ノクトが王子になる話 ざわつきながら人々が右往左往、忙しそうにハウスメイドたちが城中を走り回り、大きな話し声があちらこちらで飛び交う。
それもそのはず。
今日は、これ以上ないほどに特別なとある行事の日。
来賓を迎えるべく、多くの者達が式典の流れを再確認しながら目の前を通り過ぎて行く。
そんな城内の喧噪などいざ知らず、仁王立ちをしながらその様子を他人事のように遠目に見ている男がいた。
壁に寄りかかる巨躯の大男は窮屈そうに黒い軍服を身に纏い、腕を組みながら大きなあくび。
ある部屋へと続く扉の傍で退屈そうに時計を眺め、ぶっきらぼうに「暇だな」と呟いた。
決して誰一人としてここには入らないように。
眼鏡のブリッジを指で押し上げながらきつい緑の目に睨まれる。
言葉遣いこそ礼儀正しかったが、声を潜ませながら強い語尾で念を押されてしまい、入るに入れなくなってしまった護衛はやむなく扉の前で役目を果たすことにした。
「あぁおっかねぇ」
高い城の天井を仰ぎながら、王の盾―グラディオラスは溜息をひとつ吐いた。
カチ、コチ、カチ、コチ
刻む秒針の音に、響く靴音。
外界の騒音から隔絶された部屋には、ある青年が運命の日を迎えるべく緊張した面持ちで佇んでいた。
窓から射し込む陽光に透け、開け放たれた窓からの風に揺れる猫のような黒髪。
深い瑠璃色の瞳を瞬かせながら、王家唯一の子息であるノクティス・ルシス・チェラムは、これまた海よりも深い溜息を吐いた。
「良いお天気になりましたね」
「だな」
大きな窓の向こう、雲一つなく晴れ渡る空を眺めていると侍従長に穏やかな口調で話しかけられる。
「もうすぐ始まるな」
「…はい」
二人の間に落ちた静寂。
そわそわ、いつも飄々としている彼らしくない強張った顔つきに、落ち着きのない態度。
それを悟ってか、側付きとして控える男性にも緊張が伝わる。
それもそのはず。
今日という日。
城では通過儀礼のいう名の、ノクティスのためだけの成人の儀が今まさに執り行われようとしていた。
「お召し物を」
「一人で出来る」
「そうは参りません」
いつも鶏冠のように立てている薄茶の前髪を下ろし、整髪剤で固められた髪。
上品に仕立てられた黒のスーツはスレンダーな彼の身体にピッタリと合うように採寸され、体格の良さを格段に引き立てていた。
丁寧な物腰に反吐が出るほど規律正しい言葉遣い。
ずれた眼鏡を指で押し上げる侍従―イグニス・スキエンティアは本来の役割である王子の側付きとしての仕事を果たすべく、渋る王子の衣服を淡々と脱がせていく。
「しょうがねぇなぁ」
イグニスの頑固な姿勢に呆れたノクティスがシャツを脱ごうと手を掛けようとして、横から手が差し伸べられる。
一回り大きな手は釦を外そうとする王子の手を遮り、代わりにひとつずつ丁寧に釦を外し始める。
それに何も答えず、小さな溜息ひとつ、彼の好きにさせておくことにした。
脱がせたシャツの代わりに広げられた黒のワイシャツ。
背中側から片腕ずつ通され、襟を整えながら今度は釦を上から順に留められていく。
「窮屈ではありませんか」
「いや、丁度良い」
その杓子定規な喋り方をやめろと何度も告げたが、一向に改められる気配はない。
これはイグニスのポリシーであり、畏敬の念を抱くノクティスへの忠誠の証でもあるためだ。
親しい間柄であるが故、彼は公の場では人一倍主人を立てるように、次代の王の側近という誇り高い職務を全うする忠実な側近へと早変わりする。
臣下の失態は、すべてが主人の恥となるのだから。
「失礼致します」
カフスボタンを留めて、縞模様のネクタイを襟の下から通して長さを調節する。
その間、ずっと正面に立つ侍従を見詰める王子に、微笑みを湛えたまま首を傾げてみせる。
