混沌ビィザー 他
風呂事情
毎日ではないが、妖怪と一緒にお風呂に入る。
言うなら、ペット感覚。
そろそろ洗った方がいいんじゃない?と。
「ウィスパーもペットみたいなもんだった。」
湯に浸かりながら独り言のように言う。
ジバニャンの背中を流しながら「はい?」とケータの顔を見る。
ケータは一人笑みを浮かべて湯船の縁に顎を乗せる。
立ち上がる湯気の向こうでウィスパーがジバニャンの身体を洗ってあげていた。その姿は執事らしいというか、ただの猫お世話係というべきか。
ジバニャンはお風呂が苦手で、特に冬はせめて週に1回にしてくれと言われ、日曜に入ることになっている。
ペットを飼っていないケータはどのくらいの周期で猫を洗うべきか知らないが、自分のベッドでゴロゴロされるなら出来るだけ清潔な方がいい。
一方、ウィスパーはほぼ毎日風呂に入る。しかも、一緒に。
言うなら、ペット感覚。
何も気にしない。気にしないが。
「にゃー。もうあったまったにゃん。今日はケータと遊ばず出るにゃん。」
「この間のお湯の掛け合いがそんなに嫌だったの?」
「そーんなことないにゃん。」
ケータが小馬鹿にしたようにクスクス笑う。先週思いっきり頭から湯を浴びせたのを今でも根に持っていることは分かり切っていた。
ジバニャンは猫らしく全身を思いっきり震わせて水滴を飛ばすと、一部がウィスパーにかかったらしく、しかめっ面をジバニャンの背中に向けている。
「じゃ、今日は2人で掛け合っとけにゃん。」
逃げるように浴室を後にするジバニャン。
ウィスパーは「やれやれ」とため息をついてシャワーヘッドを片付けると、さっさと湯船に浸かった。小さな波が順にケータの鎖骨にたどり着く。
「肩までつかってくださいよ。」
「ウィスパーもね。」
どこまでが肩か知らないが。
言われた通りに肩まで浸かる。腰の位置をずらして身体を湯に沈めると、向かい合わせのウィスパーの尻尾が太腿の内側に触れた。
いつもゆらりゆらりとそれこそ波のように揺らめくそれは湯の中でも変わらず滑らかに動いていて、思わずくすぐったさに身を捩る。
「じっとしてよ。」
「うぃす。」
言えばすぐに、機械が止まったかのように動きを止める。
微かな波はケータからしか生まれない。
一緒に、一緒の湯船に浸かっているのに、ウィスパーからは一波も来ない。
まるでーー生きてないみたいだ。
「やっぱ動いて。」
生きてないと言えば生きていないのだが、確かに存在することを、彼以外の吐息からも感じたい。
彼から波立つ湯の影を見て、浅い息を吐く。
安心する。確かに彼は、存在する。
太腿を撫でるウィスパーの尻尾は、確かに自分に触れている。
「ケータくん?のぼせちゃいました?」
僅かに焦りを見せて伺われたが、首を横に振って答えた。のぼせてないが、いつもよりたっぷり浸かった気がする。
だって、顔が熱い。身体も、胸だって熱い。
少し考えて、ーー実際は何も考えずに、手を伸ばして手を取った。
「ねえ。」
彼の肌が好きだ。
彼のあるのかないのかよく分からない体温も。
「あがりましょうか。」
彼の微笑みかけてくれる瞳が好きだ。
自分にだけ一層柔らかく緩んでくれる頬も。
先にウィスパーが浮かび上がって湯から離れた。お湯がその身体から綺麗に曲線を描いて滴る様が自然と視界に入る。
彼と同じものを共有した実感を得て、差し出された白い両手にしっかり温まった手を乗せた。
白い手がケータの手首を掴んで身体を引き上げる。
ザバァとお湯が暴れて揺れる。大きく立った波はあっという間に湯船に収まった。
「介護してるみたいでうぃっす。」
彼の嬉しそうな声が好きだ。
わざわざ耳元で囁いてくれる愛の言葉も。
言うなら、ペット感覚。
気にしない。気にしないが、逆になっていると思う時がある。
それならそれで構わない。喜んでそうなりたい。
こうして彼から愛を注がれるならば。
「のぼせてないよ。」
顔が熱い。
身体も、胸も、なにもかも。
まだ君にのぼせたとは言わない。
無意識支配
日曜日の昼過ぎ。天気はいいが外で遊ぶには寒いという理由で引きこもりを決める小学5年生。
パチ、パチ、という軽いプラスチックの音が子供部屋に響く。
ヒキコウモリとオセロをしていたが、5回連続で負けたケータを見兼ねて他にゲーム出しましょうかと気を遣ってくれる。
そこに気遣ってくれるならわざと負けて欲しかったケータだが、ふと、違う事が気になった。
「ねえ、寝コロンブスに貸してた部屋ってまだあるの?」
以前、寝コロンブスがゴロゴロ出来る新大陸を探していたことがあった。
その時に助けてくれたのがヒキコウモリだ。彼のどういうシステムか分からないクローゼットの地下。そこに寝コロンブスが求めていた空間を見事用意し、不祥事案件を解決した。
その部屋を一目見て、少しケータは気になっていた。
別に今の自分の部屋に不満があるわけでもないが、新しい部屋というのは魅力的に見える。
ヒキコウモリは逡巡して、「えー」と返事を紡ぐ。
「あの部屋はもうありません。でもお望みでしたら、何だってご用意します。お部屋がいいんですか?」
何だって、と言われると何だか慕われているみたいでむず痒い。
慕われているのかもしれないが、ケータからすればヒキコウモリの方が何倍も大人で、慕うならこちらの方だ。
「うん。なんか、ゴロゴロしやすそうだったし。」
ケータが若干言葉に詰まりながら希望を言う。
本当は、そういう理由ではないのだが。
後ろめたさとヒキコウモリの目線に耐えきれなくて思わず微笑する。
するとヒキコウモリが「では」とクローゼットの中へと案内した。
「今から参りましょうか。」
「え!いいの?」
「ええ。ああゆうお部屋でよければ。」
目を細めて微笑んでくれるヒキコウモリの顔に満面の笑みを返して、クローゼットの中に足を踏み入れると地下に移動した。
ヒキコウモリは、寝コロンブスが居た部屋よりも少し家具が多めの部屋に入れてくれた。漫画が並び詰まった本棚や広いベッド、パソコンや3人は座れそうなソファーまで。
もちろんネット環境は抜群らしい。
「すごい!こんな部屋いつの間に…。」
ケータが目を輝かせながら部屋を物色していく。
ヒキコウモリは満足そうにその様子を見て、自室に戻る方法を教えると、「ごゆっくり」と言って部屋から出て行った。
「今日は晩ご飯の時間までここで漫画読んでようかなあ!」
ケータは漫画を手にドサリとソファーに身を沈めた。
漫画を3冊読んだところで、ケータは部屋の中をウロウロし始めた。
だが、部屋自体はシンプルなので、別にもう物色するものはない。
分かったのはこの部屋におやつはないこと、窓がないこと。そして、時計がないこと、明かりは天井の照明しかないこと。
時間の感覚が分からない。
ケータは大きく伸びをして、ふらふらとベッドに倒れ込んだ。
(こんなに静かなの初めてだ。)
外から聞こえる近所の人の声もない、通りかかる自転車のベルの音も、お母さんの声も、聞こえない。
ウィスパーの声も、聞こえない。
(あ。)
ケータはベッドの上で耳を澄ませた。
なんだか執事が自分を呼んでいる気がする。と、思ったがやはり、何も聞こえない。
いつから一緒に過ごしてるのか忘れたが、妖怪なんて見えずに過ごして来た期間の方が長いのに変なの、と、目を細める。
こんなに妖怪たちの存在が自分の中に根深く住み着くと誰が予想しようか。
一人の時間が欲しいと思うが、ウィスパーやジバニャンなしの生活が考えられない。
「まあ、ペットみたいなもんだし。」
仰向けになって腕を頭の下に回しながら声に出すと、その声は自分に返ってくるだけだった。
ペットじゃなくて、居候か。
居候。居候。居候。ペット。
大事な友達だ。
特別な執事だ。
もっと、もっと、ふさわしい言葉はないのか。
中学生になれば、あるいは高校生になれば知るのか。
クマやカンチとは違う、意味で。
お母さんやお父さんと違う、意味で。
この気持ちを、感情を、はたまた関係の永遠を、表せないだろうか。
「ウィスパー。」
君に聞けば、いつもみたいに教えてくれるの?
