金魚すくい沖田に連れられ内緒で祭りにやってきた千鶴は、目の前で繰り広げられる沖田の妙技に見入っていた。
たかが金魚すくい、されど金魚すくい。太刀筋と同じく迷いなく振るわれるポイが、次々と金魚を捕らえ掬っていく様に千鶴はただただ見蕩れていた。
「沖田さん、すごいです! まるで金魚のほうから飛び込んでくるみたいです!」
「うーん、金魚すくいの腕を褒められても、あんまり嬉しくないかな」
千鶴から贈られる真っ直ぐな讃辞と尊敬の眼差しに、さすがの沖田も気恥ずかしいのか肩を竦め苦笑を洩らした。
その弾みに金魚に紙を破かれてしまい、千鶴からは残念そうにため息が洩れた。
「もう椀に入りきらなかったしやめ時だったんだから、そんな情けない顔しないの。さすがに全部は無理だけど、持ち帰る分は君が好きなのを選びなよ」
「えっ? でも、いいんですか?」
沖田の言葉に千鶴は花がほころぶようにぱあっと笑顔を見せる。
幼いころに父が何度か祭に連れ出してくれたことはあった。しかし、小さな千鶴は上手に掬うことができず、店の主人が適当に見繕った二三匹を手渡された記憶しかなかった。
こんなにたくさんの中から好きなものを選ぶという経験がなかったため、千鶴は自分が選んで良いものかと窺うように隣でしゃがんでいる沖田と向かいに腰掛けている店主の顔を交互にキョロキョロと見ている。
そんな千鶴の様子に、沖田は機嫌が良さそうに彼女に笑みを向けた。
「全部は持ち帰れないって言ったでしょう。僕は別にどれでもいいんだから、遠慮なんてしないで好きなのを選びなよ」
子どもが遠慮などするなと言われた気がして少し気落ちした千鶴だったが、手元の椀に再び視線を戻すと自然と頬が緩んでいくのが自分でもわかった。
椀の中でひしめき合っている金魚は、錦鯉のように美しい模様を纏ったものや、全身を眩い金色の鱗で覆われたもの、リュウキンのように寸胴でヒレの美しいものなど、色とりどりの宝石箱のようだ。
金魚でこれほど気がはしゃいでしまうのだから、沖田から見た自分はやはり子どもなのだと千鶴は納得する。
「さあ、どれでも選びたい放題だ。良かったなぁ、かわいい嬢ちゃん」
店主の言葉に一瞬目を見開いた千鶴だが、すぐにいかにも困った、申し訳ないというように眉尻を下げた。
「あの、違うんです。私は──」
男です、そう言い掛けた千鶴の言葉を遮って、沖田が楽しそうに相槌を打つ。
「そうでしょう、かわいいでしょう。悪い虫が集らないようにと思ってこんな格好をさせてみたけど、やっぱりバレバレだったなー」
刀は差しているものの、一見すると人懐こい笑みを浮かべている沖田は、とても新選組一番組組長には見えない。
男装の少女と親密な関係だと思われても、新選組とは無関係で害にはならないと判断したのだろう。
しかし、千鶴に向けられている沖田の瞳には、金魚すくいの屋台の主人の言葉を面白がっている色がありありと浮かんでいる。
冗談とわかっていても沖田に面と向かいかわいいと言われ、千鶴は頬を染めて「そんなことないです」ともごもご答えると俯いてしまった。
そんな千鶴の娘らしい控えめで純粋な反応と、それを楽しんでいる沖田を見比べた店主は、合点がいったらしくなるほどとうなずいた。
「好いた娘にいいところを見せようと兄さんが頑張ったんだから、あんたもそういう男心を汲んでやらないと」
「え? ……………………えええええっ!? そんな……あの……」
顔を赤くしたり青くしたり慌てふためきながら千鶴が沖田を見上げると、店主の言葉にやられたとでも言うように沖田の片眉がくっと持ち上がった。
