した。どこへ行くつもりですか、と問うも陸はいっさい口を開かない。この数年で作り笑いやポーカーフェイスも覚えてしまったせいで、表情からは読み取れない。
繋いでいる手が震えていることしかわからなかった。そして一織はその手を振りほどくことができなかった。
「くらげには心臓がないんだよ。脳も血液もなくて、なのに自由に泳いでる」
一言一句間違えずにこの場で口にした言葉を陸は呟く。本読みのように、感情がこもっていない台詞では真意が読めない。
「……また振られたんですか。誰かが貴方を振りましたか」
「ううん。その逆」
「告白された?」
今年で二十八歳になる陸はデビュー当時から変わらず誰にでも愛される。国民的スーパースターで、一織が今もずっと恋焦がれているひとだ。
「好きな人ができたんだ」
赤色のくらげがふわりと浮上した。視界の端でその色を捉え、一織の視線はここへ来て初めて陸へと向かった。表情は見えない。
「それで?」
「心臓がなかったら良かったのにな、って言ったことを撤回するよ」
「貴方は傷つき、苦しんだのに?」
「あの時はみんなに心配をかけて……特に一織を心配させた。心臓のないくらげになれたら、何も考えず外部の刺激で歌っていられるのに。……ずっと、そう思ってた」
──もう二度と誰も好きにならない。
ふわりと円柱の水槽内を泳ぐくらげを見つめながら、陸は静かに泣いていた。殺しきれなかった嗚咽は館内のBGMに消され、かすかな震えが繋がっていた手を通じて伝わった。思わず抱きしめてしまいたくなるのを必死に堪えながら、空いていた手を強く握った。
「一織。一織はオレが好き?」
「はい」
「オレもだよ。オレも一織が好き。でも、その好きは同じじゃない」
その瞬間ライトが変わる。赤から青へと色を変え、上へ上へと昇っていく青色のくらげたちの中で一匹だけが下降していた。
ただひたすらに一織は言葉を紡ぐ。
「それでも、あなたを好きだと思う気持ちは今さら変えることができません」
「恋人関係ほど脆いものはないよ」
「脆くないことを証明しますよ」
伸ばさなくても届く距離にある手を握った。振り解かれない。けれども握り返すこともない。
「貴方も本当はわかっているでしょう」
「……そうだね」
ふわりふわりとやわらかな傘を開いては閉じて。くらげたちは水中を泳いでいる。
誰にでも愛される存在である陸は一織を手放せない。一織の心変わりに怯えて、恋人という選択肢を選ばないくせに、和泉一織を捕まえて離さそうとしない。一織ではない人に恋をする陸がずるくて、憎たらしくて、だからこそ愛おしい。
「キスしても?」
「嫌だって言ったら?」
「しません」
「嫌じゃない……だからして」
顔を近づけた瞬間、陸から緊張が伝わってきた。腰を抱き、勢いよく引き寄せる。そのまま唇同士が触れ合って、かつてくらげになりたいと泣いていた男の心臓が力強く跳ねた。
「っは、キスするのだめ……心臓が痛い」
「我慢してください」
「ばか……っんう」
さんざん振り回してきたのだから、少しばかり勝手をしても許されるだろう。
ふたりの心を表しているかのように淡いピンク色に染まったくらげたちは旋回しては、円柱の水槽内を泳いだ。
嘘はつかない狼
「……っ、ん、あっあっああ──……っ」
高いところへ無理矢理上らされて、落ちるのではなくて爆ぜた。すべての汗腺がいっせいに開き、どっと心臓に強い負荷がかかり、掠れた声の落ちた後、呼吸が止まる。だがすぐにも陸の身体は呼吸をすることを思い出し、開きっぱなしの口が息を吸った。つまっていた何かが放出されていく。
あるものすべて出し切るように一回り大きな手に導かれ、やがて腹に熱い飛沫を感じた。
「っは……はっ、あ……一織っ」
「はい」
