きみが泣くから 毎年、特定の日。その日に必ず、俺の兄貴は泣く。
泣かないでほしい。幸せに笑っていてほしい。兄貴より笑顔が似合う人間なんていないから。きっかけは何年も前の出来事だし、そろそろ傷が癒えてもいい頃だ。
でも結局、今年もまた兄貴は泣いてしまうだろうと思う。とびきり優しい、俺のお兄ちゃんだから。
起き抜けから非常に憂鬱な気持ちになった。名前を書いて冷蔵庫に入れておいたイチゴオレは無くなっているし、天気はどんよりとした曇り空でシャキッとしない。そして今日から明日にかけては雨らしい。これでは店に来る客も少ないだろう。
俺は一つ溜息を零し、カウンターにいる兄貴に話しかけた。
「兄貴、俺のイチゴオレ飲んだろ」
「あー……でも名前は書いてなかったし」
「しっかり書いたって。今回は兄貴が悪い」
「ごめんごめん、また買ってくるから許して」
謝罪が軽い、と商品の在庫をチェックするバインダーの面で兄貴の頭を叩く。ふん、俺のイチゴオレを飲んだ罰だ。前回の反省を活かして名前を書いた、賢い俺の。
話し終わったタイミングで、店のドアベルが鳴った。客は商品棚には目もくれず、兄貴のいるカウンターへ足を運んだ。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
「人を」
「人探しなら向かいの大通りを左にどうぞ。あの何でも屋は親切ですよ」
「この店に来れば、人を殺せると聞いた」
「あら物騒……どこから仕入れたんです、その噂は。ひょろい三十路がやってる、なんの変哲もない店ですよ。それにここは薬屋ですから、お話は商品を買ってからお願いいたします」
笑顔を崩さずに接客する兄貴を横目に、俺は商品棚から適当な瓶を取り出した。人を殺すならこの薬だ。値は張るが遅効性、死因も病気と間違えざるを得ない一級品。
兄貴とアイコンタクトを取る。ほらやっぱり、買わせるならこれだと思った。兄弟仲良し、以心伝心。客は、俺の手にある薬瓶をじっと見つめる兄貴に気付いたのか、俺の後ろにある商品棚から同じ薬瓶を手に取った。
兄貴はというと素知らぬ顔でお茶を準備していた。話をするときはお茶を、というのがこの店の鉄則だ。太陽の色を移したような、黄金に輝くお茶がカップに注がれていく。いい香りが湯気と共に漂い、うららかで穏やかな、そして何より幸せな休日の午後を想起させた。
盆を持ちながら客を個室に通す。これから来るかもしれない他の客に話を聞かれたらまずい、という配慮からだろう。俺も一緒に個室に入り客を見張る。
客は出されたお茶に礼をしてから、一口だけすすった。水色と香りに似合わず、まず渋みが舌に乗る。一瞬渋さに顔をゆがめた客は、もう一度お茶を口にした。最初の渋みとうって変わり、後味は果物の風味がすっきりとまとめ上げていて、いつの間にかカップは空になっていた。
「これを買えば殺してくれるのか」
「ふふ、どうでしょう。その薬は多少高価ですが、その分効果は大きいです。ただし、期限がついている物事には向きません。ゆっくりと餓者髑髏が連れて行ってくれる、この店でも優秀で素敵な薬です。さて、肝心の値段ですが、ちゃんと前払いで頼みますよ」
「いくらする?」
「薬が四十ペンガ、お話とお茶代が十ペンガ。合計五十ペンガになります。他にも何かあれば、追加分をいただきますが……そんな頼みをしに来たのなら、これくらい持っているでしょう?」
「そんな大金、」
払えないと口走った客を一瞥してから、兄貴はお帰り下さい、と客が持っている薬瓶を受け取った。ドアにもたれかかっていた体を起こして、客を通してやる。
外はいつの間にか土砂降りだ。雨の音がすべてを消してくれるけど、兄貴が帰すと言うなら俺もそれに従う。
ドアノブに手をかけた客に兄貴が思い出したように言う。
「ああ、すみません、お客様。噂を誰から聞いたのかだけ教えていただけますか? 物騒な噂が流れていると信用低下に繋がるでしょう? 大切な店ですから、協力していただけませんか」
「大通りで誰かが話しているのを聞いただけで」
「そうですか、ありがとうございました。──おや、どうされました?」