胸元のパーカーをぎゅっと握って、身体を起こす。
目眩も吐き気もしないのに苦しい。
自分の息づかいの音だけが間近に聞こえてきて、別に何にも緊張などしていないのに、心臓の音が大きく脳内に響く。
ウィスパーの名前を声にした瞬間から。
足も手も、動かしていないのにどんどん早くなっていく心臓の動きに強く目を瞑ってか細い声で吐き出した。
「ウィスパー。」
好き。好きだ。とても。大好き。好き。好きなんだ。
ケータは身体を思い切り曲げた。縮こまった身体は、宝物を胸に隠して隠れている幼い子供のようだ。
(こんなに好きになるなんて、)
当たり前のことだろう。飼い主がペットを可愛がることなんて。
ぐるりと部屋を再度見渡して、やたらと大きな扉を開ける。
エレベーターの様なクローゼットに乗り込めば、勝手に動き出した。
しばらくすると、見た事のある光が見える。ヒキコウモリの持つサーバーの光だ。
すると小さな声が聞こえた。
「おかえりなさい。ちょうど呼びに行こうかと思ってました。」
ヒキコウモリがパソコンに身体を向けながら微笑んでくれる。自分から行きたいとお願いしたのに帰ってきたことに安堵し、鼻から大きく息を吐く。
「ありがとう。なにかあったの?」
「いえ、そろそろ晩ご飯の時間かなと。」
もうそんなに時間が経ったのかと驚きながらも気遣ってくれた優しさに頬が緩ませながら「じゃあ行ってくるね」と返事した。お腹も十分空いている。
ヒキコウモリの後ろを通って部屋に戻ると眩しさに目を細めた。
そしてそのまま目が慣れるまでわずかに立ち止まってウィスパーもジバニャンも居ない事を認識する。
振り向いてクローゼットの扉に手をかけながら、「あの2人帰ってきてないの?」と聞いてみる。
確かウィスパーは屋根の上にいたはず。ジバニャンはトラックの修行か何かだろう。
「ウィスパーさんなら帰ってきていたと思いますが…。いないですね。」
ヒキコウモリが部屋の様子を見回しながら話す。
まあ、散歩でもしているのであろうと適当に自己解決して、扉を閉めようと力を込めた。
「ありがとう。また行くかも。」
「いつでもおっしゃってください。ウィスパーさんと一緒でも構いませんよ。」
「せっかく静かだったのに。」
はにかみながら扉を閉める。トン、という音だけがして、この部屋に返ってきても静かだなと気付いた。
ヒキコウモリに言われたウィスパーと一緒でもとは、どういう意味か。
もしやヒキコウモリまでケータには誰か付いていないといけないと思っているのではあるまいなと苦笑いする。
ウィスパーがインフルエンザになると必ず代わりがやってくるのだ。
(代わりなんていらないよ。)
そう思いながら部屋のドアノブを握ろうとすると、ドアが開いて2歩ほど下がる。
驚きながら、母が夕食の知らせに来たのかと考えていると、見えた姿はウィスパーだった。しかも、顔がいつもより青く、驚いた様子でケータのことを見てくる。
「ウィ…ウィスパー?どうしたの?顔色悪いよ。」
もしやまたインフルエンザではと何気に病弱な執事を心配していると両肩を力強く掴まれ、目を見開く。
ウィスパーからはうめき声のような低い声が聞こえた。
「そりゃ顔色も悪くなりますよ…。アータどこに居たんでうぃす?呼ばれて部屋のぞいて見たら居ないし、他の部屋も隅々まで探してしまいましたよ。」
「…?」
呼んでない。何を言っているのか理解出来ず、返事も出来ず掴まれたまま立ち尽くした。
ウィスパーはメダルがないから召喚もしていない。名前も呼んでいないし、そもそも別に用はない。
頭に?が浮かぶケータを余所にウィスパーは続けた。
「呼ばれたら何かあったのかと思うじゃないですかあ。何もなかったので?」
ウィスパーの声がだんだんと高くなっていることに、そんなに怒ってないことが伺えた。身に覚えのないことで怒られても仕方ないのだが。
ケータは昼からの行動も含めてウィスパーに話した。
「ていうか、呼んでないよ。ヒキコウモリとここでオセロしてて、そのあと寝コロンブスが使ってた部屋みたいなことで漫画読んでただけだし。」
「え!地下にいたんでうぃす?」
「そうだよ?」
ウィスパーは目を丸くしてそのまま掴んでいた肩から手を離す。そして部屋に入って来ながら、「なんででしょう?」と眉間に皺を寄せている。
「夢でも見たんじゃないの?」
「確かに寝ていましたが、完全に目覚めてから聞こえましたし…。ついさっきですよ。本当に。10分15分くらい前でうぃす。」
「じゃあおれがまだ地下にいる時間だ。帰ってくるちょっと前…。」
ケータは回想しながら考える。
漫画を読んでいただけなのに、ウィスパーの名前なんて呼ばない。
ましてや聞こえるほど大きい声なんて出していないし、聞こえるわけがない。
やはり、夢か幻聴なのではと疑いながら、思い出す。
ウィスパーからは、追加情報を加えられる。
「2回呼ばれましたよ。まあ何も無いようなので別にいいですけど。」
お騒がせしてすみません、と、いう言葉は耳に入らなかった。
2回。呼んだ。まさか。まさか。
呼んでなどいない。
ちょっと声になっただけだ。
もしかしたらそんなもの聞こえていないんじゃない。
やっぱり幻聴だって。呼んでないもん。
好き。好きだ。とても。大好き。好き。好きなんだ。
名前を音にしながら巡った気持ちだけが急に甦ってきて恥ずかしくなる。
ケータが顔を赤くさせて俯く様子を見て、ウィスパーはほくそ笑む。
ーーどこに居たって、どんなに小さな声だって、拾いに行きますよ。
それは声にはしなかった。
もっと伝えるにふさわしい場面があるはずだ。その時まで置いておきたい。
「空耳かもしれませんしね。気になさらないでください。」
あなたに名前を呼ばれるのが好きだから聞こえたのかも。
それも、声にはしなかった。
いちいち催促しなくても、この子は毎日何十回も呼んでくれるのだ。
ケータがまだ赤みを残した顔のまま、ウィスパーを見上げた。
目尻が下がって、なんとも情けなさそうな顔をされる。ケータのそんな顔は、割と珍しい。堪能したいお顔だが、その口元が微かに動いているから言いたい事があるのだろう。唇に目線を奪われた。じっと見ていると、また顔を俯かせてしまった。
「呼んだよ。」
小さな低めの声で告白する。
床に落ちて行くそれも執事はきっちり拾い上げた。
「はい。遅くなり、申し訳ございません。」
ちらりと目線だけを上に向ければニコニコと微笑んでくれるウィスパーの顔。
やっぱりというドヤ顔をかまされるかとも思ったが、そんな気配は微塵も感じられなかった。
聞こえるわけがない。理屈では。
なんで聞こえたんだ、とは聞けなかったし、無駄だろうなと、そのまま自分の中で消化した。
届くのだ。君になら、何だって。
上目遣いの状態になっている目をそのまま色を変えて笑ってみせた。
「おれの声、好きだよね。」
なんだか挑戦的な目線で射抜かれるように言われたウィスパーは、そんなケータよりも笑みを深めて答えてみせた。
「ケータくんも、私の声好きでしょう。」
呼んでないのに、聞こえるくらいに。
※自慰の話を交えていますので苦手な方はお避けください。
※ジバニャンが下品かもしれないので無理だと感じた場合読まないでください。
本当は、
夕焼けに照らされる赤い背中。
その背中に、ケータとウィスパーは声をかけてあげられなかった。
「まあ、あんな噂が流れるとねえ。」
とぼとぼと歩く、小さな赤い猫は力なくペンライトを握る。
振り返りはしない。もう、彼に謝り、新しく拡散してもらうしかないのだ。
ジバニャン様お断り。
なんとしても、また、ニャーKBのライブに出向く為に。
3人共に帰宅し、椅子に腰掛けるケータ。背もたれに肘を乗せて、ジバニャンがクローゼットで何やら片付けている様子を眺める。
おそらく、ライブに参加する時の衣装やグッズを整理しているのだろう。アイドルの写真集やCDなど、ジバニャンはコレクションが多い。
床に丁寧に並べられたニャーKBの写真集を見て、ケータはついに切り出した。
「ねえジバニャン、ほんとは何してたの?」
ジバニャンがびくりと肩を震わせて動きを止めた。
ウィスパーが小さな声で「そこ触れちゃいます?」と半目をケータに向ける。
「おれが聞いたのはポスターの上に裸で寝転がってるって噂なんだけど。カクさんの影響ってすごいからさ、ほんとは何してたのかなあって。」
その声色と表情は純粋だ。ただ単に興味があるのだろう。何故なら自分もあらぬ方向へ拡散されすぎて泣く羽目になったのだから。
