偶像崇拝 雨が降っていた。
夕刻から振り始めた小雨は次第に勢いを増し、日が変わる前には篠突くほどにまで激しさを増していた。
タイルに叩きつけて、跳ねて、冴え冴えとした空気に触れて湧き上がる湯気。
パシャパシャ、規則正しく降り注ぐ湯は宵闇色の髪を濡らし、張りのある素肌から滑り落ちては排水溝に吸い込まれていく。
青年は深く目を瞑ったまま湯を全身に浴び、顔の輪郭を両手で辿り、唇についた薄紅を乱雑に流した。
従者が「身体を洗ってやるから」といって聞かなかったが、彼のことだ。
泡立てた手で隅々まで洗われ、湯船に浸からされ、風呂から出るまでにどれだけ時間を掛けられるか分かったものではなかった。
今はただ、早く身を清めて、熱めのシャワーに身体を火照らせたまま寝台に倒れ込み、だらしなく眠ってしまいたい。
遅くまで一人で好々爺たちに礼をしていた彼を放って城の私室に逃げ込み、綺麗に飾りつけられていた外套も、スーツも、父と揃いの冠も、すべてを脱ぎ捨て浴室に飛び込んだ。
(さすがに、黙って逃げちまって怒ってるかな……)
目を開いた。
黒く長い睫毛の下からは夜空を映した瞳が露わになり、濡れて張り付いた前髪を邪魔だとばかりに払う。
そしてたっぷりの湯気で曇った鏡を手で拭い、自分の顔を映し込む。
今にも眠りこけてしまいそうな、重い瞼をしたノクティスがそこにいた。
キュ、シャワーのコックを捻り水を止める。
毛先から、顎から、指先から、止め処なく水滴が流れた。
「はぁ……」
浴室の天井を仰ぎ、深い深い溜息。
滴を垂らした手で浴室のドアに手を掛けようとした寸前、先に誰かの手によってドアは開かれる。
しかし、その相手を誰かと邪推する必要はなかった。
城の中で常に彼の側に居付き、世話をする者など一人しかいないのだから。
入り込んだ新鮮な空気に、湿った浴室の空気が押し流されていく。
湯気の向こうにいた一人の青年は疲れを感じさせぬ様子のまま、片手に大判のタオルを掛けたままそこに佇んでいた。
おそらく主人が部屋に脱ぎ散らかした衣服を掻き集めた後、浴室の前で出てくるのをずっと待っていてくれたのであろう。
「お風邪を召します」
硬い口調ではあったが、声色は砂糖のように甘かった。
式典用の燕尾服に身を包み、普段上げている薄茶の前髪をかっちりと整え、胸元には白いタイ。
手袋は濡れるから外したのだろう、まるで絵に描いた執事である側近は柔和な笑顔を浮かべ、置いて帰ったことに対して怒っている様子は微塵もなかった。
「ノクティス様」
丁寧に頭を垂れる杓子定規な姿勢に呆れ、思わず溜息を吐く。
「あーもー、それやめ!もう終わっただろ」
「はは、お前の反応が面白いんだよ」
声を荒げたままノクティスが一歩洗面所へと足を踏み入れる。
先ほどまでの礼儀正しい口調はどこへやら、一見して砕けた口調になった青年はからからと声を上げて笑った。
給水用のバスマットの上に乗ると、スーツ姿の従者が手に掛けたままでいたタオルを広げ主人の身体を拭き始める。
もう子どもではないのだと言うも、結局は世話焼きの彼の優しさに甘えたままでいてしまう。
「城に居る間は、側近としての仕事をさせてくれ」
穏やかな声で言われてしまえば、断れるはずもない。
室内はすでに十分なほど暖かく保たれていて、風呂上がりのノクティスが寒さに打ち震えることはなかった。
彼はまずタオルを頭に乗せ、髪の一本一本を傷つけぬよう丁寧に生地に挟み込みながら手を滑らせた。
毛先で滴になっていた水玉を繊維に染み込ませ、うなじ、耳の後ろ、地肌に至るまで丹念に水気を取る。
ノクティスが腕を伸ばせば指の先まで従者の手がタオルで覆いこみ、腕を辿り肩から首筋、そして胸へ、腰、尻、跪きながら足の指の間まで。
余すところなく身体を撫でて行くのをただ黙って見ている。
「どうかしたか?」
「なんでも……」
最後に畳んで置かれていた黒いナイトシャツを手に取り、背後から主人の両腕に袖を通せば「やっと終わったか」とばかりに何度目かの溜息が漏れた。
手触りの良い生地は王子の膝ほどまで丈があり、柔らかく仕立てられた襟をこれまた懇切丁寧に従者が正す。