呼びかけると濡れた頬に口づけが降ってくる。恋人が与えるような熱情的なものではない。どちらかと言えば、親が子にほどこすもので、過敏な肌はやさしい刺激すらあまいものへと変えてしまう。
洩れた吐息には熱がこもっていた。けれど年下の男の目はどこまでも澄んでいて、陸だけが肉欲に溺れている。腹部に感じていた熱はあっけなく冷めていた。
「一織、キス……」
乞うと聡明な瞳がほんの僅かだが困ったように揺れて、すぐに本来の冷静さを取り戻す。
「だめです」
汗ばむ額には触れるのに、陸が望む場所には決して唇を落とさない。
陸は独特な苦みに耐えられるのに、一織は絶対にそれを許さない。その代わり長い指がねだる唇をくすぐった。
口に含んで、舌を絡めて、しゃぶって、啜って。
硬い皮膚は小さな唇の代わりにはならないが、一織が与えるものなら何でも欲しいのだ。はっ、と思わずといったように零れた吐息も、揺らいだ灰の瞳にある本当の感情も。
これは一織の唇だと思いながら一生懸命舐め尽くした指がずるりと抜けていく。ああ、と媚びたような声が出てしまった。
「一織……っ」
「明日も朝早いんですから」
諭すようなことを言いながら、用意していた濡れタオルで汚れた身体を拭き取っていく。性感を与えない手つきで、まるで介助を受けている気分だ。空調が過ごしやすい室温を提供しているため、肌寒さは感じない。
「そんなことしなくていいよ」
と発したものの、陸の身体は指ひとつすら動かせない。慣れていない行為は満足感と倦怠感を与え、自分ひとりが快楽を得たことへの罪悪感と虚しさに包まれる。
溜まったものを吐き出して、すっきりしたのは一瞬だけ。身体は疲れて、次に訪れるのは眠気だ。
瞼が下りて、閉じた視界に慌てて開く。けれども、また下りては重たげな瞼をまた持ち上げる。うつらうつらとする陸に一織はふっと唇をほころばせた。
「……いな」
普段であれば聞こえていたのかもしれない。何を口にしたのかわからず、声のトーンからして苦言ではないことしかわからない。
もう目を開けておくのは無理だ。
諦めた陸は瞼を閉じた。一織の顔が見られないことは何だか勿体ないが、だけどもう限界だった。
「いおり……」
「はい」
「いおりは、オレのことが好き?」
即答では返ってこなかった。少しの間の後「はい」が続く。その言葉に震えはなかった。
「そっかあ……オレもね、一織のことが好きなんだ」
「知ってます」
「うん」
「オレも……知ってるよ」
一織は陸に嘘をつかないことを。
「好き?」という質問の返答に対して一織は嘘をついてない。けれども、それが陸と同じ気持ちの好きなのか、と問えば誠実な彼は「はい」以外の言葉を口にして、嘘はつかず話を流したことだろう。
好きの種類についても決して答えない。
大切にされているとは感じる。
愛されているとも思う。
しかし、相手のことを狂おしいほどに恋しく思うこの気持ちを、一織の方は持ち合わせていないのだろう。
こちらがすべてを曝け出しても、あちらは絶対に晒さない。気持ちがなくともセックスはできるし、一織は一度たりとも前を寛げたことがない。
陸の背を押し、時には支えてくれるあの大きな手に高めて、欲しい言葉をくれる唇であやすように触れる。
それがどれほど嬉しくて、惨めであることを一織はわかっているのだろうか。
指の先までしっかりと濡れタオルで拭われる。先ほどまでは淡々と身体に触れていたというのに、おそるおそるというように頬へと触れる手が何だかひどく可笑しかった。
この迷う手つきが本来の一織なのだろう。どこまでも誠実で、不利な真実は口にしない。ずるくて、だけど嘘をつかないからこそ、信じられる。
だからこそ、恋焦がれてしまっている。
「すき……」
返答はない。その代わり頬を撫でる手つきが、うんとやさしくなったような気がした。
つまりオレのこと好き、ってことだろ
「まったく、うっかりもほどほどにしてくださいよ」
