涙雨 0
「やあやあ、今度の居候さんは君かな? ようこそ僕の家へ。不本意だが歓迎してやろう」
玄関を開けると、そこにいたのは両手を広げた黒髪の男だった。にやりと不敵な笑みを浮かべて、いかにもこちらがお前を受け入れてやるんだ感謝しろ、とでも言いたげな視線をぶつけてくる。
管理費込みで家賃三万九千円。狭くてそれなりに築年数は経っているが、バス・トイレ別の1Kアパートは貧乏な大学生に優しい。どうせろくに自炊しないんだろ、とでも言いたげなほど簡素な調理台と、水回りへの扉を携えた狭い廊下を通り抜ければ、一人暮らしには困らない六畳の洋室がある。一般的な一人暮らし用アパートが、向こう四年間における私だけの城だった。そうなるはずだった。
「おいおい、どうした? 無視か? それはひどいぞ。見えているんだろう。わかっている。この俺が歓迎しているのだ。何とか言ったらどうなんだ」
仁王立ちをしながら喚く男の声は、どこか霞んでいるようだった。一枚薄い壁を挟んだ向こうで話しているような、耳に水が入り込んだ時の気持ちが悪い音の聞こえ方のような、思わず顔を顰めたくなる声だった。
「……どうも」
胡乱げな視線をぶつけながら会釈をする。当たり前のように瞳に映った床に、わずかに目を見開いた。唇を軽く噛み、二三まばたきをすると、私はそのまま靴を脱いで足を進めた。
スルリと肩が空気を切る。ああ、やはりか、とゆっくり瞼を下ろしながら思った。
「どうも、幽霊さん。……と、言えばいいのかな」
人間は自分の常識を超えると、驚きの前に冷静さを持つらしい。それが一般的でないとしても、少なくとも私はそうだった。
振り返った先で男は壁にもたれかかって、こちらをじっと見ていた。マジックペンで塗りつぶされたような真っ黒な瞳は、彼の異常性と隔絶した世界を感じさせる。
「まあ間違ってはいないな。俺のことは外崎とでも呼んでくれ」
足のない男はそう言って朗らかに笑った。
1
体が揺れている。いや、揺らされている。ふわり、沈み込んだベッドの上。快適な睡眠を取っていた私を邪魔するものに、心当たりはあった。
「おはよう!」
無駄に元気な声が鼓膜を震わせる。のろのろと重たい腕を持ち上げて、開くことを拒む瞼をこすった。大きく息を吸い込んで、口を大っぴらに広げたあくびを一つ。目の前に何かがいようと構わない。ここには存在そのものに説明がつかない同居人がいるといえども、私の城で間違いはないのだ。
「……おはよ」
低くかすれた不機嫌そうな声が、喉の奥から這い出す。昔から朝は弱かった。ぐるりと寝返りを打ち、彼に背を向ける。枕を引き寄せて顔を押し付ける。もう少し、もう少しだけ寝ていたかった。
枕を抱えていた腕にひやりとした何かが触れる。それは私の手首を強い力で圧迫すると、曲がってはいけない方向へと思いきり引き上げた。たまらず仰向けになってその犯人を睨み付ける。
「起きろ」
爽やかな笑みは何も癒しを与えてくれることはなく、そして彼はふわりと宙に浮いていた。相変わらず足はない。
もう逆らわない方がいいなと思いながらも、このまま彼の言いなりになるのは自分が許せなかった。反撃とばかりに、一睨みをプレゼントしてやる。外崎は少し目を丸くしてそれを受け取った後、寝起きじゃ迫力も何もないぞ、と馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ほら、今日は一限からだろ? 起こしてやったし、飯だって作っているんだ。感謝してさっさと用意して大学行って来い」
「はいはーい……」
飯持ってくるから、と言い残して、外崎はまるで足があるかのように床に降りると、閉まったままの扉から部屋を出て行った。上下に揺れている上半身は、やはり普通の人間のようだった。
衝撃的な、と言ってもいいあの出会いから、私は外崎について深く考えることをやめた。少し口うるさくて偉そうな家政婦がいる、と割り切ったのだ。そう、面白いことなのだが、あの男は幽霊なのにも関わらず、物に触ることもできれば話すこともできる。しかも、掃除洗濯料理などとにかく家事万能だった。諦めというよりは、もとより面倒くさがりの質がある私にとって都合のいい存在として受け入れられた。
「ほらよ」
部屋の中央に置かれた小さなテーブルに、二つ、皿が並べられる。ハムエッグとこんがりと焼かれたトースト。側にはグラスに入った牛乳がある。典型的な朝食だった。
「ありがとう。いただきます」
ぼさぼさの髪のまま両手を合わせて一礼する。外崎は向かいに座って、ぼんやりとしながら私が食べる様子を眺めている。
