春の訪れ 寒さが和らぎ、草木が次々に芽を膨らませ、春の訪れが間近に迫ったある日。麗らかな昼下がりを、沖田は千鶴と共に屯所の縁廊下で過ごしていた。取り入れた洗濯物を畳む千鶴の横で、彼は特に手伝うでもなく大きな身体をごろりと横たえている。
降り注ぐ暖かな陽射しの恩恵を存分に受けて寛ぐ沖田の姿を、まるで猫のようだと千鶴は思った。柔和な笑みを浮かべてはいるが、その笑顔の下には鋭利な爪が隠されていることを彼女は知っているからだ。今までに何度「斬っちゃうよ」と言われただろうか。だがそれは、あくまでも新選組に害する場合であることを千鶴は知っていたし、彼女がそんなつもりは微塵もないことを沖田もまた知っていた。
仲間ではないけれど、それなりの信頼関係を築ける程度の時は共に過ごしているのだ。そう、二人は互いに隣にいて違和感のない、もっと言えば寛げる仲になっていた。
非番で特に出掛ける用事がなければ、沖田は大抵こうして洗濯物を畳む千鶴の傍で過ごす。ある日、千鶴が自分はまだ監視されているのかと沖田に尋ねたことがあった。彼はきょとんとした顔で瞬きを幾度か繰り返した後、ようやく千鶴の意図を汲み、そんなものは最初の半年ほどしかなかったことを彼女に教えたのだった。
それではなぜ、洗濯物を畳むたびにこうして傍にいるのかと再び千鶴が問えば、彼は自意識過剰だとカラカラと笑った。曰く、燦々と陽の射し込むここが、沖田お気に入りの昼寝場所なのだそうだ。確かにここは居心地がとても良い。千鶴がここで洗濯物を畳むのもまた、同様の理由からなのだ。
それからも、二人は特に示し合わせるでもなく共に過ごしている。そして、たわいもない会話をして過ごすことが日常になっていた。今日もまた、二人はこうして縁廊下に並んで寛いでいるのだ。
「そう言えば近藤さんから聞いたんだけど、西洋では生まれた日を誕生日と言って記念日として毎年祝うらしいよ。その話を伊東さんから聞いたっていうのは気に食わないけどね」
そう言って心底嫌そうな表情になった沖田とは対極に、千鶴はそのかんばせに喜色をあらわにした。
「わあ……西洋には素敵なお祝いがあるんですね。そういうみんなが幸せになれるものなら、攘夷には当たらないですよね。そうだ、沖田さんのお誕生日はいつなんですか?」
口元を綻ばせて「皆さんでお祝いしましょう」と嬉しそうに語る千鶴に、沖田も満面の笑みで答える。
「うん、夏だけど」
ずいぶんと先の話に、浮かれていた千鶴の表情が花が萎れたようにシュンとしたものに変わる。千鶴ならば必ずそう言うだろうと踏んで、沖田はわざと彼女に話したのだ。そして、まだまだ先であると知って落胆することもまた、彼の予想した通りだった。
すべて思惑通りに事が運び、沖田は腹が満ち足りた猫のように満足げに目を細めた。だが、その双眸はすぐに驚きで見開かれることになる。
「えっと……それでは今から準備を始めれば、沖田さんのお誕生日には充分なお祝いができますね」
さも名案だと瞳を輝かせる千鶴を、沖田は不可解なものを見る目付きで睨む。
「何それ。いつも君を気に掛けてる平助や左之さんにならわかるけど、意地悪ばかりしてる僕にまでどうしてそんなふうに思えるわけ?」
口角を上げてはいるがその頬はヒクつき、儘ならない千鶴の反応に苛立ちを隠せない様子の沖田に、千鶴は臆することなく向き合った。そして、「意地悪をしてるって自覚はおありなんですね」と肩を落としため息をこぼすと、まるで幼い子どもに言い含めるような丁寧な口調で話し始めた。
「確かに沖田さんにはよく意地悪をされますけど、私のことを一番気に掛けてくださっているのも沖田さんですから」
初めて巡察に連れ出してくれたのも、その時に騒動を起こしてしまい山南に叱られたにも関わらず庇ってくれたのも沖田だ。池田屋でも大怪我を押して身を呈して庇ってくれた。行方不明になっている父の手掛かりも掴めず落ち込んでいる時も、どこからともなく現れて冗談を言って気を紛らわせてくれるのもいつだって沖田だ。
