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    傷痕 なによりもまず最初に思い出されるのが聞いたこともない轟音だった。

     閃光とともに目の前で上がる火柱、踏まれる急ブレーキ。

     乗っていた車は爆風で煽られ、うたた寝をしていた小さな身体は勢いで激しく前後に揺さぶられた。

     戸惑う視界の中、炎の中から這いずり出してくる大きな蛇にも似た異形の怪物。

     大声で大人が口々に何かを叫んで、混乱の最中に乳母に抱きかかえられて車から逃げ出した。

     硬い鉄の塊が、蛇の尾を持った化物の手で薄氷を割るように押しつぶされる。

     阿鼻叫喚で蹂躙された夜の荒野。

     舗装もされていない真っ暗な道を右も左も分からず手を引かれて走る。

     そして、振り下ろされた鋭利な切先が背を裂いた。

     乳母が悲痛な声を上げ、砂利まみれの地面に叩きつけられ息がつまった。

     一拍置いての激痛に、幼子の頭では何が起こったのか理解さえ出来なかった。

     傷口が脈打ち、あふれ出る鮮血。

     恐怖に苛まれる間もなく手足から血の気が引き、冷え切った指先が砂を引っ掻く。

     血溜まりが服を濡らし、手を汚し、力が抜けていく。

     視界は霞み、背中の傷だけがじくじくと痛み燃え盛るように熱い。

     見たこともない化物は身動きが取れなくなっていく少年を真上から見下ろし、もう命はないものと思った。


    『ノクト!!』


     少年は、いつもその人が笑った顔しか知らなかった。

     穏やかに名を呼んで、頭を撫でてくれる大きい手。

     一緒に蛍を見に来たかったのに。


    『と……さ…』


     荒野に吹き荒ぶ風に、小さな命の灯火は今まさに掻き消える寸前だった。

     最愛の父親が必死に名を叫ぶ声をどこか遠くに聞いて、夢はいつもそこで醒める。







     ああ、なんて最悪。


     いつだって変わることなく寄せては返す漣。
     枕元の置時計が無常にも規則正しく秒針を鳴らす中、ノクティスは目を覚ました。

     ばくん、ばくん。
     薄い皮膚の下で、心臓が今にも破裂しそうなほど煩く跳ね上がっている。

     見開かれる目、無意識にカチカチと震える歯、竦み上がる肩を両手で抱きしめ、揺れる瞳を忙しなく動かし周囲の状況を恐る恐る確認した。

     真っ暗な狭い寝室。
     身体を覆う厚手の毛布に、清潔なシーツ。

     自分がベッドに横たわっていることを回らない頭に無理やり理解させ、ようやくあれが紛れもない夢だったことを認識したノクティスは縮こまりながら心底大きな溜息を吐いた。


     どうして、今になってあんなものを。


     まだ背筋を伝う血の生温かな感触がくっきりと思い出せる。
     夢ならば、覚めて全部忘れてくれないものだろうか。

     目に焼き付いて今でも思い出す光景。
     炎の中でたくさんの人が亡くなった。
     鼻を突く人が焼ける臭い、いつまでも耳から離れない叫び声。

     父親は決してお前のせいではないと何度も慰めてくれたけれど、幼心に深々と刺さった罪の意識はいつまで経っても消えることは無い。
     あれからもう克服出来たと思ったのに。


     ああ、寒い。


     毛布を被っているにも関わらず、冷えてかじかんでいく指先を抱えシーツの中で丸まった。

     “あの夜”につけられた背中の傷痕が疼いて、塞がったはずの場所から血が滲みだしていくようだ。
     真っ白な寝具が今にも血溜まりで染まっていきそうで、何度も頭を振った。

     きっとこんなにも寒いから、夢にまで見てしまったのだ。

     切り立った岬、灯台の足元に建てられた屋敷で途絶えることのない波の音を聞きながら、早く夜が明けてくれぬものかとノクティスはきつく目を瞑った。


    「痛むのか…?」


     ぽそり、掛けられた声に毛布から顔を上げる。

     夜目で慣れた寝室の中、隣のベッドで眠っていたはずのイグニスが心配げに眉を寄せこちらを窺っていた。
     いつも肌身離さず掛けている眼鏡を外し、かっちりと着込んだ普段着ではなくシャツをだらしなく着ただけの格好で、下ろされた長い前髪の奥で眠たそうに瞳が瞬きを繰り返す。

     目を伏せたノクティスが口を引き結んだまま頷いたのを見て、彼はそのまま起き上がると寒い中を素足でフローリングに降り立った。
     そしてそのまま了承を得ることもなく隣のベッドのシーツを捲り、お世辞にも広いとは言えないスペースに身体を滑りこませる。
     ノクティスもまた素直に場所を明け渡し、藁にも縋る思いで伸ばされた腕の中に自ら飛び込んでいった。