今でこそこのように落ち着いた食事をすることができるようになったが、最初はひどかった。外崎は私が三日分くらいを想定して買い込んでいた食材をほとんど使って、レストランのフルコースか、と怒鳴りたくなるような朝食を作っていたのだ。朝が弱いという理由を除いても食べきれないようなその量に、私は外崎を容赦なく睨み付けて蹴飛ばした。足が彼の体を通り抜けることはなかった。しかし、思っていたよりも軽い感触とともに、外崎は壁にぶつかった。
確かにおいしい料理は素晴らしい。しかし金がない学生にとっては、いくら自炊であったとしても贅沢がすぎる。その日のうちに、彼と膝を突き合わせて今後の食事方針について話し合った。結果として、土日の夕食に限って、外崎の好きなものを存分に作るというルールが決められた。代わりに普段の食事は質素で、私が食べきれる量を、となった。
それはそうとして、彼にとっては不満が残るほど簡単な調理で作り上げられた、どこかステレオタイプな朝食は、私の舌を満足させるには申し分ない。ハムエッグもトーストも焼き加減が私好みになっている。
こんな嫁がいたらいいのに、などと思って視線を上げた先には、軽薄な笑みを浮かべた半透明の男がいる。思わずため息をこぼした。肘をついてこちらを見つめてくる彼に、よくある恋愛小説のようなときめきは感じない。
「美味いか?」
「美味いよ」
さりげなく目線を外して、最後の一口になったトーストを口に放り込む。それを見届けると外崎は満足そうに頷いた。
「そうか。ならばよかった。そして明日は待ちに待った土曜だ。喜べ! というわけで、君は大学帰りにこれを買ってきてくれ」
「ん。了解」
四つ折りになった小さい紙を受け取る。すぐに開いて中身を見つつ、牛乳を飲み干した。
「んー……、うん。これくらいなら大丈夫。全部買えると思う」
右上がりながら整った文字を斜めに読んでいく。箇条書きのそれはとても見やすい。
「そうか。ならばよかった。頼んだぞ」
普通のスーパーで売っていないものや、全部の総計が財布を圧迫することがあったらその場で外崎に伝える。そして代用品を提案してもらったり、品数を減らしたりしてもらう。
紙を再び折りたたむと、それをテーブルの上に置く。クローゼットから適当な服を取り出して着替えた。ふと振り向くと、テーブルから皿は消えており、外崎の姿は見当たらなかった。こうやって音もなく消え去るような、そんな幽霊らしい行動を時たまするのがどこか面白かった。
「じゃあね。行ってくる」
いつの間にか彼のものになった調理場は、廊下に出ると必ず目に入る。皿を洗い終わったようで、外崎は手をタオルで拭きながら振り返った。
「おう。行ってらっしゃい。これ持ってけ」
ぶっきらぼうに差し出された弁当箱を受け取ると、私はもう一度、行ってきます、と言って玄関を出た。
間
愛していた。愛していたさ。心の底から君を愛していた。
2
外崎が物に触れていることに、最近は違和感を抱かなくなってきた。そして外崎が物を通り抜けていることにもまた、違和感を抱かなくなってしまった。自分の中の当たり前が変化していく。
これは一般的な感覚の喪失と言うのだろうか。いや、もうそれは彼と出会ったときには失われていたのかもしれない。私が、彼の体の中を通りすぎた瞬間から。
外崎という男のことを私は何も知らない。私も聞かないし、彼も話そうとしない。もしかしたら彼は聞かれたら答えようなどと思っているのかもしれないが、まさかそんなに簡単に踏み込んでいける領域ではない。彼を召使のように使ってしまっている今の私であっても、その程度の良識は持ち合わせている。人は誰しも、踏み込まれたくないラインを携えているものだ。そして、そのラインを悟ることができるほど、私と外崎の距離は近くないのだ。
だから私は、彼のことをまだ何も知らない。
小さいアパートのこの部屋、たった一つの部屋が私のリビングであり寝室であり、そして書斎である。つまりはそのままこの部屋は外崎の部屋にもなっていた。男女二人が同じ部屋で暮らす、と言葉にしてしまうと、世間体的にどうなんだと言いたくなるところだが、まあ片方が幽霊なのだから何かが起きるわけもない。周りから見ればただの一人暮らしだ。
「ねえ」
「なんだ」
何をするでもなく、外崎は壁に寄りかかってぼんやりしていることが多かった。私がパソコンに向かい合って面白くもないレポートと戦っている間も、暇つぶしをするでもなくただ立ち尽くしている。
「疲れないの?」
立ってるの、と続けると、外崎は一瞬ぽかんとした後、面白そうに声を上げた。
「ほうほう。君は俺が幽霊だとわかった上でそんなことを聞くのかな」
ふわりと柔らかな動きで壁から体を取り戻すと、外崎はにやにやとした笑みを隠さずに近づいてくる。黒いカーディガンのポケットに手を突っ込んで、どこぞのヤンキーのように下の方から私の顔を見上げて口を開いた。
「それとも君は俺が幽霊であることを忘れてしまったのかな」
「はぁ? 忘れるわけないでしょ。自分の姿を見下ろしてみなよ。……足無いんだから」
