さくらの花、ふわり 沖田と京風の桜餅を食べた帰り道、彼にねだられて江戸風の桜餅を作ることになった千鶴は、材料を買って帰ることとなった。沖田に早く早くとねだられて、出掛ける前に干した洗濯物の取り込みもそこそこに、千鶴は沖田とともに厨に立っていた。
買ってきたものを並べて手順を考える千鶴の横で、沖田は何とはなしに塩漬けの桜葉をヒョイと持ち上げた。
「懐かしいな、長命寺の桜もち」
「長命寺……ですか」
「あれ? 千鶴ちゃん知らないの? 向島の山本やの桜もち。花見の頃になるとすごい行列なんだけど」
確かに桜の時期は隅田川沿いの桜並木が見事、らしい。
「すみません。私が出掛けることを、父があまり良く思っていなかったので……」
「お花見もしたことないの?」
「はい」
呆れ顔の沖田に、千鶴は何となく居心地の悪さを感じて肩を竦めた。幼い頃から、父は千鶴の【特異体質】を気にして転居を繰り返した。分別が付くようになるまでは、例え近所でも外に出て遊ぶことすら禁じられていた。大きくなってからも、ひとりでの外出が許されたのは家のすぐ近くだけだった。近所で手に入らない必需品は、父が遠出したときに買ってきてくれていた。
我ながら大した箱入り娘だったと思う。よく、江戸から京までの一人旅を無事に過ごせたものだ。でも、だからこそ、屯所で保護されてからしばらくの軟禁も、新選組が父を探してくれていると思えば、さほど苦痛は感じなかったのだ。
残念ながら、父の行方は今もまだ掴めないが、千鶴は思っていたよりかは気落ちしていなかった。父が自分の意志で行動している可能性があると、監察方からの報告があるのももちろんある。だが、それだけではない。近藤派の幹部たちが皆、親切にしてくれるから、孤独を感じずに済んでいることも大きいからだ。そして。
「それじゃ、今年はみんなでお花見でもしよっか」
ポンポンと優しく頭を撫でる手が、大きくて温かいことを知っているから。
「はい! 私、お重がいっぱいになるくらい、お料理を作りますね」
「うん、君の料理はおいしいからね。楽しみにしてるよ」
彼の信用に足る人物でありたいと思う。
寂しいと感じる暇がないほど、沖田は千鶴を構いたおす。初めこそ、生かして屯所に置く必要性がないと、千鶴を斬ると散々言っていたのに。屯所の中でも千鶴にできることがあると、掃除や炊事をさせてくれた。邪魔になると言いながらも、初めて巡察に連れて行ってくれた。千鶴のせいで桝屋の騒動が起きたのに、一言も責めずに代わりに山南の叱責を受け止めてくれた。池田屋でも庇ってくれた。
今日だって、父の行方を掴めず滅入っていた千鶴を、彼は外に連れ出してくれた。甘い物を一緒に食べて、今もこうして傍にいてくれている。
彼の優しさにただ甘えていたくない。自分にできることなんて、本当に些細なことばかりだけど、喜んでもらえるなら何でもしたいと思っている。
「作り方はわかるの?」
「はい。恐らく皮は小麦粉と砂糖と塩を水で溶いて、焙烙などで薄焼きにすると思います。桜葉の塩漬けも手に入ったので、水に浸けて塩抜きしている間に、先にこの小豆で晒し餡を作りますね」
そう説明した千鶴は、甕の水をせっせと鍋に移しはじめた。沖田はそれを手伝うでもなく眺めている。これが斎藤や藤堂であれば、自ら手伝いを買って出るのだろう。だが、沖田はそうしない。千鶴と一緒ならば、面倒臭そうな作業も楽しめるとは思う。何よりも、手伝えば千鶴はまばゆい笑顔で感謝するだろう。でも、それでは皆がやることと変わらない。それが何だかつまらなくて、沖田はあえて手伝わないで見ていることを選ぶ。
