SS詰め合わせ10【いおりく】Wonderful Magic!ブルスカで、リクエストいただきました。(むしろ、強引にねだったかもしれない)
団画。
「こんばんは、可愛い人。今宵も月が綺麗ですね」
「えっ、ええっ!? な、なんでここに団長さんが?」
これといって娯楽はほとんどなく、けれども平穏な街にある日突然、大きな空飛ぶ船が現れた。それは"Twilight Troupe"という有名な空飛ぶ奇術芸団の船だった。
まばゆい一夜の夢とも呼ばれるショーを披露し、対価としてとある画家から一枚の絵を受け取った彼は、飛行艇とともに街から立ち去り、すでに数か月が経過していた。
この街から数百キロ離れた王国で公演している、という噂を画家は今日耳にした。
そうしてあの晩、画家の絵を盗みに来た彼に想いを馳せて、筆を動かしていたというのに。
「んんっ? ……待って。これって噂の詐欺集団かも?」
「おっと……。そうきたか」
桟に腰掛けた優美な青年は、どこからどう見ても"Twilight Troupe"の団長だ。しかし、ここから数百キロ先にいるはずの彼が、突如姿を現したことは現実的にあり得ないので、画家は一旦彼を詐欺師(仮)とすることにした。
「私たちの名を語る詐欺集団がいるのですか?」
「姿絵が一枚もないこと、見物料が無料の代わりに街で一番価値のある宝を盗んでいくっていう噂があるから……隣町では、人の良い貴族が自ら贋作を差し出したとかなんとか……」
「それは、だいぶ抜け目ないの貴族ですね」
「詐欺には詐欺をぶつけるらしく……?」
困りましたね、と形の良い眉を顰めた青年はそんな表情でも美しい。スケッチをするような目つきで、画家はじいっと彼の顔を観察した。
黒曜石末で色を塗ったような黒髪は、斜めに差し込んだ月の光に照らされて艶めいている。ひと房のみが銀鼠の色に染まり、けれども自然な色合いだった。
精巧な作りの人形のようなかんばせに、浮かんだ微笑みにはどこか茶目っけがある。灰がかった理知的な双眸。すっと通った鼻梁に小さな唇。シャープな輪郭を正しく模倣するには、筆を迷ってはいけない。
顔だけではなく頭の上から足先まで、青年を構成するすべてを観察し、目の前のキャンバスに描かれた記憶の中の団長と見比べる。疑問符をいくつも頭に浮かべ、ようやく画家の中でぴたりと一致した。
「あ、れ……っ? 団長さん」
「はい」
「何で、ボクの部屋にいるんですか……?」
「先ほど貴方がおっしゃった、詐欺集団かもしれませんよ」
「いえ、それはないです」
きっぱりと告げると、団長の瞳が驚いたように瞠る。しかしすぐに口の端を上げ、桟から降りた彼はゆっくりと画家へと近づいた。
「何故?」
「だって、団長さんのような綺麗な顔を持つ人は、そうそうお目にかかれませんよ」
きっぱりと口にした画家の言葉に、涼しげな瞳が瞬く。
(睫毛も長いんだ……)
ほぼ反射的に睫毛の長さを測り、くつくつと笑う声に画家は小首を傾げた。笑われるところがあったのだろうか、と。
「あの、団長さん?」
困惑した自分の顔が映っている。同時にそれがわかるほどに距離が近いことに気が付いて、画家はかあっと頬を赤らめた。
「とても可愛らしい人ですね」
くすりと微笑む姿すらも絵になる。
唇が吐息にくすぐられるほどの距離感は、対人が苦手な画家にとっては避けたいものだ。ともに暮らす庭師の彼にすら許すことのできない、親密な距離。
けれども何故か団長には、無意識に許してしまう。息苦しさを覚えることもなく。
「どうされました?」
「あ、の……どうしてボクの前に現れたんですか……?」
突然目の前に現れ、自分の描いた絵を持って姿を消した団長のことを、画家は一夜の夢だと思うことにした。
それはどんなに恋焦がれても触れることすらできない存在への諦めでもあり、またあの晩を境に画家の人生を変えた最高の夢。
もう一度逢えたのなら、と目を瞑っても見ることすら叶わなかった、画家の初めての恋でもあった。
「理由を知りたいですか」
自分の絵を大事に抱きかかえたその手に、触れてみたいと思っていた。
吸い込まれそうなほどに澄んだ双眸から視線を逸らす。疚しいこの想いすらも見透かされそうで、怖い。
失望されたくなかった。
「っ、いいえ……。やめておきます」
それにきっとこれは強く願ったことによって見た、白昼夢なのだろう。
だからただ静かに彼を見つめることにした。
「ところで画家さん。星空観賞はお好きですか?」
「え? そうですね……好きです」
「ではせっかくなので、一緒に星を見ましょうか」
微笑む団長に画家は小首を傾げた。今日は数百年に一度のスーパームーンと言われており、星の光は闇夜を照らす月明かりにすべて飲み込まれている。だからこの部屋もいつも以上に明るく、青白い光は夜のような姿をした団長を美しく照らしていた。
「ああそうか……。夢だから何でもありなんだ」
「ええ。それでは失礼しますね」
愛おしい人を見せたことも。
星を見ようと横抱きで身体が持ち上がったことも。
「えっ? ええっ!?」
「口は閉じていて。ああ、そうだ。目も閉じてください」
目元を覆われ、視界が黒に染まる。驚きで開きっぱなしの画家の口は、何か柔らかなもので塞がれて、やわく啄まれたと気が付いた瞬間、視界が広がった。
「わ、あっ……」
月は見当たらず、しかし画家の目の前に映し出されたのは満天の夜空だった。
青や赤の光に、瞬く閃光。新月の夜に屋根裏部屋から見上げる星空よりもずっと美しく、漆黒の空を彩っている。ひとつひとつ異なった色があるのだと知った。
目の前を横切る流星は、凄まじい速さであっという間に視界から消えていく。けれどもまたひとつ、またひとつと星が降っては、それは小さな雨のようだった。
「綺麗……」
「喜んでいただけましたか」
「はい!」
そうして手元にスケッチブックを、裏紙のひとつすらも持っていないないことに、画家は落胆した。
夜空を彩る星屑の夜の中でも、ひときわ輝いている美しい存在をこの手に残せないことを。
ああ、でも。
「手に入らないから、美しいままなのかも」
ぽつりと零れた独り言を、しっとりとした声で返される。
「手にしても、美しいものは美しい輝きを放ちますよ」
「だけど、うつろうかもしれない……。手にした最初のうちは満足するだろうけど、やがてそれ以上のものを望むでしょう? 人の欲は際限ないから……」
この想いも届かないからこそ、美しい。
掴めない星に恋焦がれて、だから画家は偽物を生む。あの晩の出来事を描いて、隠して。
「そろそろ、ボクは神様に怒られてしまうかもしれないね」
「神に? 何故?」
眉根を寄せて訝しげな表情の団長の姿に画家は笑った。
「だって主の絵じゃなくて、ボクは貴方ばかり描いているから。聖母マリアも、たくさん描いてきたのに」
いつしか主に捧げる祈りは、貴方へと向いてしまった。
だからこそ強すぎるこの想いが、今日の夢を生んだのだろう。
「夢でも嬉しい……ボクはもう一度貴方に逢えたら、と思ってたから」
「……どうして夢だと思うのですか」
複雑そうな表情の団長の姿に、画家は今度こそ声を上げて笑う。結んだ唇へと同じものを重ねて、先ほどの仕返しも兼ねて上唇を軽く吸った。目を瞠る団長に、これも自分が望んだ夢なのだろうと口にした。
「好きです……。ボクを見つけてくれて、ありがとう」
ふっと瞼が下りる。夢を自由に操った代償なのか、浮いていた身体が落ちていく。けれどもまだ彼のぬくもりは残ったままで、声が静かに降ってくる。
「……まったく。二度あることは三度ある、という言葉を覚えていてください」
──今度は、必ず迎えに行きます。
攫われる覚悟を。と続いた言葉が、意味が正しく画家に届いたかどうかはわからない。
眠ってしまった彼の唇に誓いを込めて口づけて、応えるように指を握るぬくもりに青年は嬉しそうに微笑んだ。
舞台袖の話。(蛇足)
「夜遊びは感心しないな」
「おや、待っていてくださったのですか?」
「待ってなどいない!」
磨き終えたナイフの柄を握り、手首のスナップを効かせて投げる。
顔に触れるか触れないか。動けば当たっていただろうが、微動だにしないうえに微笑むクラウンの姿に、苛立ちはむしろ増すばかりだ。
「何処に行ってたんだ、とは聞かないのですか?」
「逢引きだろ。大男が聞いてほしそうな顔をするな」
ナイフ投げも長身ではあるが、クラウンはその背をゆうに超える。顔立ちは美しいが、自分よりもずっと大きな男の惚気話を聞く趣味はない。
「いつもよりも苛立ってますね」
「理由は三つある。ひとつは今日のショーに来てた可愛い女の子の視線が、最後出てきたアンタに奪われたこと。ふたつ、人に執着しないはずのアンタがたったひとりの人間に執着したこと。みっつ、最近皆がアンタの恋愛話に花を咲かせること」
「だいぶ私怨入ってません?」
くすりと笑う男に再度ナイフを投げつける。額を撃ち抜くつもりで投げたが、指二本で止められた。
「殺す気で投げました?」
「簡単に死なないだろ」
ナイフ投げは苛立っていた。
欲しいものはすべて手にしてきたクラウンが、たかが人間を手に入れることに関して相当悩んでいることに。
「口説いているつもりなのですが、ことごとく空振っていますね」
「は? アンタが? というか魅了が効いていないのか?」
魅了というのは、クラウンが持つ特性のひとつだ。
美しい容貌に老若男女関係なく誰もが彼の虜になる。ナイフ投げ自身も覚えがあり、彼の眷属になったことで耐性がついた。
簡単に言えば、誰もがクラウンを前にするとメロメロになる。
