夏の訪れ ひやりと涼しい空気を肌に感じて、少女は目を覚ました。
昨夜は蒸し暑かったので、寝ている間に肌掛けを退けてしまったのだろう。
外の様子を窺うために障子を開けると、流れ込んだ朝特有の張りつめた冷たい空気に身を引き締められた。まだ陽は昇っておらず、空は群青から薄紫へと変わりつつあった。昨日から降り続いていた雨は、彼女が眠っている間に上がったようだ。
男ばかりの大所帯の中で、年頃の娘がひとりで家事をすべて担うのは、想像以上に重労働だ。疲れからいつもは朝が苦手な少女──名を千鶴という──は、今日という日に早く起きられたことが嬉しくて、そっと頬を緩めた。
今日は千鶴にとって特別な日なのだ。
唯一の家族である父からの連絡が途絶え、手がかりを求めて上洛してから早一年半。頼みの綱の松本良順とも会えず、夜の都をあてどなくさ迷っていた千鶴は、不逞浪士に絡まれ逃げ惑っているうちに、不運にも新選組が抱える闇に触れてしまった。
秘密を漏らさぬよう、新選組の屯所に軟禁されるようになって二度目の春、生まれて初めて誕生日というものを祝ってくれたひとりの青年に、千鶴は恋心を自覚させられたのだった。
顔を合わせるたびに【斬る】だの【殺す】だの物騒なことばかり言う彼──沖田のことだが──が、初めはとても恐ろしかった。
けれど、彼はいつだって千鶴のことを庇い守ってくれる。本当はとても優しい人なのだろう。ただ、素直になれないだけらしい。本心を語るのが苦手なのだと、いつぞやにもらった文にも書いてあった。
それでも、千鶴の誕生日を祝ってくれて以来、沖田は千鶴に対してずいぶんと態度を軟化させたように思う。それは千鶴の願望による思い込みだけではなく、原田や藤堂にも「おまえら最近仲がいいな」と言われ、果ては土方までもが「面倒なのに好かれたもんだな」と気の毒げに吐き出すほどだった。
実際、あれから千鶴が沖田に触れられる機会が格段に増えていた。以前から手首を掴まれてつれ回されることが多かったが、洗濯物を干しているところを突然腰を掴まれて持ち上げられたり、掃き掃除をしているところを背後から抱きつかれたり、千鶴の心臓は常にバクバクと忙しなく乱れていた。
さらに、沖田の非番に市中へと連れ出してもらった時や、夕餉の後に皆が飲んでいるところなどで、沖田に話しかけられるが聞き取れず迂闊に耳を寄せては、あまりに近い距離にある翡翠の瞳が意地悪く眇められる様に羞恥を掻き立てられるのだった。
そんな悪戯をされるたび、うなじまで真っ赤に染め上げて怒る千鶴だったが、沖田は嬉しそうに笑って取り合わなかった。千鶴もまた毎回怒りはするものの、屈託のない沖田の笑顔を見るたびに、恥ずかしいだけで決して嫌ではないのだと内心では許してしまうのだった。
そう、沖田に近づかれる度、触れられる度、千鶴はどうしようもなく恥ずかしくなるのだった。だが、それは嫌な感情ではなかった。矢も盾も堪らずその場から全力で逃げ去る千鶴だったが、気づくと隣にはいつも沖田がいてくれるのだ。
それが嬉しくてつい頬を緩めると、沖田も笑って千鶴の頭を優しく撫でてくれるので、千鶴は沖田の近くにいることを許されている喜びを存分に噛みしめることができた。
その沖田が、どうやら今日が誕生日らしい。いつも一緒に家事をこなしてくれる井上から、沖田の姉曰く彼が暑い夏の日に生まれたことを聞かされた。さらに井上は、その日はとても暗い日で、灯りをたくさん点けたらしいから、日食のあったこの日かもしれないねと、詳しい日にちも教えてくれたのだった。
千鶴自身、誕生日というものがいつか知らない。新年を迎えると皆が一斉に歳をとるものだから、さして気にもしていなかったのだ。
だが、近藤から西洋には誕生日という概念があり、記念日として祝う習慣があると聞かされた沖田は、寒さが弛み生命の息吹く春の訪れを感じたとある日を千鶴の誕生日として、心から祝ってくれたのだった。それが、千鶴には泣きたくなるほど嬉しかった。厄介者ではないと、ここに居てもいいのだと、他の誰でもない沖田が許してくれたことが嬉しかったのだ。
