李ぐだ♀・たぬき寝入りする先生耳ざわりな電子音がする。
ぬるま湯のような意識がだんだんと覚醒し、それが目覚まし時計の立てる何回目かのスヌーズ音だと気づいたとき、少女はパッチリと目を開いた。
起き上がろうとするが、体が動かない。背後から回された腕に抱きすくめられているからだ。
「せ~んせぇ…」
雪山に建てられたこの施設は、全館空調が完備されているとはいえ、底冷えする。その冷えを感じずに気持ちよく眠れたのは、二人寝のぬくもりのおかげだろう。しかし、いつまでもその心地よさに甘えている訳にはいかない。ミーティングの刻限が迫っているのだ。
「あの…ちょっと。起きてください、先生」
首筋に、おだやかな呼吸を感じる。
アラームは鳴り続けている。
目覚まし時計は、ベッドサイドのほんのすぐそばにあるのだが、腕枕をされ、もう片腕でガッチリと胴体を抱え込まれている状態では、もがいても手は届かない。
「ちょっ……んっ……、ほりゃ……、ええい……!」
少女はもちゃもちゃと身をよじり、あの手この手で腕の檻を逃れようとするが、うまくいかない。足をばたつかせてみても、寝具が無駄に乱れるだけだ。
やがてアラームは力尽きたように止まり、部屋には少女の息切れと、ため息が響いた。いや、もうひとつ、かすかな音がする。かすかに聞こえるそれが、抑えきれない忍び笑いだと気づいたとき、少女は大声を上げた。
「こらぁ! たぬき寝入りしないの、先生!」
一瞬ゆるんだ腕のすきを突いて半身をよじり、男の目を睨みつけると、彼はもはや笑いを隠そうともせず、笑いを含んだまなざしで受けた。
「おはよう、マスター。よく眠れたな」
サーヴァント・李書文。カルデア唯一のマスターである少女の恋人だ。
「眠りが深いのは良いことだ」
「……いつから起きてたんですか?」
唇をとがらせる少女の髪を、腕枕している方の手でクシャクシャともてあそびながら、男は答えた。
「そやつが鳴り始める前だから、さて。1時間ほどかな」
「おヒマですね。いつもならもっと早く起きて、身支度してるのに」
「暇というわけでもないが、もったいなくてなあ」
「なにが」
「おぬしの寝顔から、目を離すのがよ。愛らしくてな」
直截な愛の言葉が、少女の頬に血の色を昇らせる。無骨一辺道に見えるこの男は、不意にこういうことを言うから、油断がならない。
「飽きず見ていたら、快くてな。まどろんでいたのは本当だぞ」
赤く染まった耳たぶを軽く唇で食み、腹に回した手で少女をくすぐると、少女が笑いながら足をばたつかせたので、書文は自身の足を絡ませて押さえ込む。恋人同士の他愛ない、ありふれた時間が過ぎてゆく。
しばらくそうやって遊んでいたが、
「もう、マシュが来ちゃうから、」
そこまで口にのぼらせて、そうではないことに少女はすぐに思い出した。
毎朝、きちきちと彼女を起こしに来てくれる後輩は、今朝は来ない。今朝だけは来ないのだ。昨夜のうちに、少女が自分で頼んだのだから。「明日だけは来ないでほしい」と。うなずいた後輩が、自分よりも泣きそうな顔をしていたのを、覚えている。あの子は、やさしいから。
不意に、最後のスヌーズ音が鳴った。
ふたりの視線が、同時に枕元の時計をとらえた。ミーティングの時刻が迫っている。
書文が腕を伸ばしてアラームを止めた。
そのまま、ほんの少しの間、ふたりは時計の秒針を見ていた。
一秒一秒過ぎゆくふたりの時間の中、同じものを見ていた。
「マスター」
「はい」
「もう行く時間だ」
「……はい」
背後から体に回したままの腕が、もう一度、しっかりと少女の体を抱きしめた。
少女は目を閉じて、つむじの辺りに落とされるくちづけを感じた。ずっと彼女の背中を守ってきたぬくもりが、ゆっくりと消えていくのを感じていた。
思ったよりも、実際には短かったはずだ。
固く結んだまぶたを開けて、少女は起き上がり、ベッドを降りて洗面所に向かった。そして手早く制服に着替えて身支度を整えると、扉から出ていった。一度も振り返ることはなかった。
あとには無人の部屋が残されるだけだった。
<2017年12月26日の少し前の話・おわり>