「うーん、どうでしょうか……。彼はとても謙虚な人ですから、なんて素敵な夢だろう、で終わりましたね」
「っはは、クラウンをただの夢扱い! 興味深いヤツだな」
口の端を上げて笑みを作りクラウンは、目を眇めた。向けられた殺気にナイフを構えるが、すぐに散る。
「あげませんよ?」
「……うわあ、ソイツ、すこぶる運が悪いな」
遅かれ早かれその人間はクラウンに攫われるであろう。
ナイフ投げは心の中で祈る。
──自分の口で喋れるヤツであってくれ、と。
王子様、キスをしてリクエスト、メルドリのいおりく
目の前では狼の足につけられた錘を、赤ずきんが斧で叩き切っていた。なかなかバイオレンスな光景である。
「わあ、壮五さんの鬼気迫る表情すごい。環の怯えた演技も完璧」
「まったくもってメルヘンではないですね。あと四葉さんの表情は完全に素です」
白雪姫に扮する七瀬陸は台本を片手に感心した。その相手役である和泉一織はあきれ混じりに目を細める。
異なる事務所のアイドルグループによる合同企画、一番くじの企画が決まったのは、半年前。IDOLiSH7、TRIGGER、Re:valeの三グループ合同も話題性が大きく、童話をテーマにしていたのも悪くなかった。
むしろ女性が好むテーマだ。企画書に目を通した一織も、この企画は間違いなく売れると確信していた。
問題は十二人全員が出演するショートドラマだった。十二人のスケジュールを押さえることが難しく、台本を配られてから二か月を要した。
"メルヘンドリーム"と書かれた台本を、陸が気に入ってしまうことは誤算だった。何度も読んでは、本読みに付き合ってとねだる。本読みがスムーズにいくと、今度は演技だ。リビングで、一織の部屋で、陸の部屋で。移動中の車の中でも付き合わされた。一織が演じた王子様のことがとても好きだと言い、頬を赤らめるのだから複雑な気持ちにもなった。
「七瀬さんはこの台本、もう必要ないでしょ」
「そんなことないよ」
次に演じるであろう場面を開いて陸は笑う。
一織もまたこのお姫様に何度も付き合ったおかげで、自分以外の役の台詞もすべて頭に入っている。眠った陸を抱き起こす際の力加減、角度すらもばっちりである。
「一織、耳貸して」
本日七回目の耳貸して、の催促だった。貸さないと、周りに聞こえる声で吹聴しそうなので、一織は陸の方へと身体を傾けた。
「王子様の一織、格好良いね」
「どうもありがとうございます」
これまた七回目の台詞の賛辞ではあるが、不思議と飽きない。
陸の声がとても甘いからだろうか。耳打ちした後の陸の頬は、ほんのりと赤い。
「何でキスシーンなかったんだろ……」
この不満の声も何度も聞いた。一織は長いため息をついた。
役柄を知らされて、しばらくしてから台本を受け取りすぐに一織は恐々とした気持ちで確認したが、キスシーンはどこにも書かれていなかった。
ホッと胸を撫でおろした一織の隣で同じく台本を確認していた陸は「えっ!?」と驚きの声をあげた。
「王子様とのキスシーンがない……」
ショックどころか悲痛な声に、何と言っていいのだろうか。緩みかけた口元を引き締めて、こほんと咳払いをひとつ。
「白雪姫という物語の最大の見せ場であるシーンですが、私たちが演じるのは難しいところですね」
「何で? 一織とオレのキスシーンはだめなの?」
「だ、だめではないですが……」
鮮やかな瞳を曇らせ眉を下げた陸の表情に、何故だか胸を締め付けられる。必死に思考を巡らせて、無邪気な「何で?」の問いかけに答えた。
もっともらしい、言葉で。
「七瀬さん、耳貸してください」
環と壮五の場面を撮り終えて、大道具とスタッフが慌ただしくセットを動かしている。少し離れた位置なので、そう簡単に会話は聞こえないだろうが、万が一聞かれては困る。
「後でちゃんと返してね」
素直に耳を寄せた陸の耳朶に触れる。ぴくっと跳ねた肩に笑いをかみ殺して囁いた。
「そんなに私とのキスシーンを望んでいたんですか?」
動揺する陸の姿を見て、自然な笑みが浮かんだ。IDOLiSH7のセンターとしては良くないリアクションだが、一織の恋人としてのリアクションであれば、満点をあげたいくらいだ。
陸の頬が真っ赤に熟れた林檎のように染まる。その熱を隠すように、一織の肩に額をのせた。
「こら。セットした髪が崩れるでしょう」
「……そうだよ」
ぽつりと聞こえてきたのは肯定だ。顔を上げ、キスが可能な間合いで、陸は唇だけで囁く。
──したいよ、キス。
一織が読み間違えていないのならば。おそらく、そう聞こえた。
「私は嫌ですよ……」
「一織?」
不思議そうに小首を傾げた陸を眺める。
キスが、ではない。
キスをしている姿を、他人に見られたくない。
ぎゅっと目を瞑り、唇をほんの少しだけ突き出してキスを待つ恋人の姿を。
頬を赤らめて、待ちきれないのか眉根を寄せているところも。
これから先、年齢を重ねていけば、お互いに誰かとのラブシーンを演じることはあり得るだろう。フリかもしれないキスシーンも、順当にいけば必ず演じる時がやってくる。
身を焦がす嫉妬の炎に焼かれるだろう。けれど、それも覚悟のうえだ。
覚悟して、陸との関係性を変えたのだ。
陸の手にそっと触れる。顔を近づけて、唇が左の薬指に触れるか触れないかの位置で止めて、彼の顔を見つめる。引いていた赤みは歓喜とともに再び色づく。
「私の愛しいお姫様。どうかこれだけは、お許しください」
普段の自分ならまず言わない言葉遣い。もしかしたら、今着ている衣装に多少は引っ張られているのかもしれない。
ふと、陸がキスシーンを求める心理が、感覚的にわかったような気がする。
演技で覆い隠しながらも本心を覗かせて、一織は蕩けるような笑みを浮かべた。
「そんなあなたの顔を知るのは、私だけでいいんですよ」
「……ずるいよ」と聞こえてきた言葉には拗ねた響きがあった。しかし鮮やかな虹彩に煌めきを湛え、陸は微笑んだ。
「ふたりきりになったら、たくさんしようね」
「……後で文句言わないのなら」
理性的であるはずの自分が、何故だか陸の願いに逆らえない。
やがて陸とともに呼ばれた一織は立ち上がり、彼の手を取りエスコートしながら、光の差す方へと歩き出した。
陸を挟んで一織と天がぎすぎすする話。リクエスト。陸を挟んで一織と天がぎすぎすする話。
ラビチャの通知が鳴りやまない。仕事の要件であれば致し方ないが、これは特定の相手からの抗議のメッセージだ。一織は苛立ち混じりのため息をついた。
「過保護ブラコン男め……」
手元にある写真集を手に取り、該当のページを開く。
夜空を彩る煙火の花々を背景に寝転がった七瀬陸が映っている。青海波と菊の花、袖には麻の葉をあしらった赤蘇芳の浴衣に黒のインナー。そこから覗いている胸板と挑発的な視線を向ける陸。
普段の、天真爛漫甘ったれの愛されセンターからは想像もつかないショットだ。
夏をテーマにした写真集の中に収録されたもので、浴衣を着用して撮影した一枚だ。はだけている、とまではいかないが、胸板が覗いており色っぽい。悪く言えば、煽情的すぎる。
デビュー当時のMONSTER GENERATiONの衣装と比べれば、露出は控えめだ。しかし普段の衣装と比べれば高く、夏らしく煽情的な姿に反響は大きかった。ファンからは肯定的で、彼の身内からは批判的に。
スマートフォンが着信を告げる。九条天、と現在において見たくもない三文字だったが、覚悟を決めて応答へと指を滑らせた。
「一織です」
『和泉一織。ボクだけど』
「お疲れ様です」
『お疲れ様。早速本題に移らせてもらうけど』
「写真集のことですよね。七瀬さんのショットへのクレームでしょう」
『わかってるなら話が早い。和泉一織、キミの案なの』
IDOLiSH7の七瀬陸の双子の兄──九条天は、ライバルグループにあたるTRIGGERの絶対的センターだ。常に完璧なパフォーマンスでファンを虜にしている。天使のような外見も相まって、現代の天使と呼ばれているが、一織に対しては一切の天使らしさは見せない。ならば悪魔か、と聞かれると、それは違うと否定はする。
過干渉ブラコンクレーマーだろうか。
「いちアイドルの私がマネージメントに携わるわけないでしょう。うちの企画やマネージャーの案です」
『彼女に聞いたんだけど、現場にはキミも付き添ってたんだよね』
舌打ちしたい気分だった。すでにマネージャーの紡への応答を終えている。陸とは違い、煙に巻くのも難しいだろう。
「私と七瀬さんはセットでの仕事が多いですから。スケジュールの兼ね合いもあり、同行しままでです」
『言い訳がましく聞こえるんだけど』
「……っ、気のせいです」
天は知らないことだが、一織と陸はひそかに付き合っている。メンバーにも、マネージャーにも言えない秘密の恋だ。
おそらく同性というものは、反対の理由にならない。ただアイドルという職業が問題だった。
またプロ意識の高い天のことだ。ファンの子が自分の恋人だと言い切る彼が、自分たちの恋愛に関して納得するはずがない。
『同行の理由は別にいいよ。ボクが言いたいのはね、和泉一織。キミがついていながら、あの一枚を許したことだよ。あんなに肌を見せて……』
年頃の娘を持つ父親か。
『風邪でも引いたら、どうするの。わかるでしょう。あの子にとっては、風邪ですら命取りなんだよ』
「そのあたりの対策はしっかりとしています」
陸の体調に関して、こちらも人一倍気を遣っているのだ。外野から、他グループのセンターからとやかく言われる筋合いはない。
「写真集の評判はおおむね高評価です。普段と違う七瀬さんの姿にファンの方は喜んでいますよ」
『だけど、すべてが良いとは思っていない。可愛い陸を求めている子も少なからずいる』
