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    七日後に別れましょう。プロローグ1日目プロローグ
     置いていかないで。
     オレも置いていかないから。

     無理やり交わした約束からすべて間違っていたのかもしれない。
     必要とされたかった兄と別離して、それぞれの道を進んでいくことが自然に決まった日。
     病気が軽くなってきた十三歳の頃、掴むことができなかった手の代わりに、少し低めの体温がそっと寄り添って、期待してくれたから。
     オレはきっと、恋をしてしまったんだ。
     相棒である一織に。
     それが間違った選択肢であることに気が付かないふりをして。




     余裕で一日のオフが取れていたことが、とても昔のことのように思える。
     自分も含めてメンバーのスケジュールは半年以上先まで埋まって、休憩時間といえば移動時間と楽屋での待機時間くらい。
     数年前に成人を迎えたことで未成年ではなく、十八歳未満に適用される、二十二時以降の労働制限もなくなった。だから日付が変わってからひとつの仕事が終わって、また数時間後に次の仕事がやってくるのも問題がなくなった。
     メンバー全員で暮らしていた寮は、最年少である一織、環が成人を迎えたことで卒寮となり、今はデビュー前の新人アイドルたちが暮らしている。
     バラバラになることが決まった日、一緒に暮らしたい、と一織に言ったのは陸だった。最初からそのつもりでした、と顔を背けてぼそりと呟いたのは一織で、付き合って間もない頃だったから、とても嬉しかったことを覚えている。
     同じ鍵が二本。無くさないように、と恥ずかしがる一織を押し切り、ペアになったストラップを互いの鍵に結んだ。勿論青と赤、それぞれのカラーで選んだ。
     誰もいないマンションの部屋の鍵を差し込む。空回ることを願いつつ、だけど鍵が開くときの手ごたえが伝わった。半回転したことで結んであるストラップがぶらぶらと揺れる。今にもぽーんっと、どこか遠くへと飛んでしまいそうだ。
     数年間使っているので、陸のストラップはところどころ赤の塗装が剥げてしまった。紐部分も擦り切れて透明な線が剥き出しだ。ぷつんと切れるのも時間の問題かもしれない。一織が付けているストラップはどうだろうか。最近見ていないのでわからない。
     外側のドアノブを引き、一歩足を踏み入れる。扉が閉まると、廊下の先にあった闇がぐぐっと伸びて、陸を飲み込んだ。
    「ただいま……」
     返ってこないとわかっている挨拶を慣習で口にする。手探りで照明のスイッチに触れて、喉にせり上がってくる感情をぐっと堪えた。
     そしてもう毎日のように誰もいない部屋に帰っているのに、淋しいと思ってしまう自分が可笑しくて笑えてしまう。
    「さびしいよ……一織」
     同居人の名前を呼ぶ。恋人の名前でもある彼の本日のスケジュールは明け方四時まで埋まっており、陸も朝三時にはこのマンションから出なくてはいけない。
     食事も取らず、向かった先はふたりの寝室だ。大きい方がゆっくりと身体を休められる、とクイーンサイズのベッドを選んだ一織は間違っていない。自分たちの仕事は忙しく、短い睡眠時間でもしっかりと身体を休ませなくてはいけなかったのだから。しかしどれだけ寝返りをうっても、陸ひとりではこのベッドを埋められず、ひとりぶんの空いたスペースを温めることすらできない。寂しさが募るのは盲点だった。
     初めからひとり暮らしをしていれば、こんな風に人肌恋しいなどと思うこともなかっただろう。
     友人や相棒よりも密接な関係の、恋人という名前がついているのに、顔を合わすことすらできない。テレビ局ですれ違うこともないため、ここ最近ずっと液晶画面でしか恋人の姿を認知できない。
     ファンの子の方がまだ近いんじゃないだろうか。そんなことを考えてしまう自分に嫌気が差す。
     朝の生放送番組で流した番宣のVTRで元気そうな顔を見て、夜のニュース番組のキャスターとして読み上げる一織の顔を見て少しやつれたことを知る。
     新曲の打ち合わせでようやく会えたかと思いきや、またすぐに別の現場へと向かう。
     食事も、ベッドも、何もかも。何ヵ月もともにできていない。
     ラビットチャットでの個人間のやり取りは三ヵ月前が最新で、電話の履歴は一ヵ月前。しかもそれはプライベートではなく仕事上の話しかしていない。
     抱きしめて、と言えたらどんなにいいだろうか。
     一分でもいい、いやこの際十秒でもいい。
     我儘を言う相手がいない。甘やかしてくれる存在がこの場にいないことが、こんなにも辛いなんて思わなかった。
    「アイドル失格です、って叱ってよ」
     一織。
     瞼をそっとおろしても、叱る一織の姿は何故か出てこない。
     モニターの向こう側。完璧なアイドルを演じる和泉一織が現れて、遠いなと陸は思った。
     
     
     設定したアラームに起こされ、まだ日の出ないうちから働いて日付が変わった後に帰宅する。
     それだけIDOLiSH7が売れているのは純粋に嬉しく、やりがいもある。
     カメラの前で笑って、怒って、悲しんで、楽しんで。カチカチとスイッチを切り替えるように、望まれるまま七瀬陸はアイドルの七瀬陸を演じている。
     そうしてふいに思う。自然にアイドルをしていた七瀬陸は、どこにいってしまったんだろうか。

    「お疲れ様でした」
    「お疲れ様です。本日もありがとうございました」
     半日以上の時間を費やしてバラエティ番組の撮影が終わった。共演者、カメラマンやスタッフ、番組に携わる大勢の人に挨拶した陸は、早足でスタジオから出た。
     楽屋に戻り、急いでスマートフォンを見る。メッセージの通知が七件ほど溜まっていた。
     一件はどこかの店のお知らせ。お得なクーポンが届いてます、という内容だったので読まずに既読だけ付けておく。
     五件はマネージャーの紡からだ。どうやら次に予定していたドラマの撮影が、天候により中止という旨のメッセージだった。急遽訪れたオフと次の撮影日時変更に関する内容。最後のメッセージの『別件ですが一織さんもオフになりました』の一言に沈んでいた気持ちは一気に晴れた。
     なるほど。だから一織からも一通届いていたわけだ。
     続いて一織から送られてきたメッセージをひらく。
    『機材トラブルにより撮影延期となり、少しの時間ですがオフになりました。帰宅します』
     頬を緩めた陸は久しぶりに喜びのスタンプを一織へと送る。しばらく画面を見つめていたが、既読はつかない。まあいいか、とスマートフォンを仕舞った。
    「あっ、マネージャーに返信しなきゃ」
     素早く身支度を整えて、紡へメッセージを送る。次の現場移動のための迎えは無くなってしまったので、タクシーを呼んだ。

