恋は人を狂わせる 沖田は、幼い頃はさほど丈夫ではなかった。同じ年頃の子どもより身体も小さく、季節の変わり目には必ず風邪で寝込むような病弱な子だった。そんな彼を心配した家族によって連れてこられた道場で、沖田は近藤と出会ったのだ。大人なのに偉ぶらずまっすぐで純粋で、キラキラと眩しく見えて、そんな近藤の役に立ちたいと沖田は剣道にのめり込んでいった。
近藤に早く一人前だと認められたくて、陰ながら人一倍の努力を重ねてきた。上達するたび、近藤は武骨な顔を破顔させて喜んでくれた。それが嬉しくて、他のことなどどうでもいいと思えるほど嬉しくて、沖田はますます剣道にすべてを捧げていった。
そんな彼にも、年頃になると気になる女の子が現れた。剣道を通じて仲良くなったクラスメイトの幼なじみだという彼女は、まっすぐでキラキラと眩しくて、だけどそれだけではなかった。女の子なのに頑固で根性があって、それなのに少し抜けていて。気づいた時には、もう目の離せない存在になっていた。もっと彼女のことを知りたい、もっと彼女を見ていたい、もっと彼女に自分だけを見てほしい。そういうものに一切の興味を抱かなかった沖田も、その感情を何と呼ぶのかすぐに自覚したのだった。
そこからの沖田のアプローチは、彼らしく素早かったけれど、彼らしくない不器用なものだった。振り向いてほしくて、少しでも時間を作っては千鶴を構い倒した。彼女の視線を独り占めしたくて、度を越した言動で千鶴を泣かせてしまうことも少なくなかった。それでも、紅一点の千鶴に優しくする輩は絶えずとも泣かせるのは自分だけだと思うと、沖田は彼女の涙が特別なものに思えて、わざと泣かせることもあった。藤堂や斎藤からは千鶴に嫌われるぞと再三に渡って注意を受けたが、沖田はそれでもやめなかった。泣いた彼女をからかって、涙を拭いてやりながらとことん甘やかして、彼女を笑顔にするまでが沖田なりのコミュニケーションになっていたからだ。千鶴だって、意地悪をされるとわかっていても彼女から近寄ってくるのだ。どんな意地悪をされるのかと不安に瞳を揺らしながらも、どんな甘い言葉で慰めてくれるのかと期待に頬を染めながら。
そんな、周囲からは理解を得られない攻防戦がひと月ほど続き、それは唐突に幕引きを迎えたのだった。
いつものように泣かせた千鶴を慰めるために、沖田は柔らかな頬に伝う雫をペロリと舐めたのだ。よほど驚いたのか、千鶴はつぶらな瞳をさらにまん丸に見開いたまま固まってしまった。だが、一度は止まった涙はすぐに溢れだし、嗚咽混じりに沖田に問いただしたのだった。なぜ、こんなことをするのかと。そして、自分のことをからかい甲斐のあるただの後輩だと思っているなら、もうこんなことはやめてほしいと訴えた。このままでは、自分が沖田の特別なのではないかと期待してしまうから。そう言って俯こうとした千鶴を、しかし沖田は許さなかった。筋張った両手で柔らかな頬を包み込み、しっかりと視線を絡み合わせた。居たたまれないと羞恥に歪んだ表情も、涙の膜に覆われた潤んだ瞳も、千鶴が自分にしか見せないものだと思うと、込み上げてくるのは愛しさだけだった。
「君は、僕のことをそんなふうに思ってるの? 何とも思ってない子にこんなことをする、不実な男だって」
そう言って、少しだけ傷ついた表情を浮かべれば、後は沖田の思うままだった。そんなことはないと強く否定する千鶴をからかえば、涙の跡が残る頬を膨らませながら「やっぱり面白がってるだけじゃないですか」と詰られた。コロコロと変わる表情をもっと間近で見てみたくて、それが唯一許される存在になりたくて。沖田は、負けを認めるような悔しさを感じながらも、同時に空虚な器が満たされる多幸感も覚えた。
「好きだからからかいたくなるんだけど。わかってくれる?」
耳まで赤くなった千鶴が小さく頷いたのを認めて、沖田はその華奢な身体をそっと抱き寄せた。自分のそれとはまったく違う、丸みを帯びたなだらかな肩に額を擦りよせた。
「ありがとう」
口の中で呟いたそれに、千鶴がまた僅かに頷いたことが堪らなく嬉しかった。
付き合いはじめてからも、構いすぎる沖田に千鶴が泣かされる関係はあまり変化が見られなかった。ただ、他の男が千鶴に話しかけるとどこからともなく現れた沖田に妨害されるようになった。そして、話しかけられた千鶴もまた、困惑の表情を浮かべつつも、沖田の登場を待ちわびるように視線をさ迷わせるようになった。