洗った小豆を水を張った鍋に入れ、火にかける。沸騰したら鍋の湯を捨て、小豆が被る程度の水で煮はじめた。沸騰したら火を弱め、水分が少なくなると水を足し、半刻ほど時間をかけて小豆を煮る。指で潰せるほど柔らかくなった小豆をザルに開けると、へらで濾し器に擦り付けるように少しずつ濾しはじめた。すべて濾し終えると、濾し器を桶に張った水に浸けて、残った小豆を濾し器に戻し、先ほど濾した小豆もまた濾しはじめた。何度か同じ手順を繰り返すと、濾した餡を布巾で包み、ギュッと絞った。それを水の張った桶に入れ、もみ洗いしてまた絞った。
「これでよし、と──」
ふぅ、と千鶴が額の汗を手の甲で拭う。一番の力仕事を終えたことで、表情が柔らかい。布巾の中からは、きれいな薄紫色をした晒し餡が出てきた。
「できたの? じゃあ、味見しなくちゃ」
「あっ、沖田さん、まだ──」
千鶴が止める前に、沖田は晒し餡を指で掬い、パクリと食べてしまった。
「甘くない……」
眉を顰める沖田を、千鶴が困った顔で見上げる。
「だからお止めしたのに……。お砂糖はこれから加えるんですよ」
「でも、千鶴ちゃんが手間を掛けた分、口当たりはなめらかだったよ」
さして懲りた様子もなく、沖田はケロッと言ってのけたので、千鶴は少し呆れてしまった。だが、手を止めずに作業を続けた。
晒し餡を鍋に戻し、砂糖をまぶして強火で混ぜる。砂糖が溶けてなめらかになるのを見ながら、慎重に混ぜていく。餡がもったりとしてきたところで火から下ろして、少量の塩を混ぜる。あら熱が取れれば漉し餡の完成だ。
「うん、おいしい」
へらに付いた餡を指で掬い味見した千鶴は、うれしそうに頬を緩めた。
「千鶴ちゃんだけ狡い」
へらを持つ千鶴の手ごと、沖田の大きな手に握りしめられる。背後から千鶴を抱きしめるように覆い被さる沖田が、そのままへらに舌を伸ばす。背中で沖田の体温を感じながら、間近に迫った沖田の顔から千鶴は目を離せなかった。
伏せられた長いまつげが、直線を描く頬に影を落とす。筋の通った鼻も、薄い唇も、千鶴のものとはまったく違う。嫌でも沖田を異性として意識してしまう。猫のそれのように薄い舌が、器用に餡を舐めとった。
「やっぱり甘いほうがおいしい」
ペロリと行儀悪く舌なめずりすると、沖田が千鶴から離れていく。去っていく熱を少しだけ惜しいと思い、千鶴は激しく頭を振った。
「どうかした?」
「……いえ、何でもないです」
わかっていて訊くなんて意地悪だ。
千鶴は頬を染めたまま、できあがった漉し餡を手に取り、一個分ずつ丸めていく。それが終わると、小麦粉と砂糖と塩を振るった粉を、ダマにならないよう少しずつ水を足しながら溶きはじめた。
そうしてできた液をおたまで掬うと、熱した焙烙に薄く小判のような楕円を描いた。表面が乾きふつふつと泡ができたところで、竹串を使って器用にひっくり返した。両面に焼き色が付いたら皿に取り置いて冷ます。
冷めた皮に先ほど丸めた餡を載せ、塩抜きして布巾で水気を取っておいた桜葉で巻く。見た目はなかなか上出来だ。おいしくできただろうか?
不安と期待が入り乱れた気持ちで、千鶴はそれを口に運ぼうとしたが叶わなかった。沖田がヒョイと摘まむとパクリと食べてしまったのだ。
「……」
「……」
双方無言で見つめ合う。だが、そこには甘い空気は一切ない。何故なら、沖田の満面に浮かぶ笑みは作り物めいていて空恐ろしく、千鶴は顔面を蒼白にしているからだ。
「皮が、固い? というか、ぼそぼそする?」
もごもごと咀嚼しながら、沖田は何故か疑問系で呟いた。おそらく皮を焼きすぎたのだろう。
「加減がわからないから、試しにひとつ作って私が食べてみようと思っていたのに……」