     久しぶりに一織に会える。浮かれた陸は評判の店で惣菜を購入した。やたら長い横文字のサラダ、ローストビーフ、黒毛和牛のビーフコロッケ、海鮮ちらし寿司。和洋折衷入り混じりになってしまったが、一織なら笑って食べてくれるだろう。多様性ですね、なんて言いながら。
     まだ熱を持った出来立ての商品を両手に抱えてマンションへと帰り着く。陸たちの部屋は高い位置にあるので見上げたところで、明かりが灯っているのかはわからない。鍵を回して玄関に入って初めて不在かどうかわかる。
     けれども今日は落胆しなくともいいのだ。一織が帰ってくる。一日の休みではなくとも、半日いや、数時間かもしれないが、顔を見て食事ができる。
     ふわふわと夢のような気持ちだ。遠距離恋愛をしている人もきっとこんな気持ちなのだろう。待つ時間すらも愛おしい。
     軽い足取りでエレベーターへと進む。ぐんぐんと上がる箱はまるで陸の心を表している。
     墜落するなんて、はなから思っていなかった。

    「え、仕事が入った……?」
    「すみません。赤城プロデューサーから誘われました」
     帰宅した一織から告げられたオフの取り消しに陸は呆然とした。
     申し訳なさそうな顔ではあるが、一織は身支度を整えている。
     私服からスーツへと着替えて、長い指は器用にネクタイを結ぶ。ぼんやりと眺めながら、その指に触れられていない期間をつい逆算してしまった。
    「帰りは遅くなりますので、先に寝てくださいね」
    「……うん。一織、飲みすぎちゃダメだよ」
     気遣うような台詞は自然に出てきた。けれども、最初から決まっていたように、まるでテンプレートな聞き分けの良い言葉に一織は何も思わなかったらしい。
    「すみません。買ってきてくださったのに」
    「いいよ。明日食べられそうなら食べちゃって。ラップして冷蔵庫に入れておくから」
     昔と比べると作り笑いも上手くなった。今では一織を欺くことができる。
     向けている相手は、こちらを見る暇もないようだが。
    「一織……あのさ」
     陸が一織を呼ぶよりも先に、一織はポケットからスマートフォンを取り出した。画面を一瞥し、指をスライドさせた後、耳にあてる。
    「和泉一織です。お世話になっております……はい、その件につきまして私の方から説明を──……」
     眉を下げてジェスチャーで謝られ、一織はそのままリビングから出ていく。
     仕事なのだから仕方ない。わかっているのだ。忙しいということは愛されているという証拠だ。常にファンの子たちに求められているからこそ、笑顔を絶やさずにカメラの前に立つ。忙しいのは一織ばかりだけではない。自分もそうだから。
     仕事とオレどっちが大切なの、などと試すような言葉を口にすることは許されない。物分かりのいい恋人でなければ互いに潰れるだけだ。
     だけど、陸の心はもう限界だった。期待していた分だけ膨らんでいて、止める方法も小さな穴をあけて抜き出すこともできない。もう破裂寸前だ。
     指先が震えていた。発作が出ないだけマシだった。
    「これ以上は……もう無理かも、しれないな……」
     ふたりで住んでいても広いと感じる部屋にひとりぼっち。恋人らしい触れ合いも、もう数ヶ月近くご無沙汰で、同居人どころかすれ違っているばかりだ。
     それならいっそ、別れてしまうか。
    「オレはおまえのことが、好き……なんだよ」
     けれどもこんな生活が、これから先も続くのならば、この好きという感情は恐ろしいものに変わってしまうかもしれない。
     愛憎という言葉が存在するように、愛の裏にある感情は憎しみだ。
     寂しさが不満を増幅させる。
     恋しさが悲しみを生む。
     孤独が七瀬陸を蝕む。
    「嫌いになりたくない、好きでいたい……」
     置いていかないで、と願った。それは恋に気がついていない頃に一織と交わした約束だ。
     その約束が、別れた後にも継続されるのであれば、きっと陸はこれから先も生きていけるだろう。
     裸で抱き合ったり、口づけしあうことはもう出来ないけれども。
    「寂しいのは、辛いから」
     あたたかい料理はいつしか冷めてしまった。パックから、袋から皿へと移し替えて、一織と向かい合って食べられるように準備していた。
     いただきます。口にした挨拶は抑揚のない、どこか機械的な声色だった。
     手を合わせた陸は、ひとり静かに食事を始めた。


     どんなに辛くても、必ず朝は来る。誰にも等しく、残酷に。
     プロである以上、涙を零して目を腫らすことは許されない。頭のてっぺんから足の先まで、見えないところまでもが商品だ。
     体調管理は勿論のこと、自分の感情でコンディションを崩してはいけない。
     朝の情報番組は溌剌とした笑顔で挑み、移動中に次に向かう現場の台本を読み進め、落とし込む。
     七瀬陸から演じている役へ。影のあるミステリアスな青年は、今日の陸の心と上手くリンクしてくれた。そうして思う。昨夜の落胆や寂寥は、ここへと繋がっているのだと。そんな風に言い聞かせて、どうにか七瀬陸を納得させた。
     忙しさに慰められる。考える暇もないことに陸は感謝した。
     けれども仕事と仕事の間に訪れる、空白の隙間時間にふっと影が差した。
     また今日もひとりであのマンションに帰るのだろうか。
     日付が変わっても、戻ってこない一織を待ちながらひとりぼっちで広すぎるベッドで眠るのだろうか。
     仕事を頑張っている一織を労わりもせず、そんなことを考えてしまう自分はひどく薄情者に思えた。