けれど、それは決して不快なものではなかったらしい。その証拠に、千鶴の反応を見た沖田の肩は笑いを堪えきれずわずかに震えていた。
そんな沖田の様子からからかわれたのだと判断したのだろう。千鶴は唇を小さく尖らせ拗ねながらも、すぐに椀の中の金魚選びに夢中になるのだった。
「兄さんももっとわかりやすく攻めないと」
「うるさいよ、大きなお世話」
「あんた見た目はいいんだから、優しくしてやれば若い娘なんてコロッといくだろうに」
「だから、そういうんじゃないってば」
そんな店主と沖田の会話も耳に入らないほど、千鶴は目の前の金魚たちに惹きつけられていた。
「沖田さん、本当にありがとうございます」
屯所への帰り道、金魚玉を手に嬉しそうに自分を見上げる千鶴に、沖田は半ば呆れ顔で大げさに肩をすくめて見せた。
「金魚くらいでそんなに何度も礼を言われると、かえって申し訳ないよ」
「金魚ももちろんですけど、お祭りに連れてきてくださったから」
世話になっている身だからと諦めていた祭に連れ出してくれて、いろいろなものを見せてくれたりこうして金魚まで与えてもらい、自分にはもったいないと千鶴は頬を染める。
そんな千鶴をかわいいと思い、そんなふうに素直に感じた自分が急に恥ずかしくなって、沖田はつい話を逸らしてしまった。
「そういえば、僕の秘密を本当に誰にも言ってないんだね」
「もちろんです。だって沖田さんとのお約束ですから」
「だけど君が心配しすぎるから、土方さんや山崎君まで過保護になるんだよね。もう僕のことは放っといてくれないかな」
どうして自分はこうした突き放した言い方しかできないのだろうと、沖田は心の中で舌打ちをした。
千鶴は泣くだろうか? それとも怒るだろうか?
どちらもあまり見たくないと思いながら沖田が視線を落とした先には、千鶴の困惑した顔があった。それでも、蜂蜜色の瞳はまっすぐに沖田に向けられている。
「誰にも言わないとはお約束しましたけど、それと知らない振りをするというのは違います。見て見ぬ振りはできません。沖田さんのこと、放っておけないです」
「ふーん、そんなもんかな?」
「はい、そんなもんです」
最近こうした千鶴の言葉や強い態度が心地良く感じられてしまい、沖田は自分の心境の変化に戸惑いを覚えていた。
死病に侵されなければ、先ほどの金魚すくいの店主の言葉ではないが、もっと千鶴に優しくしてやっていつしか所帯を持つ未来もあったのだろうかと沖田は自問する。
いや、なんの憂いもなく刀を振るっていたころの自分ならば、近藤のために剣であることこそがすべてだと、自分はそれしかできないと思っていたはずだとすぐに答えは出た。
病床に伏せることが多くなり、剣として近藤の役に立てない自分の不甲斐なさに苛立ちと不安を覚えて、千鶴に当たることも増えたと自覚している。
それでも、どんなに冷たくしてもひどい言葉を投げつけても、千鶴は今のように困った顔をするだけで沖田から離れることはない。
あれだけのことをしたのだから今日は来るまいと沖田が高を括っていても、千鶴は毎日笑顔でやってくる。
だが、そんな笑顔の裏で千鶴が沖田の心無い言葉や態度に泣いていることを沖田は知っていた。
泣いている千鶴を原田や斎藤が慰める姿に、これでさすがの千鶴も自分に愛想を尽かすだろうと清々するはずだった。
別に千鶴が嫌いなわけではない。あれこれ心配するから煩わしいと思うだけで、素直でいい子だと思う。原田や斎藤ならば千鶴と穏やかに暮らすところを安易に想像できる。
けれど、千鶴が他の男の傍らにいることが、自分以外の男を見上げて笑顔を見せることが、沖田には堪えられなくなっていた。
千鶴を手ひどく追い払っておきながら、パタパタと軽い足音がやってくる瞬間を心待ちにしていることを自覚したのはいつだったか。