そう非難がましい眼差しで千鶴が見上げれば、沖田は「ふーん」と興味のない素振りで残りも口に収めてしまった。おいしくないのに、どうして彼はすべて食べてしまったのだろう? 一貫性のない彼の言動に、千鶴はいつも振り回されてばかりいる。恨めしい気持ちで見上げる千鶴の視線にも、沖田はにんまりと意地の悪い笑顔で応える。
「いくら千鶴ちゃんでも、これだけはあげられないな。だって、僕のために作ってくれたんでしょ」
まるで千鶴の考えなどお見通しだとでも言うように、沖田は満面に得意げな笑みを浮かべた。本当に狡い人だと、千鶴は困ってしまう。おいしい物を食べてほしかったのに、失敗作ですら自分のために作られたものだからと食べてしまうなんて。どんな顔をすればいいのかわからない。勝手に緩んでしまう頬を沖田に見られないように、千鶴は俯いた。
沖田は身体の大きさに対して、かなり少食だ。先ほども桜餅を食べているのに失敗作まで食べてしまったら、夕餉に差し障ってしまう。もう、失敗はできない。
火から下ろした焙烙を濡れ布巾に載せる。じゅっと音を立てて焙烙が冷めたのを確認し、千鶴はかまどの薪を掻いた。火力を可能な限り弱めて、焙烙は時々濡れ布巾に当てて熱くなりすぎないようにした。皮は表面が乾いたらひっくり返さず、焙烙ごと火から下ろして余熱で火を通す。焼きすぎは食感に影響するが、かといって生焼けでは腹を壊してしまう。火が通ったのを慎重に確かめて、冷ました皮であんこ玉を丁寧に包んだ。
桜の葉に包まれたそれは、ひと月半ほど後に咲くであろう薄紅色の花にとてもよく似ている。
「……お願いします」
わずかに緊張した面持ちで、できたての桜餅を沖田に手渡した。今度こそ、沖田においしい桜餅を食べてほしい。祈るような気持ちで、沖田の顔をまじまじと見つめる。
「そんなに見られたら食べにくいんだけど……」
「あっ、す……すみません!」
沖田からの苦笑混じりの抗議に、千鶴は慌てて俯いた。それでも、やはり出来が気になってしまい、そっと沖田の様子を窺い見てしまう。
先ほどと同じように、沖田は桜葉を剥がしてパクリと一口かじりついた。黙々と咀嚼していた彼が、ふと動きを止めた。千鶴の背筋を冷や汗が流れた。思わずぶるりと身震いする千鶴に、沖田がいつもと変わらぬ意地悪な笑みを返した。そして──。
「おいしいよ、とっても。ほら」
食べかけのそれを、無造作に千鶴の口に押し込んだ。鼻腔をくすぐる桜の香り、そして柔らかな皮の食感。なめらかで程よい甘さの漉し餡。江戸で食べていた桜餅のおいしさを、よく再現できていると思う。けれど、千鶴はそのまま思考が停止してしまった。
「どうしたの?」
反応のない千鶴を心配したのか、沖田が怪訝な顔でのぞきこむが、千鶴としてはそれどころではない。沖田は立派な武士で、その上容姿も恵まれている。あまり女性に興味がないようだが、経験がないわけではないだろう。だって、こんなに素敵な男性を女性が放っておくわけがない。
だが、千鶴は江戸では箱入り娘で、京に来てからはずっと男装で通しているのだ。異性に対しての免疫など、まったくない。それなのに、こんなふうに心の準備もなく、いきなり異性が口にしたものを……無理。無理、無理、絶対に無理!!!
ぼっ! 突然顔を真っ赤に染め上げ、ぶんぶんと勢いよく[[rb:頭 > かぶり]]を振る千鶴に、沖田は何か察したのだろう。瞬く間にいつものニンマリとした笑みをその端正な顔立ちに貼りつけ、口角が意地悪く持ち上がった。そう、この顔は千鶴も見慣れてしまった、何かおもしろい玩具を見つけたときの表情だ。
逃げなきゃ!