恋愛初心者の二人の関係は順調だと、誰もがそう思っていた。
ある日、沖田は担任の土方から呼び出しを食らった。沖田曰く「かわいい悪戯」に激昂した土方に追い回されることは多々あったが、今日は進路相談なので沖田も逃げるわけには行かなかったのだ。
指定された時間には十分ほど早かったが、さっさと済ませて千鶴に会いに行きたいと、沖田は土方の待つ国語科準備室の前までやってきた。そして、早くやってきたことを強く後悔することとなった。
部屋の中から声が聴こえたのだ。部屋の主である土方と、もうひとり。沖田でなくとも間違えるはずのない、男とは違う柔らかな高い声。
「もっと先っぽを咥えてしっかり舐めろ。濡れてねぇと小さい穴に入らねーだろうが」
「痛っ!」
「ほらみろ、血が出ちまった」
裏切られた──そう思った瞬間、沖田の表情と心は冷えて固まった。いつだって土方はそうだ。自分の大切なものをいとも簡単に奪っていく。それでも、近藤は仕方ないと思えた。この学園を続けていく上で、土方の狡猾さは必要悪だと沖田も納得できたからだ。だが、千鶴は違う。初めて自分だけのものだと思える存在だった。わがままで至らない幼い自分を、ありのまま受け入れてくれる女の子、それが千鶴だった。
「……僕を裏切るなんて絶対に許さない」
だが、この扉を開けて未だ見たことのない【女】の千鶴を見る勇気は沖田にはなかった。千鶴が土方に抱かれている、その事実だけでこんなにも身も心も引き裂かれそうな痛みに襲われているのだ。土方を受け入れている千鶴の姿を見てしまったら、心が痛みに耐えられずに壊れてしまう。そうして自分が死んでしまったら、千鶴は何の障害もなく土方と幸せになってしまう。そんなことは許せない。二度と裏切ることのないように、千鶴には徹底的に教え込まなくてはならない。自分を受け入れた瞬間から、他の男なんて選択肢はないのだと。
情けない行為なのは重々わかった上で、沖田は目の前の扉を思いきり蹴飛ばすと、身を翻して走り去った。背後から土方の怒声が聴こえたが、何と言っているかまでは聞く余裕は今の沖田にあるはずもなかった。
逃げるように国語科準備室を後にした沖田は、一気に昇降口まで駆け降りた。スクールバッグは教室に置いたままだが、どうせ大したものは入っていないのだ。このまま帰ったところでなんの問題もない。まるで沖田の胸中を表すような土砂降りの雨の中、彼は傘も差さずに歩き始めたのだった。
降りしきる雨の中でどれだけ歩いたのだろうか? 気づけばそこは千鶴の家の前だった。外塀に隠れるように、玄関の脇に座り込むことしばし……。ずぶ濡れの冷えた身体が勝手に震えだし、歯の根が合わずカチカチと硬質な音が口内に響く音を沖田は煩わしく思っていた。
節々が痛みはじめ荒く熱い吐息を洩らしながら、沖田は身体の弱かった幼少のころを思い出していた。両親は共働きで、歳の離れた姉たちは学童クラブにいて帰りが遅かった。幼い沖田は保育園に預けられていたが、熱を出すたびに母が仕事を早退して迎えに来てくれた。幼いながらも、母を独占できる喜びと仕事を抜けさせてしまった罪悪感に板挟みされていたことを思い出した。
千鶴と出会い、ようやく自分だけの大切な人を得たと思っていたのに。
やはり自分のような何の取り柄もない捻くれ者は、誰にも愛される権利などなかったのだ。近藤も千鶴も、自分よりも土方を選んだのがその証拠だろう。引き裂かれるような胸の痛みを感じているのに、沖田の唇からはくつくつと笑い声が洩れた。なんて滑稽なんだろう。何も持っていないのに、宝物を手に入れたつもりになっていただなんて。
「はは……、あはははははっ!」
しっとりと濡れた前髪が目元を覆っているにも関わらず、雨粒が目に滲みて沖田の視界は歪んでいった。
その時、カチャンと金属製の門扉が開き、聴きたくなかった待ち望んでいた声が沖田の鼓膜を揺らしたのだった。
「沖田先輩!? どうしたんですか? 電話しても出てくれないし、こんなびしょ濡れになって……風邪をひいてしまいます。とにかく上がってくださ──」
「そんなことより、土方さんと二人きりで何をしてたわけ?」
心配する言葉を遮られ、冷えた眼差しで見据えられ、初めて見た沖田の冷酷な態度に怯んだ千鶴だったが、彼のその一言で照れたように頬をほんのりと染めた。