そうした千鶴からの手放しの賛辞の数々に、日頃の行い故にあまり人から感謝されることのない沖田は、居心地が悪そうにしかめ面を作るとそっぽを向いた。
「そんなの、たまたまじゃないの」
「そうかも知れません。でも、それで私が救われたのは事実ですから。だから私は、沖田さんが生まれてきてくださったことに感謝しているんです。沖田さんが喜んでくださることをしたいんです」
臆面もなく沖田の正面に回り込んで熱弁を振るう千鶴に、そこまで言うのならばと機嫌を治した沖田は口を開いた。
「ふぅん……。それじゃ、君に何かしてもらおうかなあ。例えば──」
そこで沖田がなぜか声を潜めたので、聞き取るべく千鶴は不用意に彼に近づいた。沖田もまた身を乗り出すと、千鶴との距離を一気に近づけた。互いの息遣いを間近に感じるところまで間合いを詰められ、千鶴の胸は急激に高鳴りを覚えた。
「口付け、とか」
胸をざわめかせる言葉と共に唇に感じた沖田の呼気の熱さに、千鶴は思わず目を瞠った。大きな瞳をこぼれ落ちそうなほどに見開いて固まる彼女の初心な反応に、沖田は満足げな笑みを浮かべる。だがその笑みを、冗談を本気にしたと笑われたのだと勘違いした千鶴は、羞恥に頬を赤く染めながら沖田から視線を外したのだった。
「なっ……ぁっ……か、からかわないでください、もうっ!!」
「なんで? 君みたいにかわいい子から口付けを贈られたら僕だって素直に嬉しいよ」
熱っぽい囁きを耳元に吹き込まれ、ますます赤く染まった千鶴の頬は熟れた林檎のようだ。それだけならばずいぶんとかわいらしいものだが、すでに限界を越えてしまっていたのだろう。千鶴は大きくてつぶらな瞳に涙の膜を張り、それがしずくとなって今にもこぼれ落ちそうになっていた。やり過ぎたとさすがの沖田もほんの少しだけ反省し、これ以上の追撃を加えるのは諦めた。
「ごめん、ちょっと苛めすぎたかな?」
「……やっぱりからかったんですね」
「ううん、意地悪はしたけど冗談は言ってないよ。君から口付けをしてくれたら嬉しいのは本当」
そんな甘い台詞を形の良い薄い唇から紡いだ沖田を、千鶴は恨みがましくジト目で睨み付ける。度が過ぎたと反省した側からついまたやってしまったと、沖田は肩を竦めて「ごめんごめん」と謝った。
「君はいつなの?」
「え……」
ポカンと呆けている千鶴に、催促するように沖田は答えを急かした。
「だから、誕生日はいつ?」
祝ってもらえると素直に喜ぶ千鶴の姿を想像した沖田だったが、千鶴は表情を冴えないものに変えた。
「ごめんなさい。私は……わからないんです。幼い頃の記憶が曖昧で、父もあまり多くを語る人ではないですし」
沖田の問い掛けに答えられないことを申し訳なさそうに詫びる千鶴に、彼にしては珍しく優しくしてあげたいと思った。
「それじゃ、今から君の誕生日は今日ってことにすればいい」
「えぇっ!?」
思い付きでそんな提案をされた千鶴は、戸惑いをあらわにした。だが、沖田はそんな彼女のことなど気にするふうもなく、「いいからいいから」と強引に事を運んでいった。彼は裸足のまま庭に降りると手近で咲く花を摘んでは編みを繰り返し、あっという間に可憐な花冠を編み上げた。
「はい、お誕生日おめでとう。千鶴ちゃん」
ポンと無造作に千鶴の頭にそれを載せた沖田は、少し離れて腕を組むと優しげな笑顔で彼女をまじまじと眺めた。無遠慮な視線を受け、千鶴はなんだか面映ゆく感じられて堪らず俯いてしまった。それでも、こんなに優しくしてもらえる理由を問わずにはいられなかった。
「沖田さんはどうして私にこんなに良くしてくださるんですか?」
すぐには答えはなかった。不思議に思って見上げた千鶴は、眉尻を下げて珍しく困惑の表情を浮かべる沖田と目が合った。
「つまり、僕も君が生まれてきてくれたことに感謝してるってこと」
そう、春の訪れはもう間もないだろう。
春の訪れ 完