「可愛いだけが、七瀬さんの武器ではありません。格好良い七瀬さんを望む人もいる」
『そうだね。だけど、この撮影がきっかけで陸の露出が増えたらどうするの?』
空調の効いたスタジオばかりではない。外に出て、季節の異なる衣装を着て撮影する。わざと全身を水で濡した状態での撮影も存在する。
一度でも大胆な格好をさせると、ハードルが下がる。反響にもよるが、二度目や三度目は最初よりもあっさりと提案され、決定も早い。
「体調を崩させないようにしますよ。手厚いケアも。七瀬さんについているんですから」
『心は? 思ってもいなかった言葉を、想像すらもしていなかった正直な意見にはどうやって対応するつもりなの』
天の言葉はナイフのように鋭く刺さった。
やさしい世界で育った陸は、負の言葉に弱い。脆いというのではなく、受け止めて真面目に考えてしまう。単純で心が弱い。子どもの頃に抱いた無力感が、今の彼を追い立てる。
期待されたい。
それはひたむきな想いだ。けれども、同時に危うい。
善意も悪意もすべて、向き合おうする。陸の長所であり、短所でもあった。
「私がいます」
『陸の目を塞いで、危ないものを見せないでいられる? 耳を塞いで、代わりにキミのあまい言葉だけを聞かせるつもり?』
とろりとした、甘い声だった。陸に似た声で鋭く切り込んでくる。
肺の中に溜まった空気を吐き出して、一織は言葉を返した。
「過干渉にはなりません。私は私のやり方で七瀬さんをフォローします。九条さん、あなたができなかった方法で」
電話口の向こうから息をのんだ音が聞こえた。やり込めたか、と思いながらさらに言葉をたたみかけようとした瞬間、自室の扉は突然開いた。
「一織! 今大丈夫?」
「七瀬さん! 人の部屋に入る前にはノックをしてください。それと電話中です」
「ご、ごめん……」
叱られた子犬のように身を縮めてしゅんとするものだから、可哀想になってきた。悪いことをしたことを自覚しているだけに、自ら正座して反省の意を示している。
おそらく、お小言待ちだ。
素直で大変可愛らしい。
「うちの七瀬さんが、大変失礼しました」
『……いいよ。それより陸に代わって』
「……わかりました」
スピーカーフォンにしてやろうかと思ったが、大人げない行動だと判断して、結局そのまま陸にスマートフォンを渡した。
「あなたの、双子の兄からです」
ささくれた一織の言葉に反応することはなく、むしろ九条天と会話ができることを喜んだ陸は嬉しそうか顔で話し出す。
「もしもし天にぃ? うん。……写真集見てくれたんだ! どうだった?」
天の声は聞こえない。しかし、陸の相槌やリアクションで、彼らの会話の内容を推測するのは容易だった。
聞こえてくるのはとろけるような陸の甘い声。甘えた響きを含んだ彼の声は、一織を苛立たせた。
立ったまま電話をしている陸の手を掴み、座らせる。後ろから抱え込むように抱くと、肩と同時に声も跳ね上がった。
「えっ、あ、なんでもないよ……。一織? むっ……天にぃも一織のこと好きなの?」
即座に『好きとか嫌いの次元じゃない。気に食わないところが多い』と返ってきた。思わず笑いそうになり、陸の肩口に顔を埋める。くすぐったいのか、陸の声が甘さを含んで跳ねる。
「えっと、虫が服の中に入って……っ、わわっ……」
彼の唇に人差し指を当てて、首筋に唇を押し当てる。声をかみ殺しながら、必死に堪える恋人の反対側の耳朶へと囁いた。電話を切って、と。
「ごめん天にぃ。虫を捕まえなきゃいけなくなっちゃったから……またね」
『そう。刺されないように気を付けてね。またね、陸』
通話終了の文字を二度確認して、ようやく一織は息を吐き出した。
「誰が虫ですか」
「天にぃにヤキモチ妬いて、悪戯した一織が言える言葉?」
顔を見合わせた瞬間、陸が握っていたスマートフォンが震えた。送り主は、九条天だ。
『今度、陸の体にやさしい虫よけグッズを購入して持っていくね。どうやら和泉一織の部屋には、悪い虫がいるみたいだから』
文面を読んでゾッとした。感付かれるような下手は打っていないつもりだった。
「……優しい」
言葉通りの善意と陸は受け取っている。
断ることはできず、一織は無表情でメッセージを打ち返した。送信後、マナーモードへと切り替える。もう今日は店じまいしよう、そんな気分だった。
次会う時に、どんな修羅場が待ち構えているのだろうか。
今は何も考えたくない。
「一織?」
腕の中にいる陸を強く抱きしめて、一織は深く息をついた。
月に歌う
リクエスト、世界終末、最後の日のいおりく
自分の死を想像したことはあった。交通事故や災害、病気による死亡。あるいは、天寿を全うしての終わり。けれども世界滅亡とともに、人生が終わることは想定外だった。
一九九九年の七の月に人類は滅びるという予言があった。しかし、その予言は完全に外れ、人々は生活を営んでいる。
そして、その数十年後に、世界が滅びるなどとは、誰も想定していなかっただろう。
月が、地球に近づいてくることで。
この三ヵ月、世界は慌ただしかった。有名な地球科学者がSNSに書き込んだ「間もなく世界は滅亡する」という呟きが、大きな反響を生んだ。ネット内ではいろんな意見が飛び交った。凶暴性のあるものから、冷静になれというものまで。
多くの関心を集めて、荒れて、しかし鎮静する気配は一向に起きない。誰もが肌で感じていたからだ。世界が異常であることを。
政治家が議論し合う。国際会議にもなった。
地球が滅びるなら宇宙に逃げてはどうか、とノアの方舟計画があがった。だが、間に合わない、と地球科学者は言った。素人目にもわかることだった。
日が経つにつれ、大きく月が膨らんでいるようにも見えた。スーパームーンを楽しみにしていた頃が、嘘のように。
やがて海面上昇が始まり、沿岸部の人々の避難はすでに完了していた。だが、誰もが滅亡からは逃げられない。終末のカウントダウン内に、おさまっただけだった。
人々は親しい人に会い、別れを告げた。もしくは、ともに終わりを待つ人のところへと向かった。
かく言う私もだ。お世話になった人に、親しくさせてもらった相手に。最後に両親へと別れを告げて、一緒にいられないことに対する謝罪を口にした。そうして、数年しか住んでいない小鳥遊寮に戻った。
皆はリビングに集まり、六弥さんが愛してやまない"魔法少女まじかる★ここな"を視聴していた。こんな時でも、と苦笑したが、同時に安堵を覚えた。
皆が、普段通りに今日を過ごそうとしている。
「七瀬さんは?」
「月見中。様子見てきてくれるか?」
頷くと、兄さんは立ち上がってキッチンへと向かった。ちょっと待ってろ、と言われたので兄さんが座っていた場所へ腰掛ける。
「いおりんは何にした?」
主語のない問いかけに、迷わず返した。
「ハンバーグですね」
「和風? それともデミグラス?」
「両方とも」
いおりん欲張り、と四葉さんが目を輝かせる。同じだけ年を重ねたというのに、相変わらず子どもっぽい笑顔を浮かべていた。
「イチがハンバーグで、俺がひじきご飯。ミツはローストビーフサラダだろ。んでタマが」
「俺は王様プリン」
「それは、ご飯じゃなくてデザートだけどね。僕は赤から鍋」
「そーちゃんはちゃんと責任取れよ。ナギっちは?」
「ワタシはハンバーグと迷いましたが、イオリと被りましたのでピザです」
「肉か炭水化物ばっかじゃねーか……」
「大和さんが言えることか?」
二階堂さんにツッコミながら戻ってきた兄さんは、お盆を手にしていた。私と七瀬さんのマグカップが乗っていた。中身が零れないように、軽くラップがかかっている。
さすが兄さんだ。細やかなところまで、気が利く。
「日が暮れると、かなり冷えるからな」
「ありがとうございます」
受け取ると、次々と多数の手が伸びてきた。テーブルの上にあった一口サイズのチョコレート菓子、のど飴とクッキー。マグカップだけだったお盆の上に、お菓子の山が出来上がった。どうやら、今から屋上で長話すると思われているようだ。
「寒くなった時のブランケット、ひじの上に乗せるね……いけそう?」
逢坂さんが、七瀬さん愛用のブランケットを乗せてくれた。この寮における希少な常識人であり、優しい人だ。
「はい」
「いおりん、扉開けられそう?」
「見てのとおりですよ」
両手は塞がり、しかも肘に綺麗に折りたたんだブランケットを乗せられている。
六弥さんが綺麗なウインクを送ってきた。生粋の王子様だからなのか、彼は私たちにもよくファンサをくれる。
「リクに連絡しておきます。イオリが今から向かいます」
リーダーである二階堂さんが立ち上がり、扉を開けてくれる。皆に見送られながら、賑やかなリビングを後にする。扉が閉まる音は、一向に聞こえてこなかった。
廊下を進み、階段を上がった。
屋上へと続く扉は、すでに開けられていた。
「来たんだね、狼少年。いや、狼探偵と呼んだ方がいいかな?」
「何故敵側の台詞なんですか。あなたも主人公のひとりでしょう」
「背景からしても、ここは悪役の台詞がぴったりだと思うんだけど」
柵へと寄りかかった七瀬さんの後ろには、空を覆い隠すような巨大な月が見えている。まだ遠いように思えるが、あれは明日、地球に落ちてくるそうだ。
くしゅん、と七瀬さんがくしゃみをした。寒そうに自分の腕をさする彼の元へと急ぐ。
「こんな薄着で……風邪を引きますよ」
「ありがとう一織。それにしても、今日は冷えるなあ」
もう春なのに、と呟いた七瀬さんの言葉はごく自然なものだった。しかし、目はほんのりと赤い。
お盆を地面に置き、ブランケットで七瀬さんの身体を包み込むと、彼は過保護と笑った。