一織のお小言は長い。頭がいいからか言葉のバリエーションも多く、だからその分お小言も長くなるんだろうと思う。
例えばオレが「馬鹿」って言ったとして、一織だったら似たような言葉で「その頭は何のためについているんです。飾りですか?」くらいは言いそう。二文字と二十七文字の差があるから、お小言も長くなる。今も続いていて、そろそろ足が痺れそう。
いつもならオレはそれなりに真面目に話を聞くんだけど、今日はちょっとそれどころじゃない。
一織の頭の上にハートが浮かんでいるから。
一織がオレの部屋に入ってきたときからそれは浮いていて、オレはドッキリかなと思った。いつネタバラシするんだろうか、と神妙な顔でお小言に頷いていたのは数十分前のこと。
でもいつになっても「ドッキリ大成功」って言いながら札を掲げないし、むしろ笑わないように表情を引き締めて、目ざとい一織にバレたせいでお小言はエスカレートした。
番組だったらお小言ももっと優しいはず。
それともうひとつだけ。もしかしてこれドッキリじゃない? と思えたのは、ぷかぷか浮かんでいるハートの色が変化したから。
「あのさ、一織……正直に言ったら怒らない?」
「内容によりますが、なんでしょうか?」
「え、ずるい。怒らないでね……今日は」
──間違えて一織のTシャツ着て行っちゃった。
「っ! かわ……っ、どうして間違えるんですか」
「だって、そこにあったもん」
「あるわけないでしょ!」
頭の上にあるハートが色を変える。さっきまでは青色だった。つまり、一織のカラーで、多分冷静とかクールとかそういうイメージ。
実際青色のハートの時の一織は怒ったような顔をすることはなかった。でも呆れた顔で盛大なため息はついてたけど。
今度は何色になるんだろう、と見守っていればハートは青から赤になった。
赤って、オレのカラーだ。赤と言えば……。
「一織、怒ってる?」
「怒ってはないです。呆れているだけで」
「それって怒ってる、って言わない?」
「言いません」
おかしいな、と小首を傾げてみる。角度が変わると変化するカードじゃあるまいし、勿論色は変わらないけど一織はごほっと咳き込んだ。
「噎せた?」
「っ、いや……そんなところです」
背中を擦る。ハートの色は変わらない。でも怒ってない。
多分このハートは一織の感情を表している。少女漫画で最近そういう話を読んだので、心が可視化されているで間違いないと思う。
最初見た時には無色、お小言が始まると水色から青色に変化して、最後は赤色で落ち着いた。
例えばピンクだったら、恋とか好きとかそういうイメージがあるからわかりやすいけど、でも今浮かんでいる色は赤色だ。
「一織、赤色ってどんなイメージ?」
「七瀬陸」
「うん……他には?」
確かにメンバーカラーのイメージが強いのはわかる。オレも同じような質問、例えば青色ってどんなイメージ? って訊かれたら「一織!」って答える。さっきの一織の返答は即答だった。オレはもっとじっくり考えると思う。でもやっぱり一織だ、って言うけど。
「心理テストですか?」
「そういう感じ。他になんか赤色って言えばこれ! ってものある?」
「そうですね。愛ですか?」
愛。一織から到底出るとは思わなかった単語にオレは言葉を失った。
でも赤いハートだと、愛っぽいなあとは思えるし、一番しっくりくるイメージかもしれない。
「……もしかして一織、オレのこと好き?」
「は?」
常々思っていた疑問が飛び出してしまった。脳内でパンドラの箱が開いたって文字がどんと浮かぶ。次々と厄災が飛び出して、最後に残っているのは希望。頭の上にあるハートの色も変化し始める。
オレのことは死ぬほど考えている、って言っていたのに?
赤色が愛で、それが今変わるなら。
一織はオレのこと、好きじゃないってこと?