本能に従うべく、千鶴は駆け出そうとするが、速さで沖田に敵うはずもない。千鶴が動くより前に沖田の腕に囲い込まれてしまい、壁を背に瞬く間に逃げ場を失った。千鶴の両側に手をついた沖田に、長身を屈めてまじまじと顔を覗き込まれた。
沖田を異性と認めてしまった千鶴に、この距離はきつい。赤く染まる頬を見られたくないと、せめてもの抵抗に俯くが、そんなことで見逃してもらえないことは、千鶴自身もよくわかっている。
「かわいい……もっとよく見せて」
伸びてきた骨ばった指が、千鶴の[[rb:頤 > おとがい]]を捉えて軽く持ち上げる。顔を固定されたことで、千鶴の視線は沖田のものと自然と絡んだ。吸い込まれるような翡翠の瞳が、いつもより深い色合いを呈し、慈しみに満ちているように見えるのは千鶴の願望だろうか。微かに香る桜餅の香りは、千鶴のものか、沖田のものなのか? 互いの息が交わるほど近づいているのに、千鶴は動けずにいた。
先ほどまでの千鶴であれば、沖田を突き飛ばしてでもとうに逃げ出していただろう。今だって逃げ出したい気持ちはある。けれど、間近に迫る翠玉の双眸に惹き込まれ、頭の芯が甘く痺れてぼうっとしてしまう。首を傾け角度をつけた沖田の顔が、眼前に迫っている。
「目は閉じて」
クッと喉を鳴らしながら、沖田が苦笑を浮かべた。言われるままに、千鶴は目を伏せるようにそっと閉じた。沖田が放つ甘やかな雰囲気に、流されているだけなのかもしれない。でも、沖田に抗う術など千鶴は知らない。理由も、見当たらない。唇にかかる吐息の熱さで、彼の想いを量っても良いのだろうか? 熱に浮かされたように、ふわふわして思考がまとまらない。この先を知りたいような、まだ知りたくないような、自分のことなのに掴めずにいる。
このまま沖田と──千鶴が覚悟を決めたそのとき、千鶴の真横にある勝手口の戸がガラッと開いた。
「あーっ、重てぇ!」
たくさんの野菜が入った籠を背負った藤堂が、勢いよく転がり込んできた。驚いて身を竦ませる千鶴がぎこちなくギギギと首を動かすと、藤堂は地に手を着いて俯いている。
そして、あんなに間近にいた沖田は、いつの間にか一間ほど離れたところにいる。しかも、何食わぬ顔で、残りのあんこ玉を次々と口に収めている。あんなに食べてしまったら、夕餉に差し障るのに。
しかし、どうやら藤堂には見られてはいないようだと、千鶴はほっとした。だって、あんなところを人に見られるのは、さすがに恥ずかしいから。
それなのに。
「あーあ、残念だなぁ。せっかく千鶴ちゃんと二人きりだったのに」
わざとらしく大きな声で沖田が藤堂を責めるものだから、千鶴は跳ね上がって驚いた。
「そっ……そんなこと仰って、私のことをからかっていただけじゃないですかっ!」
あわや口から飛び出しかけた悲鳴を何とか飲み込んで、不規則に乱れ打つ胸を両手で押さえつける。語尾がひっくり返ってしまったことに、沖田が気づかないわけがない。でも、そのことには触れずに、沖田は腰を落として千鶴に、目線を合わせた。
「からかうだけなら別に君じゃなくて、平助たちでもいいんだよ? 僕が君にこだわる理由、何だと思う?」
「えっ? ……面白いから、ではないんですか?」
「ううん、全然」
沖田は「千鶴ちゃんは面白いなー」と、からかう度に口にする。だから、てっきり遊ばれているのだと思っていた。だけど、未だに絶たれることなく彼から漂う甘い空気に、先ほどのもどかしい感覚が蘇る。
「オレたちのことも、からかっちゃダメだろー!」という藤堂の抗議には耳も貸さず、沖田はいたずらを仕掛けるときのような笑顔を千鶴に向ける。沖田が千鶴をからかうのに、面白いから以外の理由があるのだろうか? からかうのに、千鶴に拘る理由?
「そうやって、僕のことだけ考えていてね」
千鶴にだけ聞こえるよう、そっと耳打ちされた沖田の願い。いつも沖田のことで頭がいっぱいなのに、これ以上なんて──。
「……む、無理、です」
消え入りそうな声で抵抗するも、沖田から視線を離せない。若葉のような鮮やかな虹彩を持つ瞳が、嬉しそうにきゅっと細められた。これが俗に言う惚れた弱みというものだろうか。
「総司ー! いちゃいちゃしてないで、料理作ろうぜ! オレ、野菜買ってきたじゃん!」
唇を尖らせながらブーブー文句を言う藤堂に、沖田は適当に「えー? 買い物もできたなら、料理もできるんじゃない? 独りで」と返して、反応を楽しんでいるようだ。
「オレと総司だけじゃヤバいから、千鶴も晩飯作るの手伝ってくれよー」
両手を合わせて「頼むよー、なっ?」と拝み倒されて、千鶴が断れるわけがないのに。藤堂は少しでも千鶴の気持ちを動かせるようにと、しきりに「なっ、お願い!」と繰り返す。
「私で良ければ、お手伝いさせてもらうね」
「千鶴ちゃんが作るなら、僕はいなくても大丈夫だよね。よし、道場で腹ごなしして来よう」
「いやいやいや! よし、じゃねぇよ? 逃がさねぇっつーの!」
じゃれ合う二人を眺めながら、千鶴も楽しげに声を上げて笑う。こんな楽しい日がいつまでも続けばいい。そう願いながら千鶴は材料を並べて、大切な人のために献立を考えるのだった。
《終》