「それは……言わなきゃ駄目でしょうか?」
見るからに純情そうな反応を返す千鶴に、沖田は苛立ちを募らせた。そうやってずっと自分を騙してきたのかと。何も知らずに千鶴を信じてきた自分を、内心では嘲笑っていたのかと。土方とも関係を持っているくせに……土方とは肉体関係も持っているくせに、まだ純情な素振りで自分を欺こうとするなんて。許せなかった。
「言えるわけないって? 土方さんといやらしいことをしてたなんて」
沖田の口から憎々しげに吐き出された言葉に、千鶴の顔は途端に強ばった。
「沖田先輩……? 一体何を──」
言われた言葉の意味が理解できない。そんな千鶴の無言の訴えを、沖田はバッサリと両断する。
「ナニをしてたのは君のほうでしょ。言ってくれればいくらだって相手になってあげたのに。純情ぶって何も知らない振りなんてするから、今まで遠慮してたのが馬鹿みたいだ。今から僕を温めてよ。さあ、ほら」
グイッと捻りあげるように手首を掴まれ、痛みに表情を歪める千鶴のことなどお構い無しとばかりに、沖田は勝手知ったる千鶴の家に上がると彼女の部屋を目指した。引きずられながら千鶴が何事か言っていたが、怒り心頭の沖田の耳には一切届かなかった。
千鶴をベッドの上へと突き飛ばすと、その華奢な肢体を押さえ込むべく、沖田は千鶴の上に覆い被さった。両手を頭上で拘束し、片膝で固く閉じられた内股を割ると、それまで大人しかった千鶴が暴れはじめた。
「沖田先輩っ! やめてください……嫌……やだっ! やっ──」
そんなに自分に犯されるのは嫌なのか。何度も繰り返される拒絶の言葉をこれ以上聞いていられず、沖田は青ざめて震えている唇に噛みついたのだった。
無理やり奪った初めてのキスは、しょっぱくて涙の味がした。あんなにも大好きだった千鶴の涙が、今はなぜか煩わしく思えた。そう、千鶴が他の誰かを想って流す涙など、愛せるわけがないのだから。
ギリギリと容赦なく両の手首を捻りあげると、痛みに表情を歪めながらも千鶴は強く力のこもった視線を沖田に向けるのだった。
「泣き言なら後で聞いてあげるから、ひとまずヤらせてよ」
我ながら最低の台詞だと思いながら、沖田は千鶴の返事を待たずに細く青白い首筋をペロリと舐めあげた。びくりと反応を示した千鶴だったが、経験のない沖田でもそうとわかるほど、それは艶めいた色事とは駆け離れたものだった。決して感じたからではない。千鶴は恐怖のあまり身を強ばらせただけなのだ。
「土方さんには喜んで抱かれたくせに、僕は嫌なんだ? 生意気だね、千鶴ちゃん」
虚ろな目で千鶴を見る沖田の瞳に、果たして自分は映っているのだろうか? 元々自由奔放で人の話を聞かない人ではあったが、今の沖田には自分のどんな言葉も届かないのではないかと千鶴は思った。それならば──。
「だったら……確かめてください。私のことが信じられないなら、先輩の好きなようにしたらいいじゃないですか!」
「何なの? 逆ギレとか相当たちが悪いんだけど」
言いながら、沖田は硬い手のひらでスルリと滑らかな千鶴の腿の付け根を撫で上げた。ビクビクと震え肌を粟立たせた千鶴だが、強い意思の宿った瞳をずっと沖田に向けていた。その態度が生意気だと、節くれだった指がクロッチ部分をスッと撫で上げると、青白かった頬にサッと朱が差し、瞳に影を落とすほど長くクルンと上向きに揃った睫が微かに震えた。
強がってはいるが、やはり怖いのだろう。
それでも千鶴は、まるで沖田の行為が正しいものか見定めるかのように、視線を逸らすことも瞼を閉じることもなく、ずっと彼の淡い翠玉の如き瞳を見つめている。
「何でさっきみたいに言わないの? 力ではどうしたって敵わないんだから、せめて言葉で嫌だとかやめてとか僕を拒まなくていいの? それとも男なら誰でもいいわけ?」
刺々しい攻撃的な口調とは裏腹に、先ほどから沖田は今にも泣き出しそうな表情をしている。性急な行為を止めたくて発した自分の言葉が、彼には拒絶の言葉に聞こえていたことを千鶴は理解した。沖田は常に飄々としているが、実は仲間思いで寂しがり屋だと知っている千鶴は、自分がどれだけ深く彼を傷つけたのかを考え、激しく自責の念に駆られたのだった。
