星夜の願い 七夕を明日に控え、屯所の庭先ではどこからか持ち込んだ笹に、入れ替わり立ち替わりで幹部隊士たちが楽しそうに短冊や飾りを吊す姿が見られた。
これにはさすがに八木家の家人たちも苦笑を漏らしながら、今回ばかりは騒ぎを見逃してくれているようだ。
日も傾き始めた夕刻、庭に飾られた笹を千鶴は沖田と二人で見上げていた。
沖田は先の池田屋での騒動の際に負った傷に障ると、先ほどまで土方の命により部屋から出ることを禁じられていた。
千鶴はいつものように炊事や掃除洗濯などをこなし、さらには暇を持て余した沖田に捕まって相手をさせられたのだった。
見かねた斎藤の助言により、夕餉までの短い時間だが、短冊を吊すために庭へ出ることを許可された沖田に付き添い、千鶴もこうして笹を見上げていた。
「こんなに立派な笹は初めてみました」
興奮した面もちで笹を見上げる千鶴を見ながら、沖田は意地の悪い笑みを浮かべた。
千鶴の意識が笹に向いて面白くない沖田だったが、どうやら何か良からぬことを思いついたようだ。
「ちなみに去年の皆の願い事は、土方さんは【信念】で、一君が【曇りなき眼】、平助が【笑顔】で左之さんは【余裕】だったかな」
すらすらと淀みなく言う沖田に、千鶴はよくもまあ他人の願い事を事細かに覚えているものだと少々呆れるのだった。
しかし、そんな思いはおくびにも出さず、千鶴は沖田の機嫌を損ねないように会話を続けた。
「沖田さんは去年は何を願ったんですか?」
「僕? 僕は【遊び心】だよ」
沖田の満面に浮かぶ笑みに、千鶴は「沖田さんらしいですね」と愛想笑いを浮かべるしかなかった。
しかし、一年経ったのだ。沖田も成長して、もっとまともなことを願うようになったかもしれない。
千鶴はそんな僅かな希望を抱きながら、懲りずに沖田に問い掛けた。
「沖田さんは今年はどんなことをお願いするんですか?」
「今年はこれにしたんだ」
楽しそうに声を弾ませながら千鶴に差し出された短冊には、堂々とした筆遣いで【浪士百人斬り】と書かれてある。
確かに沖田は成長しているようだ。それがあまり好ましくない方向にだが。
「他の皆の短冊も見ちゃおうよ」
「勝手に見ては駄目ですよ」
「いいからいいから」
何が良いのかわからないままの千鶴の制止など微塵も感じないのか、沖田は次々と吊された短冊に手を伸ばすのだった。
「へえ、土方さんの願い事は【静寂】ね。新八さんたちがいる限り叶わない願い事だなあ」
土方の一番の加害者である沖田にそう言われては永倉たちも納得しないだろうと思いつつ、千鶴は曖昧な笑みを浮かべるに留めた。
そんな千鶴の様子に構わず、沖田は次々に短冊を改めていく。
「一君は【無】だって。願い事がないのか、無心になりたいのか、どっちかわからないなあ」
「平助は【朝寝坊】って、こんなのいつもしてるのに今更だね」
「左之さんは【酒肴】ね……左之さんらしいけどつまらないなあ」
「千鶴ちゃんは……【平穏無事】? うっわ、普通」
つまらなさそうにそう言われ、沖田に期待はずれと言われたように感じられた千鶴は肩を落とした。
しかし、そんな千鶴の様子などお構いなしに、沖田は言葉を続けた。
「ねえ、千鶴ちゃん。まだ短冊が余ってたよね。もっと面白い願い事を書いてみない?」
そう言うと、沖田は千鶴の返事を待たずに筆を走らせ始めた。
「【俳句が上手くなりますように、歳三】っと」
「沖田さん!? 土方さんに見つかったら怒られちゃいますよ!」
「あはは。千鶴ちゃんはもっと大きくなりますようにってお願いすれば?」
「もう! どこを見ながらおっしゃっているんですか!? 私だって怒りますよ?」
「もう怒ってるじゃない」
「これからもっと怒るんです!!」
からかわれているとわかってはいてもついムキになる千鶴の姿に、沖田の笑みがますます深くなっていく。
その後も千鶴の制止など気にも留めず、沖田は次々に短冊に筆を走らせるのだった。
遂には千鶴も制止することを諦め、沖田の体調を心配して様子を見にきた土方の怒鳴り声が響くまで、沖田はたくさんの願い事を短冊にしたためた。
そのほとんどが沖田がふざけて書いた、とても願い事とは呼べないものばかりだったが、目立たぬように吊された一枚の短冊にふと千鶴の目が留まった。
夕闇が迫る中、瞬く星の明かりを頼りに見た願い事に、千鶴は驚きのあまり何度も瞳を瞬かせた。
「これは──」
「人の願い事を覗き見るなんて、千鶴ちゃんは助平なんだね」
「なっ──違います! 私、何も見てません!!」
「ふーん……本当かなあ?」
二人の言い合う賑やかな声が遠ざかり、後にはたくさんの願いを託された笹の葉擦れが静かに聴こえていた。
その中には【千鶴ちゃんが家族としあわせに暮らせますように】と書かれた短冊も揺れていた。
たった一人の肉親と生き別れ、年頃の娘が不自由な生活を強いられているのに、皆の無事を祈る千鶴のためにと捧げられた沖田の願いは、千鶴の胸の奥深くまで響いた。
あれから数年経ち、今は最愛の夫となった沖田の隣に並び、千鶴は燦然ときらめく星空を見上げている。
「晴れて良かったですね、総司さん」
「うん、天の川が綺麗に見えるのは僕も嬉しい。けど、彦星と織り姫だって一年に一度の逢瀬で精一杯だろうから、他人の願い事なんて叶える余裕はないと思うよ」
そう言って同意を求めるように自分に向けられた沖田の視線を受け、千鶴は幸せそうな笑みを浮かべるとそっと沖田に寄り添った。
「でも、総司さんが私のために願ってくださったことは、今こうして叶っていますから」
千鶴の言葉にすぐに何事か思い当たったのだろう。面映ゆがって千鶴から視線を逸らした沖田は、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「なあんだ、あの時やっぱり僕の短冊を覗き見たんだね。千鶴は助平だなあ」
照れながらもからかいを含む夫の言葉に、けれど千鶴は嬉しそうに目を細める。
普段、好きだの愛しているのと恥ずかしげもなく千鶴に伝える沖田だが、人から感謝されることに関してはまだ素直になれないのだ。
照れ隠しに思ってもいないことを口にする夫を仕方のない人だと思いつつ、千鶴の胸から溢れ出してくるのは夫に対する愛しさだった。
「何とでもおっしゃってください。総司さんのおかげで私が家族と幸せに暮らせていることに変わりないんですから」
愛する妻に満ち足りた笑顔でこんなことを言われては、さすがの沖田も降参するより他なかった。
肩をすくめながら両手を挙げて降伏を示す沖田に、千鶴は嬉しそうにぎゅっと抱きついた。
限りある時間だからこそ、一瞬がこんなにも大切で愛おしく感じるのだと、沖田も千鶴もわかっている。
先を嘆いて今ある幸せを無駄にしないように、大切に二人の時間を過ごそうと決めたのだから。
想いが通じ合ってから毎年、星夜に繰り返す祈りにも似た願いは、これからも変わらぬ想いを貫く誓いにも似ている。
繋いだ手を離さぬように、温もりを忘れぬように。
二人にとっての永遠を紡ぎ出していくために──。
星夜の願い 完