だから、千鶴はどうしても沖田の誕生日を祝いたくなった。もちろん、西洋では誕生日を祝う風習があるという話を聞いた時もそう思ったが、他にも理由はあった。
千鶴は、沖田が常々口にする言葉が気になっていたのだ。
自分は新選組の剣だと言う沖田だが、以前はその圧倒的な剣の腕を自負しての言葉だと思っていた。だが、いつの頃からかその言葉に含まれるものが、それ以外の価値が自分にはないと言っているように感じられるようになったのだ。
そんなことはないと千鶴が言ったところで、沖田は聞く耳を持たないだろう。ならばせめて今日くらいは、彼が生まれてきて良かったと少しでも思ってくれるようにと、千鶴にできる限りのことを尽くそうと決めていたのだ。
身なりを整えた千鶴は、朝餉の準備のために厨へと向かった。
訳ありの千鶴は、平隊士とは極力関わらないように言われている。食事の支度や洗濯に掃除、そういうものは近藤派の幹部隊士のもののみと限られていた。
それでも、十名以上もの食事を一度に作るのは骨が折れるものだ。特に朝はその日食べる米をまとめて炊くのだから。だが、目覚ましい活躍が認められ財政難ではなくなったとはいえ、食事の内容は町民と変わらない。朝は一汁二菜で充分だった。
千鶴は米を炊きはじめると、隣の窯で麦湯を沸かし始めた。今日一日分の麦湯を作り竹筒に入れて、汲んだばかりの冷たい水で冷やしておくと、皆が喜んで喉を潤すのだ。
献立は、焼き魚に野菜の煮物と味噌汁、いつもと変わらぬ内容だが、めざしなどの干物が多い焼き魚を今日はセイゴの塩焼きにした。
昨日のうちに藤堂に頼んで、一緒に釣りに行ったのだ。藤堂がどうせ暇だろうと永倉と原田も誘い、千鶴を含め四人の釣果は今日の朝餉のみならず、昨日の夕餉をも賑わせてくれたのだった。
淡白な白身魚を沖田はあまり好まないが、皮目はパリッと中の身はふんわりと焼き上げれば、骨が面倒だと文句を言いながらも食べることを千鶴は知っていたのだ。
味噌汁も、ほんの少しだけ濃いめに味付ける。代謝が良いのか沖田は痩身ながら汗をかきやすく、暑くなると起き抜けに井戸で寝汗を拭っている姿をよく見かけるのだ。
漬け物も、沖田が好む胡瓜をたくさん漬けた。ぽりぽりした食感がいいらしい。茄子の漬け物はふわふわした食感が苦手らしいので、沖田の皿は盛り付けないようにした。
炊き上がった米を小櫃に移す時も、千鶴は気を遣う。永倉たち自他共に認める大食い連中の櫃には無造作に米を詰め込むが、沖田たちの櫃にはおこげが上にくるようにそっと盛り付ける。香ばしくぱりぱりした食感が、沖田の好みのようだ。
だが、総じて歯ごたえのあるものが好みなのかというと、どうもそうではないらしい。
近藤の好物だというたまごふわふわは、その名の通り食感がふわふわしていたが、沖田は旨そうに頬張っていた。そして、ポリポリした食感の沢庵は、土方の好物なのであまり好きではないと箸で突いては山南に嗜められていた。
好き嫌いの理由があまりにも子どもじみているが、気まぐれな沖田らしいと言えばそれまでだ。
沖田の好みに合わせて甘めに味付けした野菜の煮物も、人参や牛蒡といった癖のある味覚の野菜は沖田の皿にはあまり載せないようにする。代わりに、蓮根や筍などと共に麩と油揚げを少し多めに盛り付ける。
そうして、それぞれの膳に盛り付けが終わる頃、空腹に堪えかねて現れた永倉と藤堂が配膳を申し出てくれた。いつも朝餉の支度をしていると現れて手伝ってくれる斎藤は、今朝は原田と共に平隊士たちと朝稽古らしい。
肝心の沖田はと言えば、昨夜は遅番で市中の見回りをしていたため珍しく寝坊して、まだ井戸で顔を洗っているそうだ。沖田が来るまで彼の膳は死守せねばと、千鶴は両手でグッと拳を作ると気合いを入れた。
「よし!」
「ふあぁ……君は朝から元気だね」
「──っ!!」