    「陸っ! おまえ、ちゃんと飯食ってるか?」
    「三月……」
     陸がレギュラー出演しているバラエティ番組に、三月がゲスト参加することは少し前に配られた台本で知っていた。グループでの出演ではないので、たとえ同メンバーでもひとりひとつ楽屋が用意されている。
     他の共演者との挨拶で忙しいだろうから、ラビットチャットにメッセージを送っていたのだが、忙しい合間を縫って三月は直接会いに来てくれた。
     招き入れると、挨拶を交わす前に兄の顔をした三月が陸の頬にそっと触れた。
    「やつれたな……メイクで誤魔化しているけど、クマもあるな?」
    「わかるんだ?」
    「何年一緒にいると思ってんだよ」
     遠慮のない接触に目の奥がじわっと濡れる気配がする。慌てて瞬きで抑えると、泣くなよと言葉はそっけないがやさしい手つきで頭を撫でられた。兄弟だからだろうか、触れ方は一織とよく似ている。けれども手の大きさや温度が違う。
     今までであれば、発見した共通点に喜んでいただろう。けれども今はただただ陸を切なくさせる。三月が陸に優しいければ優しいほど、どうして目の前にいるのは一織じゃないのだろうかと思ってしまう。
    「オレ、もう大人だよ」
    「自己管理もちゃんとできてないヤツを大人と認めねえよ」
    「やればできるよ」
    「じゃあ、ちゃんとしろ。今から陸は頭の中で正座してろよな」
    「座布団使っていい?」
    「一枚だけな。人をダメにするクッションは使っちゃだめだかんな」
     寮でメンバーと一緒に暮らしていた時と変わらない三月に、堪えていた涙腺が緩む。ぎゅっと目を瞑って、脳内でバルブをきつく締める想像をした。イメージは水道の水漏れの修理だ。三月の言いつけ通り正座し、脳内の『涙」と書かれたバルブをぎゅっぎゅっと締めていく。
     止まった、と確信して陸はゆっくりと瞼をあげる。しかし開くよりも先に何かが手に触れた。
    「……ん、何これ? クッキー?」
     透明の袋の中には様々な形のクッキーのようなものが入っている。くま、うさぎ、ハート、星。それから音符の形のものがそれぞれ二枚ずつあった。
    「三月のクッキーだ」
    「少しでも栄養が取れるように、と思ってキャロットクッキーにした。色もちょっと可愛い感じだろ?」
     にかっと三月が笑った。
     MCや料理番組、主に料理系のCM撮影などで引っ張りだこの彼も相当忙しいはずだ。一日オフどころか半日すら取れておらず、マネージャーの紬と事務員兼MEZZO”のマネージャー担当の万理が頭を悩ませていたのを陸は知っていた。
    「言っておくけど、睡眠時間削って作ったわけじゃないからな。昨日の撮影の合間に、ちょこっと機材を借りて焼いたんだ」
    「三月……。ありがとう」
     またじわっときた感情の波をやり過ごそうと、息を吸ったその時三月が発した内容に心臓が凍えた。
    「一織は今ホテルに泊まってるんだろ? 明日は一度帰るって言ってたし、一緒に食べられるといいな」
    「……え」
     目の前が暗くなった。
     身体中の血液がさあっと下に降りていくような、あるいは血管内の血が沸騰するような感覚。自分のあずかり知らぬところで、身体が勝手に正常から不正常に切り替わった。発作の前触れを知らせるように、ひゅっと喉が鳴る。バクバクバクと早鐘を打つ心臓の鼓動は、重たげな音を立てる。
    「陸!?」
    「っ、だい、じょうぶ……。すぐ、落ち着かせるから……」
     背に触れた三月の手を、首を振って拒絶する。煩わしかったのではない。
     ただ縋ることが許せなかった。
     どうして。
     どうして一織は。
     オレに何も言ってくれないの?
    「……は、もう、大丈夫だ」
    「本当か? 顔色が悪いぞ」
    「撮影は、ちゃんとできるから……」
     人気絶頂の波に乗り始めた頃、センター交代の出来事が頭をよぎり身体が震える。センターであることへの重圧や周りからの期待で陸は潰れかけた。ストレスからしばしば発作を引き起こし、ライブのアンコールに出られなかったこともあった。
     そのうえで新曲の発表は重なり、陸は一度センターから降りた。あの時は一織が変わってくれた。だがもう、陸の肩代わりをしてくれる者はいない。
     私がいます、と陸の背に触れる手は、もうない。
    「撮影の心配じゃなくて、おまえの……」
    「あのね、三月……オレ」
     ──一織と別れることを決めたんだ。
     ひとり胸の奥に仕舞っていた言葉はどこか無機質で、続く「ごめん」の言葉も温度を感じさせない響きがあった。
     涙腺をきつく締めたおかげなのか、涙は一粒すらも零れ落ちなかった。
     