にやりとした笑みが一瞬で消えていく。驚いたようにパチパチと数度瞬きをすると、外崎は自らを見下ろした。まるでそんなことがあったのかと言うように、首をかしげている。
「あるぞ」
足、と。
「ないよ」
ポンと飛び出た否定。えっ、と外崎は弾かれたように私と自分の下半身があるべきところを交互に見比べた。そしてもう一度同じ言葉を繰り返す。
「どう見てもあるだろう」
「私には見えてませんねぇ」
私の視界に映し出された風景をそのまま伝える。外崎に何を言われようと、私が見ている世界がそのまま私にとっての真実の世界で間違いがないのだ。
「……なんということだ」
重苦しいため息とともに放たれた言葉には、軽々しい絶望が包み込まれているようだった。期待を裏切られたような、しかしそれをどこかで予測していて、覚悟していたような。そんなちぐはぐな胸の内をのぞき見してしまった気がして、申し訳なさが溢れた。
それはこっちのセリフだ、なんて言葉を飲み込んでパソコンに視線を戻す。実のところレポートは結構切羽詰まっているので、彼との会話に長いこと勤しんでいるわけにはいかない。キーボードに指を吸い付かせて、カタカタと音を響かせる。
そうか、とらしくもなく彼は呟いた。とても小さく、悲しげな声で。
まるで確かめるかのように、外崎は部屋の中を歩きまわった。やはり幽霊だから足音も何も聞こえない。少し気配が動く程度で、しかもこのしばらくの同居生活によって、人の気配(まあ人ではないのだが)が近くにあること自体に慣れ切っていた私にとっては、レポートの障害にもならないちょっとした動きでしかなかった。
パソコンの画面は私を映していた。反射なのか何なのか、その原理は文系一直線の私にはよくわからない。ただ、物体がそこにありさえすれば、きっと映り込むのだろう。
後ろを通った彼の姿を、正面に見ることは叶わない。
間
あの瞬間、俺に何が起きたのかはよく覚えていない。ただ痛かったことは覚えている。身を引き裂かれるように痛かった。体が痛いのか、心が痛いのか、それともまた別の場所が痛くてたまらないのか、その判別すらつかなかったのだけれど。
3
面白いものを持っているじゃないか、そう言いながら彼が取り出してきたのは、確かに引っ越し時に惰性のようではあったがこの部屋まで持ち込んでいたあるものだった。
「あー、それね」
ソファにひっくり返りながらスマホをいじっていたのだが、一瞬目を背けて、彼の手の中を見る。部活などに入ってまじめにやっていたわけではない。というかまず、部活自体がなかったのだが、それなりに続けてきたものだった。そして、大学に入って以降、まるで触れていなかったことを思い出した。
「俺も昔好きだったんだ、競技かるた」
『小倉百人一首』と書かれた箱の中には二百枚の札。下の句の書かれた取り札と読み札がきれいに詰められたそれに、外崎は目を輝かせている。
「私も少しやってたくらいだけどね、結構好きだよ。まあ、大学入ってからやってないし、たぶん忘れちゃってると思うけど」
はるすぎて、と咄嗟に思い出した一首を詠むと、外崎はふわりと笑って歌うように言葉をつなげた。
なつきにけらし、しろたえの。
「ころもほすちょう」
「あまのかぐやま」
私の声と交互に少しかすれた低めの声が音を紡ぐ。私はこの首がとても好きだった。あくまで競技かるたの中のものとして考えていたそれらに、私はあまり関心がなかった。そのため、一首一首の意味を考えながら鑑賞したことはほとんどない。その点においても私は中途半端な存在だった。しかし、この歌だけはいつも耳に残る。さらさらと流れるような言葉がとても心地よかったのだ。
「いやー懐かしい。久々にやってみたい、が……」
蓋を開けて札を取り出す。一枚一枚めくりながら、文字をなぞっていく。外崎は目を細め、何かを思い出しているようだった。
「まあ、二人じゃちょっと無理あるよね」
「だな」
よいしょ、と外崎は床に座り込み、そのまま吸い込まれるように床へと体を預けていく。床の中まで沈んでいくことはない。否、今回はというべきか。一度だけ、失敗した、と苦々しい顔をしながら半分しか見えていない顔をこちらに向けてきたことがある。久しぶりに見た外崎の幽霊らしさに驚いた私は、思わず彼を蹴り飛ばしてしまった。悪気があったわけではない。しっかりそのあとは謝罪したので和解している。
取り札を半分ほど手に持つと、寝転がりながらも、競技かるた特有のリズムで歌を詠んでいく。彼の声はいつもより落ち着いていて、思いがけず耳になじんだ。ゆったりとしたリズムが、私を別の場所に連れていくかのようだった。
「君は、誰からこれを教わったんだ? そうメジャーな競技ではないだろう」
ぐるりと寝返りを打ってうつぶせになると、肘を立てて上半身をこちらに向ける。手にはまだ札が収まっていた。