「甘えるの、好きでしょう」
「うん、好きだよ」
ごく自然な声で、彼はいつでも自分の気持ちを素直に口にできる。
「一織だって、そうだろ?」
世話焼きたい、甘やかしたい、って思ってる。
確信めいた瞳に覗き込まれ、私は頷いた。
「そうですよ。私がいないと生きていけないくらいには」
「わあ……。それはちょっとだめな気がする」
「昔は、自立した人を選ぶのだろうなと思っていたのですが」
七瀬さんの目が丸くなった。やがて、面白くなさそうな顔へと変わる。
素直に感情を表すところが、かわいらしいと思う。いや、ところも、だ。七瀬さんに対する、かわいいと思えるもの──例えば仕草や表情であったり、使う言葉や動作も──は、星の数ほどある。
付き合って最初の頃は、真面目に数えていたのだが、ある日を境に私は悟った。無理に決まっている、と。
ヤキモチだろうか、と思いながら、口の端を上げて答えた。
「予想外の恋をしましたので。仕方ないでしょう?」
「うーん……? まあ、仕方ないなあ」
ほら、すぐにこんなにも具体性のない答えに納得してしまう。
本当にこの人は。私がいなければ、一体どうなってしまうのだろうか。成人済みの相手に思うことではない。だが、そう思ってしまうほどにかわいい人だった。
「なあ、一織」
「何ですか?」
「小指だけ繋いでいい?」
「小指だけですか? どうぞ」
ありがとう、と笑って七瀬さんの小指がするりと絡まった。まるで、約束事をするような形で。
「先に言いますが、元パーフェクト高校生の私にも、できることとできないことがありますので」
小首を傾げた七瀬さんの頭は、そのまま私の肩へと着地する。少し声をひそめて、七瀬さんは言った。
「一方的だった約束を守ってくれたこと。大事な時に一織が、歌ってください、七瀬さん、って、言ってくれて……オレは歌えたんだ」
まっすぐだった声には、かすかな震えが混じっていた。
泣かないで、とは言えない。だけど泣いてもいいですよ、とも言えなかった。
「まったく、だいぶ前の話をここで、持ち出してくるとは……」
「だって、好きや大好きは……一織にもいっぱい、多分いっぱい伝えてきたけど、この話は初めてだろ」
「ええ」
しっとりとした、けれども甘やかな声の主を見ることはできなかった。互いに遥か彼方の、空の向こう側にあったはずの月を眺めながら、ゆっくりと会話を続けている。
「あの日、期待に応えた七瀬さんを見て、私が何と思ったか、わかりますか?」
「一織が思ったことか……良かった、とか、ホッとしたとか?」
「これが、スーパースターだ。私の……、──スーパースターだ」
「泣かないで、一織」
「……泣いてませんよ」
泣くわけにはいかない。例えどんなにこの時間が、愛おしくても。切なくても。
私たちには、この後にすべきことがある。
「ずるい……最後の最後に、そんなこと言っちゃう一織は、本当にずるい」
「その言葉、熨斗をつけてお返ししますよ」
熱視線を感じる。見遣ると、真面目な顔をした七瀬さんと目が合った。
私が欲しい、と目だけではなく、全身で訴えていた。
「熨斗はいらないから、一織をつけて」
「っ……わかりました」
やったあ、と笑う恋人に誘われるがままに、距離を縮める。
相手の呼気に触れた、と感じたのは、湿った唇のせいだった。
「……短い」
「唇を……腫らすわけには、いけないので」
「じゃあ、重ねるだけ」
「おねだりが得意な人だな」
月明かりに照らされたことで出来上がった私と七瀬さんの影は、繋がってひとつの生き物のようになっているのだろう。
明日には地球へと落ちてくる月は、ステージの頭上にある白く眩いライト。たくさんの人が関わり、全員で作り上げるライブ会場と比べると、かなり質素な音響で、光や音の演出は無し。観客は、うちの社長やマネージャー、万理さんのみ。
三脚を用いてビデオカメラで撮影する。リアルタイムのライブ映像を、ラビチューブで配信する予定だ。
当初、私の構想としては、電波ジャックも視野に入れていたが、上から駄目だと言われてしまった。家族で、あるいは親しい人同士で集まって、今日を過ごしたい。きっとそんな人たちもいるだろう、と。
IDOLiSH7は最後まで歌うことを決めた。
IDOLiSH7は、死ぬまでアイドルであることを、決めた。
明るすぎる月に隠れて、星が見えなくなってしまったから。なおさら、降ってくるであろう星屑を、流れ星を願ってほしい、と想いを込めて。
私が祈らなくても、星は降ってくる。彼の歌声に誘われて。
百年分。不足なく、私たちは歌う。
視えるひと
リクエスト、ホラー小説
今夏放送予定の"解決ミステリー夏休みスペシャルドラマ"の撮影のため、一織と陸は、東北の旅館へと足を運んだ。
今回の物語のキーとなる妖怪は、座敷童だ。
座敷童は蔵や座敷に住む神と呼ばれ、家人に悪戯を働く、見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承がある。
物語は、七智探偵事務所に一匹の烏天狗が舞い降りるところから幕を開ける。座敷童の使いだと名乗る彼は、伝言を頼まれたと口にした。内容は『家人の失せ物探しをお願いしたい』。断ろうにも、伝言とともに依頼料の前金のルビーの指輪を置いて行かれ、ふたりは座敷童が待つ家へ向かうことにした。
しかし、その家には多くの謎が残されており、ひとつひとつ紐解きながら失せ物探しをする、というストーリーだ。
そのため今回の撮影は、泊まり込みのロケとなる。監督やスタッフの後に続き、一織と陸は談話室で挨拶を交わす。
「雰囲気のあるお宿ですね」
「いやいや、うちは古いだけですよ」
旅館を切り盛りしている老夫婦は、元々は関東の出身で、定年後東北への移住をきっかけに前経営者からこの宿を引き継いだようだ。
「実際に泊まった人が、SNSで口コミを書き込んでくれるおかげで、繁盛しております」
「本当に何もない場所なので、ありがたいです」
「……本当に、いい宿ですね」
陸はぽつりと呟いた。彼の視線は廊下の奥へと向けられている。何かあるのだろうかと、その視線の先を辿ったが、薄闇だけが広がっている。
「あの、ひとつお願いがあるのですが」
「はい。何でしょうか?」
「孫が、和泉一織さんの大ファンだそうで……もし構わなければなんですが、サインをいただけますか?」
おそるおそるというように訊ねる老婦人に、一織はアイドルスマイルを浮かべた。勿論断るはずもなく、快く二つ返事で承諾した。
「サインは私だけでいいんですか? せっかくなので、うちのセンターのサインも……七瀬さん?」
隣にいたはずの陸が消えている。「お連れ様は客間へ行きましたよ」と言われ、あとでサインを書くことを約束した一織は、急いで陸の後を追いかけた。
割り当てられた部屋の扉を開けようとすると、中から陸の声が聞こえてくる。
「数日間お世話になります。ちょっと騒がしくなると思うけど……」
「七瀬さん」
扉を開き、一織が声をかけると陸は口を閉じて、振り返る。鮮やかな虹彩から色を無くしたように感情が消え、視線が合った瞬間、にこりと笑顔を浮かべた。
「今、誰かと話していたんですか?」
「んー……、この宿に、かな」
「また意味の分からないことを……。老夫婦のお孫さんが私のファンだそうで、サインを書く約束をしました」
きょとんとしたのち、陸は幾度も睫毛を瞬かせる。普段と異なる反応に、一織は困惑した。
(何だ、この違和感……)
「ああ、だから……」
「これも何かの縁ですし、七瀬さんもサイン書きませんか?」
「欲しいのは一織のサインじゃないの? なんか図々しくない?」
「あなたはうちのセンターなんですよ。もっと自分の価値を自覚してください」
「ええー……」
改めて部屋の中を見渡す。
十二畳の広い和室で、窓側に広縁があり、外の景色をゆっくりと眺めるための椅子が二脚。
部屋の真ん中には足の短い机と椅子、床の間の隣にテレビが置かれている。布団が敷かれるのは、テレビ前だろうか。
修学旅行で泊まった旅館と、あまり変わらない間取りだ。
隅の方へとカバンを置いて荷解きを始めたタイミングで陸から声がかかった。
「一織、お風呂入ってきたら?」
「え? 早くないですか?」
時刻は午後五時を少し回ったところだ。夕食の時間は七時で、談話室の右手側の宴会場に運ばれる。
「一般のお客さんはいないけど、監督やスタッフさんと一緒だろ。みんなお酒を美味しく飲みたいから、六時半頃にお風呂入ろうかなって言ってたよ」
体格の良い男性陣の姿が脳裏に浮かぶ。この現場のスタッフは、皆気の良い大人たちばかりだ。
一緒に入ると、確実に会話を振られる。逆上せるまで付き合うことになるだろう。
元々一織は裸の付き合いが得意ではない。実の兄の三月にさえ、恥ずかしいと思うのだから、他人であるスタッフたちはもっとだ。
「今から行ってきます」
ひらひらと手を振る陸に、一織は、喉元に引っかかるような奇妙な感覚を覚えた。
いつもなら、一緒に入ろ、と強引に押し切るのだ。見送っていることが可笑しい。
「七瀬さんはどうされるんですか?」
「えーと、食事の後にでも入るかな。あ、覗いたりしないから、安心して」
「お先に失礼します!」
揶揄うような陸の言葉に惑わされた一織は、気づかなかった。
陸の視線が、自分の右側へと向いていたことを。
大浴場は入り口の左側にある。男湯の暖簾をくぐろうとしたその時、足音が聞こえた。まるでこちらに向かって走るような軽い足取りの音だ。立ち止まると、右手がひやりとしたものに触れた。
「……っ!」
(何かに、掴まれている!?)