     
     三月がゲスト参加したバラエティ番組の撮影は事無きを得た。
     収録後、共演者やスタッフに挨拶をした陸は早足でスタジオから出る。後ろから「陸、待てって!」と呼び止める三月の声に、足を止めて振り返った。
    「……三月」
    「オレはこれで上がりだけど、おまえは?」
    「赤坂のスタジオでレコーディング」
    「あー……カバー曲のか」
     三月の言葉にこくりと頷き、陸は目を逸らした。明るく元気をくれる三月だが、そんな彼の顔を今は見られない。
     それは彼が一織の実の兄だからだ。彼らの仲の良さも近くで見てきたからこそ、よく知っている。
     だからこそ一方的な別れを決めた自分を責められても仕方ない。しかし一織とのすれ違いと孤独感により、心は潰れ息も絶え絶えだからこそ、今だけは避けたかった。
    「陸」
     真剣な声色に身体が強張る。身構えると、ぽんと頭を撫でられた。
    「み、三月?」
    「陸がちゃんと考えて出した答えなら、オレは何も言わない。冷たい言い方になるかもしんねえけど、恋愛は当事者同士の問題だからな」
     突き放すような言葉だが、声にはあたたかみがあった。おずおずと顔を上げると、眉を下げて笑う三月と目が合う。弟を見るような顔だったので、陸は息を呑んだ。ついでに乾いた空気まで吸ってしまい、ひゅっと喉が鳴る。
    「お、怒らないの……?」
    「陸は怒られるようなことしてないだろ?」
     浮気とか不倫をしてたらさすがに怒るけどさ。
     唇を引き締めて頷く。これ以上口を開くと、三月に不安をぶちまけてしまいそうだったので、スマートフォンを取り出して文字を打った。
    『ごめん』
    「ごめんはいらねえよ」
    『ありがとう?』
    「正解。レコーディング頑張ってこい!」
     くしゃくしゃと髪をかき混ぜられセットが崩れる。三月らしい激励と、そのあと手櫛で直す手つきが一織と同じで、ほんの少しだけ心がざわめいた。
     廊下で三月と別れて、アプリを使ってタクシーを呼ぶ。待つ間に、メッセージアプリをひらいた。一織の名前を探し、他のトーク相手に埋もれてスクロールしないと見つけられない位置に彼の名前があった。
     恋を自覚した時、付き合いたての時は、いつでも一織の名前が一番上にあったというのに。
    「当事者同士の問題か……」
     こちらも陸から送った喜びを示すスタンプで時が止まっている。
     見返して思う。確かに約束はしていなかった。メッセージが届いた時点で約束を取り付けなかった自分が悪かったのだろうか。
     休みが被れば、何を言わずとも一緒に居られると思った自分は我儘なのだろうか。
    『一織へ。お疲れ様。十分だけでいいので、直接顔を見て話したいことがあります。忙しいとは思うけど、最後に十分だけ、オレに時間をください』
     出来上がったメッセージは、陸らしさのない他人行儀なものだった。
     送信をタップする。トーク画面に表示された陸のメッセージに既読はつかない。確認できる状況ではないのだろう。以前は焦れて待ち遠しかった『既読』の二文字を、もう待ちわびなくなった自分に気が付いた。

     陸が担当するカバー曲は平成中期にヒットした失恋ソングだ。力強く女性ヴォーカルの感情豊かな音色が、別れた後も想い続ける女性の心を歌い上げる。今も人気のある曲で、男女問わず他の有名歌手たちもカバーを手掛けられている。
     収録前のこの張り詰めた緊張感は何度味わっても慣れない。歌詞はすでに頭の中に入っているが、歌詞カードの文字を追いながら、陸は自嘲した。
     緊張をほぐすために毎回行っている行動が、ぼろぼろの陸をさらに追い込んでいくのだ。いい大人だけど、大声で泣きたくなるような、悲しいという感情が全身行き渡って膨らみすぎて苦しいような。
    (オレが、一織に別れを告げるのになあ)
     歌詞と心情がリンクする。今の陸にぴったりの曲選で、この企画を持ってきたのは一織なのだから、皮肉が効きすぎている。
    「七瀬さん、お願いします」
    「はい」
     スタッフに呼ばれ、立ち上がった。プロとしてのスイッチがオンへと切り替わる。
     このどろりとした恐ろしい感情は、陸だけのものだから他人にぶつけるわけにはいけない。
     だから、せめて今の陸にぴったりすぎる、失恋の歌へとぶつけることを決意した。

     収録が終わった。歌いきった、という達成感を抱きつつブースから出ると、スタッフたちが一斉に駆け寄ってくる。降ってくるような賞賛や労わりの声に礼を述べながら、ひとりひとり深々と頭を下げる。
    「遅くまでお付き合いくださり、ありがとうございました」
    「お疲れ様」
    「明日も朝早いですよね。ゆっくり休んでください」
     スタッフたちの気遣いを無駄にしないよう、急いでスタジオから出る。マネージャーへ完了報告を伝えるためアプリを開くと、一番上に表示された一織からメッセージが届いていたことに気づいた。
    『わかりました。それでは今日』と、トーク画面を開く前に見えた内容だけで、陸の指先は震える。悪いニュースを聞かされているわけでもないのに。
     終わりを告げるのは、自分なのに。
     一度一織の名前から目を逸らし、マネージャーとのトーク画面を開く。無事収録が終わったこと、今から帰宅する等の業務連絡メッセージを送った後、タクシーを手配する。
     到着を待つ間に、意を決して一織のメッセージを開いた。
    『わかりました。それでは今日帰宅します。午後二十三時頃、七瀬さんと時間の都合が合いましたら、そこで話を聞かせていただきます』
     業務連絡としては正しくて、恋人としてはきっと正しくない。簡素で他人行儀なメッセージにすら傷つくくせに、それ以上のひどい要求を陸は一織に告げる。
     好きであることは何も変わっていないのに。
     恋焦がれているせいで。
     恋しいが過ぎたために。
    『うん。ありがとう』
     ごめん、と打ちかけたメッセージを消して、書き換えた。自分で送ったありがとう、の言葉に胸が潰されそうになる。
     ──身勝手で、ごめん。

     帰宅することが、こうも憂鬱に思うのは初めてかもしれない。重い足取りでマンションのエントランスをくぐる。居住エリアを通るためカバンの内ポケットへと手を差し込み鍵を探す。金属特有の冷たさが、まず先に陸の指先にぶつかった。取り出すと、つけていたキーホルダーは外れ、取り残されたように鍵だけが陸の指に掴まれている。
    「……えっ」
     陸はその場で慌ててカバンの中を覗いた。内ポケットの幅は狭く、目視ではわからない。
     ひゅっと喉が渇いた音とともに鳴った。はっと漏れる呼吸は浅く、息苦しい。
     内ポケットに指を差し込み、こつんと何かにぶつかった。
    「……っ、あ、あった……」
     それを取り出し、目で確かめてようやく陸は安堵の息をついた。
     塗装も剥げて、元の色もわからないペアのストラップ。付き合う前に一織と買ったおそろいの品で、だからこそ強い思入れがある。
     だけど一織が今も持ち歩いているかまではわからない。
    (それだけ、お互い干渉しなくなったのか)
     気が付いて、ゾッとした。今の今まで、気にしていなかった自分に気が付いて、怖くなった。
    (一織だけのせいじゃない。オレも、いろいろと見落としてるんだ……)
     最後に好き、と言ったのはいつだっただろうか。
     ハグは、キスは、そもそも彼に触れたのはいつだろう。
     寂しい、と思っていたのに。悲しんでいたのに。
     陸はひとつも行動しなかった。一織に合わせる努力すら怠っていた。
     何もついていない鍵を握りしめる。どれだけ強く握りしめても、一向にあたたまることのない鍵は、まるでずるい陸を叱っているかのようだった。