客は突然激しく咳き込み、その場にうずくまってしまった。それを慌てもせず見つめる兄貴と俺。薬屋として対応がわかっているからでも、パニックを起こして逆に冷静になっているわけでもない。ただわかっていたのだ、客が倒れることを。
咳止めシロップから、路地裏が馬鹿らしくなるような純度の高い麻薬、はたまた求める者には毒まで扱う薬屋だ。話をするときにお茶を出すのはこの店の鉄則だが、正しい情報源ならお茶は飲まないよう教えられているはずで。理由は、今ここに転がる客を見れば十分だろう。
「さて、どこから噂が出たかな」
「コイツちゃんと話すかな?」
「うーん、ヘロスはどう思う?」
話しながら、兄貴がカウンターの引き出しから小瓶を取り出し、蓋を開けて無理やり客の口に流し込んだ。少しむせながらも口の中の液体を飲み込んだ客は、だんだんと落ち着きを取り戻し、咳も止まった。
かわいそうな客に水を用意してやろうとも思ったが、不信感からここではもう飲食はできないだろう、とコップに伸ばした手をひっこめた。
「大丈夫ですか? まだ苦しいですか?」
ずいぶんと落ち着きを取り戻した客に、兄貴が追い打ちをかける。客は驚いたのか座ったまま後ずさり、ドアに背をぶつけた。
「もう一杯お茶でもいかがです? あれだけ咳き込めば喉もつらいでしょう。薬膳茶を用意しますから」
「必要ない! 帰らせてくれ、頼むから」
「お話とお茶代は払っていただかないと困ります。手持ちが足りないのなら、相応の情報を。例えば、噂の出どころなんかぴったりですね。外は大雨で帰るにも大変でしょう? ほら、もう少しだけ雨宿りしていってください」
客のポケットからなにかが俺の方に転がった。拾い上げて見れば、それは金色のピンバッジだった。バッジに描かれた紋章は西の王族のもので、以前店に同じ話をしに来た客もこれと同じものを付けていたのを覚えている。以前の客も噂を大通りで聞いた、と一言一句違わず言っていたし、明らかにこれは厄介で面倒なタイプの依頼だ。
金と噂の出どころだけ聞いて解放する。それがいいだろう。無駄な殺生は兄貴だってしたくないはずだ。店の営業を知らせる看板を裏返して、客が背中をぶつけた出入り口の鍵を閉める。どうせこの大雨じゃ客も来ないが、念には念を入れて。
バッジを兄貴の方に転がしてみる。慌ててポケットを探る客がなんだかおもしろくて、笑みが零れた。
「おや、西国のバッジですね。それも王族の紋章入り」
「返してくれ、それは」
「王が親愛なる家臣に与えたものでしょう? でもその王は革命を起こされ既に事切れてしまった。家臣も重職から外され、何不自由ない暮らしも終わりを迎えて冷や飯を食うようになった。復讐に革命を起こした人間を探して始末してほしい、というのが依頼内容でお間違いございませんか?」
「なんでっ……!」
「以前同じバッジを付けたままご来店された方がいらっしゃったので。彼から聞いてはいませんか? 訪問も依頼も何もかも一切をお断りしましたよ」
兄貴は俺に二階に行くようジェスチャーをした。前にこういった話は弟の前でしたくないと言っていたのを思い出し、納得する。客が店を出て行った頃に降りてこよう、と階段を上った。
しばらく経った頃、乱暴にドアベルが鳴った。なるべく話し声を聞かないよう寝室にいたのだが、それでも少しは聞こえてしまった。その多くが客のもので、怒鳴るような声もちらほら聞こえてきた。兄貴が怪我をしていないかが心配で、足早に階段を下りた。
店に戻ると、床には割れた瓶の破片や薬品が散らばっていた。損失に一瞬目を見張ったが、高価なものは含まれておらず胸を撫でおろした。
兄貴はというと、せっせと荒れた店の片付けをしており、ほうきを片手に瓶の破片を集めているようだった。
俺も手伝おう、と薬品や破片が散乱した床を見た。割れた薬瓶に入っていた薬品は幸いにも劇物ではないし、中和が必要なものでもない。慌てず手袋をしてから、零れてしまった薬品をペーパーで拭く。乾いてしまったのか、液体は縁を残してペーパーに吸われた。いくつか床にこびりついて残ったものは、ウェットティッシュで拭き取る。……あ、拭き忘れ。ここも見逃している。というか、だんだん水滴が増えているように感じる。暗い色の床でわからなかったが、零れた薬品は無色透明のはずなのに、ペーパーにしみ込んでいく色は赤くて、あれ?