「いいんです。初めては全部沖田先輩がいいって思ってましたから。いつかは先輩にもらってもらうつもりでしたから……だから、思っていたよりも早くてびっくりしましたけど、先輩の好きにしてください。先輩の誤解が解けるなら、私……ちゃんと先輩のすべてを受け入れたいんです」
目の縁をほんのりと赤く染め上げ、恥ずかしそうに瞳を揺らしながら、千鶴は沖田の背に手を回した。鍛え上げられた沖田の硬い胸板が、千鶴の控えめだが柔らかな双丘に押し当てられる。そして、早鐘を打ち鳴らしていた沖田の鼓動と千鶴のものがピタリと重なった。
千鶴の耳朶を熱く湿った吐息が擽った。千鶴の左肩に顔を埋める形で臥せている沖田の身体が、痙攣を起こしたように何度も大きく揺れた。彼が泣いていることを察した千鶴は、背に回した手をそっと動かし、彼の呼吸が落ち着くまで撫でてやった。
「ごめんなさい。私のどんな行動が沖田先輩を不安にさせてしまったのかわからなくて……教えてもらえますか?」
いつもは泣いた千鶴を沖田が甘やかすのだが、初めて立場が逆転した。今まで一方的に甘えてばかりで心苦しかったのだが、ようやく彼に甘えてもらえたことが嬉しくて、千鶴の心には少しだけ余裕が生まれたのだった。
柔らかな栗色の髪に指を通すと、臥せたままの沖田がグリグリと額を千鶴の肩に擦り付けた。日頃から歯に衣着せぬ発言ばかりの彼にしては珍しく、言いにくいことなのだろう。やがて、重たい口を億劫そうに開いた沖田は、泣いていたとわかる鼻声でぼそぼそと語りはじめた。
「放課後、国語科準備室に行ったんだ。そしたら、中から君と土方さんの声が聴こえて……先を咥えて舐めて濡らさなきゃ穴に入らないとか痛いとか血が出たとか聴こえたから、てっきりそういうことだと思って……頭に血が昇って……」
初めては血が出て痛いとは聞いていたが、それ以外の言葉から沖田が何故それを想像したのか、千鶴にはわからなかった。それでも、彼が誤解した原因はわかったのだから、後はその誤解を解けばいいだけだ。
「どうしても急に刺繍がしたくなって……それで、昔アパレル系でアルバイトをされていた土方先生に、実際に教わっていたんです。沖田先輩が聞いたのは針に糸を通すところで、私、手先はあまり器用ではないので、うっかり針を指に刺してしまって……」
そう言って恥ずかしそうに差し出された千鶴の人指し指には、うっすらと血の滲んだ絆創膏が巻かれていた。濡らしていたのは刺繍糸の先端で、千鶴を貫いたのは針だったとわかり、沖田は安心したのかようやく肩の力を抜いたのだった。
「……ごめん、つまらない嫉妬で君を疑ったりして…………」
今まで聞いたこともない、しおらしい沖田からの謝罪の言葉に、千鶴は嬉しそうにかぶりを振った。そして、身を起こしベッドから降りると、スクールバッグの中から綺麗にラッピングされたものを取り出したのだった。
「私こそごめんなさい。どうしても仕上げるまでは沖田先輩に内緒にしていたくて……。これ、一日早いんですけどもらってください」
「僕にくれるの? 何で?」
不思議に思いながら沖田が恐る恐る包みを開くと、中から出てきたのは沖田が愛用するブランドのスポーツタオルだった。よく見ると、端にイニシャルが丁寧に刺繍されている。
「もう……明日が何の日か忘れちゃったんですか?」
ぷくっと頬を膨らませて詰るような口調の千鶴の言葉に、沖田は明日が何の記念日だったかと頭をフル回転させた。
千鶴と初めて出会ったのは四月八日だし、付き合うことになったのは五月二十三日だ。早生まれの千鶴の誕生日は、バレンタインデーやホワイトデーの後なのでまだまだ先のことだ。
いよいよ心当たりのない沖田は大きな身体を小さく縮めると、ベッドから降りて床に正座まですると、さも申し訳ないという様子で再び千鶴に謝罪した。
「ごめん。思い出せない……」
母親に叱られた子どものようなしょんぼりとした沖田の情けない表情に、千鶴は思わず破顔してしまった。
「お誕生日おめでとうございます」
きょとんとした顔で何度か瞬きを繰り返し、ようやく沖田は千鶴の言葉を理解したのだろう。その表情が驚きからゆっくりと照れくさそうなものへと変わっていく様を、千鶴は愛おしげに見守り続けた。
きっとこれからも、すれ違ったりぶつかり合ったりするかもしれない。それでも、彼とならずっと共に歩んでいけるはずだと、千鶴は確信するのだった。
恋は人を狂わせる 完
沖田パイセン、おたおめ🤗💕