    「……ただいま」
     玄関に並べられた一織の靴を見つけて、胸が騒ぐ。少し前なら、きっとそれは喜びだった。
     けれども今は違う。
     別離を選んだ自分に苦しさを与えた。
    「おかえりなさい」
    「ただいま、一織」
     帰宅した一織は着替えていないのか、外着のままだった。上着すら脱いでいないということは、またすぐに出ていくのだろうか。
     リビングではなく、キッチンの二人掛けのダイニング席の定位置に座っていた。
    「寝る前なのでコーヒーはだめですね……ホットミルクでも淹れましょうか?」
    「ううん、大丈夫。ありがとう」
     立ち上がろうとする一織を制し、陸も向かい側に腰を下ろす。妙に薄暗いと感じてふと照明を見上げる前に、一織が口を開いた。
    「おそらく、一か所電球が切れてますね」
    「そうなんだ」
     移動しますか? と問いかけに首を横に振った。
     今からする話は明るい話題ではない。必要書類があるわけもなく、照明の光量も関係ない。
    「あのね、一織……」
    「はい」
     水道水だけでもグラスに注いで、用意しておくべきだったのかもしれない。カラカラに乾いた喉では思うように声が出せない。キッチンとリビングにアナログ時計を置いていない。なのに、耳の中で秒針の音が響く。
     早く言わないと。
     お互いに一秒ですらも、時間を無駄にできないのに。
     俯いた自分の影が揺れているように見える。座ってから、一体どのくらいの時間が経ったのだろうか。戸惑う気配を感じ取った陸は、覚悟を決めて口を開いた。
    「オレたち」
     ──別れよう。
     自分の声はかすれ、確かに震えていた。
     一織は、何も言わない。普段は気にも留めない、空調の稼働している音がやけにうるさく聞こえる。
    「……わかりました」
     理由は、聞かれなかった。
     何一つ陸の真意を聞かぬまま、一織は別れを了承するのだろうか。何で、と募りかけて手のひらで無理やり口を押え、ひくりと変に喉がひらいたが、音にならない。
    「ただし、ひとつだけ条件があります」
     聞き馴れた冷静な一織の声色に、陸はゆっくりと顔を上げる。なに、と乾いた声に促されたように、一織は言葉を続けた。
    「七日後に別れましょう」
    「な、七日後……」
    「ええ。今すぐ別れたところで、七瀬さん行く宛てはないでしょう」
    「それは、そうだけど……」
     つきんと胸に痛みが走る。
     名前呼びが、自然と昔の呼び方に変わってしまったというのに、一織の口調はなめらかだった。
    「別れた相手の傍にいるのも、気まずいでしょうから、準備期間と思ってください」
    「準備、期間」
    「そうです。別れるための」
     まるで一言一句台本に書かれた台詞のように、淀むことなく一織は口にする。アイドルだけではなく私生活においても一織は完璧であったため、動揺を見せない彼の姿に陸は少しがっかりしてしまった。
    「オレ、まだ一織の恋人でいていいの……」
    「……それ、別れを決めた人が言いますか?」
    「っ……そうだね」
     一瞬見せた不快な表情に目を逸らした。逃げ出したい衝動に駆られる。
     この場から逃げて、なかったことにして、また次の日からおはようと口にする。
     傷ついたような一織の姿に、もう取り返しがつかないことを理解した。
     
     
    1日目

     甘やかな、恋人にそっと耳打ちをするようなワンフレーズが、陸の起床を促した。
     一織のパートから始まる曲"BE WITH YOU"は、モーニングコールには少々不向きな曲だ。今でも思い入れの強い、"RESTART POiNTER"。デビュー曲の"MONSTER GENERATiON"のように、明るくエネルギッシュな曲の方が、起床する意思も高まる。
     どうして、昨日の自分はこの曲を選んだのだろうか。歌詞通りの甘い歌声を、無意識に欲しがったのだろうか。
     もそもそと布団から這い上がり、静かに歌い続けているスマートフォンを探す。まだ朧げな視界の中、充電のコードを手繰り寄せた。指先にあたった硬い感触を頼りに、指をスライドさせる。ちょうど自分の歌唱パートで音楽は途切れた。
     液晶に表示された時間は午前六時。二時間後に、マネージャーが迎えに来てくれる。今はプライベートなので、堂々とあくびして、ベッドから出ようとした瞬間、何かが腰に絡みついた。
    「ひょええっ!?」
     それはまるでドッキリ番組だと知らず、突如出てきた仕掛けに本気で驚いた人のようなリアクションだった。バクバクと心臓の鼓動が速まる。
    「……っ、くっ……」
    「えっなになになに!? 一織っ、えっなんで!?」
     慌てて振り向けば、格好悪い一織ではなく、堪えきれず笑っている一織がそこにいた。
     何故彼が、と記憶を辿る前に、聡明な双眸に覗き込まれて思考が停止する。
    「そんなに驚くことですか」
    「だって、一織がいると思ってなかったから……わかってたら、こんなにも驚いてないよ!」
    「……そうもそうですね」
     巻き付いている腕をぺしぺしと叩く。離して、と口で言う方が早いとわかっていても、それは不思議と勿体無いような気がした。
     拘束が緩まる。今だ、と身をよじると同時に思いきり引っ張られ、硬くも弾力のある体躯にぶつかる。自分も使っているシャンプーの香りが鼻先を掠めた。同じ匂いのはずなのに、少し香りが違うように感じるのは、久しぶりの距離感だから、だろうか。
     自らも抱擁を深めると逞しい胸に頬が当たった。ステージの上で歌い踊り、時にはドラマの撮影ではハードに動いて見せることもある。同グループのアイドルなのだから、陸も一織と同じくらい身体を動かしているのに、陸の方は理想の体格には恵まれなかった。
     だからなのか、恋人からの抱擁には非常に弱く、どきどきと心臓が高鳴ってしまう。
    「うわっ……もしかして少し痩せました?」
     するすると陸の身体を撫でていた手は、最後には背と腰の間で止まった。性的というよりも、どちらかと言えば触診のような触れ方に、陸は誤魔化せないことを悟った。
    「多分? 朝弱い一織に捕まるくらいには、なってると思うけど……」
     一織のせいだよ、とは言わない。だからあえて挑発するような言葉を選んでみたものの、予想とは異なり一織は口を閉じた。
     何かしら言い返してくると思っていただけに、肩透かしを食らった。
    「あの、一織? 一織さん?」
    「あと五分だけ、このままでいいですか?」
     声のトーンを変えた一織に、陸の心臓は跳ねた。それは切実に願うような声色に似ていて、喜びに続く感情は、苦さを含んだものとなる。
    (オレとはもう終わりだから? だから別れる前のリップサービス?)
     厚い胸板に顔を埋めているせいで、一織の表情はわからない。
     けれどもかき抱くような力強さに、胸が甘く締め付けられてしまうのだった。