「手伝ってくれてありがとう、ヘロス」
「どういたしまして。兄貴は大丈夫なの」
「ん? 大丈夫だよ、痛くないし平気平気」
平然と振舞う兄貴に、胸が痛む。この先ずっと、この癖が抜けることはないだろう。笑って誤魔化して、自分自身をも騙す。痛くないと自分に言い聞かせる。抵抗すれば苛烈さを増すから、黙って、時に謝りながら耐え忍ぶしかなかった幼少期。拳を振り上げられたその一瞬、動けなくなるくらい体にも刻み込まれている。……思い出すのも嫌な記憶だ。
「客、刃物持ってたんだな」
「あれ、途中で降りてきてたの? 上で待っててってジェスチャーしたのに、悪い子だ」
わざわざ降りてきて目にしなくても、肌に切創があるのを見れば切られたのだろうと予想がつく。普段ならきっちりと結ばれている髪も乱れ、暑いからと腕まくりをしたシャツから見える素肌は擦りむいて赤くなっていたり、内出血になっていたりと散々だ。
垂れている血はすべて刃物による怪我からだと思っていたが、それは間違いだった。兄貴はそれに気付いていないのか不思議そうに俺の顔を見返してくる。
「鼻血出てるから。止血しろよ」
「ん、え? あ、ごめん、掃除してもきりがなかったね」
「本当だよ、垂らしやがって」
「あはは、ごめんって。怒らないで」
ティッシュを箱ごと兄貴に渡して、カウンターに向かう。ふとレジ横を見ると、十ペンガに満たないぐしゃぐしゃの金があった。客が置いていったのだろう。帳簿に書き入れ、金をレジにしまってから、救急箱をカウンターの下から取り出す。兄貴が鼻を押さえて止血している間に、傷の種類に合わせて手当をする。一番深い切創を清潔なガーゼで圧迫して止血し、保湿をしてから包帯を巻く。小さな防御創と擦り傷も同様に処置し、絆創膏を貼る。内出血は冷やすことで腫れを抑える。
「暴れられるとは思ってなくてね、不意を突かれて」
「ああ、あの一番深かった傷?」
「そうそう。最初の方は穏便に話せてたんだけど、急にナイフで切りかかってくるから僕も慌てちゃってさ。取るに足らない怪我も多かったでしょ?」
まだまだ動けるね、と鼻を押さえたまま得意げに兄貴が言う。動ける云々の話じゃない。不意打ちで胸を一突きでもされたらおしまいだ。
考えた瞬間、ずくん、と腹が痛んだ。突然の強い痛みに腹を押さえ、脂汗が頬を伝った。苦しさに猫背がより前かがみになって、兄貴の肩に頭を乗せた。ぼやけた視界で腹を見る。記憶が重複して現実に降りてくる。体から熱い血液が痛む腹を裂いて溢れ出す。押さえる手をも汚して、頭から血の気が引いていく。
「ヘロス」
兄貴の呼びかけにはっとした。その瞬間、痛みはどこかへ消えて脂汗も収まってきた。まっさらな手を見て、この間見た悪夢のせいだ、と大きく息を吐き出し顔を覆った。
「大丈夫?」
「もう平気……けどちょっと寝てくる」
横になりたい。階段を上がるには疲れてしまったし、個室のソファでいいや、とドアに手をかける。夕食の時間になったら呼んでと兄貴に伝えて、ソファに寝転がった。
ヘロス、と兄貴が俺を呼んだ。どうやら少しの間眠ってしまったらしい。
「ちょっと寝てた、ごめん。飯?」
「起こしても起きなかったのは誰かな」
「悪かったって。それで……何、ベッドで寝てこいって?」
「ううん。明日は店も休みだし、二人で出かけない?」
俺を起こしてくれた兄貴は、キッチンからスープカップを片手に個室に戻ってきた。差し出されたとうもろこしのスープが、照明を反射してきらきらと美味しそうに輝いていた。
「明日もこんな感じの雨だけど出かけんの?」
「え、それほんと? 神頼みしても無駄だったかな」
「……兄貴、変に信心深いよな」
「そうかな、ヘロスが興味ないだけじゃなくて?」
「とりあえず、雨だったら俺は行かないから」
今日はなんだかすごく眠い、とあくびをした。スープを飲んで体を温めたからかもしれない。口の中に残るちょっとの熱さと甘さが愛おしい。机に突っ伏して、幸せのままもう一回眠れないかな、と目を閉じた。
兄貴は何も言わずに俺の頭を撫でた。このいかにもお兄ちゃんですよ、という手つきが俺は好きだ。優しくて、でもちょっとだけ下手くそで髪に引っかかるこの手が。
「今日は寝る?」
「んー……」
「あは、本当に眠そう。ちょっとだけ頑張って起きて、寝室に行こう? あの頃みたいに、お前を抱っこして階段登るのはもうできないから」