「イグニス……俺、もう寝たいんだけど」
「そういうな、今日の最後の仕事だ」
イグニス、そう呼ばれた青年は親し気に、しかしどこか畏敬の念を抱きながら恭しく主人の身体を背後から抱きしめた。
正確には、シャツの釦を締めるべく後ろから手を回したという方が正しいであろうか。
胸元のひとつを残し上から順にゆっくりと、わざと時間を掛けられ締められていく釦。
「今日は頑張ったな、グラディオも褒めていた」
「ま、親父の顔に俺が泥を塗るワケにもいかねぇし……」
耳元で囁かれた従者からの称賛に、ノクティスの頬が緩んだ。
年明けの今日という日は、王都が誇るルシス王家とその一部の家臣を招いての晩餐会が催されていた。
国王である父とともに祝賀会に参加するのは数少ない王子の勤めでもあり、イグニスもまたその側付きとして終始共に居たのである。
着慣れない礼服を朝から着せられ、唇に薄紅を塗られ、髪を整髪剤で整えられて。
一日休む暇さえ与えられず、ようやくこの時間になって解放されたわけだ。
「レギス様も常々仰っているだろう、『挨拶はきちんとするように』と」
「へいへい」
あまりにも遅くまで続く上辺だけの挨拶回りに嫌気がさし、従者一人を放って部屋に逃げ帰って来てしまったことを遠まわしに窘められた。
だが、それ以上にお小言が続くことはなく、ノクティスは大きなあくびをひとつしながら最後に下着を穿いた。
「眠いか?」
「見たらわかるだろ」
髪をドライヤーで乾かされ、ぼすり、ベッドの淵に勢いよく座り込む。
スプリングで尻が大きく跳ね、ノクティスは私室に設えられたキングサイズの巨大なベッドにようやく寝転んだ。
イグニスはというと、ベッド脇にあるランプの灯りを調整していた。
暗すぎず、眩しすぎず。
眠気を誘うほどの微かな橙の灯りと、窓の外から聞こえる雨音。
こつこつと、窓を叩く音は小気味よく静かな部屋に降り注いだ。
このまま目を瞑って眠ってしまえたら、どれだけ良かっただろうか。
「御御足を」
そう言いながらイグニスはベッドの脇にしゃがみ込み、放り出された素足に触れた。
もとから体毛の薄いノクティスの素足は側付きにより日々手入れされ、まるで白磁のように白く滑らかな肌触りであった。
ベッドから起き上がり、跪いたイグニスの薄茶の髪を撫でればそれを合図とばかりに彼は唇を主人の足へと近づけた。
これは、忠誠の証。
そして、忠臣として仕える彼に与えられる何よりの褒美。
血管の透けた足の甲を両手で抱え、躊躇いなく口づける。
ノクティスはその様を憂いを帯びた表情で静かに見つめていた。
「いいぞ」
赤みを帯びた唇から発せられた一言。
お預けをされていた従者は合図を機に、あろうことか舌を伸ばし王子の爪先に触れたのだ。
無心で足を舐め始める姿を、ノクティスは顔色ひとつ変えずベッドに座りながら見つめていた。
足の指の間をしゃぶり、指を一本ずつ咥えては舌で舐めて濡らされる。
足の甲に浮いた血管を舌先でなぞり、くるぶし、足首、脛、ふくらはぎ、膝頭。
唾液に塗れた欲望が、清廉な王子の身を汚していく。
彼がこんな不貞なことをし始めたのはいつからだったであろうか。
始まりは、もう忘れてしまった。
「ふ…、ん…はぁ」
湿った吐息を足にかけ、恍惚とした声を発しながらイグニスは両手で足を支えながら吸い付いた。
足首から柔らかいふくらはぎ、膝までを舌で舐め上げ、そこにはあの堅物な側近としての顔はなかった。
「楽しそうだな、イグニス」
それはいつしか、二人だけの秘密の性行為と成り果てていた。
身体を重ねることが許されぬ従者が己の性欲を発散させるためだけの、痴態。
信愛なる王子に見つめられて、夜な夜な高貴な御御足(おみあし)に接吻を重ねる。
彼は嫌がるわけでもなく、嘲笑するでもなく、何を言うでもなく、夜空色の瞳を細めながら静謐とその様子を見詰めているだけ。
父王であるレギスも、近衛であるグラディオラスでも、叔父のスキエンティアでさも知らない。
誰も知らない、二人だけの秘密のヒメゴト。
『ノクト…』
誰に声を聞かれることもない二人きりの浴室で。
身体をまさぐられる。