     夢のような時間は、ベッドから出ても続いた。
     陸が顔を洗い、身支度を整えている間に朝食はすでに食卓に並んでいた。
     焼きたてのトーストは半分に切られており、個包装のジャムとバターが添えられている。平皿にはとろりとした半熟の目玉焼きと、カリカリに焼いたベーコン。スープマグの中身はコーンポタージュで、ゆらゆらと白い湯気が立っている。
     シンプルな紺色のエプロンを身に着けた一織は、冷蔵庫からカットサラダを取り出す。
    「あれっ、サラダなんてあったっけ?」
    「昨日買っておいたんです。七瀬さんに食べさせようと思いまして」
     食器棚から白いサラダボウルをふたつ取り出して、手早く盛り付けていく。
    「オレ、何か手伝おうか?」
    「そうですね……。冷蔵庫にヨーグルトがあるので、器に移してください」
    「わかった」
     冷蔵庫を開けると、ほぼ空っぽに近い空間が食材で埋まっていた。目を丸くしていると、警告のように電子音が鳴り響く。
     慌てて青と白のパッケージのヨーグルトを取り出して、デザート用のガラス容器に移す。量をどうするか迷ったが、品数が多いので半分ほど残し、冷蔵庫へと戻した。
     引き出しからデザートスプーン、一織の箸と自分の箸を、それから青と赤の兎の箸置きを取り出して、ハッとあることに気が付く。
    「ごめん一織……今さらだけど、洗い物増やしちゃうよね」
     互いにオフであれば、時間があるので面倒臭い工程も許せるが、双方のスケジュールは未だに分単位刻みのままだ。
     今日は昨日より時間がある。けれども忙しいことには変わりない。
    「何を言ってるんですか。そのために文明の利器とも呼べる、食器洗浄機を買ったんでしょ」
    「でも、結局軽く水洗いしたり、片付ける手間がかかるだろ?」
    「そんなもの手間のうちに入りません。だから、箸置きも出してください」
     サラダを食卓へと並べた一織はエプロンを外しながら答えた。軽く畳み、自分の席へと掛ける。陸もカトラリーを並べて、自分の椅子に腰掛けた。
    「いただきます。……ご飯の用意、ありがとう」
    「冷めないうちにどうぞ。……いただきます」
     つい先日、夕食にと購入したデリと比べるとシンプルな朝食だ。
     だけど顔を合わせて、食卓を囲むことができ、幸福を感じる。
    「美味しい……」
     思わず零れた感想に、一織は軽く笑った。基本的に食事中は喋らない、をルール化しているため、会話は無いに等しい。しかし食器に触れる音や熱々のスープを冷ます音、相手の息遣いは確かにそこにあって、ぐっと胸の奥から何かが込み上げてくる。
     きちんとした食事が久しぶりだからだろうか。だから胃がびっくりしてしまったのだろうか。
    「っ……」
    「七瀬さん?」
    「あ、三月から貰ったクッキー、取ってくる」
     慌てて席を立ち、自室へと逃げ込む。
     鞄に仕舞い込んだクッキーを取り出して、ダイニングへと戻る前に深呼吸を繰り返した。
     両手で頬を打つ。痕がつかないように、軽く。しかしそれでもじんじんと鈍い痛みが生じた。
    「なんで、今さら……」
     別れると決めたのに────一織は一緒に居てくれるのだろうか。
     ひくりと喉がひらいて、発作の前触れのような音に、陸は自分の身体を強く抱きしめる。
     息を吸って、吐いて。頭の中でカウントを取る。
     本番前、三、二、一……。
     ふっと目を眇めて、唇に笑みをのせた。そうやって、陸から七瀬陸になる。

     何事もなかったかのように、ダイニングへと戻った陸は食事を再開した。
     三月お手製のクッキーをお互い一枚だけ食べて、ふたりで片付けをした。
     幸せな時間はあっという間に過ぎてしまい、一織が選んだ服を着た陸は、迎えに来た車に乗り込んだ。
     いってきます、いってらっしゃいの挨拶も久々だった。自然に交わして、淀みなどなく。
     すれ違った日々など、無かったというように。
     