「……嫌い、ではないですけど」
ふわふわと浮いて変化していたハートがぴたりと止まる。赤色から淡いピンク色に変化して。
赤色が愛なら。この色は、つまり。
「つまりオレのこと好き、ってことだろ?」
「七瀬さん!!」
もうすぐで終わるはずだったお小言は一時間の延長になった。
でもその後付き合うことになったので、足が痺れて立てないことくらいは我慢しようと思う。
今からセックスする流れだったのに、恋人が他の男に肌を見せたことが発覚したので全裸ミーティングになった話。
和泉一織と七瀬陸。ふたりは同じグループのアイドルであり、恋人関係にある。
空調が効いた部屋のベッドの上。半裸で向き合って、することと言えばひとつしかないだろう。
互いに着ていた服を脱がせ合い、顔を見合わせたらキスをして、とろりとしたムードは確かにふたりの間で生まれていた。
未だにキスの合間の息つぎが下手な恋人を気遣いながら、しかし久しぶりの触れ合いに余裕がないのもまた事実。
一織としたい、とかすかな羞恥と期待で濡れた双眸に心臓を鷲掴みにされる。自分の胸から聞こえる心臓の鼓動の早さに心の中で呆れつつ、中途半端に捲れていたTシャツを脱がしたことでそれは発覚してしまった。
「……それ誰にやられたんですか」
「え? あー……トウマさん、かなあ」
「は!?」
淡く色づいた可愛らしい突起から斜め下付近に湿布が貼られていた。日に焼けないため他よりも白い肌は青くなっている。
ダンストレーニングや筋トレで痛めて足首や手首に貼ることはあるだろう。一織も変に捻って使ったことがある。
しかし湿布は肋骨付近に貼っていた。ぶつけでもしないとそんなところには貼らないだろう。
どうしたんですか、と問うべきところを珍しく動揺した一織は誰にやられたんですか、と聞いてしまった。それに対して陸は他グループのリーダーの名前をあげた。
「昨日トウマさんのところへ泊まりに行ってて」
「ストップ。泊まりですか?」
暴力を振るわれたのではないことは陸の様子からすぐにわかった。一織もまた彼の人柄をよく知っている。お人好しと呼ばれる部類に入ることも。
それよりもだ。
思考を停止させる新しいキーワード、泊まりに一織の表情は強張った。
「泊まったこと、初めて聞いたんですけど」
「嫉妬深い彼氏みたいになってるよ?」
「嫉妬深……っ、泊まりと聞いて心穏やかでいられるわけないでしょう」
「一織が思うようなこと、何もなかったけど?」
「当たり前です!」
あってたまるか。
互いに半裸で恋人同士。まだ陸の頬は淡く色づいているが、そういう雰囲気はどこかに去ってしまった。それでも堅苦しい空気にならないのは、嫉妬する一織に陸が嬉しそうに笑っているからか。
心配させてごめんね、というように一織の頬に唇が触れる。お返ししようと顔を寄せた瞬間陸が口を開いた。
「それで、トウマさんちのリビングで足を滑らせたんだ」
「まさか転倒したんですか!?」
「ううん、転けそうになった時にトウマさんが腰を……こう、抱いてくれたんだけど」
真面目な口調で話しているからか陸はくすぐらないように一織の腰にそっと触れた。思っていたよりもいやらしい抱き方に、ついイラッとしてしまったがそれは恋人に向ける感情ではない。表情に出さないように努める。
「んんと、こうだったかも?」
つうっと肌を滑る指の感触はくすぐったい以外の何物でもない。思わず吐息が洩れる。
「っ、ん……くすぐったいです」
「ごめん」
しかし、その後に続いた陸の言葉に眉根を寄せた。
「近くにあった棚にガンって当たっちゃったので、これです」
「……は」
冷ややかな声が出た。
人の恋人の腰を掴んでいたくせに。
助けられないなんて一体何をやっているんだ、と思ってしまった。これではただの八つ当たりだ。
勿論頭の中では誰も悪くないのだと理解している。元々は陸のうっかりのようなものが発動して、そこに一織がいなかったから防げなかった。
陸の身体に痛々しい青あざを作ってしまったのは、ここ最近の陸のプライベートスケジュールを把握できなかった自分のせいだ。
「でもすぐにトウマさんが手当してくれたから、大丈夫だよ。見た目よりも痛くないし」
痛かったのは陸の方だろう。なのに彼はにこっと笑って一織の頭を撫でた。いつもなら年下扱いしないでください、と言うところだが、今日ばかりは素直に受け取る。
一織が知らないところでの怪我も、陸が懐いている相手に彼の裸を見られたのも事故で、悋気を抱くことではない。むしろ手当した彼に感謝すべきところだ、と言い聞かせる。