しかし同時に、質量のない虚空を掴んでいる気もする。得体の知れない、この感覚は一体何なんだろうか。
「はあはあ、捕まえた……!」
あたたかい手が引き戻すように、一織の手を包み込んだ。手の持ち主を見遣れば、肩を上下に揺らして息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
「な、七瀬さん?」
「はあっ……もう大丈夫だから」
少し苦しげな顔で一織を見つめた陸は微笑む。掴まれた手はするりとほどけた。
やがて右肩を軽く下げて、彼の手は宙を掴む。だいぶ下の方で。それはまるで、見えない誰かと手を繋いでいるようにも見えた。
ひゅっと息を吸い込む。
つまり陸のそばには、何かがいるのだ。
「一織、ゆっくり浸かった方がいいよ」
陸の背中が遠ざかるにつれ、足音も小さくなっていく。だが、そのなかに濡れた足が吸い付くような「ぺったり、ぺったり」という異質な音が混ざっていた。歩幅の違うふたつの足音が聞こえなくなったところで、一織は知らず知らずのうちに止めていた息を、吐き出した。
「この宿には何かが、棲みついているのか……」
陸だけに視える何かが、存在するのだろうか。
ならば、なおさら彼ひとりにしておくわけにはいかないだろう。
脱衣所で急いで服を脱ぎ、浴場で頭と身体を手早く洗う。その後、湯船に浸かり百秒だけ数えた。浴衣に袖を通して、髪は乾かさず客室へと戻った。
「七瀬さん! ……な、七瀬さん?」
「うわあっ!? い、一織?」
出る前は綺麗に片付いていたはずの部屋は、四方八方にあらゆるおもちゃたちが散らばっていた。おはじきやお手玉。福笑い、双六、紙風船といった、現代の子どもには馴染みのない古い物ばかり。
その中でひと際異彩を放っているのは、一織の相棒である陸だった。
「その恰好は、一体……」
「おままごとをしてたんだ。オレは娘役だから、ワンピースを着ることになって、それからウィッグまで用意されたわけ」
「なるほど」
元々の顔立ちが愛らしいからか、意外と女装が似合っている。観察するような目で眺めていれば、陸の顔はみるみるうちに赤くなった。
「オレの身体に、穴が開きそうなんだけど」
「ステージのセンターにいる人の台詞ではないですね」
「全然違うだろ……今は、その恥ずかしい格好だし」
「案外似合ってますよ」
慰めのつもりだったが、陸は目を吊り上げた。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
被っていたウィッグを外しワンピースを脱いだ陸はさっと着替え、浴衣を抱えて客室から出た。「机の上に色紙があるからサイン書いて、渡しておいて」と一言だけ述べて。
一織はため息をついた。
やはり、この部屋には自分たち以外の誰かがいるのだろう。おままごとで、陸に娘役をあてたということは、おそらく幼い女の子なのだろうか。
陸に言われた通りサインを書こうと、一織は座卓に腰掛けた。机の上には陸のサインが入った色紙と、無地の色紙。そして黒のマジックが置かれていた。
陸のサインには、"はつこちゃんへ"と書いてある。老夫婦の孫娘の名前なのだろう。
意外なことに、無地の色紙へサインを書くのは初めての経験だった。
頭の中でバランスを考えながら、マジックを手に取り、太字側の蓋を外した。アイドルのサインらしくない、契約書や大事な書類への署名のような字体で、『和泉一織』という文字を刻むように記入していく。点を打つときに鳴る「キュウッ」というマジックの滑る音。それが静寂の中で異様に響いた。
間を置かず、静まり返った部屋の空気を切り裂くように、床板がギィ、と大きく軋んだ。
子どもの笑う声が続いて聞こえてくる。おそるおそる音のする方へ顔を向けると、そこには、ぼんやりと白い人影が浮かび上がっていた。
「っ!!」
書いたばかりのサイン色紙が宙を舞う。ひとりでに扉が開き、強風が吹き込んでは一織の顔にぶつかる。目を開けられず、瞑ると扉の閉まる音が聞こえた。
「……っ」
気が付けば、散らばっていたおもちゃは木箱へと仕舞われ、箱を覆うようにワンピースが被せられていた。隙間からは乱雑にはみ出した赤髪のウィッグが、一織の目に薄気味悪く映った。
風呂から上がった陸が部屋に戻ってきた瞬間、一織は彼の手を掴み、壁へと押しやった。
「あの、一織? なんでオレ、一織に壁ドンされてるの……?」
「私の質問に答えたら解放します」
「何? 取り調べ?」
どうやら陸の機嫌は、入浴したことで回復したらしい。火照った頬や首筋を見れば、彼が温泉を堪能したことは一目瞭然だった。
「この宿……いえ、この部屋に、私たち以外の誰かがいますね?」
「……半分正解かな」
「半分不正解なのは、今はこの部屋にいないから」
そうでしょう、と確信を持って訊ねると、陸は驚いた顔をした。
「もしかして、一織も最初から視えてたの?」
「いいえ、先ほどまでは視えていませんでした。あなたが浴場へと向かい……」
サインを書いたことにより、視えるようになった。
先程の出来事を説明し終えると、陸は困ったような表情で呟いた。
「きっと、名前のせいだね」
陸は俯く。乾ききっていない髪の毛が表情を隠した。
「……ごめん、一織」
「何故謝るんですか」
ひっそりとした謝罪の言葉に、胸が強く締め付けられる。心の底から申し訳ないと、また彼が本気で悲しんでいるせいだった。
「視えたことで、少なからず怖い思いをしただろ」
「っ、そんなこと」
反論を飲み込んだ。顔を上げた陸は寂しそうに微笑み、ゆるくかぶりを振った。
「怖いのが普通だよ。だって、ここでは普通じゃないことが起きてるんだから」
できれば、一織には知られたくなかったけど。
まるで陸自身が恐れているように、一織の目には映った。
「怖い気持ちもありますが、あなたが遊ばれているのはなかなか興味深かったですね」
「もしかして女装したこと言ってる? 仕方ないじゃん……ワンピースもウィッグまで用意されてたんだから」
むうっと口をへの字に結んだ陸の姿に、一織はくすりと笑う。
ようやく普段の彼を見つけた、そんな安堵すらも感じていた。
「似合っています、と言ったのは本心ですよ。意外な姿もかわいくて」
「え、と、一織……?」
「……困ったな。つり橋効果でしょうか?」
「い、一織!?」
自分の腕で囲い込んだ陸が、とても可愛く見える。顔を真っ赤にさせ、鮮やかな虹彩をあちこちと泳がせるも、嫌悪や不愉快さはどこにも見当たらない。
「だ、だ、だめだよ……。あの子が戻ってきちゃうから」
抵抗もせず、否定の言い訳は、あの子ときた。
喜びで心が満たされるままに、そっと陸の手に自分の指を絡め、一織はひっそりと囁いた。
「私が抱いている感情とあなたの心が同じであれば……そのまま指を絡めてください」
湿った指がゆっくりと絡められようとしたその瞬間、バタンと扉が開いた。陸はするりと抜け出して、何でもないから、と言っている。振り返ると、白い人影の、おそらく顔に当たる部分を手で塞いでいるようだった。
「え? さっきのは……えーと、大人しかやっちゃだめな遊び! サイン見せてきたんだ? 良かったね」
良くない。まったくもって、良くない。
(プライバシーすらないだろ……)
今回の恐怖体験により、自分の感情を自覚した一織は肩を落とした。
しかも相手はおそらく幼い女の子だ。嫉妬するのも大人げないだろう。
熱を持った手の温度を奪うように、ひやりとした何かが触れている。"彼女の正体"に関しては、わかっていない。けれども、漠然とした恐怖心を抱くことは、もうなかった。
無題
リクエストの、ホラー小説ですが最初の話が怖くなかったので、もう一作書きました。
「本当にこの辺りで失くされたんですか?」
「うん。この大きなクスノキを目印にしてたから、間違いないよ」
二つの懐中電灯が辺り一帯を照らす。念を押して一織が訊ねると、陸はこくんと頷いた。
一織と陸はドラマ『解決ミステリー』の撮影のため、地方を訪れていた。今日の撮影分は無事予定通りに終わり、一織と陸も共演者やスタッフたちと一緒にホテルへと引き上げた。
部屋はシングルで用意されており、陸とともに鍵を受け取ってエレベーターへと乗り込む。上昇し始めたところで、陸がむくれた顔を見せた。
「何で今回は、ひとり一部屋なんだろ……」
「ゆっくり休んで欲しいという配慮でしょう」
一織も陸も地方ロケ自体、初めてではない。しかし、部屋が別々になることは珍しいことだった。
「そっちへ泊まりに行っていい?」
「いいわけないでしょ。明日も朝早くから撮影があるんですよ」
ホームシックになっているのか、撮影の合間も陸は一織にべったりとくっついていた。不仲説は絶対に浮上しないだろう、と思うほどに。
「なんだか、嫌な予感がするんだよ」
「朝寝坊の心配ですか。モーニングコールくらいはしますよ」
エレベーターから出て、握っていた鍵の部屋番と館内地図を見比べた。脳内で、非常時の際の避難経路も確保する。
「私が四〇四号。七瀬さんは」
「四〇五号。えーと……うん、隣同士だね」
声をひそめつつ、あてがわれた部屋へと向かう。鍵を回して、先に扉を開いた一織は陸に声をかけた。
「ゆっくり休んでください」
「一織もね。お疲れ様」
手探りで照明のスイッチを押す。パッと明るくなった部屋を進むと、ボストンバッグが目に入った。汚れないよう配慮されたのか、それは椅子の上に整然と置かれていた。
(先に荷解きを済ませるか)
夕食は各自ごとに済ませるように言われている。ホテルの付近にも飲食店はあるが、観光者向けの居酒屋ばかりが建ち並んでいる。駅の方まで歩けば、若者向けのチェーン店やファミリーレストラン、隠れ家的な店があるようだ。
この後の予定を頭で組みながら、荷解きをする。あらかた固まったところで、ふいに今日の撮影のことを思い返した。
いくつか場所を転々として撮影したが、最後は自然公園での撮影だった。自然公園へと足を踏み入れた瞬間、ぐにゃりと目の前が揺らいだ。隣を歩いていた陸に腕を掴まれた後に、すぐに眩暈は治まり、撮影も順調に進んだが、今思えば眩暈ではなかったように思う。
(いきなり視界そのものが歪んだような……だが、七瀬さんは普通だったな)
そう思えば、陸が一織の傍から離れなくなったのは、公園に入ってからだった。陸ひとりの撮影時に手を洗いに公衆トイレへと入り──手洗い場の鏡が汚れていたことに気づき、軽く掃除をした。ふと顔を上げると、焦った顔の陸が突如映り込み、さすがの一織も肝を冷やした。
一息ついたところで、ノック音が聞こえてきた。誰だろうか、とドアスコープを覗くと、先ほど別れたばかりの陸だった。ニット帽を深く被り、マスクをつけている。今からどこかへ出掛けるような格好の陸を見て、一織は怪訝に思いながらも扉を開けた。
「どうしたんですか?」