しかしジバニャンは石のように固まったまま動かない。完全に石化している。それに対してケータは気にせず返事を急かす。その様子に痺れを切らしたのはウィスパーだ。
「ケータくん、ジバニャンもこう見えて男です。可愛い女の子が大好きなんですよ。」
ウィスパーとしては、アイドルのポスターを見ながら自慰行為でもしたのだろうという噂をまともに信じた推測をし、小学生にはっきり答えを言うもんじゃないとフォローをしたつもりだった。
腕を組んで、さも全て分かっているような顔をする。
だがこれは、完全に裏目に出た。
「おれだってフミちゃん好きだよ?でもフミちゃんの写真の上でゴロゴロしないよ。」
「それしてたら引きます。」
ケータの反論にウィスパーが突っ込む。そういう事じゃないと言いたいが言えない。いや小5なら分かるだろうとウィスパーが喉を唸らせる。
分かって言ってるのではないかと疑うが、ケータの真っ直ぐな目線に耐えきれず、ウィスパーも固まってしまう。
「まあジバニャンのことだから、ポスターにチューしてたとかでしょ。」
ケータの放つ真実にジバニャンが勢いよく振り向いて背中をクローゼットの扉に打ち付ける。
あまりの衝撃に中に居るヒキコウモリの小さな悲鳴が聞こえた。
それ以上に精神的に衝撃を受けたであろうジバニャンがわなわなと全身を震わせて声にならない声を漏らす。目は完全に白目をむいてついに、魂ここにあらず、だ。
「ジバニャン?もしかして隠してたの?」
椅子から下りて、固まったジバニャンの前にしゃがみ込むと、「おーい」と言いながら手のひらをジバニャンの目前でひらひらと振る。
だが一切反応がなく、ケータは小さく眉間に皺を寄せてため息をついた。
「ケータくん、知ってたんですか?」
「バクロ婆取り憑いてた時言ってたじゃん。」
「え。あーあーー。そうでしたね。」
絶対覚えていないな、と、ケータはウィスパーにジト目を向けてからジバニャンの肩を叩く。
「大丈夫だよ。おれ、ジバニャンはそういう奴だって知ってるから。気にしなくていいよ。」
微笑みながら「ね」ともう一度肩を叩く。これはジバニャンがアイドルのポスターにチューしてたって今更何も思わないよという意味だ。
ようやくジバニャンが言葉を発する。真ん丸の大きな目に涙を浮かべながらその場に崩れ落ちるように膝をついて、ケータの顔を見上げた。
「けーたあ。」
呼ばれたケータは何も言わずに頭を撫でた。ジバニャンは撫でられながらケータに擦り寄って甘える。
「ありがとにゃんケータ。ありのままのおれっちを受け止めてくれて嬉しいにゃん。」
泣き続けるジバニャンの「ありのままの」という言葉に僅かに疑問を持つが、何も聞かずよしよしと宥め続ける。
だが、その「ありのまま」はケータが想像していた「ポスターにチュー」だけではなかった。
ジバニャンが涙を乱暴に拭って牙を輝かせながら告白する。
「これからはコソコソせずに処理するにゃん!」
今度はケータが動きを止めて「処理?」と口をぱくぱくさせる。
ウィスパーがそっとハリセンを構えるのが見えた。
だが、ケータとウィスパーはジバニャンから思わぬ許しを受ける。
「だから2人もコソコソしなくていいにゃんよ!ケータが床とか枕に押し付けて」
「それ以上言うんじゃねえジバ野郎がー!!」
ハリセンで引っ叩く心地いい音が子供部屋に響いた。
しかし、ジバニャンは悲鳴を上げるも追撃を止めない。
「ウィスパーだってケータの自慰手伝ってあげてるにゃん。めっちゃ嬉しそうにしてるにゃん。ショタコンにゃ!」
先程までのジバニャンのようにどんどん石化していくケータ。
ウィスパーはとにかく冷や汗が止まらない。
わざとか!こいつもわざと言っているのかと頭を抱えたくなるのを抑えてハリセンをもう一度振り切った。
「なんでにゃんなんでにゃん!みんな男なんにゃから別にいいにゃん!」
「デリカシーってもんがあるのご存知ですか!?」
ぎゃあぎゃあと言い合っていると、ケータがゆらりと立ち上がった。
俯いていてケータの表情が分からないが、怒りと羞恥に満ちたオーラがウィスパーには見えてしまい、全身に悪寒が走る。
そしてゆっくりウィスパーからハリセンを奪い取ったケータは両手に力を込めた。
「このエロ猫がー!!」
猫は夕陽が落ちた空で星になった。
※Rつけるほどじゃないですが、行為を示唆する表現がありますので、ご注意ください。
混沌ビィザー
さくらニュータウン。商店街は活気に溢れ、さくらEXツリーと呼ばれ親しまれるタワーツリーが構え、学校には子供たちが元気に通う。至って普通の街だ。
その街が突然新聞やニュースに報道された。
今まで平凡に、平和に暮らしていたさくらニュータウンの住民たちはテレビや新聞会社にインタビューされることになった。
最も被害を受けたのは、さくら第一小学校である。
小学生たちは集団登校、集団下校をすることになり、街はまだ戸惑いを引きずっている。
時刻は朝8時。集団登校の時間だ。
母の見送り後、先生と近所に住む小学生たちと合流する。
ケータは先生に挨拶をして、俯き加減で歩を進める。
他におはようと声をかけられるクラスメイトは居ない。
空はこんなに快晴なのに、いつも歩く通学路はやけに暗かった。
15分程で学校に着く。先生の口から安堵のため息が漏れたが、それは先生の前後を歩く生徒も同じだった。
正門をくぐった辺りで、引率の先生がケータに声をかけてきた。
「右手、大丈夫?怪我してるところかな?」
ケータは先生の顔を見上げるなり両手を勢いよく振った。空笑いしながら「大丈夫です」と答えて、校舎へ駆け寄って行った。
ケータは勢いを落とさないまま上履きを履き、階段を駆け上がる。
自分の教室があるフロアで止まらず、そのまま屋上へつながるドアノブを握る。
「あ!」
ガチャガチャと鍵がかかっていることを乱暴に確認し、そのまま座り込む。
ようやく乱れたままの息を整えようと酸素を吸うが、上手くいかない。
ランドセルが急に重く感じる。
ケータは左手を持ち上げてランドセルの肩ベルトの上から自身の右肩をさすった。
「痛…。」
「ケータくん、大丈夫ですか?」
ウィスパーが、座り込むケータの顔を覗き込むと、ケータは息づかいが整ってないまま薄く笑って頷いた。
ウィスパーはケータの執事だ。執事といっても妖怪故にケータ以外の人間に彼の姿は見えない。そしてその妖怪の存在は、ケータしか知らない。
ウィスパーは家を出たときからケータに尻尾を掴まれていた。掴んでいた右手が妖怪の見えない先生には不自然に見えたのだ。そこでやっとケータは慌ててウィスパーの尻尾を離してここまで飛び込んで来た。
掴まなくても、執事はいつもケータの側にいる。
なのに何かに縋っていないと、ケータは少し手が震えてしまう。
ウィスパーはランドセルを下ろさせ、ケータの右肩を一緒に擦ろうとする。それに気付いたケータが左手を肩から離し、両手を伸ばして来た。
「抱っこして。」
「ここ学校ですよ。」
「誰もいないよ。」
言うなり目を潤ませたケータの後頭部に手を回して抱き込むウィスパー。そして「大丈夫ですよ。」と言い聞かせるように囁いた。
こんなこと、初めてだった。
ただでさえこのケータがウィスパーに甘えるなど滅多にないことだ。
だが、こんなに弱気になるのも仕方ないなと思いながらウィスパーはケータの跳ねた髪を撫で付ける。
全く子供の声がしない。
ケータがこんなに弱気になったのも、友達がほとんど登校していないのも、3日前に起きた暴力事件の所為だった。
さくらニュータウンでは同じ6人グループによる暴力事件が続いている。
その被害はほとんどさくら第一小学校の生徒。そして、最初の被害者が友人のクマとカンチだった。目の前で犯人達に暴力を受け、その際一緒にいたケータも肩や腹に強い打撲を負った。
不思議な出来事は全て妖怪の仕業。
いつもおかしいと思うことには疑ってかかる主人。
今回の事件に遭った際も、左手首につけた妖怪ウォッチを起動させてライトを照らしていた。
『妖怪の仕業じゃないの。』
『また何でも妖怪の所為にして。』
やっぱり妖怪の所為でしたといういつもの定番のやり取りだ。何回も、何十回も。いつも妖怪の仕業だった。
だが、そんないつも通りにはならなかった。
妖怪の仕業ならそれこそお得意だ。さっさと友達召喚して妖怪に言い聞かせて終いだ。
だが、妖怪ではなくて人間のみによる行動だと知ったケータはショックが大きかったらしい。
普通は妖怪の存在なんて知らないのだ。
これが”本当の普通”ですよとウィスパーは心のどこかで割り切ってしまう。
ケータの呼吸が落ち着いたところで、ウィスパーは「そろそろ教室に行きましょう」と促した。