だがトウマとは泊まるほどの親密な関係で、なおかつ七瀬陸は誰にでも愛される無類のセンターだ。
トウマが陸を可愛がっていることは遠目から見てもよくわかる。そこに邪な感情が含まれていないことも。
「一部の記憶のみを消す方法」
「それはスマホで検索しても出てこないと思うんだけど」
けれども、可愛いと思う心がやがて、好きに変わる可能性もあり得る。
何故なら自分がそう、だったからだ。
「七瀬さん」
「なあに?」
呼びかけると陸は小首を傾げる。だが疑問符はいっさい浮かび上がってない。
陸は正しく一織の感情を理解していた。
「……いえ」
最初は歌声だった。曲のパートを決めるあの日、ワンフレーズの歌声で一織は可能性を感じた。
初めての九人のライブで鮮やかな魔法を目にした。
路上で歌うたびに、小さな奇跡を見てきた。
七瀬陸に対して抱いた感情は、一種の信仰心にも似た感情だったのかもしれない。
勉強もスポーツも、新しいことですらそつなくこなせる一織は圧倒的な歌唱力を持つ七瀬陸に未来を見た。たった十秒の歌で心を鷲掴みにされた。
「トウマさんに妬いた?」
「残念ながら今も現在進行形です」
「えへへ」
「喜ばないでくださいよ」
いつからだっただろうか。
ままならないこの人を好きだと思うようになったのは。
かわいいひと、が言葉通りになったのは。
「大丈夫だよ」
「何を根拠に」
ふにゃと笑う。アイドルらしい笑顔とは少し違う。気が抜けたような、どこか甘えを含んだ笑顔は気を許した相手の前だけに現れる。特に一織の前で陸はとても幸せそうに笑う。
「だって、オレが一織のこと大好きだもん」
こういうことしたいのは一織だけ。
驚きで薄く開いた唇に小さな熱が生まれる。感触がゆっくりと離れ、ふっと消える吐息を追いかけて一織から触れた。形を確かめるように触れて、なぞって、味わって。口づけを深めるために一度ほどいて、視線が交わって、ようやく笑い合った。
「えっち再開する?」
想いが実って、紆余曲折しながら今の形に辿り着いた。陸は照れないし、一織もそんな言葉では照れない。そのかわり煽られるだけだ。
「煽ったのはそちらでしょ?」
「……だって」
陸の頬がぶわっと赤らんだ。自ら誘えるほど豪胆なのに、不思議なところで恥じらう。思わず出かかった「かわいいひとだな」を飲み込んだ一織は促す。
「だって?」
──したかったんだもん。
素直な言葉にまた煽られた一織は今度こそ陸を組み敷いた。
オレ酔っちゃった、かも。
「ねえ一織……オレ酔っちゃった、かも……っ」
頬を赤く色づかせて、はあ、とどことなく艶やかな吐息を零した陸は隣に座っていた一織の肩に頭を乗せた。
普段様々な感情を乗せる赤い双眸はとろんと蕩け、心なしか濡れているようにも思える。
「な、七瀬さん?」
「んんっ……あつい……」
Tシャツの首周りをぐいっと伸ばしては離し、風を送るようにぱたぱたと扇いでいる。暑いと言うわりには一織から距離を取ろうとせず、むしろ一織の手に自分の手を重ねた。
陸の手はしっとりと汗ばんでいた。しかし不快とは思わない。
「水、取ってきますから」
「やあだ。……離れないでよ」
冷蔵庫で冷やしている水を立ち上がろうとすると、だだをこねる子どものようにいやいやと首を横に振る。毛先が首筋にあたってこそばゆい。
行かないで、と目で訴える陸を見下ろした一織はため息をついた。
「わかりました」
「わあい」
普段であれば無視して立ち上がり即座に水を飲ませるだろう。
酔っ払いには酒と同量の水を飲ませること。
これは長い寮暮らしにより、身を持って学んだことだ。自分が飲酒する時もできるだけ同じ量の水を取るようにしている。
「いおりぃ」
「何ですか」
「えへへ、呼んだだけー」
「かわ……っ」
かわいいひとだな、は最後まで続かなかった。重なった手が甘えるようにきゅっと絡められたからだ。
思わず陸の顔を覗き込むと、にこにこと笑顔を浮かべていた。
「一織と手え、繋いじゃったあ」
「くっ」
完全甘えたモードの陸に一織の口から呻き声が洩れた。かわいすぎて、こちらの方がどうにかなりそうだ。
無邪気に甘えてくる陸のせいで、心臓はばくばくと音を立てている。
一織もそれなりにアルコールを摂取している。だが酔うほどではない。少し気分が良いくらいで、通常通り冷静に思考を巡らせることはできる。
もう一度卓上に置いてある缶を眺める。
一織が開けたのは度数が低いチューハイ缶だ。そして現在も陸がちびちびと飲んでいるのは、度数表記のないものだった。
(今も飲んでいるが……ノンアルコールということに本当に気が付いていないのか?)