「なんか最近は漫画でやってるから、そんなに知られてないってわけじゃないんだけどねー」
「ほう。漫画か……。俺の時にはそんなものはなかったな。君もそこからなのか?」
ふるり、ゆったりと首を横に振る。
「いや、私は違う。お母さんがやっててさ。それで教えてもらったんだよね」
「へえ……、いいお母さんじゃないか」
札を床に置いて、手を頬に当てた。優しげな笑みを浮かべた顔で外崎がこちらを見上げる。
よほど好きなのだな、と思った。外崎はどちらかというと明るく騒がしい男で、常にと言っては言い過ぎだが、たいていの時は抑揚の付いた大きな声で話している。しかしその一方で私がレポートに集中しているときなどは、こちらから話しかけない限り声をかけてくることはない。俺は地縛霊だから、基本的にはこの部屋から出ることはできないからな。住民に快適に住環境を提供するための協力くらいはするさ、といつだったか語っていた。
何が言いたいかというと、彼の言動は騒がしいか、黙っているかの二択だったのだ。それが今は愛おしさを混ぜ込んだような甘い声で、ゆっくり、ゆっくりと言葉を紡いでいく。黙っているのは次の言葉が出てくるまでの休憩時間でしかないというように、途切れなく話している。しかし、騒がしいときほど全体の文字数が増えたわけではない。
ああ、とその違和感の理由がわかった気がした。
「外崎はどこで覚えたの?」
スマホをソファの隅に放り投げた。うつぶせのまま顔だけ横を向く。競技かるた、と続けたそれに、外崎は一瞬瞳を揺らした。
「……教えてもらったんだ」
ぽつり、雨粒が落ちるかのように外崎は言った。誰に、と質問を重ねていいものか私にはわからなかった。
「そう」
「うん」
空気が揺れる。外崎は仰向けになって足を組んでいた。呼吸をするように小さく口が開く。わずかにそらされた首は彼の喉ぼとけを空に晒していた。
「……よもすがら」
優しい声だった。そして。それ以上に悲しい声だった。
「ものおもうころは、あけやらぬ」
じっと手のひらを見つめていた。筋張った彼の手は私には生きている人間と同じように見えていた。何かを悔やむようにそれを射抜く瞳の奥に、彼は何を思っているのか。彼の瞳にその手のひらはどのように見えているのか。
「ねやのひまさえ、つれなかりけり」
言葉を引き継ぐ。驚いたようにこちらに視線を向け、理解したとでも言いたげに微笑んだ後、彼はまぶたを下ろした。
「俺の夜も、まだ明けていないよ」
それは私に当てたものではなかった。聞いてしまったことにわずかの罪悪感を覚えた。私に当てたものではないのだから、返す言葉は持ち合わせていない。
間
俺はできた男じゃない。世界的に見たら、こんなことはよくあることかもしれないが、小さい世界で俺は生きていた。だからこそ、俺にはそんな風に割り切ることなどできなかった。
君を一人残したこと、自分を責めずにはいられない。
いや、本当に寂しいのは俺の方かもしれないな。
4
数日前から片鱗はあったのだ。体がとにかく重かった。
「……おはよ」
何かが引っかかっているような、酷くかすれた声が空気を揺らした。のろのろと布団から起き上がる。頭の中で鐘が鳴り響いている。おう、おはよう、と振り返った外崎が、一歩足を止めた後に大きく目を見開いた。
「き、っみ……は! ちょっと待ってろ、体温計はどこだ?」
ぼんやりとした視界の先、いつになく取り乱した外崎が、きょろきょろと部屋を見渡している。乱暴になった口調がその動揺ぶりを表していた。
「……ごめん、体温計ないわ」
自分の発する言葉が脳を揺らした。色っぽい意味などまるでなく、頬が真っ赤に染まっているのが触れずともわかった。熱があることは確実だ。しかも微熱の域は超えているだろう。体を起こしていることすらつらくなって、ふらりとベッドに逆戻りした。
私の言葉にため息をついて、外崎はこちらに歩み寄ってきた。小さな声で、今度買っておけ、と言うと、ベッドの横に膝をつく。骨張った男の手が伸びてきて、薄く汗の掻いた額に触れる。瞬間、ひやりとした温度が突き抜けていった。反射的に体が跳ねる。生きている人間の持ち物ではなかった。怯えたような声が喉の奥から絞り出された。
「悪い。触ってみれば大体わかるかと思ったんだが……、驚かせてしまった」
申し訳なさそうにぐっとこぶしを握り締めて、ベッドの端に顔を乗せるようにして目線を合わせた。何も言わないところから見ると、どうやら私の体温はよくわからなかったらしい。実際に彼の感じた温度が、私が彼の手のひらから感じた温度に準拠しているなら、私の体温はそれはもう焼けてしまうように熱かっただろう。
「だいじょうぶ。ねてれば、治るよ……」