    「おはようございます」
    「おはようリク」
     午前中はCM撮影、午後からは連続ドラマの撮影と、本日のスケジュールは演技に関するものばかりだ。
     監督、関係者に手短に挨拶をしてから、同グループのメンバーであり、今回のドラマの共演者でもある二階堂大和へと近づいた。
    「今日の撮影、どうですか?」
    「あー……新人の女の子が完全に飲まれたな……。ほら、見てな」
     監督からの演技指導が飛ぶ。顔を青くしながらも新人の役者は頷き、カメラが回り始める。
     しかし遠目から見ても、雰囲気が悪い。ぎこちない、というよりも場に飲まれているようだった。
     監督の合図でカメラが止まる。わずかではあるが、複数のスタッフから苛立ちのような感情が見えていた。
    「さっきあの子に声をかけたんだけど、緊張ほぐせなかったんだよ。……もしかして俺って怖いお兄さんに見える?」
     落ち込んだような大和の背を陸はゆっくりと叩く。
    「大和さんはいつだってやさしいお兄さんですよ。役柄上、敵対してるからだと思うけど」
    「そうだよな……」
     相打ちにすらどこか哀愁が漂っている。顔を覗き込むと、大和は苦笑を浮かべた。
    「イチとリク、最近ずっと忙しいだろ? だから、ちょっとでもスムーズに撮影が進めば、と思ったんだが」
     逆に進行が滞った、と申し訳そうに謝る大和に陸は首を横に振った。
     寮生活で寝食を共にしていた時は、メンバーのスケジュールを大方把握していた。姿が見えなければ、残っているメンバーに訊ねて、帰宅時間が合えば食事を共にして暮らしていた。
     最年少である一織が二十歳を迎えた春に独り立ちしてからは、自分以外のスケジュールを把握することは難しくなった。
     メンバーが出演するテレビ番組の情報に関しては、専用のグループチャットや、事務所のカレンダーに掲載されている。皆自分のスケジュール管理で手一杯なほどに、IDOLiSH7は、個々に与えられた仕事は多い。
    「嬉しいです。そうやって、オレのことを心配してくれる人がいることは、とても」
    「……今度みんなでご飯行こうな。タマやリクが好きそうな店、見つけてあるから」
     七人で集まろう。
     大和の提案に、陸は頷いた。楽しい予定を頭の中でメモしながら、ひやりとした何かに胸を撫でられる。
    「楽しみだなあ……」
     その頃にはきっと、一織とはただのメンバーになってしまっているけれども。
     申し訳なさそうな顔をした監督がこちらへと向かってくる。大和と目配せしていると、「七瀬君」と声を掛け、用は自分かと陸は人好きする笑みを浮かべた。
    「どうかしましたか?」
    「ごめんね。新人の子があがっちゃってさ……先に七瀬君から撮ってしまおうか、ってみんなと話してね」
    「はい。大丈夫です」
     台詞はすべて頭に入っている。今回の役柄は陸と相性が良いこともあり、演技することへの緊張もない。
     陸の返答に、眉を下げた監督は安堵したように息をついた。
    「よかった。実は和泉くんからも念を押されててね……」
    「一織から直接ですか?」
     頷く監督に、大和は顔を引き攣らせた。
    「マジか……うちの子がすみません」
    「いやいや、いいんだ。むしろ、今彼を口説いてるところでね。どうしても和泉君にオファーを受けてもらいたい作品があるし……あっ、別にそれだけが理由じゃないよ!」
     素直すぎる性格なだけに腹芸が得意ではないのだろう。
     彼が監督を務める作品に何度か出演しているが、演技が本業ではない自分たちにも分け隔てなく接してくれる。
    「じゃあ、オレからもおねだりしてみます。演技する一織が見たいなあって」
    「イチが一番、リクのおねだりに弱いもんな」
    「助かります! あの役をやれるのは和泉君だけだと確信しているので……。あ、いけない。そろそろ再開するね」
     表情には出さなかったが、一織が自分のスケジュールに絡んでいることに陸はひそかに動揺していた。IDOLiSH7のマネージメントは現在も彼とマネージャーである紡が行っているが、陸個人のマネージメントには関与していないはずだ。
    「リク、大丈夫か」
    「……あ、大丈夫です。ちょっとびっくりしちゃって……」
     別れを提案する前は、一織と数分の会話すらも不可能だった状況だけに、不思議でならない。
     何か大きな仕事が始まるのか。それとも恋人関係を解消するからなのか。
     一織にメッセージを送るべきか。けれども何と送ればいい。
     今日この後何か予定が入っているの、と些細な疑問を解消するためだけに、一織の時間を奪っていいのか。迷い、後ろポケットに仕舞っているスマートフォンに触れようとしたその時、声が掛かる。
    「七瀬さん、お願いします」
    「っ、はい」
     萎えた気持ちをすぐさま切り替えて、呼ばれた先へと向かった。

     陸ひとりの場面はスムーズに撮ることができた。リテイクの数はふたつのみ。
     新人の役者との掛け合いだけは、台詞の言い間違いや動作のぎこちなさで難航したものの、予定内に撮り終えることができ、陸は時間通りにスタジオから抜けた。
     外に出てスマートフォンを取り出すと、着信履歴が一件残っている。マナーモードを解除して、履歴を確認すると一織と表示されていた。
    (何だろう……)
     ラビチャは届いていない。メールも確認したが一織からは届いていない。
     急ぎの要件だったのだろうか。
     折り返すと、三コール目で繋がった。
    『はい。一織です』
    「……あの、陸だけど」
    『ははっ、声だけでわかりますよ。──私があなたを間違えるわけないでしょう」
     甘いのにどこか突き刺さるような鋭い言葉に、陸は息をのんだ。
     友達と相棒。まだ恋人でなかった時の喧嘩時ですら、一織の口調はどこか柔らかさがあった。晴れて恋人となり、お互い尊重し合うことで喧嘩の数は減り、ここ最近は忙しさで話すらできなかったのだ。
     つきん、と小さな棘が胸に刺さったようで、少しだけ苦しい。
     けれども今の一織の言葉が、陸を傷つけるような類いのものではないことは、さすがにわかっていた。
    『七瀬さん?』
    「ごめん、ちょっと電波が悪かったみたい。電話の要件って何だった? メッセージとかもなくて……」
     よくわからなかった、とは口に出せない。尻すぼみとなった言葉は、一織がああ、と引き取った。
    『外食でもしませんか? と思ったんですよ。かけてから、あなたのスケジュールを思い出したので不在着信として残りましたが』
     なんてことないトーンで、しかし陸は一織のある言葉に驚きを隠せず、詰問するような口調で聞き返す。
    「一織は、オレのスケジュール把握してるの?」
    『何を今さら……。メンバー全員とはいきませんが、ある程度は頭に入れてます。特に七瀬さんのスケジュールはこまめに確認してますね』
    「そう、だったんだ……」
     つまりそれは関心があるとも言い換えられる。
     今も自分のスケジュールを把握していることへの喜びが沸き上がったが、同時に自分たちの生活リズムが合わなかったのは、意図的なものだろうかと考えてしまった。
     自グループのマネージメントも務める一織なら、可能なはずだ。
    『七瀬さん?』
    「あ……ううん。あのさ、今からでも食べに行けるかな?」
     昨日までの自分なら、きっと口にはしなかっただろう。
     忙しさを言い訳に気を遣って、気を遣われて。一緒に過ごしたい、と思いながらも願うだけで終わらせてきた。
    (一織と別れるまであと、七日)
    『新宿のお店を予約しています。最寄りは新宿三丁目駅』
     マップを送ります、と間髪入れずにメッセージが届いた。今から向かうことを告げ、陸は通話を切った。
     タクシーを呼ぶか迷ったが、すぐ近くに駅がある。
     メッセージアプリを開き、送られたURLをタップする。地図アプリへと移動して、目的地までのルートを確認すると、ちょうど五分後に乗り換えなしの電車があった。
     時間について特に言われていないが、一織の方が先に到着して、店で待っていることだろう。
     きっちりとした几帳面という性格もあるが、基本的に一織は陸を待たせない。まるで当たり前とでもいうように十分前には集合場所にたどり着き、待っていてくれる。
    「……一織」
     スマートフォンを仕舞い、陸は早足で歩き始めた。
     