「何か?」
「いや、正面から結ぶの難しくないか」
「そうですね」
だから、練習したのです。
とは告げなかった。
だって、恥ずかしいではないですか。
主人のネクタイを正面から締めることも出来ない側付きなど。
ずっとこの日を待っていたのだとは、決して言ってあげない。
一から十まで。
主人の頭の先から爪先までのすべてをこの手で着飾ることが出来るこの日をどれだけ心待ちにしていたか、貴方は知る由もないでしょう。
ベストを着用し、細身の身体のラインがさらに際立つ上肢にストライプの模様が入った上着。
さらに同じ模様が入れられたズボンを穿いてベルトを締めれば、全身を漆黒で染め上げられた壮麗なノクティスの姿がそこにあった。
「お似合いですよ」
思わず口を突いた。
姿見の前に連れて行って、その変わりようにノクティス自身が一番驚いていたかもしれない。
いつもの子どもじみた私服でもない、学校の制服でもない、大人へ至るための由緒あるルシスの礼服。
「すげぇな、俺じゃないみたいだ」
苦笑しながら鏡の前で背中側を確認して、まるで服に着られているような心地に落ち着かずイグニスに「変じゃないか?」と聞いてみたり。
(スーツ、か……)
姿見の中の自分を、真っ直ぐに見据えた。
子どもの頃、物心がついたころにはすでに母は亡く、唯一の肉親である父親も仕事に忙殺される日々。
そんな父親の帰りの知らせを受けたノクティスは一目散に城を飛び出してよく迎えに行ったものだった。
『父さま、おかえりなさい!』
『ああ、ただいまノクト』
レガリアを降りたばかりの父親に抱き着き、抱き上げられて帰りを喜んだ。
あのとき、王である父が仕事の際にはいつも身に着けていた礼服。
(まさか、俺が着る日が来るなんて)
スーツなんて縁のないものだと。
子どもである自分には、大人なんてまだ遠い。
そう、思っていたかった。
「ノクティス様?」
「ん……ああ、ごめん」
ソファに座るよう促され、イグニスが王子の御前に跪く。
その手には化粧道具が乗せられていて、顔を顰めた。
しかし、世話役の手を止めることが憚られ、諦めながら何も言わず目を瞑って顔を差し出した。
化粧水で湿らせたコットンを顔に滑らせ、キメを整える。
若さのある肌はみずみずしく張りがあり、肌荒れもない。
世の女性たちが妬むほどに滑らかな肌に下地を指で薄く顔全体に馴染ませ、これまた明るい色目のファンデーションを肌に薄らと乗せる。
一連のてきぱきとした躊躇いのない鮮やかな手つきに王子は舌を巻いた。
「こういうこと、どこで調べてくるんだよ」
「自分なりにノクティス様のために学んだのですが、不手際がありましたか?」
「いや」
完璧すぎるのが逆にむかつく、なんて言ってやらない。
女の影を考えなかったわけではないけれど、嘘をつかない彼がああ言うのだ。
少しほっとしてしまっている自分に呆れてしまう。
まさか、この化粧品のすべてをイグニスが手自ら選んでくれているものだということを王子が露に知るはずもなく。
「唇を、少し開いていただけますか」
「こう、か?」
少し乾いた薄い唇に、指でリップを塗り付ける。
「あんま赤いと恥ずかしいんだけど」
「ほとんど色はつかないものを選びましたから、ご安心ください」
変哲のない唇に艶と彩が加えられ、黒一色の中に紅一点。
一筋の薄紅色がノクティスの端整な顔立ちを引き立てる。
スーツを着せられて、顔色よく見えるメイクを施され、慣れないことだらけで。
思えば、国事に係ることなんて、これが初めてだろうか。
父親は厳格な人間であるが、息子であるノクティスを政(まつりごと)に携わらせたことは一度たりともなかった。