喉が痛い。声を出すという行為そのものが辛かった。生理的な涙が瞳を覆う。水を通してぼやけた視界の先に外崎がいた。揺れている。たぶん彼ではない。涙が揺れているのだ。そこに映る姿が、今まで見たどんな彼よりも幽霊らしくてなぜか面白かった。笑うような体力は残っていなかったのだけれど。
たった数か月間一緒に過ごしただけの私を見て、外崎は思いつめたような表情をしていた。何を、思っているのだろうか。たとえ家を同じくしていても、私たちの間にはどう足掻いても越えられない壁があるのに。熱のせいだろうか、らしくないことが脳内を回っていた。
「とりあえず、今日はゆっくり寝ていてくれ。バイトはないよな?」
スッと外崎は立ち上がって部屋の外へ足を向ける。振り向きざまに問いかけてきたので、のろのろと首を縦に振った。
「それはよかった。……あとは、とりあえず今からおかゆ作るから、それはちゃんと食べてくれ。風邪薬はあるか?」
「わかった……、ありがと。薬は、……ないかな」
「じゃあ生理痛の薬ならあるだろ。飯食ったらそれを飲んでおけ」
効くから、と一言告げて、外崎は廊下に消えていった。
毎月、腹が痛いと言ってまともに動かない日があるから、それが重いということはばれていると思ってはいた。それを含め、淡々と対処してくることに彼の落ち着きを感じた。最初こそ戸惑っていたようではあったが。
今更ながら気づく。彼は私よりもいくつか年上に見えるあの姿の時、命を落としたということに。
「……とざき」
吐息とともに漏れた声は私の鼓膜を揺らしただけだった。誰もいない部屋で一人、まぶたを下ろした。
耳元でかすかに声が聞こえる。私の名前を呼ぶそれに、沈んでいた意識が徐々に戻っていく。
「あ、……おはよう」
「ああ、おはよう。気分はどうだ?」
飯ができたから一応声をかけてみた、と外崎は微笑む。膝をついた横に、お盆に乗せられた器が置いてあった。
「どうだ? 食べれそうか?」
「うん」
ひと眠りしたからか、先ほどよりは体が思い通りに動く。布団の中に下半身は入れたまま、体を起こした。外崎から器を受け取る。
ただのおかゆじゃ味気ないからな。卵がゆを作ってみた。という声を聞きながら、湯気がたつそれをスプーンですくった。二三回息を吹きかけて、おもむろに口へと運ぶ。
「ん、おいしい」
「そうか。よかった」
じっと私が咀嚼するのを見ていた外崎が、瞳を輝かせる。それは嘘偽りのないものだった。先ほどまでも普段と変わらない様子に見えたが、実のところ少し見栄を張っている結果だったようだ。ふう、と大きく息を吐いてゆるく口角を上げた。
「ゆっくり食べててくれ。薬はどこにある? 用意しておく」
二口目を飲み込んでから、薬の仕舞ってある場所を伝える。彼は頷いてふわりと移動した。その動きは歩くという行為を放り投げたもので、しかし彼自身はそれを認識していないようだった。
「水と薬な」
今度は空中から突然現れる。コップと箱のままの薬をお盆に乗せて、柔らかく着地した。
「うん、ありがとう」
もう驚くこともあきらめた。風邪というちょっとした非日常は、彼の中で何かを外してしまったようだ。
ベッドの縁に寄りかかるようにして、外崎は腰を下ろした。
「焦ったよ。頼むからもう体調崩さないでくれ」
「それは約束しかねるよ」
私は外崎とは違うんだから、と続けると、彼は苦々しく視線を宙に向けた。
幽霊という存在が、どの程度私たちの常識から外れているのかは知りようもない。もしかしたら彼らにも風邪のようなものがあるのかもしれない。しかし、それを知っても知らずも、決して私と彼との間の溝は埋められないのだ。
あー、と喉の奥から絞り出すような唸り声を上げて、外崎は頭をベッドに預けた。上に向いた視線が私のそれをかち合う。
「言いたくなかったんだがな、……俺が死んだとき、俺も今の君みたいな状態だったんだよ」
話の内容とは裏腹に外崎は穏やかな顔で瞳を閉じた。
「まあ、君と違って俺はバイトもあってな。休むのは嫌だったんだ。自分の弱みは見せたくない時期でな。意識朦朧、視界も揺れる。歩道を歩いていたつもりがいつの間にか車道だよ」
ハハッ。乾いた笑いが彼からこぼれ出た。
私は何も言えなかった。ただ頷きを返すだけだった。本人から自分の死因を聞くという行為は慣れない。慣れたくもないことだと思った。
「まあ、それはいいとして。そういうわけだから、俺はあまり人が体調を崩しているのを見たくない。だからある程度気を付けてくれると嬉しい」
「あ、……うん。わかった」
なんだかうまくはぐらかされたような気がしたが、私は詮索せず素直に頷いた。外崎は満足そうに笑って腕を組む。
「ならばよろしい。今回だって本当に無い心臓が止まるかと思ったんだからな! いっそのこと俺が君を乗っ取ってしまえば、君は精神体だけの苦しみで済むかと思って一瞬迷ったくらいだ」
「朗らかに物騒なこと言わないでくれるかな」
睨み付けながら言い放つと彼は嬉しそうに微笑んだ。