あくびをかみ殺しながらもからかいの言葉を忘れない沖田の登場に、千鶴は細い肩を跳ね上げ声にならない悲鳴をあげた。そんな千鶴は反応に気を良くした沖田は、皆に「おはよう」と挨拶をしながら自分の膳の前に座った。
土方と並び上座に座った近藤が一同を見渡し、満足そうに頷く。
「今朝も皆揃ったな。それでは、いただこう! いただきます!」
「いただきます!」
それはまるで開戦時の鬨の声のようだと、千鶴は三度の食事のたびに思っている。近藤の掛け声とともに皆が一斉に箸を取り、我先にと目の前の飯を掻き込んでいくからだ。
沖田も律儀に「いただきます」と手を合わせてから箸を取ると、無造作に味噌汁を掻き回して口を付けた。
「……おいしい。今朝の当番は千鶴ちゃん?」
「──はい!」
背筋をピンと伸ばして答える千鶴を横目で確認すると、沖田は器用にほぐした魚の身を口に運んだ。カリっと焼けた皮の香ばしさとふっくらとみずみずしい白身に含まれた旨味が、口内に広がったのだろう。沖田の頬がわずかに緩むのを見て、千鶴の頬も知らず知らず緩んでいた。
昨夜の疲れが取れていないのか眠そうな顔をしながらも、沖田は膳に載せられたものを綺麗に平らげた。千鶴が沖田の食べる量を把握して食べきれる量を装ったのはもちろんだが、彼の好みに味付けたことが理由だろう。
食べすぎたと胃の辺りを撫でる沖田に、千鶴は食後の茶を差し出した。少し温めの薄い茶もまた沖田の好みそのものだ。千鶴が皆の茶を淹れるようになって間もなく、手際が悪く温い茶を配っていた千鶴を沖田がからかったことがあった。それでてっきり沖田は熱い茶を好むものだと思った彼女は、彼に熱い茶を出してネチネチと嫌味を言われる羽目になったのだった。
「千鶴ちゃん、おいしかったよ。ご馳走さま」
そう言って優しく頭を撫でられて、子どもじゃないのにと思いながらも、千鶴はまんざらでもなかった。頭というよりも髪を指で鋤くような沖田特有の優しい触れ方を、千鶴も心地好く受け入れていたからだ。これが近藤や永倉だと、頭がもげるのではないかと思うほどガシガシと力任せに掻き回されるのだ。
並んでニコニコと笑い合う二人を見ぬように、向かいに座る三馬鹿が目を泳がせていた。もちろん、沖田はそれを知っていてわざと「君ならいいお嫁さんになれるね」と甘ったるく
囁き、何も知らない千鶴はただ頬を染めてかぶりを振るばかりだった。
気温が上がる前に洗濯物を干し終えた千鶴が掃除をしていると、非番の沖田が自室の前の縁廊下で刀の手入れを始めた。千鶴も小太刀の手入れは自分でしているが、柄や鎺(はばき)が固く、外すのにいつも苦労するのだ。しかし、沖田は手こずることもなく、たやすくそれらを外すと刀身を拭いはじめた。
そんな些細なことでも自分との違いを感じ取り、沖田を異性として意識してしまう千鶴の乙女心。頬が熱くなるのを感じながら、千鶴は努めて涼しい顔で拭き掃除を続けた。
夢中になって柱や廊下を磨きあげた千鶴は、昼餉の支度に取りかかった。
今日も気温と湿度は高く、食の細い沖田はおそらく食欲を失っているだろう。冷たくてサラサラと掻き込める栄養価の高い食事をと考えて、千鶴は冷汁を作ることにした。江戸に住んでいた頃、武州から嫁入りした近所の女性に教わった冷汁うどんを元に、冷飯に味噌汁のような味噌仕立ての汁を掛けて食べる簡単なものだった。
いりごまを油が出るまですり鉢でよく擂り、そこに味噌と少量の砂糖を入れてさらに擂り混ぜる。薄切りの胡瓜と刻んだ紫蘇の葉と実、そして葱と茗荷を刻んだものを入れて、擂り粉木で突くように混ぜ合わせる。そうして作った味噌ダレを井戸で汲んだばかりの冷水で伸ばし、今朝炊いておいた冷飯にぶっかければ出来上がりだ。
昨年も暑さで食欲を失った沖田は、冷汁をいたく気に入った様子で彼にしてはよく食べてくれた。今日も暑くなることは昨日の内に予想できていた千鶴は、沖田のためにこの献立に決めていたのだ。