すんなりと立ち上がり、ケータはランドセルを背負わず手に持って階段を下りる。
途中で顔を伺うようにケータが顔をじっと見てきたので、ウィスパーはにっこり笑って尻尾をケータの前にふよふよと差し出してみせた。
「掴んでおきますか?」
「大丈夫だし。」
口をへの字にして断るが、その顔は先程より穏やかだ。少しあやせばちゃんと持ち直す精神に安心する。
ウィスパーもその表情を見て、ふふふと可笑しそうに笑った。
<中略>
ケータは毎日クマとカンチのお見舞いに行った。
帰りは必ず気をつけてねと気遣ってくれた。
ウィスパーがいるから大丈夫とは言えない代わりに、また明日ねと手を振った。
ケータは今でも少し震えるほど、外に出歩くのが怖い。
だが、外に出歩けるほど強いのだ。
雨が降る事件当日、3人で遊んだその帰り道。カンチが先に腕を引っ張られて、そのまま3人共路地裏に連れ込まれた。
ケータはそこまでしか覚えていない。
医者や警察にはショックで忘れてしまったのだろうと、可哀想にと慰められた。
本当は、知っている。
忘れた理由はこうやって甘やかせてくれる執事がいるからなのだ。
あの時、ウィスパーはいつの間にか八頭身姿の男性に化けていた。顔はそのままだが燕尾服に身を包み、全体像はなんともシュール。だが、いつもその表情は至って真剣だ。
犯人たちを追い払ったのはウィスパー。
一人だけ入院するほどの怪我を負っていないのはその所為だ。
ウィスパーはケータを気遣ってか、事件のことを話さない。ジバニャンもだ。ヒキコウモリも、話題に出そうとはしない。
ただ、今までに増して過保護になったというだけだった。
もちろん両親や学校の先生も同じなのだが、妖怪たちに大人のような気の遣い方をされるのはどうしても苦手意識があった。
ケータはその現状に耐えられなくなり、ウィスパーとジバニャンに「話があるんだけど」と神妙な顔をして、カーペットの上に座る。
「あの、事件のことなんだけどさ、ほんとに妖怪の仕業じゃないのかな…。」
「ケータくん…。」
ウィスパーはケータの目の前に座り、ジバニャンは壁にもたれ掛かりながら顔を顰めた。
まだ妖怪の仕業の可能性を諦めていないのか。
ジバニャンはちらりとウィスパーを見て、深く座っていた体勢を少し正した。
「あの時、ケータは妖怪ウォッチのライトで妖怪探したって言ってたにゃん。でも妖怪が見えなかったという事は、妖怪の仕業じゃないってことにゃん。」
「…じゃあ、怪魔がまだこの時代にもいるとか。」
以前、60年前に行った時は怪魔が人間に取り憑き、とても攻撃的になっていた。
その事象を知っているケータはその可能性も見いだした。
だが、隣にいたウィスパーが怪魔の姿など見ていない上に、怪魔は妖怪ウォッチのライトを照らせば可視出来る。
辺りを照らして妖怪も怪魔も見えなかった。つまり、妖怪の仕業でも怪魔の仕業でもないということが紛れも無い真実だ。
「ケータくん。認めたくない気持ちも分かりますが、これは妖怪や怪魔の仕業ではありません。人間の仕業、です。」
「不思議なことは妖怪の仕業って教えたのはウィスパーだよ。」
「ええ。そうですとも。」
「今でもそう言えるの?」
「もちろん。」
「じゃあなんで!!」
ケータが声を張り上げても、ウィスパーは怯まなかった。じっとりとした目線でケータを見据えている。
ジバニャンは僅かに肩が跳ねたが、ゆっくりと背中を壁から剥がして立ち上がった。腹巻きの上に両手を乗せて「ケータ」と呼ぶ。
「ケータなら分かるはずにゃん。」
出来るだけ穏やかな口調でケータを鎮めようと試みる、が、ケータは強気のまま変わらない。
「ウィスパーあの時、人間みたいに化けてたよね。」
ケータの睨むような目線に向かい合ったまま、こくりと頷くだけで返事をする。
「なんで?妖怪の仕業だからあんな姿になって出て来てくれたんじゃないの?」
「違います。あなたが危険な目に遭ったからです。現に、肩をバットで殴られたでしょう。」
ウィスパーにとっても思い出したくもない主人が傷つけられた時の光景。一気に沸点に達し衝動的に八頭身の姿を取り、犯人たちを追い払った。
相手にしたら、突然現れた人間ではない不気味な顔の長身男性。そんな奴に弾き飛ばされては、逃げるのは当たり前だった。
「人間相手に札を使った事は申し訳ないと思っています。もしかしたら、妖魔界に罰せられるかもしれません。しかし、私はケータくんの執事です。何があっても、誰が相手でも、どんな手を使っても、ケータくんをお守りしたいのです。」
「だから戦えるようになりたいと言ったんですよ」と、強い意思を持った目を、ケータは確かに受け取った。その揺るぎない視線に心臓が跳ねる。
ウィスパーはそんな目の尻を僅かに下げた。
「強くなりたいのです。ケータくんを、守れるように。ーーねえ、ケータくん。」
一旦そこで言葉を切って、「私は、あなたと一緒に強くなろうと決めたのです。」と、おっとりと、されど熱く、誓うかのようにように表明され、ケータは息をのむ。
なんでおれも強くなれると思ったのか、不思議でならない。
何に感化されてそう決めたのか、理解できない。
だが返さなくては。おれも。ウィスパーやジバニャンが言っている意味なんて、ずっと、本当は、嫌ほど知っている。
そしてしばらくの沈黙の後に、ケータが口を開く。
「おれも、強くなりたい。」
声が震えているなんてケータは今初めて気付く。
「本当は、人間の仕業だって、分かってたよ。でも…。」
怖かった。妖怪の所為ではないと認める事が。
本当にこんな事があるのかと疑った。
映画や、漫画だけの話ではないのだ。
人間が人間を、あんな風に傷つけるなんて。
ウィスパーが深くため息をつく。その息は重いものではなかった。
ふわりと浮かび上がり、思い切り天井へ仰いだ。
「良かったでうぃすー。ずっと妖怪の所為にされたらどうしようかと思っていました。」
身体の中にある思いもやもやを出し切るように、ウィスパーは息を吐き続ける。「妖怪名誉毀損で訴えられるところですよ、もう」とぶつぶつ喋りだす。
「確かに、不思議な出来事は全て妖怪の仕業です。しかし、その力に勝てるのも、また人間なのですよ。ケータくん。」
「人間の力?」
「ええ。」
ジバニャンがケータの元へ歩み寄りながら「そうにゃん」と同調した。
「妖怪が能力を発揮するのは、本能がそうさせてるからにゃん。そうしないと妖怪として生きて行けないからにゃん。」
一見自由に生きている妖怪たちも、自分の能力に苦しんでいることもケータたちは見て来たのだ。そして、そう分かっていながらも、そうしないと生きて行けないことも。
「その能力にケータやフミちゃんたちは振り回されてきたけど、全然振り回されない人間もいるにゃん。例えば、意思とか、個性が強い人間には取り憑いても人間の方が強くて能力は発揮されないにゃん。」
「意思?個性?」
「まあケータは普通過ぎて個性ないから分からないかもしれないけどにゃん。」
真面目な話の中にぶっ込んでくるジバニャンに「普通って言うな!」と怒って、だが、確かに分からないと実感する。
いつもまんまと取り憑かれてしまっているのに、それに勝てる人間がいるのか。
「ケータは取り憑かれたら、いつもおれっちたちがケータの名前呼べば正気に戻るにゃん。」
どんな相手に取り憑かれても、ウィスパーとジバニャンに呼びかけられると一瞬意識を取り戻す。これは、何度も体験した。
「ケータがおれっちたちのこと信じてくれてる証拠にゃん。その気持ちの強さが、妖怪の能力に勝つから正気に戻るにゃん。」
「それにケータくんは妖怪の存在を知っています。何でも妖怪の仕業にする癖がついているくらいですから、しっかり抵抗力があるのでしょう。」
「馬鹿にしてる?」
ジバニャンは良い事言ってくれたのにと頬を膨らますケータ。
その様子にウィスパーは「違いますよ」と言いながらくすりと笑った。
「妖怪の能力をはね除けられるくらい、意思が強いのですよ。正義感が強いところもありますからね。妖怪の仕業ならおれが解決しないとと無意識に感じているのでしょう。」
微笑みながらケータの元へ寄るウィスパー。
両手でケータの左手を取って、妖怪ウォッチがケータの目の前に来るぐらい揚げさせ、ケータの瞳を見つめながら妖怪ウォッチを撫でた。
「あなたにこれを渡して、本当に良かった。あなたのその意思の強さと優しさに、私たちは救われているのですよ。」
恍惚したような顔で、告白のように言われ、ケータは目眩をしたような、目の前が遠くなるような感覚を覚える。
そして、心のどこかで、「おれもだよ」と無意識に返事した。