     帰宅ラッシュを過ぎ、二十時頃にもなると混雑具合は解消されるようだ。少しよれたスーツを着たサラリーマンに、今から遊びに行くような女子大生の姿。仕事帰りと今から出勤する人に混ざった陸は、ぼんやりと窓を見つめる。
     地下を走る電車に景色や風情はなく、黒っぽい景色が凄まじい速度で目の前を横切るだけだ。つり革広告や電光掲示板を見る方が退屈からは免れるのだが、いつどこでファンに気づかれるかはわからない。車窓に薄く反射した自分の姿を見つめ、苦笑を浮かべた。
    (一織と別れても、オレは悲しい顔をしちゃいけないんだ)
     国民的アイドルIDOLiSH7のセンターであるだけに、プレッシャーは凄まじい。上へ向かって上がっていく頃は、ただただ純粋な気持ちで高みを目指した。到達した今ではファンが求める七瀬陸を維持する日々だ。
     やりがいは勿論ある。だけどほんの少しだけ、わからなくなってしまう。
     今の感情はIDOLiSH7の七瀬陸のものなのか、それとも陸自身のものなのか。
     停車する駅名のアナウンス放送が聞こえてきた。じきに電車は減速をし始めて、ゆっくりと停車する。降車する人の流れに乗り込んで、最短ルートまでの道のりを進んだ。

    「二名で予約していた和泉です」
    「はい、伺っております」
     上品に微笑んだウェイターに案内されたのは、他の席から離れた場所だった。パーティションで区切られた簡易な個室内の壁側には、陸の身長を超えるサイズの半月型の水槽。
     一織は険しい顔でタブレットを見つめている。目頭を押え、顔を上げた。ふっと力を抜いたような、柔らかい笑みを浮かべる。
    「お疲れ様です」
    「お疲れ様。もしかして、邪魔した?」
    「いえ、まったく。むしろ、ちょうどいいタイミングでした」
     タブレットを鞄へと仕舞った一織に、陸も彼の向かい側へと腰掛ける。メニュー表よりも先に、壁際にあるアクアリウムを眺めた。青い光源を放つ水槽の中を泳ぐ熱帯魚は、冴えるような鮮やかな色合いを持つ。決して薄暗いと感じることはなく、アクアリウムの光と静かな音楽が幻想的な空間を作り上げていた。
     非日常の世界に足を踏み入れたような心地に、感嘆をつく。
    「まるで、海の中にいるみたいだ」
    「七瀬さんの名前は陸なのに、水族館や幻想的な深海が不思議と合いますよね」
    「むっ……。名前負けしてるって言いたいの?」
    「そうは言ってないでしょう。拗ねないで」
     そっと伸びてきた手が陸の頬を撫でて、その後に軽く抓まれた。
    「スーパースターの頬を抓るの、いくらパーフェクトプロデューサーでもだめじゃない?」
    「今はあなたの恋人なので」
     あまい声と同じくらいあまい眼差しに射貫かれて、心臓が跳ねる。
     目を眇めた一織の仕草に続く行動が何なのか、身を持って知っている。熱くなった頬に触れた指が、乾いた唇まで滑る。形をなぞるように辿られて、期待感に震えた。
     うすくひらいた唇に親指が差し込まれ、陸がそれを咥えるよりも先に舌先を突かれた。ふっと吐息が零れる。しかしそれ以上の進展はなく、一織の指は離れていった。
    「……なんて顔、しているんですか」
     苦笑めいた表情に、潤みかけた目をきつく瞑って首を横に振る。消化不良のような、中途半端に高められた熱を逃がすように深く息をつき、一織を睨んだ。
    「おまえが引き出したんだよ」
    「そうですね」
     目を伏せた一織の表情はよくわからない。ちょうどその時、料理が運ばれてきた。案内してくれたウエイターが、なめらかな口調で料理名を読み上げる。
     聞いたことのあるものもあれば、よくわからない横文字の料理名にわかっている振りをした。
     ウェイターが去った後、肩を震わせて笑いをかみ殺す一織の足を軽く蹴った。
    「神妙な顔つきで頷くの、やめてもらえますか?」
    「ひとり涼しい顔しやがって……」
     普段使い慣れていない粗野な言葉で悪態をつく陸に、一織は目を細めて笑った。
    「似合いませんよ」
     そういうのは。
     
     
     

    水無月ましろ Link Message Mute
    2026/02/12 13:44:52

    七日後に別れましょう。

    人気作品アーカイブ入り (2026/03/09)

    #経年いおりく
    タイトル通りの話。

    2026/02/15 プロローグ
    2026/03/08 プロローグ2
    2026/03/14 1日目

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