「スマホ失くしたみたいで……探しに行きたいんだけど」
ひどく落ち込んでいるのか、陸は俯いたままぼそぼそと呟いた。
一織はわざとらしくため息をつく。
「あとでお説教しますよ」
「付き合ってくれるの?」
「そのつもりで、私のところへ来たんでしょう」
「うん……そうだよ」
陸の返答に、一織は違和感を覚えた。何だか、彼らしくないように思える。
スマートフォンを失くしてしまったせいだろう、と考えた一織は、できるだけ優しい声を出した。
「無事スマートフォンを見つけられたら、美味しいものでも食べに行きましょう」
ホテルのフロント係に声をかける。事情を説明すると、快く懐中電灯を二つ貸してくれた。
ホテルを出て、歩き出してからも陸の口数は少ない。相当落ち込んでいるのだろうか。一織が、落とした場所の心当たりを訊ねると、自然公園の中のような気がする、と彼は小さな声で口にした。
自然公園はここから徒歩十分ほどのところにある。最後に撮影した場所だ。
すでに日は沈んでしまい、分厚い雲が月を覆い隠している。点灯している街灯の数はまばらで、車通りもほとんどない。辺りを支配する暗闇に、懐中電灯を借りた自分の判断は正しかったと確信した。
公園にたどり着くと、陸は急ぎ足で中へと進んでいく。
「走らないで。転びますよ」
一織の小言など耳に入っていない様子で、陸はさらに速度を上げた。
「七瀬さん!」
大きな声で呼ぶと、陸はぴたりと動きを止める。追いつき、浅く呼吸を繰り返した一織は、ふと可笑しなことに気がついた。
陸の呼吸が一切乱れていないのだ。
彼は呼吸器官系の持病を患っているが、それでも三、四時間のライブを歌いきる持久力を持っている。
「こっちだよ」
かろやかな声で、陸は深い闇の中へと進む。
懐中電灯を握る手が汗ばむ。
(……本当に、この人は七瀬さんなのだろうか)
姿かたちは陸そのものだ。声も、そうだ。彼の歌唱に魅せられた自分が間違えるはずはない。
けれども首筋がざわざわとする。
不快感にも似た、言いようのない悪寒。
警告するように、心臓がどくどくと騒ぎ始めた。
「本当にこの辺りで失くされたんですか?」
「うん。この大きなクスノキを目印にしてたから、間違いないよ」
二つの懐中電灯が辺り一帯を照らす。ゆっくりと地面や木の根元を、陸の足元を舐めるように辿り──そこに、あるべき影が落ちていないことに気づいてしまった。
「え」
静寂が支配する。ふっ、と懐中電灯の灯りは消えた。
暗闇に目が慣れ始める前に、何かが一織の腕を引いた。
「うわっ!」
人間の力とは到底思えないほどの馬鹿力。靴が地面と擦れるたびに細かな石砂が跳ね上がり、靴の中にも入り込む。その場で踏ん張ってみるも、ずるずると引きずられている。
「キテ」
「っ、困ります!」
「キテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテキテ」
壊れたラジオから流れているようなノイズ混じりの声色に、背筋に冷たいものが走った。目が暗闇の中に浮かぶ輪郭を捉えた。ぼんやりとした影のような人型。その顔の中心はぐるぐると渦を巻き、自分の意思では視線を逸らせない。
(七瀬さんが、この場にいないだけマシだな……)
最後に見た相手が陸であるからか、こんな時でも脳裏に浮かぶのは陸のことばかりだ。特に、陸がやらかしたうっかりを叱っている場面が多い。
(走馬灯にしては、偏りが甚だしい)
しゅんとした顔の陸のバリエーションが多すぎるのだろうか。表情差分が多すぎて、しゅんとした七瀬さんフォルダーが作れるな、と思ってしまった。
「……私がいなくなったら、誰が七瀬さんを叱るんですか。皆、うちのセンターを甘やかしてばかりで、一人くらいあの人に厳しい人は必要でしょう」
そもそも自分がいなくなってしまうと、IDOLiSH7が、七人が欠けてしまうのだ。
相手に向かって懐中電灯を振り上げた瞬間、後ろから人の気配を感じた。
「絶体絶命のピンチで思うことって、それ?」
暗闇は未だに続いている。しかし、後方から聞こえてくる声は、聞き慣れた相手のものだった。
「な、七瀬さん?」
「一織を連れて行かないでよ」
あたたかな手に腕を掴まれたと気がついた瞬間、脅威が去っていく。勢いよく引っ張られていたのに、突然離されたせいで、たたらを踏んだ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
「あなた、九字切りができるんですか!?」
「天にぃのドラマで覚えた!」
「……ああ、そうですよね」
(まったくこのブラコンめ……)
しかし、真似事の九字切りが効いたのか、黒い人影はうめき声のような音を上げた。
「さすが、天にぃ直伝」
「九条さんのオリジナルではないでしょう! というか悠長に話していていいんですか!?」
「除霊とかできないし、できるとしても、会話くらいなんだよね……一織、懐中電灯つけて」
スイッチを押し込むと、パッと光が灯る。陸の立っている場所を照らすと黒い人影だったものは、姿を変えて蹲っていた。
「雲が晴れて道ができたら、月明かりを辿って歩いて」
「アノオニイチャンガホシイ」
「一織を気に入ったの? 目の付け所はいいけど、今のままじゃだめだよ」
明るい陸の声が、諭すような、言い聞かせるようなやさしい声へと変わる。
「天国へと行って、輪廻転生の門をくぐってから、もう一度恋をして。一織はIDOLiSH7で、きっとまたすぐに見つけ出せるはずだから」
テレビをつけたらいつでも会えるくらいに、人気者になっているから。
陸の言葉に子どものような影は頷いた。
やがて陸が言った通り、雲間から月明かりが射し、空までの道筋が出来上がる。
「……これは秘密の話だけど、オレも一織のことが大好きだから、簡単にはあげられない。だけどキミのことを応援するよ」
いってらっしゃい。またどこかで。
陸の声を合図に黒い人影の姿は消えて、門出を祝うように気持ちの良い春の風が吹いた。
「終わったんですね」
「うん……。ちゃんと逝けてよかった……」
手を繋いでもいい? とおそるおそる訊ねた陸の手を一織は黙って掴んだ。お互いに手はひんやりと冷たくなっていたが、離すことはできない。
「暗いから、泣いても気づきませんよ」
「……本当に、かわいくないなあ」
陸の声は震えていた。一織の目ではただの黒い人影だったが、陸の目にはきちんと人として、映っていたのだろう。しんみりとした彼の声が、すべてを物語っていた。
「今日は、一緒に寝ましょうか」
「後でダメって言っても知らないから。一織のベッドを占拠するから」
「多少は遠慮してください」
そうして、魔法少女は恋を自覚していた
リクエスト、魔法少女パロ。
TSあり。
『九時の方向、およそ百メートル先。邪悪な反応を発見!』
「……あのさ、それって、すぐそこの公園でたむろってる黒い人たちのことだよね」
七瀬陸は、眉を寄せた。
確かに妖精きなこの耳はぴぃんっと公園に向かって伸びている。仕組みはあまり詳しくないが、邪悪な気配を察知すると、いつもは垂れ下がっている耳が伸びるようだ。
公園内に、全身黒づくめの人間たちがいた。顔に仮面のようなものをつけ、数字が書き込まれている。
屈みこみ、こちらに背を向けた状態の彼らが何をしているのかまではわからない。
『魔法少女ナナセ、メタモルフォーゼ!!』
「本当に唐突すぎだよ」
きなこがその場でぴょんとジャンプする。その瞬間、青白い月の光が陸の身体を包み込んだ。
一瞬で着ていた服が変貌し、全身コスプレのような衣装を纏った。服装の変化だけにとどまらない。男性的な身体は、小柄で柔らかな女性のそれに作り変えられ、長く伸びた髪の毛はサイドで愛らしく結い上げられた。
白を基調としたフリル付きの膝丈ワンピースを纏い、胸元には大きな赤いリボン。編み込みのロングブーツでとんと踵を蹴る。フリルをあしらった白手袋に包まれた手は、赤色の星をかたどった杖を握りしめた。
「魔法少女ナナセ、命がけで頑張ります!」
すらりと出てくる口上を、陸自身はちょっと物騒だなと思っている。
変身後に姿を消してしまうきなこに、陸はまたかと思いつつも真面目に公園へと向かった。
悪の組織の下っ端である彼らに、まずは声をかける。
「きみたち、えーと……一体何をしているの?」
「あっ! 出たな魔法少女!!」
「どうもです」
「いつもお世話になっております」
黒い人たちは様々な反応を見せた。敵らしく身構える者や、丁寧に挨拶をしてくれる者もいれば、我関せずといったように何かを続けている。
「花火です」
「花火? こんな時期に?」
呼吸器官系の持病を持っている陸は、手持ち花火で遊んだことは一度もない。しかし、それは夏の夜にする遊びという知識は持っていた。
今の陸は、身体の弱い少年ではなく魔法少女ナナセであるため、煙を吸い込んでも発作が出る心配はない。好奇心を隠せず、鮮やかな虹彩をこれでもかと輝かせてしまう。
薄闇を照らす色とりどりの光でぼんやりと浮かぶ、黒い人たち。とてつもなくシュールな図ではあるが、陸は弾ける火花を食い入るように見つめていた。
「魔法少女ナナセさんもやってみますか?」
「えっ、いいの!?」
『伍』と書いてある仮面を被った黒い人から花火を受け取る。
「あそこに蝋燭があるので、先端を近づけていただいて……あっ、まずい」
「ばかっ、そこは罠を張ってるところだぞ!」
嬉々とした顔で蝋燭へと近づき、ブーツのつま先が何かぐにゅっとしたものを踏みつけた。ひゅっと風を切る音が聞こえ、足首に何かが巻き付いて、ふわりと身体が浮き上がる。
「えええええっ!?」
「あー……すみません」
宙づりになった陸は、眉を下げた。スカートには守りの術がかかっているので、一切捲れない。たとえどんな強風すら、魔法少女のスカートを捲ることはできないらしい。
黒い人たちは、皆顔を上げて逆さ吊りになった陸を見つめている。仮面で顔が見えないが、困惑している空気は感じ取れた。
やがて『参』の仮面をつけた男は、高らかに笑い出した。
「ははっ、魔法少女を捕らえたぞ! これも作戦通り!」
「ぜんぶ、罠だったんですね……」
敵だとしても、一方的に疑ったり敵対しない。穏やかな性格の陸は、嵌められたことを悲しんだ。先ほど悪の組織らしい台詞を吐いた黒い人は、たちまち狼狽した。
「いや、その、罠は仕掛けていたが、目で見ればすぐにわかるから引っかかるとは思わず……」
「言い訳するなよ。見苦しいぞ」
「捕らえてしまった以上、連れて行かないといけないだろ」
固まってひそひそと相談し始めた黒い人たちをさかさま状態で眺めていた陸は、杖を軽く振った。すると星屑がきらきらと輝き始める。
足首に絡まった紐を切り落とすための、光の刃を思い浮かべる。魔力を杖の先にまとめ、想像通りの刃を生み出した。黒い人たちに気づかれないように、小声で力を振る。