ジバニャンが膝に乗ってくる感覚も、なんだか麻痺したように重みを感じにくい。
「妖怪とも向き合ってくれるあなたなら、人間とも向き合えますね?」
「うん。」
ケータがようやく心から微笑んだような気がして、ウィスパーは笑みを深めた。やはり、この子はーー適正だ。
ケータの膝の上で尻尾を揺らすジバニャンが、
「それが当たり前にゃん。人間にゃんだから。」
と悟ったように発言した。
ジバニャンは、エミちゃんがどうやって社会を生きているのか、夢に向かっていくあの姿を、今でも瞼の裏から見えている。
「だから人間は強いのにゃん。」
ケータはこの2人からの励ましほど力強いものはない、と、ウィスパーとジバニャンをまとめて抱き込んだ。
<中略>
下校時、友達妖怪たちと街で出会う。
今となっては人間の友達のようにばったり会うこともしょっちゅうだ。
主に喋りかけるのがケータ。そして妖怪もケータと会話して、ケータに手を振るのだ。
だが今は、集団下校で周りの目が気になり、いつものように喋れない。
最近はウィスパーばかりが出会う妖怪たちと話をする。が、
「ウィスパー!私が誰だか分かる?」
「ウィスパー。兄ちゃん見てないズラか?」
「よう!今日は妖怪パッド持ってないのかウィスパー!」
「うぃっすぅ…。」
出会う妖怪達にいじられやすくなった。
以前のカクさんの拡散によりウィスパーの知ったかぶりは尾ひれが付きまくった状態で広まってしまい、責められもしたが、それ以来責められたり蔑ませたりすることなどなく、むしろウィスパーに好意的になっていた。
ウィスパー自身は納得していないようだが、ケータは何だか微笑ましく感じていた。
今までは、自分の後ろにいないと駄目だった奴が、自分なしでもコミュニケーションが取れているのだ。なんだか成長を見守っている気分。
本人には絶対否定されるから言わないが。
「ケータくんの所為ですよぉ。」
ウィスパーが恨めしそうに言う。
確かにカクさんの真横で、ウィスパーは知ったかぶり!なんて言ったが、事実が広まっただけではないかと呑気に笑う。
集団下校でなければ、一緒になってウィスパーをいじりたいのにと内心残念に思っていた。
「トップシークレットなのに。」
うじうじと文句を言ってくるが、楽しさが増すだけだ。
早く皆にも受け入れられてしまえ。
そうすれば、楽になれる。
「前にも言いましたが、確認取ってるだけですからね!?」
「はいはい。」
そんなことどうでもいい、と、いつも通り適当にあしらう。
建前のトップシークレットなんて、どうでも。
「で、何か聞けた?」
今の現状で犯人の手がかりを見つけるなんて、妖怪への聞き込みくらいしか出来ない。街中ウロウロしている妖怪たちはさくらニュータウンの変化に目敏いはずだ。
妖怪の噂も、人間の噂も、いくらでも情報は手に入る。
「聞けましたが、役に立つかどうか…。」
「?」
ウィスパーが難しい顔をしながら唸る。「とにかく帰ってからお話しましょう」と、集団下校の列にしっかり着いて歩くよう催促した。
いくらでも情報は手に入る、が、妖怪とは興味あることにしかアンテナを張らない。適当な路地裏事情や嘘か本当か分からない不良たちの溜まり場くらいしか情報がないことに、ウィスパーは気が遠くなった。
所詮は妖怪。自分と関係ない人間のことなど何も知らない。それは自分も同じだなと思いながら、早く我が家が見えないかとケータの頭上を忙しなく回った。
<中略>
不祥事案件に出会し、妖怪を追いかけていた。
随分言葉遣いの悪い妖怪で、悪には悪だと言わんばかり。グレるりんを召喚。
「いつもいつも気安く呼びやがって!」
「グレるりんが頼りになるからね!」
誰とでも仲良くなるグレるりんなら、いつものオチで解決してくれるのではという期待は確かにあるが、実際は悪を増やしてしまうリスクがあるのもケータは知っている。
そんなケータの分析など知らず、頼りになるといわれて照れを隠さないグレるりんは、ケータの頭より更に上を見上げた。
「ウィスパー、ちゃーんと調べてあんのか?」
「もちろんでうぃす!調べた結果ケータくんがアータを選んだんでうぃす!」
開き直って半ギレ状態で言い返すが、今更過ぎる事実だ。
というか、どうして今までバレてなかったのか、そっちの方が謎だった。
そんなやり取りをしていると、妖怪が走り去って行くのをケータが慌てて追いかける。
「あ!逃げる!グレるりん!」
言いながら振り向くと、グレるりんはウィスパーの頭を鷲掴みにする光景が見えた。
「なにしてんの!?」
「なにすんですか!?」
「お前が1番素早いだろうが捕まえてこいやー!!」
綺麗なフォームでウィスパーをぶん投げるグレるりん。ウィスパーの悲鳴が耳に突き刺さり、ケータは足を止めて心の中でウィスパーに謝った。
(召喚する友達間違えたなあ。)
「たまにはあいつが頑張らねえとな!」
グレるりんは一仕事終えたみたいな顔してるが、あのウィスパーが不祥事案件を解決出来るとは思えない。
追いかけようと「ウィスパーがそんな頑張れるわけないでしょ。」と言いながら再び走り出し、グレるりんを置いて行くつもりで手を振ろうと腕を上げた。
グレるりんは仁王立ちして、腕を組む。
「ケータ!」
先生に注意される時のような、言う事を聞かなきゃいけない厳しさを込められた声に驚いて、足を止める。
グレるりんは少しケータと空いた距離もそのままにして「お前」と切り出した。
「ずっと知ってたのか?」
「何が?」
「ウィスパーは何も知らないってことだよ!」
まだ気にしてたのかと呆れそうになったが、グレるりんの真摯な眼差しにケータはどういう意味か考えた。
あの日、皆が怒ってウィスパーを殴りに来たのは、「妖怪なんて大嫌いで名前を覚えるなんて無駄」という尾ひれがついた拡散の結果を信じてたからだ。そして命がけの弁解により、「ウィスパーは妖怪の名前なんて知らないし覚えていない」という事実を理解してもらい収束した。
ウィスパーにすれば、それもたまったもんじゃないのだが。
「ケータ!答えろよ!」
「知ってたよ。でもそんなの初めからだし、皆も気付いてると思ってて。」
「お前はなんであいつの側にいるんだ?」
グレるりんの真意が分からず戸惑うケータにグレるりんは容赦なく追い立てる。
なんでって向こうが勝手について来たんだから聞かれてもしょうがない。
「グレるりん?なんでそんなこと聞くの?」
聞くなら出会った時だろう。人間の子供に変な妖怪がついているのだから、その時点でおかしいと思うのでは?とケータは頭を回す。
何もかも今更すぎる問いたちにケータは何も答えられない。
自分だって、なんでウィスパーとこんなに一緒にいるのか、なんでウィスパーが妖怪の名前を覚えられないのか知らないのだから。
「あいつ執事なんだろ?普通はよ、もっと優秀なやつ側に置くぜ?なんであいつを選んだんだ?」
「いや選んでないし!勝手についてきたんだよ。」
もしかして一緒にいる自分まで馬鹿にされているだけではと思えてきて、ケータはウィスパーが追いかけた妖怪の行方が気になりだす。
グレるりんは納得いかない顔をしているが、それ以上詮索してこない。
黙ったままゆっくり大股がに股で近寄ってくる。
まだ妖怪を追いかけてくれる気があるのかと思い「ねえ、さっきの妖怪追いかけようよ。」と促した。
だが、グレるりんは思いっきりケータの胸ぐらを掴んで自信に引き寄せる。
友達だが、こいつは不良だ。殴られると思ったケータは顔を引きつらせ、何もしてないのにと理不尽を目で訴える。
「勝手について来た奴をそんなに信用してんのか?」
「信用っていうか…。」
信用とか信頼とかよく分からない。ケータは「何かあるならはっきり言って」と、グレるりんの腕を掴んだ。
「おれはあの日、見ていたよ。」
あの日。事件の日だ。咄嗟に気付いたケータは目の色を変えた。
「グレるりんが取り憑いてたの!?」
グレるりんは呆れた目で否定して、「何でも妖怪の所為にすんじゃねえ」と、どこかの保護者のようなことまで言う。
「問題はそこじゃねえ。なんでお前の連れがやられてお前の肩が殴られるまで、あいつは出て来なかったんだ?しかもあんな姿に化けられるなんてな。」
「ウィスパーだよ?そんなすぐに行動出来るタイプじゃないよ。」
大方、人間に手を出す事に躊躇したのだろう。ケータが殴られてキレたと言っていたから、殴られてなかったらそのまま引っ張られて逃げただけかもしれない。八頭身になれることは、もはやお遊びだと思っていたから何も気にしていなかった。コミカルに動き回れるのは彼の得意分野だ。