冷奴を添えて出せば、他の幹部隊士たちも喜色満面で齧りついた。沖田もまた、冷たくのど越しの良い食事をたいそう気に入ったようだ。他の者が食事当番のときとは異なり、箸が止まることがなかった。斜め前に座る沖田のそんな様子を、千鶴は誰にも気づかれないようにチラチラと盗み見ていた。もちろん、気づいていないと思っているのは千鶴だけ。彼女と並んで座る三馬鹿たちは、早々に食べ終わると膳を片づけることを口実に立ち去った。にやけた口許を茶碗で隠している沖田を後目に、いつにも増して無口な斎藤も食事を終えると膳を片づけに行ってしまった。
いつの間にか広間には沖田と千鶴しかいない。沖田と二人きりの状況に千鶴の胸は高鳴り、平然と食事を終えた沖田との落差に少しだけがっかりしてしまう。別に彼にも気持ちを返してほしいだとか、そんな大それたことは期待していない。沖田は近藤のために生き、近藤のために死ぬだろうということは、千鶴だって理解している。ただ、せめて女の子として扱ってほしい。それが千鶴のささやかな願いだった。
「ご馳走さま」
きちんと手を合わせて軽く会釈すると、沖田は膳を持って立ち上がり、何故か千鶴のところへやってきた。何か用があるのだろうか? そう思って座ったまま沖田を見上げた千鶴の頬に、細く骨張った長い指が添えられた。そして──。
「米つぶ、付いてたよ」
指先に載ったそれを千鶴に見せつけた沖田は、あろうことかそのまま自分の口へと運んでしまった。
「な……あっ──」
ボボボと音がしそうな勢いで顔を赤らめ、咄嗟の出来事に対応できず口をパクパクさせるだけの千鶴を見て、沖田はさも愉快だと言わんばかりに笑いはじめた。これでは体の良い玩具ではないか。女の子どころか人として見られていないのではないかと、千鶴の眦に透明な滴が浮かび上がる。さすがにからかい過ぎたと気づいたのか、沖田は少しだけ困った顔をすると、ポンポンと優しく千鶴の頭を撫でた。
「ごめんね。君があんまりかわいい顔をするから、嬉しくてついやり過ぎちゃった」
その瞬間、千鶴の頭の中は沖田の言葉といたずらっ子のような笑顔でいっぱいになる。ずるい。そんな顔でかわいいと言われたら、嬉しくて「ひどい」とか「悲しい」なんて感情を忘れてしまうに決まっている。
きっと彼はそこまで計算尽くなのだろう。だけど、それでも構わない。だって、沖田の一言に一喜一憂してしまうことすら、千鶴には嬉しくて堪らないのだから。
取り込んだ洗濯物を持って、千鶴はいつもの場所へと向かう。春先は陽当たりが良くて暖かかったその場所も、今は張り出した軒先が日陰を作り、打ち水で冷やされた心地好い風が流れ込んでくる。
すでに沖田は縁廊下で寝転んでおり、千鶴の訪れを歓迎するようにトントンと床を叩いた。誘われるがままに千鶴が沖田の頭上に腰を下ろすと、さも当然とばかりに彼は千鶴の膝を枕にした。これも沖田が千鶴の誕生日を祝ってくれた後から始まったことのひとつだ。野良猫のように警戒心の強い沖田が心を許してくれているようで、千鶴は恥ずかしい気持ちよりも嬉しい気持ちが勝ってしまうのだった。
そよそよと優しい風が千鶴の頬を撫で、沖田の額に掛かる柔らかな前髪をそっと揺らす。擽ったそうに目を細めた沖田の代わりに、千鶴の細い指が優しく前髪を払った。
言葉など交わさなくとも、沖田と通じあえている実感がある。
やがて沖田の呼吸が一定になると、千鶴は彼を起こさないように気を付けながら洗濯物を丁寧にたたみ始めた。
千鶴がすべての洗濯物をたたみ終えた頃、沖田も満足したのか寝返りを打つとゆっくりと身体を起こした。よく眠っていたようだから喉が渇いているだろう。そう思って、千鶴はお茶の準備に取りかかるために立ち上がった。
「沖田さん、何か召し上がりますか? くずきりとお団子ならすぐにご用意できますけど」
暑さで食欲が減退している沖田に少しでも栄養をつけてほしいと、千鶴は彼が食べやすそうな菓子を用意していた。
「んー……いや、いつものがいい」