ほら起きて、と言わんばかりに肩を揺するものだから、仕方なく寝室に足を運んだ。外から聞こえる雨音はどんどん大きくなって、こりゃ明日のお出かけは無理だな、とベッドに潜って目を閉じた。
目が覚めた時、時計は昼の手前を指していた。明らかに眠りすぎた。確かに昨日は眠くて仕方なかったけれど、こんなに眠るなんて。時間を無駄にしたという後悔と、食べそこねた朝食に悲しみを覚えながら下の階に降りた。
兄貴はカウンターで誰かと電話で話しているようだった。電話の邪魔にならないよう、静かにシャワー、着替え、ヘアセットを済ませて店に戻った。
兄貴の口から雨やら天気とか、そういう単語が聞こえた。さすがに今日もまだ降っているだろう、と店の窓から外を見る。
「おはよう。僕の神頼みが功を奏したね」
「ついさっき止んだみたいに見えるんだけど。てか電話、なんだったの」
「念には念を入れて神様に直接電話を」
「兄貴の友達には前に見た映画みたいに天候を操れるやつでもいんの?」
「さあ、どうだろう。さて、出かける気にはなった? 店の戸締りは僕がするから、ヘロスは準備して外で待ってて」
準備も何もないけど、と外に出る。本当に晴れている。雨上がりの虹こそ見えないが、太陽の光が水たまりに反射して輝いている。水たまりを覗くと、深く吸い込まれそうな穴が広がっているように見えて面白い。空の青も水たまりに溶けて濁ってしまって、更に穴という認識を深めているような気もする。
「お待たせ、行こうか」
行先は知らされていないのに、なんとなく兄貴の行く場所には予想がついたから足を踏み出した。途中でイチゴオレと花束を買って、ずっとずっと歩いた。道中知り合いと待ち合わせて車に乗せてもらったが、その間も特に話もせず、黙々と目的の場所に向かった。
丘を覆うたくさんの花が見えた。もうこんなところまで来たのか、と少し恨めしく思った。花畑の管理をしている女性も俺たちのことを覚えていたらしく、快く歓迎してくれた。
「今年も来たね。変わりはなかった?」
「ええ、薬売りですからね」
「あはは、確かに。君の方は大雨の予報で心配していたんだけど、大丈夫だったようでなにより」
笑顔で話す兄貴と管理人の会話にも混ざれず、隣にただ立っていた。先を急ぐのも、会話を聞いているのも嫌で、兄貴の服の裾を引っ張っていた。俺と兄貴二人だけの時間が、どんどん無くなっていくのが嫌だった。
それに気づいた兄貴が、少し考えてから俺の手を包むように握った。裾を離して、兄貴の手を握り返す。適当な世間話の花が開く前に、失礼しますと会話を終わらせた兄貴と花畑の奥に入っていく。
機嫌が悪いと思ってたけど、実はそうでもない? と兄貴が俺に笑いかける。機嫌というか、この後予想されることを考えて嫌になっている。
だってここに来ると兄貴は泣くから。兄貴にはずっと笑っていてほしいのに。甘い甘い糖衣にくるんで、緩衝材も入った瓶にしまっておきたい程度には弱い生き物なのに。でも兄貴が泣く原因となったのは紛れもなく俺だし、俺は兄貴が泣くことに関して何を言う資格もない。
兄貴が大事に持っていた花束を墓の前に置いた。続けてイチゴオレを隣に置いて、ストローをパックの上に乗せた。石にイチゴオレのパックの結露がしみ込んでいくのを、ただ見ていた。
石に彫られた俺の名前、その名前こそが兄弟の証。本来兄貴より長く生きなきゃいけない俺は、もうこの世にはいない。
「また帰ってくるから。俺が行くから、兄貴は来んなよ」
「行かないよ。また来年も待ってるから」
──杞憂だった。今年も泣くだろうと思っていたが、そんなことはなかった。頑張って涙をこらえる兄貴の顔はなんだかちょっと不細工で、それならもう泣いてしまったほうがすっきりするのに、とも思った。困り眉で、諦めの気持ちもありつつ、それでもこの四日間は幸せだったという笑顔に俺も笑顔を返した。
俺と兄貴は容姿が似ている。なんなら笑顔は特に似ていると思う。幼い頃には兄貴と髪型をお揃いにして母親を困らせたこともあったっけ。懐かしい思い出も、だんだんと薄れていってしまうのがなんとも悲しい。
優しい夢であったとしても、俺たちが会えたことに変わりはない。お互いにしか見えなくても、話せなくても。
「俺だけのお兄ちゃんに会えるだけで、俺は世界一幸せだから」
繋いでいた手を解いて、兄貴の頭を撫でた。兄弟が逆転したような優越感に、見えない足先が浸る。早く来年になれ、と願いを込めて、目を閉じた。
「おやすみヘロス、いい夢を」