「……えいっ」
紐を切るところまでは良かった。切った後のことは、一切考えていなかった。
魔法少女の耐久性は高く、この高さから落下したところで、怪我はしないだろう。しかし、顔から着地すれば、おそらくそれなりの痛みを受けるだろう。
ぎゅっと目を瞑る。だが、地面と激突することもなく、痛みも一向に訪れない。
「まったく……危なっかしい人だな」
「て、手下さん……?」
ふわり、とおそらく香水らしき爽やかな香りが陸の鼻孔をくすぐる。呆れ交じりに、しかしどこか甘い声に誘われるように陸はおそるおそる瞼を上げた。
全身黒づくめではあるが、黒い人たちとは異なる格好をした青年の腕の中にいる。
つばの付いた制帽から覗く黒髪は、静かな夜を思わせる。フレームレスの眼鏡をかけ、切れ長の瞳は銀鼠色で涼しげな顔立ちを際立たせている。鼻梁は高く、続く小さな唇の端でやわらかな笑みを浮かべていた。
「あなたは女性なのですから、もう少し気を付けてくださいね」
「ありがとうございます」
説教じみた言葉だが、本心で心配されているのがわかるだけに反論はできない。むしろ、青年の腕の中に抱かれたままという状況に、陸は恥ずかしそうに微笑んだ。
「あのう、そろそろ下ろしていただけますか……?」
魔法少女時の体重を測ったことはないが、そう軽くもないと陸は思っている。青年は艶やかな目を向けて、頷いた。
「地上が恋しいことに気が付かず、申し訳ありません」
「そういうつもりじゃなくて、このままだと手下さんの腕が疲れてしまうので」
「優しい人ですね。疲れなどひとつも感じませんよ」
大切な宝物を扱うように下ろされ、足の裏が地面にそろりと着く。
どこまでも紳士的な態度に、陸の頬は真っ赤に染まった。
「ボ──んんん!?」
何かを言いかけた黒い人は呻く。まるで何かに口を塞がれているようだが、仮面の下がどうなっているのか陸にはわからない。
「馬鹿だなお前……。手下さん、魔法少女の捕獲はいいんですか」
「捕獲ではなく、回収と言いなさい」
青年の冷ややかな視線に陸は身震いをした。一度たりとも向けられたことはないが、浴びた瞬間その場に凍り付いてしまいそうな、底冷えするような迫力。それが彼の持つ、もう一つの顔だった。
「そもそも時間を過ぎています」
理由はわからないが、悪の組織が魔法少女を捕まえてはいけない時間、という暗黙のルールがあるようだ。さらには活動時間も定められ、また悪の組織にも労働時間の縛りがあり、意外とホワイト企業なのだと思ったことがある。
「これ以上は近所迷惑になるので、早々に片付けて帰りなさい。勤怠は押し忘れずに」
彼の一言で、黒い人たちは後片付けを始める。ということは、今回も魔法少女の責務はいっさいなく、むしろ悪の組織に所属する青年に助けられただけである。
「手下さんも、もう帰ってしまうんですか」
「はい。時間も遅いので」
「そうですか……」
眉を下げ、しゅんとした表情を浮かべた陸に青年は微笑む。サイドテールの毛先をそっと掴み、唇を押し当てた。
「おやすみなさい。良い夢を」
恭しく礼をしたのち、青年の姿は消えた。黒い人たちがこの場にいるのにも関わらず、陸は両手で頬を押さえて、吐息を洩らす。
「か、格好良い……」
好き、という言葉は声に出さず、けれども唇はその想いを形どる。
何故魔法少女と悪は対立しているのか。悪の組織は一体何のために存在しているのか。陸は知らない。
ひとつだけ確かなものはあった。
黒い人たちは去っていくのを見届けた後、陸は人の目がないことを確認して変身を解く。
少女から少年の姿へと変化して、しかし未だこの胸の高鳴りはおさまっていない。
「また手下さんに助けられちゃった」
敵だとわかっていても、高潔な青年に惹かれずにはいられない。
そうして、魔法少女は恋を自覚していた。
椿の君よリクエスト、アイナナロマン衣装より。
椿の館に少女の幽霊が棲みついている。
教室の隅にかたまって声をひそめて話す学友たちを尻目に、和泉一織は黙って机の中を片付けていた。
必要な教材を鞄へと仕舞い立ち上がると、コートを羽織り帽子を被って、静かに教室を後にした。
──馬鹿馬鹿しい。
彼らが話していた椿の館というのは、街外れにある洋館のことだ。白い建物をぐるりと囲うように様々な椿が植えられており、冬には紅、朱、薄紅の花を咲かせることから街では『椿の館』と呼ばれている。七瀬公爵家が所有している建物で、年に数回、帰省時に使用すると噂を耳にしたことがある。
木造建築の居住が多いこの街では、椿の館は異質な建物だった。
だからなのか、根も葉もない噂が立ってしまうのは。
──噂話への熱意を、少しでも勉学に向けられないのか。
優秀すぎるがゆえに、一織もまた校内では異質として浮いている。彼らは一織を天才だと思い込んでいるが、実際は一織が勉学に励んだ結果であることを知らない。一方的に羨み、僻み、士族の方には平民の気持ちがわからないと言う。その幼稚さが一織には合わなかった。
ふいに白い何かが一織の目の前を横切る。顔を上げれば、小さな雪の結晶がいくつも降り始めていた。
書籍館へと向かう歩みを止め、空を見上げた。積ることはないだろうが、日が暮れて雪の降る夜道を歩いて帰路につけば、両親を心配させてしまう。
今日はまっすぐ帰るか、と一織が振り返ったと同時に何かがぶつかってきた。
「っ……大丈夫ですか?」
慌てて、尻もちをついた相手へと手を差し出す。深紅色の羽織に、桜色の着物。そこには鮮やかな椿が描かれ、帯の深緑は瑞々しい葉の色を彷彿とさせた。肩まで伸びた赤茶髪は三つ編みに結い上げられて、赤色の蝶の飾りが止まっている。まるで椿の花が人の姿を取り、出てきたようにも思えた。
何よりも一織の目を惹いたのは、少女の大きな瞳だった。
鮮やかな虹彩は驚きを映し、やがて観察するようにじっとこちらの顔を見つめている。
「綺麗だなあ」
手の甲で口を覆う。しかし、この言葉は相手の口から出たもので、決して一織の心を読んだのではなかった。
「……綺麗とは?」
「キミの目の色が、今日の空よりも鮮やかだから」
今までに言われたことのない賛辞に、言葉に詰まる。頬が赤らんでいるのを自覚する。
「……ありがとうございます」
相手は満足したようで、ようやく一織の手を掴んだ。力を入れて起こすと、想像していたよりも身軽だった。思わずたたらを踏んだ一織だったが、反射的にその細い体を抱き留めた。至近距離で顔を見合わせ、どちらからともなく笑みがこぼれる。
背丈は自分よりも少しばかり低い。同じくらいの年頃か、あるいは上だろうか。不思議と年下には見えなかった。
「ぶつかってしまい、すみませんでした」
「ううん。お……わたしも前をよく見ていなかったから」
繋いだ手がほどける。ぺこりとお辞儀をした少女は、ゆっくりと歩き出した。おぼつかない足取りで。歩幅が小さいのか歩く速度が極端に遅い。
気になった一織は少女の後を追った。肩に触れる。ほっそりとした小さな肩に驚きつつも、口を開いた。
「もしかしてぶつかった時に足を痛められましたか」
「えっと……私はあんまり屋敷の外に出ないから、足が疲れただけだよ」
ぎこちなく笑う少女に考えるよりも先に身体が動いた。背を向け、屈みこむ。
尊敬する兄からの教えと、初めて感じた衝動が一織を突き動かしていた。
「お屋敷まで送ります。道案内をお願いできますか?」
「っ、うん!」
想像していたよりも彼女の身体は軽かった。先ほど起こした時にも感じた。人ひとりを背負えばもっと重心が変わるはずだと、どこかで学んだ記憶がある。それが来ない。
このまま別れていたら、道端で倒れていたのではないかと考えてしまうほどに、頼りなかった。
「このまままっすぐ行って、街を出て」
「隣町に住んでいるのですか?」
「元々は帝都に住んでいたんだけど、病気がひどくなったから療養としてこの街に引っ越してきたんだよ。知ってる? 椿をたくさん植えている洋館のこと」
「……確認したいのですが、窓を開けて歌っていますか?」
「ええ? そうだけど、何でそれを知っているの!?」
どうやら噂の元はこの少女のようだ。肝試しなどで洋館へと立ち入り、彼女の姿を目撃したのだろう。
やはり噂など馬鹿馬鹿しいものだ。そう思った瞬間、大きく息を吸う音が聞こえた。
それは小鳥のさえずりのようで、けれども一織の鼓膜を震わせた。聞いたことのない、もの哀しい歌はしんしんと降りつづけるこの空間にひどくあっており、美しくも悲しい響きを持ち合わせている。
人間離れした彼女の歌声が、ただの噂をよりいっそう真実味のあるものにしたのだろう。
レコードで聞いたどんな歌手よりも、ずっと素晴らしいと感じながら。
「……はあ、ねえ、どう?」
「……素晴らしかったです。手が塞がっていなかったら、拍手を送ってます。おそらく今も」
「っ、え? そっち? 歌詞じゃなくて?」
一織は昔から、いいものを見つけることが得意だった。祖父母が始めた呉服屋に入り浸っていたこともあり、商才は教わらずとも身についていた。雪の降るこの街には似合わないと思った。もっと広い場所で、大勢の前で歌うべき声だと。
「名前は?」
「えっ、えと、七瀬陸と言います」
「七瀬さん。私は和泉一織と申します」
顔を向けて、戸惑う彼女へと笑いかける。よろしくお願いします、と先に口にした一織に陸も「えっと、よろしく?」と小首を傾げた。
「もっと大きな場所で歌いたいと思いませんか?」
「え? まあ、歌えるなら歌いたいけど」
立ち並ぶ家の数が減り、目を凝らせば艶やかに咲く椿の姿が映る。速度を落として、人通りのない道で一度陸を下ろした。
「あ、ありが……わあっ!?」
冷たい手を包み込むように握る。やがてゆっくりと白い頬を染めた朱が、陸を可愛らしく飾った。
「あなたの歌は素晴らしかった。今まで聞いてきた、スタァと呼ばれる人々の歌声よりもずっと、私はあなたの歌声が一番だと思いました」
「あ、りがとう……ちょっとどころか、かなり照れちゃう」
控えめに笑う陸を見て、一織は静かに決めた。
「歌うことが好きですよね」
「うん。好きだよ。身体の弱いオレにでも唯一できることだから」
このひとの、歌を届ける手助けがしたい。目を伏せた陸の手を強く握りしめた。
「私たちが大人になったら、私と一緒に浅草へ行きましょう。そこで歌ってください」
「うん……えっ? ええ!?」
和泉一織には確証があった。そう遠くない未来、陸が歌う姿に聞き惚れる人々の姿を、鮮明に描くことができる。
「あの、でも、声は絶対変わるよ……オレも金糸雀みたいに唄を忘れちゃうかもしれない」
弱々しい言葉とは裏腹に包み込んだ手に力が込められている。
「ああ、先ほどの歌ですか? 私は忘れないと思いますけど」
「どうして?」
「七瀬さんご自身がおっしゃった、唯一できることであり、好きだからこその歌声だからです」