「はい、わかりました」
いつもの。暑くなってから千鶴が沖田のために毎日用意しているもの、それは冷やした甘酒だった。米麹と道明寺糒さえあれば半刻ほどで作れるため、千鶴は毎朝沖田のために甘酒を作って冷やしているのだ。
飲み物ばかりになってしまうのもどうかと思い、棚に入っていたごま煎餅を添え、冷やしておいた麦茶と甘酒を器に注いだ千鶴は、沖田の許へと急いだ。
井上から夕餉の支度を手伝ってほしいと頼まれた千鶴は、このまま夕涼みをすると言う沖田を残し厨に来た。
沖田の誕生日を教えてくれた井上は、千鶴の計画に協力的だった。
「土用の丑の日にはだいぶ早いが、まあいいだろう。皆も喜ぶよ」
井上が用意してくれたのは鰻だった。旬ではないのによく太っておいしそうだ。鰻は井上に任せ、千鶴は副菜作りに取りかかった。
胡瓜とわかめの酢の物は、梅酢を使って味に変化をつけた。漬け物は大根の葉と茗荷の甘酢漬けにした。汁物は肝吸いにしたかったが、生憎肝を人数分用意できないため、根菜類の味噌汁にした。主菜の鰻が茶色いので副菜は彩りに気を遣い、目でも楽しめるように盛り付けにも気を配った。
そんな千鶴の気持ちを知っているのかいないのか、沖田は「鰻なんて豪勢だなあ」と呑気に言いながら、綺麗に平らげたのだった。
後片付けを済ませ、夕餉の時に沸かしておいた湯でこっそり湯編みを済ませた千鶴が部屋に戻ると、そこには何故か沖田が寛いでいた。
「千鶴ちゃん、今日はありがとう」
「えっ?」
突然礼を言われきょとんとする千鶴に、沖田はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「あれ? 今日は朝からずっと僕の誕生日を祝ってくれてたんじゃないの? やけに甲斐甲斐しく僕の世話をしてくれてたよね」
やはり沖田は意地悪だ。気づいていたのに、ずっと黙っていただなんて。俯き、うー、だとか、あー、だとか、意味をなさない音を発するだけの千鶴に、不意に沖田が近づいた。
「それで?」
「へ? ──きゃあ!」
顔を上げると想像以上の至近距離にあった翡翠の双眸に、千鶴は飛び上がって距離を取ろうとしたが、それは叶わなかった。その細腕のどこにそんな力があるのかと信じられないほどの強い力で、沖田が千鶴の手首を捕らえて放してくれないのだ。あっさりと片手で千鶴の両手首を掴みあげ、俯く千鶴の耳元でわざとらしくゆっくりと一音ずつ話す沖田。
「口付け、はしてくれないの?」
千鶴の誕生日と称して祝ってくれたあの日、沖田の誕生日を祝いたいと言う千鶴に、彼は口付けがいいとねだったのだった。
「……め…………」
「ん? 駄目なの?」
俯いているために、赤く染まった千鶴の項がよく見える。泣かせてしまわない程度にもう少しだけ千鶴をからかおうと、意地悪く眇められていた沖田の目が、次の瞬間には丸くなった。
「目を……閉じて、ください」
熟れた林檎のように赤い顔の千鶴が、真剣な眼差しを沖田に向けてきたのだ。
「うん、わかった」
初心な千鶴のことだ。口付けといってもどうせ頬にするのが関の山だろう。一瞬でもドキッとしてしまったことが何故か悔しくて、沖田は高を括ると千鶴の手を放し目を閉じた。もちろん、千鶴が気づかない程度に薄目を開けて、彼女の様子を見ることは忘れない。
小さな手のひらが心許なさそうに沖田の合わせを掴んだ。きつく目を閉じ、緊張の面持ちで千鶴が背伸びをする。目を閉じたままでどうやって狙いを定めるつもりなのだろう? そんな疑問も、すぐに沖田の中から消えてしまった。
ふわりと、甘い香りとともに何とも形容しがたい柔らかな感触と確かな熱を唇に感じたからだ。しかも、すぐに離れると思ったそれは、柔らかく押し当てられたままだ。唇だけではない。つま先立ちがつらいのだろう。男の沖田とは明らかに違う、華奢だが丸みを帯びた肢体がしなだれかかるように寄り添っている。
これは……。据え膳食わぬはなんとやらと言う状況なのだろうか?