「言い返せる元気があるなら十分だ。さあ、食って薬飲んで寝ろ。慣れない一人暮らしで疲れてたのもあるんじゃないのか。まあ俺がいたから他の人よりはマシだろうが」
うるさい、と一つ言い放って、最後の一口を飲み込んだ。感謝の言葉をまた今度伝えなければならない。
間
執着心がまだ心の奥底に残っている。消し去ったと信じていた思いは、俺が気付かないだけでまだまだ凝り固まっているのだろう。
そうでなければこの部屋に俺がいることなどあり得ないのだから。
5
世間は夏。焼けるような日差しが町に降り注いでいる。そして大学生は待ちに待った夏休み。正直言って長すぎると私は思うのだが、この感覚は人それぞれであるから口を閉じよう。
「ねえ外崎。外崎って地縛霊だっけ?」
「なんだ突然に。まあ、そういうものかもしれないな。基本的にこのアパートの敷地内くらいしか自由に動けないぞ」
面倒だから君の部屋以外に行ったことはないがな、と外崎は付け加える。開け放たれた部屋と廊下の扉の向こうで、見えない足を地面にしっかりとつけながら外崎は野菜を炒めていた。野菜の持つ水分と油が反発し合って音を鳴らす。野菜炒め一つとっても彼の料理はおいしいのだ。おかげで私の自炊能力は底辺のまま、上昇する気配を見せない。
「あーのね。夏休みじゃん?」
「ああ」
「だから一週間くらい帰省しようと思ってるんだよね」
ぴたりとリズミカルに動いていた菜箸の先が静止する。音が少し小さくなる。
「そうか。行ってらっしゃい」
一言返事を返すとまた元通りに箸は動き、野菜の音が部屋に響いた。自分には関係ないとでも言うようなその態度になぜかムッとする。
「とーざーき。外崎って他の人には見えないんだよね?」
「たぶんそうだが……何が言いたい?」
いぶかしげにこちらを向く外崎に、私はニヤリと笑いかけた。
「どうにかしてついてきてよ」
幽霊のことなど私には何もわからない。そこは外崎の言うことを信じよう。しかしせっかくならば、という気持ちがもたげたとしても、外崎は正直にそれを言わないだろう。その程度の性格分析ができるくらいの時間は一緒にいた。
私はこの部屋の中にいる外崎しか見たことがない。それ以外の彼を見てみたいと思った。普通ならあり得ないことだけれど、せっかくこの奇妙な出会いが与えられたのだから、欲張ることを許されたい。
外崎は目を丸くして、ついに箸を完全に静止させた。箸先がフライパンの中でくたりとした野菜とともに所在なさげにしている。こちらを見て固まったまま、左手で器用に火を止めた。どれほど彼は主夫業に精通してしまったのだろうか。きっと私よりもこの家のキッチン周りは詳しいに違いない。
「……はあ?」
ついてこいとか何を言ってるのかわかっているのか。変な生物でも見るかのように眉をしかめて、外崎はふわりと床から足を離した。
「せっかくだから一生に帰省しようよってことだよ」
天井近いところまで上っていく外崎を瞳で追う。彼は自分自身をあざ笑うかのように肩をすくめた。
「まあ、できるか否かで答えるならできるがな。君は随分と物好きだ。……さあ、見てみろ。俺はどうしようもなく幽霊だ。心臓はない。体温もない。生前の関わりが深いから、かろうじてこの部屋のものには触れられるが、これはただの例外だ。ここから一歩足を踏み出せば、たぶん君にも見えなくなる」
天井から宙で一回転しながら降りてくると、窓を開けてそのまま外へと飛び出していく。
その瞬間、私の視界から彼が消え去った。まるで、ここにはもともと何もいなかったかのように。
確かに、彼が窓に手をかけて、外に飛び出そうと足に体重をかけたその時まで、私の世界に彼は存在していた。ただ一枚の見えない何かを通りすぎただけで、彼は瞳に映らなくなってしまう。
「……こんな俺を供にして何が楽しい?」
声は後ろから聞こえた。弾かれたように振り向くと、彼は部屋の壁に寄りかかって立っていた。射抜くように黒が私を問い詰める。
ひとつ、息を吐いた。
「家を共にしている親愛なる友人を、実際に紹介はできなくとも、家族に会わせたいと思うのはおかしいことかな」
沈黙が部屋を包み込む。それは数秒にも数時間にも感じられた。
「……君は、本当に物好きだな。俺にはよくわからない」
「変わってる?」
「ああ、そう思う」
「外崎よりはマシよ」
私の言葉に外崎は不意を突かれたように固まった。しかしすぐにくしゃりと表情を崩す。
「それは違いない」
それは了承の言葉だった。無事に外崎を連れ出すことができそうだ。次の問題は先ほど実戦で示された、外に出ると私が外崎を認識できなくなるという点をどうにか解決しなければならない。
「ああ、それは君さえ了承してくれるなら問題ないぞ」
野菜炒めが冷めてしまう、と慌てて廊下に出て行った外崎が声を張る。行動原理がやはり主夫だが今更だ。