わざと薄着で部屋の外に出て、それを見咎めた千鶴に部屋へと連れ戻される時に繋がれる彼女の手のひらの柔らかさとぬくもりに安堵を覚えるようになったのもいつだっただろうか。
「僕なんかでも死んだら目覚めが悪いから?」
気付きたくなかった気持ちをごまかすためにわざとそんなことを口にする沖田を、ムッとした表情の千鶴が見上げる。
「どうしてそんなふうに私を試すことばかりおっしゃるんですか? 沖田さんが何とおっしゃろうとも、私は沖田さんのお側から離れるつもりはありませんから」
真正面から見上げてくる千鶴は、沖田の前では絶対に涙を見せない。沖田は最初、千鶴が自分にだけ気を許していないのだと思って苛ついたが、本当の理由を知ったのはそれから間もなくのことだった。
泣いている千鶴に「そんなにつらいなら総司の前で泣いて訴えてやればいい」と言った原田に、彼女は「寝込んで一番悔しい思いをしている沖田さんに、そんな泣き言は言えません」と言ってまたさめざめと泣いていた。
刀を振るえない自分に価値はないと、寝込むことが多くなった現状に焦りと苛立ちを覚え、それを自分よりも弱い立場の千鶴に八つ当たりしただけだった。
それなのに、千鶴は沖田が抱えていた苦悩を理解するばかりか弱い気持ちごと受け止めようとしてくれていると感じられて、千鶴の気持ちを知った沖田は胸の底のほうが何だかくすぐったくなったのだった。
どんなに突き放そうとしても千鶴が離れないことはわかっていたはずなのに、こんな弱気な自分で本当に構わないのかと試すようなことばかり繰り返すことすら見破られていたのだ。
「馬鹿みたいだ」
「馬鹿で結構です!」
思わず吐き出した自嘲の言葉を捉え違えた千鶴がプリプリと肩を怒らせる様に相好を崩した沖田は、後ろからそっと千鶴の小さな身体を抱き締めた。
「沖田さん?」
「歩き疲れちゃったー」
「ええっ? おんぶは無理ですよ!?」
「大丈夫、大丈夫。千鶴ちゃんは頑張り屋だから、僕の一人や二人ならヒョイヒョイ担いで帰れるよ」
「頑張ってできることとできないことがあるんですー!」
「ほら、もっと頑張ってよ」
駄目だ無理だと言いながらも、顔を真っ赤にしながら沖田の全体重を支えようと踏ん張る千鶴の姿に、沖田は心が軽くなったと実感していた。
「そんなに手間暇かけてやらなくても大丈夫じゃない?」
「いえ、沖田さんからいただいた金魚ですし、私が世話をすることになったからにはできる限りのことはしてあげたいです」
祭りの翌日からせっせと金魚の世話をしている千鶴に、邪魔をするように沖田がちょっかいを出している。
金魚の世話が増えても、千鶴が他のことを──もちろん沖田の世話も含めて──疎かにすることはなかった。
そんな些細なことも嬉しく感じられた沖田は、ますます千鶴をからかい困らせるようになった。
けれど、祭りの日以来、沖田が千鶴を邪険にすることも泣かせることもしなくなった。
祭りの翌日、沖田は再び千鶴を屯所の外に連れ出して、金魚鉢を買ってきたのだった。
広々とした鉢の中を悠々と泳ぐ金魚の姿を嬉しそうに眺める千鶴の顔を、沖田は飽くことなく眺めていた。
「そうだね。あんな狭いところで暮らすよりも、広々とした鉢の中で毎日君に世話を焼いてもらうほうがずっといいに決まってる。この子たちは君にすくわれて良かったね」
「掬ったのは沖田さんですよ」
「うん、そうだね。掬ったのは僕だけど──」
救ったのは君だよね。この子たちも僕のことも……。
声にならなかった沖田のつぶやきが千鶴に届いたのは、二人が雪村の里で暮らすようになってからだった。
《終》