それは陸自身が選んでカゴの中に入れたものだ。
二十歳を迎え、付き合いもあることで多少なりとも酒の味は知っているはずだ。
自分が飲んでいるものが酒ではないことに気が付きそうだが、しかし鈍い陸だ。そもそもアルコールの味を理解していないかもしれない。
「いーおーり? どこ見てるの」
一織の視線が自分に向いていないことが面白くない、というように真っ赤な頬が膨らむ。
むうっと目を吊り上げた陸に一織は思わず相好を崩した。
「……かわいいな」
アルコールが入っていたこともあるのだろう。いつも思っている本音がするりと零れた。
慌てて口を閉じたところでもう遅い。一織の言葉に陸は尖らせた唇をほころばせる。
「ほんと?」
「嘘は言いませんよ」
「一織はオレに嘘をつかないけど、素直な言葉も言わないよ」
だから今の言葉が嬉しい、と陸はふにゃふにゃと笑う。
陸の訴求力のせいか、それとも一織が抱いている下心のせいなのか。じいっと見つめられると再び一織の心臓は騒ぎ始めて、酔いが一気に回ったように頭がくらりとした。
すでに酒は飲み終わっているのに、体温が勝手に上昇する。
「七瀬さん、かわいいって言われたいんですか?」
「ファンの子やマネージャには恰好良いって言われたいけど、一織には可愛いって言われたい」
指はさらに深く絡まる。いつの間にか肌同士が密着していた。
一織の胸にしなだれかかった陸は吐息する。
先ほどまでかわいいひとだったのに、そこに艶が足されて混ざり合う。
「……何故?」
「聞かなくても、優秀な助手は全部お見通しだろ?」
唇は弧を描いて、しかし一織を魅了する赤い双眸は挑発的に細まった。
「一織」
はっきりとした口調で陸は一織の名前を呼ぶ。
可愛いだけではいられない。デビューしてからもう五年の時が過ぎているのだ。
互いに成長している。今も変化し続けている。
誰にでも愛される子犬のようなセンターは、大人の顔をするようになった。天真爛漫さは失っていない。だけど、前よりもずるい男になったと一織は思っている。
「間違っていたら?」
「一織は間違えないよ」
それに間違えたら酔っていたから、って言い訳したらいいんだよ。
どこかのライバルグループのセンターのように、陸は艶やかに微笑んだ。
なるほど、と心の中で呟いた一織は顔を寄せる。瞬間頬が淡く色づいて、ゆっくりと瞼が下りたことで訴求力の核である赤色の瞳が隠れた。
だが自分の行動を止めるつもりは一切なかった。
「んん……っ、ふ、あ……、んっ」
軽く唇を啄んで、閉じたそこを舌でこじ開ける。抵抗はあっさりと解かれ、迎え入れるようにひらいた口の中へと差し込んだ。戸惑うような舌を絡めると、はふ、と鼻で息をする音が聞こえた。そうして、アルコールの味がしない舌先を咎めるようにあまく噛めば、びっくりしたような声が洩れる。
しつこいファーストキスをほどいた一織を、呼吸を整えながら陸は真っ赤な顔で睨んだ。
「初めてなのにえっちなキスするなんて……いおりのいじわる」
蕩けた声で非難する陸に一織は濡れた唇を拭いながら、微笑みかける。
「嘘をついたでしょう?」
「……かも、って言ったもん」
「酔った振りをしたくせに」
答えはとっくにわかっていた。
必要だったのは、一歩分踏み出すことだけだ。
陸は素直じゃなかった一織の「かわいい」の本当の意味を最初から理解している。
「好きです、七瀬さん」
「っ、オレも……一織が、す……っ、んんんっ」
見開いた目がじわりと濡れて泣き出しそうな顔をするから、言葉を待つことができなかった。
好き、の言葉ごと吸い込む。長かった両片想いの時間を埋めるように夢中であまい陸の唇を貪った。
「はっ、も……っ、いおっ、り」
「すみません、思っていたよりも理性が効きそうにない」
「え、あっ……やっ、まってえ」
「待てもできません。ごめんなさい」
抵抗しない貴方も同罪だ。
自分でも意地が悪いと思う言葉を囁くと、ふやけた唇はどこまでもあまく「しかたないなあ」と呟いた。