それに、妖怪たちは葉っぱを乗せて八頭身どころか人間に化けているではないか。コマ兄弟やジバニャンが使っているのをケータは知っている。
「おれ様にも聞き込みなんかしてきやがって。何しようってんだ。警察に任せておけばいいだろうが。あの時とっちめれば良かったものを、今更。」
「それはおれが!早く捕まってほしいから皆に聞いてるだけで!」
「そんなのお前の仕事じゃねえだろうがァ!お前の仕事は小学生だ!ただの小学生が、取り憑かず、契約もしない、記憶障害の妖怪を執事として側に置くもんじゃねえ!」
ケータはグレるりんの勢いに押され、喉を鳴らした。自分たちの関係をひどく否定されてケータは頭が真っ白になる。
なんで、どうして、という疑問が怒りに似た形で沸き上がってくる。
誰に向けたそれなのか判断つかぬまま、とにかく何か言い返そうと口を開くと、遠くから「ケータくーん!」とウィスパーの声が聞こえた。
声色的に、妖怪を逃がしてしまったのだろう。情けない顔を浮かべていることなど見ずとも分かる。
グレるりんは舌打ちして、ケータから手を離した。
「いいかケータ。これは忠告だ。」
グレるりんが背中を向けて、去ってしまった。
いつの間にかウィスパーはケータの隣まで帰ってきていたようで、「何かあったんですか?」と呑気に聞いてくる。
あったことを話すには整理しきれていない、更に、話すべきかどうかも分からず、「帰ろう」と、重い足を動かすだけにした。
帰宅すると、母にとても心配された。また事件に巻き込まれるかもしれないから出来るだけ家に居るように言われ、仕方なく頷いて自室へ入る。
まだ、殴られた肩が痛む。
ウィスパーが気まずそうに、「そりゃそうですよね…」と言って、部屋で寝転ぶジバニャンに「何か収穫は?」と訊ねた。
「ないにゃんねえ。あの日は雨だったし、外出歩いてた妖怪は少ないみたいにゃん。」
ケータがベッドに座り込んだ音を立てると、クローゼットの扉が開いた。中からパソコンのキーボードを打つ音が聞こえる。
「他の小学生が暴力を受けた日も雨でした。犯人は雨の日を狙っているのかもしれません。人通りも減りますし、足跡や指紋が流れるからでしょう。」
「割と計画的ですね。今日まで捕まっていないだけあります。」
「ていうか、ウィスパーあの時顔見てるにゃん?ウィスパーが犯人の顔見つけたら良い話にゃん。」
ジバニャンの指摘に黙る一同。何故それを今まで思い付かなかったのか、と期待する。しかし、この執事はその期待を簡単に破ってくれた。
「え!えーと…ですね。あ、のー、…覚えてなくて。」
縮こまって「すみません」と小さな声で謝るウィスパー。ジバニャンはいつも通り貶してみせたが、ケータは違う反応を突然見せた。
「なんで。」
低い声で言われ、ウィスパーはケータと友達に関わる事件のことなのに無神経すぎたかと冷や汗を流す。オロオロと「ケ、ケータくん」と名前を呼んで駆け寄るが、俯いて表情がよく見えない。
「なんで、ウィスパーはいつも、何も、覚えらんないの?」
ジバニャンはヒキコウモリと顔を見合わせた。ジバニャンはウィスパーの能力を知っている。故にフォローしてあげたいが、ケータの様子が変だ。
覚えられないなんてこと、とっくに知っているではないか。
「おれ、人間と向き合うよ。決めたもん。妖怪の仕業じゃなくたっていいんだ。本当にそう思ってるよ。でも、でもね、」
俯きながら、半ば投げやりのように話すケータに、ウィスパーは顔を伺おうと浮遊高度を下げて行く。
それを止めるかのようにケータは、はっきり言った。
「ウィスパーとは向き合えない。」
子供部屋が凍り付く。主にウィスパーが、目を見開いて、固まったように動かなくなった。ケータがどんな顔でそう言ったか分からぬまま、ただ、立ち尽くす。
ケータも指1本動かさなかった。ただ、あともう一言。
「一人にして。」
時間が止まったかのようだ。ジバニャンはそう思った。
この2人のこんな様を、今まで見た事があっただろうか。決して無いだろう。
なにか、なにか、おれっちが言わないと。
焦燥感に押しつぶされそうになりながら口から出たのは息だけだった。
身体も、金縛りにあったように動けなかった。
嫌だ。こんな2人を見ているなんて。
ややあって、ウィスパーが窓から出て行った。
何も言わず、出て行く姿を初めて見た。
ウィスパーがどんな顔してるか見えなかった。
ケータも、変わらず首が折れそうなほど曲げて俯いたままで、なにも見えない。
見たくなかった。
せっかくケータが無事だったのに。
ジバニャンも、まだ、立ち尽くすしかなかった。
あのあと、声をかけたが「一人にして」と言われてしまい、ヒキコウモリとクローゼットの中で寝ることにした。
ちらちら隙間からケータの様子を覗いては、気が重たくなる。
ヒキコウモリはウィスパーにメールを送っていた。必死にフォローするヒキコウモリに負けてられないと、ジバニャンはケータが寝てから家を飛び出し、夜の街を走った。
雨の匂いがする。もうすぐ降るかもしれない。
今日は静かだ。うるさいイビキも聞こえない。いつの間にか慣れた気配がない違和感に目を覚ます。
時計を見ると深夜1時だった。
夜9時に布団に入ったはずなのに、目は瞑っていたはずなのに、疲れたはずなのに、どうして熟睡できないんだろう。
「…雨?」
耳を澄ませると、雨の音が聞こえる。
ぼーっと窓の外を見つめて、あの時はもっと酷い大雨だったなと思い出す。
実際覚えているのは一部分だけ。気付いたら警察に話を聞かれているところだった。そのあとお父さんが迎えに来てくれて、夕食を食べて、お風呂に泣きながら入って、それから。
それから?
眠れなくて、怖くて、ずっとウィスパーに縋って。
雨の音が強くなってくると恐怖が増して、また泣き出してしまった。
いつの間にか八頭身になったウィスパーにずっと背中を撫でてもらって。
それから。
覚えていない。寝てしまったんだろう、きっと。
ケータは起き上がって本棚から大辞典を取り出した。
いくつかメダルを選び、その内の1枚を器用に指で弾く。
メダルから文様を並べた光の帯が綺麗に螺旋を描いてケータを取り巻いて行く。
「おれの友達!でてこいモノマネキン!妖怪メダル!セットオン!」
「なるほどにゃーん。それでケータがあんなこと言いだしたわけにゃんか
。」
「グレるりん、責任取ってくれます?私ほんと立ち直れないかと思いました。」
「おれぁ善意で言ったんだ。そんな2人揃って責め立ててこなくてもよお。」
雨の中、路地裏でカツアゲするかのようにグレるりんを追いつめるウィスパーとジバニャン。珍しくグレるりんが劣勢だ。ウィスパーとジバニャンの目は本気だった。
「私が妖怪逃がしちゃって戻ってきた時から様子がおかしかったから、まさかと思いましたが。いやあ、ケータくんの友達だからって油断は禁物ですね。」
「発端はお前の中途半端さの所為にゃん。」
「そうだそうだ。」
「ジバニャンどっちの味方ですか?」
ウィスパーが呆れ顔をジバニャンに向ける。それに物ともせずジバニャンはグレるりんの手を取った。
「とりあえず、犯人の顔はグレるりんが分かりそうにゃん。このまま連れ回して見つければいいにゃん。楽勝にゃん。」
「今から行くのかよ!?」
「犯人さえ捕まればいいんですよ。街に平和が戻ります。それだけで精神も穏やかになるでしょう。それにケータくんに犯人探しなんて物騒な真似させたくないんで。」
「おれっち早く部屋で寝たいにゃん。」
ウィスパーもグレるりんの手を取って、連行するかのように連れ出した。
そのとき、ウィスパーのパッドが鳴る。メールが来たようだ。
いそいそとパッドを取り出してメールを開くとヒキコウモリからだった。
「なっ…!!」
「どしたにゃん?」
ウィスパーがメールを読むなり焦りの表情を見せた。
「ケータくんが!」
外はビックリするほど誰も歩いていなかった。雨だからか、深夜だからか。
こんな時間に一人で歩くことは初めてだ。
傘を持つ手が震えている。寒いからだ。別に怖いからじゃないと言い聞かす。
パシャ、パシャ、と、雨を踏む音と、ザーザーと雨が降る音だけがケータの耳に入ってくる。
やがて、事件現場付近に到着した。
ここで、クマとカンチは…と、悔しいよりも、恐怖が勝ってケータはその場から逃げるように走り去った。
バシャ、バシャ、バシャ
あの時、どうしたら良かったんだろう。
妖怪の仕業だとばかり思い込んで、そんなことせずに友達でも召喚して犯人をやっつけちゃえば良かったんだ。
バシャ、バシャ、バシャ
そしたらこんな思いはしない。
バシャ、パシャ、パシャ
こんな思い?