降り注ぐ湯を全身に浴びながら、全身を愛でられる。
腕を伸ばせば、その手を取り手の甲へ口づけを。
そのまま腕を伝い、肩、首筋、胸へ、腰、尻、跪いて足の指の間まで。
彼の唇が汚さなかった場所はない。
しかし、決して彼はそれ以上手を出すでもなく、一線を越える過ちを犯すでもない。
『綺麗だ……美しい…、ノクト…』
首筋を舐められ、露わになった無防備な背中に押し当てられる舌先。
脂肪もなく、絵画のように浮き出た背骨と肩甲骨を彼はただ舐めて、己の欲を満たす。
背を屈め、唇の先から覗かせた舌で濡れた背を、肩甲骨の薄い皮膚の上から舐められる。
びくん
ある一点、舌先で掠めた場所に主人が強く反応することを彼は知っていて、執拗にそこばかりを苛める。
『…っ、っ…』
声を噛みしめても、身体は馬鹿みたいに正直だ。
弱い場所を責められて、逃げられない。
『は、ぁ……すまない、ノクト…』
シャワーのけたたましい音に遮られながら、彼はいつも謝罪を口にしてからノクティスの身体を離す。
そして最後には何事もなかったかのように身体を拭き、「おやすみ」と部屋を後にして。
イグニスからの愛撫に一人熱を高めたノクティスを置いて、去って行く。
最初は自分で慰めていた。
しかし、回数を重ねる毎に確実に心身に変化は訪れていた。
決して超えない一線。
一定以上の愛撫を施されることのないもどかしさ。
舐めて、吸って、くすぐるような手つきで背を撫でられ、唐突に終わる行為。
『ん……、っぁ』
『…ふ……、悪い…長いこと…、顔が赤いから、もう出よう』
『あ…イグ、ニス……』
『…? どうした?』
『ん…んん、いや、少し、上せたみたいだ…』
もっと。
もっともっと。
舐めて欲しい。
『ッ、イグニス…』
『どこか、ご希望でも…?』
『ち、ちげーよ…』
足りない。
もっと、もっともっともっと。
戯れから始まった性行為は、イグニスに褒美を与えるだけではなく、いつしかノクティスにとっても耐えがたい心身的な快感を与える行為へと成り果てていた。
知っていて、逃げたのだ。
彼は必ず今晩、己を求めてくると知っていて。
一人、浴室へと。
その礼に、いつもより執拗に攻められるとノクティスはイグニスをよく“理解”していた。
しかし、それは長年仕えた従者も同じこと。
そしてついに――
「イグニス、そこだけじゃ……」
甘えた声で、蠱惑的な仕種で。
「こっちも」
理性を打ち崩す蕩けた瞳で、誘い込まれる。
ノクティスは従者が時間をかけて着せた寝間着の釦を性急に外し、肌を曝け出す。
肩からはらりとシャツを滑り落とし、肘に掛けたまま背を露わにする主人を目の前にして、従者の目の色が変わる。
「どうした?寝るんじゃ―」
舌で唇を湿らせて、唇が弧を描く。
「なかったのか…?」
イグニスは眼鏡の奥の瞳を細めた。
白いタイを外すと、皴になることも厭わず上着を脱ぎ捨て、堅苦しく締められていた胸元の釦を外した。
窮屈に収まっていた胸筋がシャツの胸元を緩め、そのまま主人の横たわる寝台へと膝を乗り上げる。
「邪魔だな」
トレードマークでもある眼鏡を煩わし気に外し、折りたたんでランプの足元へと。
そのままノクティスの背を隠すシャツを腰までずり下ろすと、白い背へ躊躇なく顔を近づける。
まず頬ずりをして高めの体温を感じながら感嘆の溜息を吐き、手で滑らかな肌触りを確かめる。
寝そべる身体に覆い被さり、乾かしたばかりの髪を梳いた。
きしり、軋んだ寝台の上でノクティスは所在なさげにシーツを掴むとイグニスからの寵愛が訪れるのを待つ。
「ノクト……」
耳元で吐息ごと吹き込まれ、肌が粟立つ。
彼はこの声色が主人の好物であることを熟知していた。
こうやって指先だけで背骨を辿り、肩甲骨の一点を舌で掠めることで我慢が出来なくなることも。
「イグニス…、はやく……」
ついに主人の口から放たれた希う声に、従者は目を細めると待ち望んだ場所へ唇を近づけた。
「今参ります、ノクティス様」
浮かび上がる二つの影が一つに重なった。
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