焦れったくて、もっと口付けを深めたくて、沖田は無意識に千鶴の身体を抱き寄せた。だが、腕の中の小さな身体が強ばった瞬間、思わず抱き寄せた腕の力を抜いてしまっていた。
──目の前のこの少女に嫌われたくない──
わずかに生じた迷いは、沖田にそれ以上のことをさせなかった。否、何故そんなことを思ったのか、その疑問が沖田の頭の中をいっぱいにして、他のことを考える余裕を奪ったのだった。
今もぎゅっと身を固くしたまま、それでも沖田を突き飛ばすこともせず、腕の中から逃げずにいる千鶴は何を考えているのだろう? そう、未だ唇は離れていないのだ。しかし、何とも色気のない状況になってしまった。先ほどの熱に浮かされたような甘い誘惑など都合よく忘れた沖田は、悪戯心の赴くままに千鶴の背をつぅと指で撫で上げた。
「ひゃあっ!」
「あっはははは!」
奇声を発して飛び上がった千鶴を、沖田は思いきり笑い飛ばした。だが、我に返った千鶴が羞恥に堪えかねて逃げないようにと、細い手首をしっかりと握りしめることは忘れなかった。
「まさか君から唇にしてくれるとはね。驚いたよ」
千鶴から不意打ちを食らったようで、それが悔しい沖田が仕返しのつもりでそう言うと、千鶴は赤い顔をさらに赤くしたが沖田の手を振りほどこうとはしなかった。
「初めてだったので……私、上手にできたかわからなくて……いかがでしたか?」
まさか感想を求められるとは思わなかった沖田は、珍しく返事に窮してしまう。だいたい、恥ずかしそうにしながら潤んだ瞳で上目遣いをしてくるなんて反則だ。無自覚なだけになおさら恐ろしい。
「どうかな? 僕も初めてだから──」
そう、ずっと剣術一筋で、異性はおろか近藤以外の人間に興味なんてまったくなかった。だから知らなかったのだ。触れあった唇だけではない。細いだけだと思っていた千鶴の身体が、あんなに柔らかくて抱き心地が良いなんて。毎日同じものを食べているはずなのに、抱き締めた千鶴の身体からは甘い香りがした。花街の女から臭う白粉やお香の香りとはまったく違う、千鶴らしい優しい香りだった。
そんな沖田が初めて自覚した異性への回想は、千鶴の一言で幕を引いた。
「えっ? 初めてなんですか!?」
よほど衝撃的だったのだろう。千鶴の顔には取り繕うこともせず、驚愕の表情が貼り付いている。
「……君が僕のことをどう思っているか知れて良かったよ」
まったく良さそうではない刺々しい声色で、沖田は千鶴の両頬を容赦なく指で摘まんで左右に引っ張った。
「いひゃいへふ! ほひははん!」
「うるさいよ」
まさか、こんな小娘に男の純情を踏みにじられるなんて。
思う存分、千鶴の頬を引っ張って憂さを晴らすと、オマケだと沖田は千鶴の額を指で弾いた。
よほど痛かったのだろう。無言で額を押さえて涙を滲ませる千鶴を、いい気味だと沖田は満足げに見下ろした。だが。
「だって……そりゃあ、花街へはご自分からは行かれないですけど、巡察の最中に恋文を渡されたり、お茶屋さんでも沖田さんにだけお団子が一本多かったり、遊んでた子どもたちを迎えに来たお姉さんにお家に誘われたり……沖田さん、モテモテじゃないですか!」
涙を浮かべてそんなふうに言い募る千鶴に、沖田はニンマリと笑って見せた。
「恋文は受け取ってない。団子もちゃんとその分も払ってる。お姉さんの誘いも必ず断ってる。だって、千鶴ちゃんがすごい顔で僕のことを睨むから怖くて怖くて」
そう言って沖田がわざとらしく肩まで竦めて見せると、千鶴は怒りと羞恥で顔を赤らめて喚いた。
「なっ──嘘です! えっ? 嘘、そんな……」
気づかれていたなんてとわかりやすく気落ちする千鶴に、沖田はますます笑みを深める。やはり、千鶴をやり込めるほうが性に合っていて楽しい。
「あーあ、千鶴ちゃんに初めての接吻を奪われちゃったし、仕方ないから責任取ってお婿にもらってよ。この際、君が鬼のように怖いお嫁さんでも我慢してあげるからさ」
「ひどいです!」
これより三年の後、東北の鬼を統べていた雪村の里でまさに鬼嫁を娶ることなど露知らず、沖田は千鶴を弄り倒して楽しむのだった。
夏の訪れ 完