お前はまだ未成年なのだから、そう言われてしまえばそれまでであったが、彼は息子を王家の人間でもなんでもない、ただ一人の家族として。
自由に、そして奔放に。
やりたいことがなんでも出来る、普通の子どもとして育ててくれた。
だからこれは、ノクティスの出来る父親への初めての恩返しでもあったのかもしれない。
成人という節目まで育て上げてくれたレギスへの。
一人息子である彼でしか出来ない親孝行。
「ノクティス様」
未だノクティスの前で膝をついていてくれていたイグニスが、膝の上で緊張から固く握りしめられた手を掬い上げる。
そして、そのまま指先に口づけを施して、目線の高さを主人に合わせたのだ。
「私は貴方が誇らしい」
「イグ…ニス」
穏やかに微笑む従者に手を差し出され、ともに立ち上がる。
「ご無礼をお許しください」
目の前でゆったりと微笑んだイグニスの笑みに見惚れていたら、ふわり、抱きしめられて伝わる体温。
化粧がスーツにつかぬように注意を払いながらもしっかりと腕を回され背中を撫でられる。
「あんなに小さかったのに、こんなに大きくなったのか」
それは、十七年という歳月を共に過ごした竹馬の友である彼ならではの一言だったのかもしれない。
そして、最後の仕事。
礼服の上から豪奢な毛皮があしらわれた外套を片肩に羽織らせ、出来上がり。
ノクティスが歩く度、背に刺繍されたルシスの家紋が大きく翻り、まさに未来の王の出で立ち。
金の留め具を着け終わり、イグニスの手がそっと離れる。
重い。
外套の重さだけではない。
これが国を率いる者が背負うべき重さ。
「イグニス、手伝いありがとう」
感極まる従者が頭を深々と下げたそのときだ。
部屋に一つだけしかない巨大な両開きのドアが開かれる。
そしてこれまた巨漢の男、グラディオラスが待ちくたびれたとばかりに部屋へと入って来た。
「おい、そろそろだぞ」
「ああ」
柄にもなく声が震えた。
歩きだす足が竦んで、見かねたグラディオラスに背中を大きく叩かれた。
「服似合ってんじゃねぇか」
「ほっとけ」
「俺たちがサポートする、お前は前だけを見ていろ」
二人の従者は主人の一歩後ろへと控える。
「頼むぜ俺たちの王様」
賢者の炎と王家の盾を従え、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「行くぞ」
先陣を切り歩き出したノクティスに続き、二人の従者は前を向き声を張り上げた。
「「はい、我が君よ」」
式は滞りなく進行し、残すところはお偉い方と皿を囲む晩餐会のみとなった。
周囲の貴族たちからの問いかけに柔和な笑顔を浮かべながら差し障りのない相槌を打ち、給仕が運んできた食事を丁寧に平らげていく。
その様子を少し離れた場所から見つめていたグラディオラスとイグニスは、式の終わりが見えたことにホッと胸を撫で下ろした。
「お待たせ致しました」
給仕が頭を下げ、ノクティスの前にメインとなる肉料理を乗せた白い円形の皿を音を立てずに差し出した。
そこには焦げ目のつけられたフィレ肉と、そしてマッシュされたポテト。
そしてなんと、赤々とした色彩を放つニンジンが付け合わせとして乗せられていたのだ。
つん、それを見たグラディオラスは慌てたように隣に立つイグニスの胴を小突く。
「なんだ」と口には出さず、眼鏡の奥の視線だけを寄越してきた同僚に、こちらも視線でテーブルを指し示す。
前菜やスープにはかろうじて彼の食べられる食材が使われていたからいいものの、王子が大嫌いだと公言しているニンジンが乗せられていることにグラディオラスは危惧を抱いた。
式の主役でもあるノクティスが野菜を残すことで衆目を集めてしまうのではと。