     体温に縋りつき、汗が滲む額を必死に擦りつけては何かを思い出さぬように歯を食いしばる姿を見ていられなくて、イグニスは優しく腕の中に震える身体を閉じ込める。

     湿った黒髪を梳き、痛むと訴える背中を優しく撫で、ここには誰もお前を脅かす者などいないから大丈夫だと何度も呼びかけた。

     何年経った今でもノクティスを蝕み続ける悪夢。
     レギスの助けがあと少しでも遅れていたら。

     背中に残った上から下へと走り抜ける大きな傷跡。
     当時の光景は彼にとっての心的外傷となり、時として未だに夢に見るのだと言う。

     あの寒い夜のことは、決して忘れられない。
     それはノクティスだけではなく、イグニスにとっても風化させることが出来ぬ一夜となっていた。





     深夜の城に満ちるざわめき。


    『シガイが―――』

    『ノクティス様がお怪我を―――』


     右へ、左へ。

     一人の子どもの前を大勢の大人の影が行き交った。


    『意識がないらしい――』

    『他にも怪我人が――』


     断片的に耳に飛び込んでくる情報に唖然として立ち尽くしている間に、小さな身体は多くの人に邪魔だと跳ね除けられ城の入口の隅へと追いやられる。

     見たことのないたくさんの大人たち。
     中には、知っている顔もいたけれど。

     皆が血相を変えて、革靴の先で苛立たしそうに床を鳴らしながら腕に着けた時計をしきりに見ては何かを待っていた。


    『到着したぞ!』

    『急いで担架を!!』


     目の前で起こっている騒ぎがおおよそ自分とは関係のない世界の出来事のようで、傍観することしか出来ない少年は何も出来ないままそこに佇んでいることしか出来なかった。
     まるで一人だけ世界から切り取られたみたいに。

     多くの足音と怒号めいた大声で真夜中とは思えないほどの騒ぎの中、急ぎ駆け込んできた人影にハッと少年は俯いていた顔を上げた。


    「レギスさ、ま……」


     咄嗟に名を呼ぼうとして、口を閉ざした。

     真っ青な顔色。
     唇を噛みしめながら腕の中に布に包まれた何かを抱きかかえ、今にも泣きだしそうな顔をして。

     国民が王と仰ぐレギスの、初めて見た悲壮な顔。
     大事そうに抱えた布の合間から力なく垂れさがった青白い細い手が揺れて、入口から床に点々と黒い滴を垂らす指先。


    『ノ   ク   』


     頭が、真っ白になった。





     それから毎日病室へ通った。
     会わせられないと門前払いをされても廊下に座り込みノクティスが無事に目覚めることを毎日扉の前で祈った。

     事故の理由、王子の症状でさえ一般には伏せられ、医師も城の者達も一同に口を噤み、世話係であるにも関わらず子どもだからと何も教えてもらえない事が心底悔しかった。

     もっと早く大人になれたら。
     ノクティスを何からも守れる力を身に付けて、有事の際にも一番に彼の身を守れる壁になれたら。

     どうすれば、あの眩しい笑顔を曇らせずにいられるのか。
     俺に、何ができるか。


    「イグニス」


     物思いに耽っていたところ、頬を指で摘ままれ正気へと戻った。


    「顏、怖くなってる」

    「俺も思い出していたんだ」

    「思い出にしちまったから……怒られたのかもな」

    「俺がいる…あのときのようなことは二度と」


     起こさせてはならない。


     狭いベッドの中で抱きしめながら落ち着かせていると、ノクティスは口を開け徐に大きな欠伸をした。
     塞がった手の代わりに唇で目尻を撫で、眠るように促す。


    「ふあ…」

    「まだ明けるまで時間がある」

    「ん……」


     うとうと、背を撫でられ目を瞑った。

     彼が一緒に夢の中まで来てくれたなら。
     子守唄のように緩やかな眠りへと誘うイグニスの心音に導かれ、安心したノクティスは静かに寝息を立てた。


    「カーバンクルといっただろうか」


     いつか、病床に伏していた幼いノクトが手の中に握っていた不思議な動物を模したお守り。
     ミントグリーンの体毛を持つ猫にも似た生き物に夢の中を案内され、気が付けば目が覚めていたと彼は言っていた。


    『なんて、ばかみたいだけど』


     父であるレギスから譲り受けたお守りを手に、点滴に繋がれた腕をベッドに投げ出して窓の外を見つめる王子の言葉に、熱心に耳を傾けていた側付きは首を傾げた。


    『どうして?』

    『だって変だよ』

    『俺は信じる』


     おぼろげな眼差しで、今にもまた眠りについてしまいそうな儚い表情をしていたノクティスは信じてもらえないと思っていたのか、その言葉に少なからず驚き目を丸くした。


    『ね、イグニス…もう少し話してもいい?』

    『身体に障るぞ』

    『……暗いのが怖くて、僕が寝るまででいいから…』


     手招きされ、ノクティスと同じベッドの中に寝そべった。

     いつも他愛ない話をしている間にすぐに彼は夢の住人になってしまって、その夢の中まで付いていけたらどれだけいいだろうと何度も願った。


     お願いだ、カーバンクル。
     夢の中では俺に代わりこの子を守ってあげて欲しい。
     どうか、限られた時間で良いから、安らかな夢を見せてあげてはくれないだろうか。

     そして夜が明けた暁には、彼が悪夢を忘れて笑えるように。





     白んだ水平線に一筋の光が走った。
     海の向こうに顔を出した朝陽は瞬く間に夜を追い払い、音も無くゆっくりと昇っていく。
     朝焼けは水辺を照らし、野山を橙に染め上げ、影は行き場を失い逃げ惑う。

     篝火の役を担っていた灯台は今夜もその大役を務めあげ、白壁が朝日に輝いた。
     そして顔を出した太陽は、灯台の足元に佇む屋敷にも眩い光を振り注がせる。


    ざざん、ざざん


     寄せる波音が早朝の寝室に静かに響き渡る。
     カーテンの合間から入り込んだ光の筋は迷いなくひとつのベッドへと伸び、手を繋ぎながら寝息を立てる二人を柔らかに包み込んだ。






    .
    うさみ@ignc Link Message Mute
    2018/08/10 22:39:43

    傷痕

    #イグノク
    ノクトの背中に残った消えない傷痕の話

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