「どういうこと?」
いつの間にか焼いてあった餃子とともに、白い皿によそわれた野菜炒めが私の前に並ぶ。正面に腰を下ろした外崎の目の前には何もない。二人でいるのに一人で食べる食事は、いつも少しのもの寂しさを連れてきた。
「君が俺のことを受け入れてくれれば、意識下で会話できるし俺もこのアパートから出られる」
「受け入れるって何? 具体的にどうぞ」
わざと濁したような言葉選びをする外崎を視線で責めて、両手を合わせた。いただきます。欠かしたことのない言葉を伝えて、料理に箸を伸ばした。
外崎は、あー、とか、うー、とか難しそうな顔で唸った後、ちらりと視線をこちらに投げる。
「ちょっと憑りついていいかな」
なんだそんなことか、と。
「いいよ」
「……そんな簡単に受け入れていいのか?」
「いいんじゃない? 別に外崎が何かするとは思えないし。おいしいご飯作ってくれる人に、きっと悪い人はいないよ」
今日も外崎のご飯はおいしい。箸が止まらなくなるというのはこういうことを言うのかと、大学生になってから初めて実感した。もちろん実家の母の料理もおいしかったのだが、それとはまた違ったおいしさなのだ。
「そう、か……」
「うん。だから明日出発ね」
だからの継続性が見当たらないんだが、と叫ぶ声を無視して両手を合わせる。ごちそうさま。今日も変わらず私の舌を楽しませてくれる。
そんなことを話して翌日。電車を乗り継ぎ、約三時間の道のりを経て、私と私に憑りついた外崎は小さな駅に立っていた。私の実家は、交通費はそれほどかからないが、頻繁に帰ろうと思うには少し億劫なほどの距離にある。人によってはゴールデンウィークに一度帰省したというが、私は一人暮らしを始めて以降、今回が初の帰省だった。
出かける直前、いつもより少し早い時間に起きて荷物をまとめたあとに、どうぞ、と私は手を広げた。
「もう一度聞くが、いいんだな? 普通の人間なら体験しなくてもいい感覚を今から君はその身に味わうんだぞ」
「だからいいって言ってるじゃない。電車の時間に間に合わなくなるからさっさとしてね」
昨日から何度も繰り返した問答に、呆れの混じったため息をつきながら肩をすくめた。
「……とりあえず、変な感じはすると思う。それを拒絶しないでくれ。あと肩が重いのは仕様だからあきらめろ」
了解、と返事を返した瞬間に、まぶたを下ろした外崎がふわりと浮かぶ。これまで何度も見た光景だった。しかしそのあとに襲ってくるのは、未知の感覚。言葉では表現できないような気持ち悪さが体を支配する。一言、私にもできる範囲で言うならば「寒い」ということだった。体温が一度くらい下がったような、外側からの影響ではなく、自分自身が冷えていくような、奇妙なおぞましさに縛り付けられた。
「う……っ、わ……」
思わず声が漏れる。吐き気のようなものも感じられた。
『おい、大丈夫か』
胸を押さえて前かがみになると、耳の奥から声が聞こえた。
「外崎……?」
『ああ』
音が響いている。彼の低音がいつものように、少ない感情をのせて心のざわつきを抑えていく。
『たぶん少しすれば落ち着く。さっきも言ったけど、肩は重いままだがな』
コクリと首肯する。大きく息を吸って深呼吸をした。徐々に気持ち悪さが抜けていき、少しの重みが体に残った。
「外崎の姿は見えないけど、これって結構便利ね」
声に出さなくても話が通じる、と笑うと、外崎は呆れたように言った。
『普通と違うことをしてるんだ。君の体にはかなり負担がかかってるからな。後で倒れるのも覚悟しとけよ』
はいはい、と軽く流して慣れた道を歩く。都会と言えないが田舎とも言えない。そんな中途半端な場所。そんな場所に実家はある。スーパーや薬局、よくあるファストフード店くらいは近所だが、映画館やショッピングモールに行くとなると遠出をしないといけない。大学の近くはここよりも発展していて、最近は向こうの便利さにも慣れてきたが、やはり長年を過ごした街だ。ここはとても落ち着く。
『そういえば、俺、昔ここに来たかったんだよな。だから色々あったが今回はよかったと思ってる』
不意に思い出したかのように外崎は言葉を発した。肩に重みはあると言っても、表情やその動作は見えないので少々驚きに足を止める。急に止まると変な人に見えるぞ、と原因を作った張本人に言われて再び歩を進める。
「いきなりはびっくりするんだって。……で、ここって特に観光名所とかもないんだけど、どうして?」
周りの人に勘付かれないように、極力口を動かさないで小さく呟く。
『知り合いの地元がここでな。いい場所だって聞いてたから来てみたかったんだ』
へぇ、とつれなく返して、また無言が間に落ちた。
駅から十五分ほど歩くと、すぐに見慣れた一軒家が視界に入った。
「ここ」
『ほう』