しかし、古くからの友人は口元に弧を描くと、笑いだしてしまいそうになるのを堪えるように口を押えた。
「大丈夫だ」
密やかに、二人にだけ聞こえる声量で囁く。
冷や汗を浮かべながらグラディオがテーブルに視線を戻す。
そこにはシェフから食材の産地や料理法を聞きながら皿を見詰める王子の姿。
説明が終わると皆がそれぞれに手にナイフとフォークを持ち料理に手をつける。
そして隣に座るレギスに促され、ノクティスもまた上品な仕種でナイフを手にした。
次の瞬間、グラディオラスは目を瞠った。
そこには一口大に切られたニンジンをフォークに刺し、赤ワインを煮詰めて作られたソースを絡めそのまま口へと運ぶ王子の姿。
目を伏せたまま、静かに咀嚼して呑み込む喉を見詰め唖然とする。
そして何事もない表情で「美味しい」と告げながら食事を続けるノクティスはまるで普段知る者とは別人のようであった。
「グラディオ」
ずり下がった眼鏡を指先で押し上げながら、イグニスはしてやったりといった顔でこう続けたのだ。
「あのお方を育てたのを、誰だと思っている」
「ぐええええええええええ」
部屋に帰りつくや否や、悲鳴を上げながらソファに倒れ込んだ。
「頑張って食べたじゃないか」
「つか、抜き忘れたとか勘弁してくれよ……」
スーツが皴になるのも気にせず、ノクティスはソファに寝転んだまま靴を脱ぎ堅苦しかった上着を放り投げた。
それをひとつずつ拾い上げながら皴にならぬよう畳んでいくイグニス。
「明日腹壊したらどーしよ」
さっきまでの気品はどこへやら、顔色悪くジタバタとする主人の寝転ぶソファに従者も腰掛ける。
「レギス様も、来賓の客も、皆がお前に釘付けだった」
それほどまでに、今日のノクティスは完璧であったのだ。
従者達の支援も必要なく、胸を張り成人の儀をこなした王子には喝采の拍手が送られた。
「本当によく頑張ったよ」
片づけはしておいてやるから、そのヘロヘロの王子様連れて帰ってやれ。
そう言って自身も疲れているであろうに送りだしてくれたグラディオラスにも、また礼を言っておかねばなるまい。
「風呂、お前も入んの?」
「ええ、ご一緒させて頂きます」
胸のタイを外しながら、イグニスもまた億劫そうに上着を脱ぎソファの下へと落とす。
そしてそのまま、うつ伏せになっているノクティスの背中に被さった。
「ノクティス様」
「んー?」
「褒美を……頂けませんか?」
ぽそり、囁いた一言。
「はえーな、そんなに待てなかったのかよ」
「……はい」
「いいぜ、一日頑張った側近にも、“ご褒美”がないとな」
こくり、生唾を飲む音が聞こえて、ノクティスは小悪魔のように微笑んだ。
主人と従者の一日は、まだ終わらない。
はぁ、はぁ
足首を掴まれ、白い足が持ち上がる。
足先が運ばれた先、ぬるり、指の間に生暖かく柔らかなものが押し付けられた。
舌。
はたしてそれは誰のものか。
濡れた舌は片足の親指から足裏を下り、踵、ふくらはぎ、膝裏、そして大腿へ。
至った先で柔らかな肉に吸い付いて、頭をやんわりと叩かれる。
「こら」
ご主人様に注意されるも、真っ白な内腿を舐める舌は止まらず息は荒くなっていく。
大きな手で滑らかな足を撫でながら自らの欲求を果たす臣下に青い瞳が細まる。
一心不乱に足の甲を舐めるお前は、ああ、なんて従順で愛らしい。
「もっと欲しいか?」
「…っ、……はい」
シャツの釦を外し、平らな胸板が露わになる。
「来いよ、イグニス」
鎖骨、首筋に押し当てられた唇は、またも皮膚を吸い柔らかく噛みついた。
濡れたしんなりとした髪を撫でながら、ノクティスは恍惚とした瞳で唇を舐めて湿らせる。
「俺に躾けられたお前は、とてもとても可愛いよ、イグニス」
.