『ただの小学生が、』
自分に封印を解かせた彼に、確かめる勇気もなく、ただ突き放してしまった。
戦えるようになると言って、本当に戦えるようになった彼の強さに改めて驚いた。同時に、ひどく憧れた。そして、虚しくなった。
どうしてそんな、自分なんかの為に尽くせるのか。
たまたま封印を解いただけの、普通の小学生に。
そこまでしてくれる彼だけど、向き合えないと思った。
強くなりたいと言ったけど、彼の前では弱いままがいい。
だって、何も変わりたくない。知りたくない。変わったら、知ったら、終わってしまいそうだ。
こんなに楽しい毎日が。
ケータは水が跳ねる地面を見つめる。
細かい透明の筋が、落ちては跳ねて、流れていく。
(その毎日をなくそうとしてるのはおれじゃんか。)
パシャ、パシャ、パシャ
「ウィスパー…。」
小さく呟いて、踵を返す。今ならまだ、なくさないで済むかもしれない。
先程通った道は怖いから、別のルートで帰ろうか、いや、いつもと違う道の方が怖い。そう、迷って、足を前に出せずじまい。
バシャ、パシャ、パシャ
誰かが近づいてきた。傘で顔まで見えないが、6人の大人だ。あの時と同じ人数だ。もしかしたら犯人たちか。
ドクンドクンと心臓が嫌な響き方をする。
ケータは大丈夫と自分に言い聞かせた。この犯人たちは小学生相手に暴力を振るとニュースで言っていたはず。
「おじいさん?こんな遅くに大丈夫?」
声をかけてきた。なんだ、優しい人か、と安心する。
ケータは頷いてその場を後にしようと歩き出した。
顔はツラがわりの能力でおじいさんにしてもらったが、声は子供だ。バレてしまうわけにはいかない。こんな時間に子供が一人出歩くのはさすがにまずい。だが、顔は見ておかねばと傘を少しずらして顔を見ようと試みた。
「そっか。気をつけてね。ーーこんな僕らにリンチされちゃうから。」
大人たちの傘で隠された顔が見えて、狂気に孕んだ顔色にあの犯人グループだととっさに理解した。そしてクマとカンチが殴られた瞬間がフラッシュバックされた。
もう死ぬんだ、と、思った。
バチが当たったんだ。ウィスパーに、あんなこと言ったから。
『向き合えない。』
あんなにベッタリ側に居て、好いてくれて、守ってくれる彼に、あんな酷い事言ったのだから仕方ない。
でも、向き合えないよ。本当に。
向き合ったら、変わる気がしてならないから。この関係が。
変わりたくない。普通でいい。このままで。
ーーああ、その普通もなくしちゃった。
目を思い切り瞑って、来るであろう衝撃に耐えようとした。
奥歯がギリリと鳴る。
だが、想像していた衝撃は来なかった。
代わりに聞こえたのはバシャリと何かが倒れる音と。
「なに馬鹿なことしてんですか。」
ウィスパーの声。
薄く目を開けると、大人達は呻き倒れていた。一人だけ目の前に立つ黒い大きな大人に思わず後ずさりする。
逃げ出したいが、その前に近くに居るはずの白い姿を探す。
目の前の大きな大人がしゃがみ込んでケータから傘を奪った。ケータはビクリと肩を跳ねさせ怯えたが、同じ傘に入ってやっと、見た事のある燕尾服に気付く。
「あ…。」
徐々に顔をあげるとウィスパーがいた。なんで、とか、どうしてここが、とか、言いたい事はいろいろあったが、喉で詰まって何も出て来ない。
惚けたようにウィスパーを見ていると、ウィスパーが両膝をついた瞬間バチン!と大きな音が雨の間をすり抜けて響いた。
ケータは何が起きたか分からず、衝動のまま顔を横に向け立ち尽くした。
痛みは感じないが、頬がやけに熱い。
ケータはウィスパーに、頬を打たれた。
「こんな時間に…何をしているのですか…?」
とても低い、地を這うような声だった。怒っているのが嫌でも分かる。怒らせて当然だ。
じわりと喉の奥が熱くなっていくのが分かった。痛みが段々と頬から全身へ染み渡るようだ。
「こんなところで何をしているのかと聞いているんです。」
上から振って来る声に苛立が含まれて、更に圧力をかけられる。
ケータは無言の抵抗をした。
すると、ケータの後ろからつらがわりが現れる。
「よくこの子の正体が分かりましたね。なかなかいい具合にこの体型に合った老人の顔を選んだと思うんですが。」
高い声が楽しそうにウィスパーに喋りかける。つらがわりは自分の顔を両手で捌き、「はいっ」とケータの顔を元に戻した。
「元の顔の持ち主が可哀想。きっと痛み残ってますよ。」
「それは申し訳ございません。本気で打ってしまいました。でも、」
ウィスパーは一度そこで言葉を切って、「ケータくんの所為ですから」とケータを睨んだ。
ウィスパーにこんな目線を向けられた事は初めてで、ケータはそれだけで酷く震え上がる。次第に立てなくなって、膝から崩れ落ちた。
バシャンと水が跳ねて、ズボンに雨水がしみ込んでくる。
「…あ…」
「つらがわり、ありがとうございました。よくお休みください。」
つらがわりの気配が消えるなり、ウィスパーはケータの着ている服を乱暴に掴む。ケータは喉の奥で小さく悲鳴を上げた。
「この服は誰に頼んだので?花子さんですか?わざわざ顔も服も変えちゃって何しようってんでしょう。妖怪の力を借りても中身はただの小学生ですよ。」
そのまま叩き付けるようにケータを地面に押し倒し、「ケータくん」と地鳴りのような声を響かせる。
ケータは浅い呼吸を繰り返して、抵抗できず、ウィスパーから与えられる恐怖にひれ伏すだけだった。
「私が来なかったら、あーたどうなってたと思いますか?」
「……う…」
「姿を小さなご老人にしてましたからね。まあ暴力受けて終わりでしょう。良かったです。」
「…っ!」
何が暴力受けて終わりで良いのかと疑問に思いながら首筋にちくりと痛みが走る。
朦朧としてきた意識の中で、ウィスパーが首元に顔を埋めているのが分かった。温かい湿った感触が首を這う。
顔に突然雨が降ってきた。ウィスパーが傘を手放したのだ。すでに2人とも下半身は濡れてびしょびしょだが、すぐに頭まで濡れて、身体が冷えて、指先はもう何も感じない。痛み続けていた肩の打撲も、今は感じない。
ケータは、いつの間にかほぼ何も身に着けていなかった。妖力が消えたのかなと考えることもままならない。
こんなに意識も保てないのに、こんなに身体は恐怖と冷えで動かないのに、喉の奥と中心はとても熱くて身体が今どうなっているのか、何が起こっているのか分からぬまま、ケータはただ嬌声を上げた。
頬を打たれた音と違って、それは全て雨に溶けていく。
「思い知ってください。ケータくん。」
執事の荒い吐息が雨と一緒にケータの身体へ落ちていった。
<中略>
天窓から見える空はただ暗い。
その四角い暗闇から、あるいはカーテンの向こうから、あるいは部屋の全てから、重くて陰湿な空気に負けて目を瞑る。
今夜は月も見えないほど厚い雲に覆われ、地面は濡れ、激しい水音が夜の街を支配した。
何も聞こえない。
聞こえるのは雨が地を打つ音だけだ。
男は自ら視界を遮った代わりに耳を澄ませる。
肌から伝わる熱だけを感じた。
自身の胸からは痛みだけが駆け巡った。
それは太腿に乗せた少年を抱いたまま。
それは男に跨って擦り寄ったまま。
少年は自ら視界を遮った代わりに声をあげた。
肌から伝わる愛だけを感じたかった。
自身の胸からは痛みだけが駆け巡った。
少年の手が握る燕尾服のジャケットに深い皺が寄っている。
そのジャケットから伸びる長い手は、子供の背中を撫で続けていた。
随分温かくなった子供の身体に安堵する。
さらさらの髪に顔を埋めて、頭皮まで掘り進めるかのように鼻先で髪をかき分けていけば、いつものこの時間の匂いだと実感して抱きしめる力を更に込める。
すると、腕の中の子供が震えたので、少し力を弱めた。