一応、外崎に声をかけてからチャイムを鳴らした。一度家を出た身だという意識があるせいか、昔のように堂々と入っていくのは躊躇われた。奥の方からパタパタと音が聞こえて扉が開く。
「お帰り。普通に入ってきてよかったのに!」
「ただいま。いや、なんとなくね」
出迎えてくれたのは母だった。あんたが使ってた部屋、掃除して布団置いといたからそれ使ってねー、と間延びした口調で言いながら、サッと私の手からボストンバッグを奪っていく。
「ありがと」
そういった瞬間、意識が引きずられていく気がした。いや、それは気のせいではなく、そのまま現実に起こったことだ。視界がぶれる。何かが交差した。それは私が普段見ている視点よりも、いくらか上の方からのもので、それはバッグを片手に背を向けた母の姿だった。ごめんな、とここ半年弱で一番聞き続けた声が、歓喜と悲しみと悔しさを含んで謝罪する。
「――――……っ」
私の口から、私の声で飛び出した言葉。一度も使ったことのないそれは、しかし、母に対する呼びかけで違いなかった。ピクリと母の足が止まる。バッグを落として勢いよく振り向いた。目は大きく見開かれ、胸の前で組まれた手は衝撃からか震えているように見えた。
「ごめんな。幸せか? 幸せならそれでいい」
聞いたことのない甘さを含んだ声が、母に投げかけられる。それは私の声であって、私の声ではない。重なって、あの低音が、響く。
ふらり、上体が傾いたところで私の記憶は途切れた。
間
心の底から好きだったのだ。恋というのはこんなにも自分を狂わせるのかと呆れ果てるほど、それほど俺の人生は彼女に出会って色を帯びた。
まだその時、俺たちは学生だった。けれど、今思い出すと恥ずかしいことこの上ないのだけれど、俺は彼女と結婚して、子供を授かって、そして最期は、一緒の墓に入るのだと信じて疑わなかった。
夢が現実になることはなかったのだけれど、彼女にもう一度会うことができて、たぶん、きっと、俺は幸せになれる。
終
あんたったら帰ってきたと思った瞬間に倒れるんだからヒヤヒヤしたじゃないちゃんと食べてるのあんたって子は自分に無頓着だからね体調管理しっかりしなさいよ。
とどまるところを知らないマシンガン説教にもまれた帰省は、最初の外崎の行動を除いて順調に終わった。ただの帰省でこんな言い方をする日が来るとは思わなかったのだけれど。
まあ、一つ挙げるとするなら、あれ以来、帰省中に外崎がまるで喋らなくなったくらいだ。肩に重みが彼の存在を教えてくれたので問題はない。
「よいしょっと……、ただいま」
数日前と逆向きに電車を乗り継いで、狭い部屋へと帰ってくる。荷物を置いて手早く部屋着に着替えた。やはり家にいるときはこれが一番楽だ。
「とーざーきー」
『……なんだ』
「とりあえず出てきな」
荷物の片づけはいつでもできる。とりあえずはこっちの面倒の方が最初だろう。声を聞かなくても、憑りつかれていて、しかも一度乗っ取られた身だからか。彼の儘ならない感情がここ数日間ひしひしと伝わってきていた。
彼が実際どこにいるかはわからないが、なんとなくソファに背を付けて寝転がった。あわよくば私の体重でつぶされてしまえと思いながら。
「……姿自体は久しぶりか?」
「声もね」
間髪入れずに返せば、彼は確かにそうだなと力なく笑った。それは声だけじゃなく、姿そのものもそう言えるような状態だった。端的に表すなら、透けていた。人々が想像する幽霊はまさしくこのような状態なのだろう、と言えるものだった。今までが足がないことを除けば、はっきりとしすぎていたということもあるのだが。
「まあ、何があったのかは聞かないよ。なんとなくわかるし詳しく知りたいとも思わないしね。……で、外崎はどうしたいの」
じっと彼の瞳を見つめる。言葉を咀嚼して飲み込んだ後、外崎はぼんやりと宙を見上げた。
「何が、したいんだろうなぁ……」
自分のことすらよくわからなくなってしまった、そう言ってまたらしくなく泣きそうな笑みを浮かべた。
外崎の後ろにある壁が見える。霧のような、吹けば消えてしまいそうな、そんな姿になっても外崎はニコニコ微笑んでいた。
「あんたの笑顔、これほどまでに気持ち悪いと思ったのは初めてだよ。……ねぇ、泣きたいの? 笑いたいの? どっちかにしなよ」
「ははっ、君は最後まで辛辣だな……。でもまあ、うん。ありがとう」
「はぐらかさない」
「……よくよく考えたら、結構似てるよな。なんで俺は、気付かなかったんだろうか。……どっちかと言えば、なき、たいの、か……?」
疑問形で返すなよ、と喉まで出かかった時。外崎の瞳があたたかな涙で満たされる。ぼろぼろと零れるそれを見ながら、ゆっくりと腕を開いた。飛び込んできた存在に重みはなくて、温度もなくて、しかし確かに存在していると分かった。
揺れる視界の向こうで、彼がいなくなったのがわかった。
次の日、あたたかな雨が街を覆っていた。
了