断言する。鮮やかな虹彩は揺れて、やがてそこに水の膜を張った。泣きそうな顔を伏せて、ぽつりと口にした「本当にそう思う?」という声に、一織は強く頷いた。
「不安だと思うなら、七瀬さんが納得するまで約束しましょう」
「それって、かなり強引すぎないかな……? でも、いいよ」
雪はまだしんしんと降っている。手の中に生まれた熱が、雪の冷たさすら溶かしてしまいそうだった。
カレンダー
帰宅後、洗面所へと直行し、いつものように手洗いうがいを終えてリビングに入ると、にこやかに笑う私と目が合った。愛想笑いではなく、完璧なアルカイックスマイル。
これをここに貼ったのは、七瀬さんで間違いないだろう。
何とも言えない気持ちで、そのまま視線を下げていく。どれだけ写りが良くても、自分の顔をうっとりと眺める趣味は私にはない。客観的な分析はするが、自分の顔を好んでは見ない。
下には日付と曜日が書かれていて、ささやかな空白がある。これは今年のカレンダーだ。毎年発売しているが、自分たちが映ったカレンダーを、今までに使用したことはなかった。事務所では活用されているので、年が明けるたびに少々気恥ずかしく思うのだが、それも次第に慣れていくものだ。
空白だった箇所には、すでに七瀬さんらしいまるっこい字で、いろいろと書き込まれていた。
○○スタジオ××時から、という七瀬さん個人のスケジュール。そして25日の箇所には一織の誕生日、とうさぎのイラストを添えている。青と赤のボールペンで書いた花を降らせては、結果枠外にまではみ出ているのだから、何だか可笑しかった。
他にはどんな予定を書き込んでいるのだろうか。
半年後の7月9日には、『オレと天にぃの誕生日』という記述があった。文字だけの、質素な表記に被らないように、『その日は、ふたりきりで過ごしたいと考えています』とメッセージを付け加えた。
自分のスケジュールを書き出して、オフの日はオフと表記する。気がつけば、カレンダーはスケジュールでぎっしりと埋まってしまった。
これではもはやスケジュール帳だ。なおかつ、人気アイドルという肩書きを証明するかのように、文字の密度が凄まじい。
「ああ、そうか……私と七瀬さんのふたり分だからか」
現在、私と彼は一緒に暮らしているが、互いに多忙であるため、顔を見合わせる時間は無いに等しい。
一人暮らしと言っても過言ではない。この部屋の主たちは、入れ替わり立ち替わり帰宅しては少しの仮眠を取り、またすぐに出ていく。無人の時間が多いためこの部屋は、いつも冷え冷えとしている。
私たちの仕事は、百貨店のように繁忙期と閑散期がはっきりとはしていない。
アイドルも人気商品なだけあって、売れれば売れるほど多忙を極める。だが、それは有難いことでもあった。デビューから今も変わらず、IDOLiSH7は人気のあるグループだ。結成から今年で十年目だが、様々な仕事が舞い込んでくる。
残りのスケジュールを書き終えた。文字でびっしりと埋まった1月のカレンダーをぼんやりと眺めて、あることに気が付いた。
「次からシールにするか……」
スケジュールのシールではなくとも、丸型のカラーのシールでもいい。
たとえば、青のシールは私のオフの日、赤のシールは七瀬さんのオフの日というようにすれば、わかりやすくてスマートだろう。おそらくその二種類のシールは驚くほど減ることはないだろうが、青と赤のシールが並ぶ日もあるはずだ。
書き込んだばかりのカレンダーをカメラで撮り、七瀬さんへと送る。メッセージはあえて書かなかった。
しばらくした後に届いたメッセージは『オレたち、人気アイドルみたい!』と、まあ彼らしい。『みたい、じゃなくて人気アイドルですよ。国民的スーパースターさん』と送ると、照れた顔のうさぎのスタンプで返された。
十年経っても相変わらず、かわいい人だ。
日々はあっという間に過ぎ去っていく。
ある程度スケジュールが決まってきたので、カレンダーへ書き写すことにした。8月には私と七瀬さんのキメ顔の写真が使われている。自分のキメ顔を見つめることは、ある種の苦行である。
青の丸型シールを貼り終えたところで、帰宅したばかりの七瀬さんが出てきた。
「あっ、スケジュール書いてるの?」
「はい」
何故か七瀬さんはカレンダーを捲った。一体どういうつもりだろうか。
今月のカレンダーを見つめ「あっ」と声を上げる。どうしたんですか、と問いかけは彼の唇に塞がれて、質問事項はかき消された。
軽く啄まれ、あっさりと離れていく。
「いまのは?」
どうせなら、もう少し堪能したかったという気持ちがあられもなく表情に出ていたのだろう。
七瀬さんは笑いながら説明してくれた。
「今日のところにハートマークつけてたんだけど、これはキスをするって意味で書いた」
今日のタスク完了、と嬉しそうに笑うので、私も彼の真似をして星マークを書き込む。明日の日付のところには、青と赤のシールが寄り添っているだけだ。
「星マークって……んんっ」
記号の意味を聞きたかったのだろう。重ねて、吸って、とろりとした舌を堪能してから、濡れた双眸を覗き込んで囁く。
「キス以上のこと、でしょうか」
「……っ、嫌だって言ったら……?」
嫌だ、って顔していないくせに。
真っ赤になった耳朶を軽く噛み、囁いた。
それはきっと好きなところ
2026.5.7のアプリ内イベント
DOLCOLLEネタ、一織、陸ラビチャネタバレ含みます。
「あっ……これ」
詰め込まれたスケジュールをこなしながら、ようやく訪れたオフの日。引っ越しの準備も兼ねた片付けの最中、陸はとある雑誌を見つけた。
レインボーシティを盛り上げるために、四事務所合同企画である『DOLCOLLE』。第三弾目は一織と陸のユニットだった。ユニット名はないが、ファンの間ではふたりのユニット曲からもじって”フラウェ”と愛称で親しまれているのを、陸は微笑ましく思い出していた。
一織と腕を交差させ、互いのカラーの星を掴んで笑っているツーショットが表紙に使われており、懐かしさに目を細める。IDOLiSH7初のフルアルバム『i7』の特典用の撮影で着用した衣装を、再び纏うことは面映ゆく、不思議な心地だった。
思わず手にした雑誌をパラパラとめくっていく。片付け中にやってはいけないこと第一位にあがるだろう、本や写真を眺める行為を陸は普通に行った。
もしも一織あたりに見つかると「七瀬さんって、つくづくテンプレートなことをしますよね」とでも言われそうだ。その後に「泣きついても手伝いませんからね」だろうか。
「でも、泣きついたら絶対にオレを助けてくれるもんなあ……」
あの頃も一織はやさしかったが、一緒に年を重ねるにつれて随分と甘くなったように思う。何だかんだで「仕方のない人」と口の端を緩めて、少しだけ嬉しそうな顔をして手伝ってくれるだろう。
「ふふっ、この頃の一織、可愛いなあ」
まるで今の一織は可愛くない、とでも言っているような口ぶりではある。しかし、大人になった一織も陸にとっては可愛い年下の──いや、どちらかと言えば、格好良くて頼れる恋人の方が強いかもしれない。
女性的な顔とまではいかないが、涼しげな美少年だった。聡明な灰がかった瞳は、どこか冷たい印象を与えていたものだ。だが今は端正な顔立ちの青年で、目元にやわらかな笑みを浮かべている。可愛いというよりも、格好良さに溢れている。
笑っている顔の印象が強いのは、ひとえに自分のおかげだと陸は思ってすらいない。
カラフルなボールの中を泳ぐ──転がっている自分の写真。おそらく陸を見て、微笑んでいる一織の写真。楽しい時間だったなあ、と鮮明に記憶は映像として浮かんだ。頬をゆるませながら次のページをめくる。
インタビュー記事だった。パラパラとページをめくっていた陸の目が、ふと『お互いの格好いいところ』という見出しで止まった。
「っ……うわあああっ!」
思わず、うめき声が出てしまった。それは苦いものを口にした時とは、反対のあまりにも美味しい物を食べた時の、上手く言葉にできない時のそれ。嬉しすぎて、どういう顔をすればいいかわからない時の気持ち。
気恥ずかしい。至近距離でストレートな愛の告白を受けたみたいに。けれどもそれ以上に、一織のことが好きで、好きで──たまらない。そんな気分にさせられた。座っていた姿勢を崩し、その場に転がる。写っている自分のように、たくさんのカラフルなボールの中でごろごろと転がってしまいたい。
「七瀬さん、どうかしましたか!」
「い、一織っ」
ノックもせず、慌てた顔の一織が陸へと駆け寄る。理性的な眼差しを向けられ、それから手にしている雑誌を見た瞬間、安堵へと変わったのを陸は見逃さなかった。
「さすが七瀬さん。テンプレート通りですね」
「あははっ、言うと思った」
一織は驚いた顔を浮かべた。想像通りの言葉でついつい笑ってしまったが、本当は自分が一織のことをよく理解しているのだとわかったことが何より嬉しかった。
「そのページの……格好いいところで、悲鳴を上げたのはどうしてですか」
「拗ねないでよ、一織。さっき上げたのは悲鳴じゃなくて、すごく嬉しくて変な声が出ただけだよ」
「喜んだ時に出す声ではなかったと思いますが」
「そこ、追及するなよ! でも、一織が駆けつけてくれたことも嬉しかった」
起こして、と目だけで訴えると、一織はふっと息をついた。仕方のない人、と呟いてから腰を掴む。
陸は現役アイドルをぎっくり腰にするわけにはいかないと、床に手をついて自らも上体を浮かせた。
「えへへ、こういうの何だったっけ? 以心伝心?」
「どちらかと言えば、優れた私の分析力のおかげでしょう」
後ろから抱きこまれて、陸は一織にも見えるように再び雑誌を開く。
「オレの格好いいところ、歌っているときだって?」
「当たり前でしょう。歌っている時の七瀬陸は、他のアイドルたちよりも……世界で、いえこの宇宙一格好いいスーパースターですから」
低くなった一織の声に耳朶をくすぐられる。熱っぽく、しかし淀みなく言い放った恋人の言葉に陸の方が白旗を上げた。
「……あのさ、オレが言うのも何だけど恥ずかしくないの」
「事実ですし、それにあなたが照れることはわかっていましたので」
「かわいい人だな」──耳元で囁かれたその声は、どことなく悪戯めいた色彩を帯びていた。
顔だけではなく、うなじまで赤くなっているのがわかる。振り返らなくても、振り返ったとしても、一織にはすべてお見通しなのだろう。
だったら、と目を潤ませた陸は振り返ることを選んだ。
「IDOLiSH7やオレのことで真剣に悩んでいる一織も、すごく格好いいよ。でも、今みたいなオレを甘やかしたいって顔も……大好き」
この想いがしっかりと届きますように。ひそかに願いながら、誓うように顔を寄せた。この顔だけは、ファンの子に見せたくないなあ、とも思いながら。