「すみませんケータくん。苦しかったですか。」
「…うっ…。う、…ん。」
もう2時間くらい泣き続けているケータに対して罪悪感が募る。
それだけのことをしたので仕方が無いのだが、さすがにここまで泣き続けられるのは予想外だった。
「…う…。うぃす…ぱ、…苦し、い…。」
「え?」
力は弱めたが?とケータを腕から離して顔色を確認する。
風邪を引かせたか。まあ風邪を引かすつもりで雨の中押し倒したのだが、と、ウィスパーは少し前の時間の自分を振り返る。
自分がしたことに罪はあるが、悪びれるつもりはない。
苦しがるケータに反して、ウィスパーは優しく笑った。
「やっと喋ってくれました。」
愛おしそうに目を細めて、自分が打った頬を撫でる。
ケータの目から更に涙が溢れかえった。
「私が昼間の妖怪を取り逃がしてから、全く喋ってくれなかったものですから、寂しかったです。」
なんで覚えてないのとか向き合えないとか言われたが、そこはお得意の記憶力ー100で忘れ去りたい所だ。残念ながらまだしつこく胸に抉り込まれているままなのが我ながら憎たらしい。
そんな自分に嘲笑しながら、ケータのもう片方の頬にも手を添えた。
「うぃすぱ。」
「はい?」
「…ずっと…苦しかった…。」
ジャケットを握る手がそのままウィスパーの身に僅かに食い込むのを感じ、先程から巡り続けていた胸の痛みが助長されていく。同時に、この子も一生懸命になってくれているんだと実感した。
「ご…めん…。ごめんねウィスパー…っ!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら訴えるように謝罪してくるケータに、思わずもらい泣きしそうになる。
頬を包んでいた両手の親指でケータの唇をなぞる。
「私も、申し訳ございませんでした。…ケータくん。」
「仲直りさせてください。」と言えば、ケータは目を瞑って、ウィスパーの唇を受け入れてくれた。
朝、ウィスパーの計画通り風邪をひき熱を出したケータは学校を休んだ。
母に連れられ、医者に行く道中、「犯人捕まって良かったわ」と犯人が逮捕されたことを知った。
これで、いつもの毎日が帰ってくる。
安心して、街を出歩ける。
「クマとカンチにも教えなきゃ。」
「風邪が治ったらね。」
母も久しぶりの笑顔を見せる。このところケータの顔をずっと心配そうに見守っていた。
「早く風邪治して、また皆と元気に遊びなさい。」
「…うん!」
めいいっぱいの笑顔を母に向ける。身体は重いが、事件解決のおかげで風邪の割には心は軽やかだ。あとは風邪を治して、それから、それから…。
誰もいない天野家に、妖怪が3人。
子供部屋に3人は座り、一人はザクザクと音を立ててチョコボーを食べている。
「人間相手にあんなことして、今度こそ妖魔界から罰せられても知らないにゃんよ。なんでおれっちとグレるりんに知らせなかったにゃん。」
ジバニャンが睨む先にはウィスパー。
ジバニャンはウィスパーから「ケータくんが家を飛び出した」と聞いた後、グレるりんとウィスパーと別れてケータを探した。
ケータを見つけた時にはウィスパーが犯人を気絶させ、泣いてるケータを背負い、警察に連絡する直前だった。
「いつもはそんな機敏に動けないやつが何してるにゃん。札で戦えるようになったからって、それは妖怪不祥事案件の為に」
「罰せられても構いません。これは、ケータくんを守る為にポチった札です。」
ジバニャンの言葉を遮って、自分は筋を通したかのような顔で意見をかぶせてくる奴に、ジバニャンは吐き気さえ感じた。
このウィスパーのケータへの執着は狂っていると感じる時がある。礼儀をわきまえた妖怪だと言ったのはどこのどいつだ。
「今のところ、妖魔界にウィスパーさんの行動は伝わっていないと思います。グレるりんさんがどうするかですね。」
ヒキコウモリがクローゼットの中から意見する。自分ではケータを止められないと察したヒキコウモリは、すぐにウィスパーに連絡した。
ちゃんと連れて来て帰って来たときは、なんだかんだで流石執事だと関心したものだ。ケータの行動に珍しく厳しく対応したことも、意外だった。
「グレるりんには私が話しておきます。個人的に話したいこともあるので。」
「ヒキ…。」
いつ罰せられてもいいような言動に、ヒキコウモリは何故だか焦燥する。
この人は、何もかも捨ててケータを守るような、純粋な自己犠牲のタイプではないはずだ。
「私が言うまでもないかもしれませんが…。あの時ケータさんは、犯人を探す為に飛び出したのではありません。」
深夜に妖怪を召喚していることに驚き、クローゼットの扉を少し開けて様子を見ていた。モノマネキンにケータに化けてもらい、代わりに寝ててと頼み込んでいた。
モノマネキンには断られていた。もちろん、こんな時間に一人外に行かせるわけにはいかないから。妖怪だって良識はある。
だがケータは引かなかった。
『ごめん。でもおれ、ウィスパーと向き合わなきゃ。今度はおれが、強くならないといけないんだ。』
モノマネキンの肩を掴んでお願いをするケータの姿に心を打たれた。
どうせ朝には帰ってくるだろう執事にただの小学生がここまでするなんて、信じられなかった。
モノマネキンもそうなのか、ただ折れただけか、わざわざ真相など聞くつもりも無いが、しぶしぶ承諾していた。
「あなたを…探しに行ったんです…。」
顔と服装を変えたのは、犯人たちは小学生を狙っている傾向があるから。
年配の風をしていれば、ターゲットとしては見られないと判断したのだろう。実際は小学生と高齢者、つまり、弱い相手を狙っていただけだった。
「なんにゃ、ウィスパーの所為にゃん。」
「まじですか。私の所為?ていうかヒキコウモリの話本当でうぃす?嬉し過ぎなんですけど…。」
ヒキコウモリとジバニャンはニヤけるウィスパーに軽く軽蔑の目を向ける。
ジバニャンはボソリと「きもいにゃん」と言ってチョコボーの包みをゴミ箱に捨てた。
「ま、ケータは無事だし、犯人も捕まったし、これでまたケータと普通に学校行けるにゃん。」
「ケータくん風邪ひいてますから、しばらくジバニャンも静かにしててくださいよ。」
そう注意して、ウィスパーは「では」と窓の方へふわふわ向かう。
「私は早速グレるりんのところへ行ってまいりますね。」
するりと窓を通り抜けて行ってしまった白い後ろ姿を見送って、ジバニャンとヒキコウモリは盛大にため息をついた。
「あいつ無駄に行動力あるにゃん。」
「ヒッキー…。」
クローゼットの扉を閉めて、ヒキコウモリは思い返す。
『…ずっと…苦しかった…。』
ウィスパーに抱かれながらえんえんと泣き続けたケータが吐き出した思い。
こんなにお互い求め合えているのに何も進まない。それにもどかしさを感じていたが、ケータの声を聞きながらその表現は適切ではないのではと疑心する。
この2人の関係はとても脆くて、苦しくて切なくて、いつ壊れてしまってもおかしくないのに、いつも壊れない。
『ご…めん…。ごめんねウィスパー…っ!』
向き合えないと言ったこと、こんな時間に一人飛び出したこと。もしかしたら、他にもあるのかもしれない。ずっと、と言うのだから。
本当にケータはウィスパーと向き合うつもりなのかと考えるとゾッとした。
確かに妖怪の本質を捉えていくのが上手い子だ。だが、ウィスパーは特殊だ。なにも明かさない。能力も、過去も。
そんな相手に本当に向き合う気なのか。
自分なら、そんなこと出来ない。
「本当に強いですね…。」
この純粋なケータの強さが、どこに辿り着くことになるのか。
ヒキコウモリはその着地点を見るまでケータを、この2人を、支えたいと少し思っている。
波が押し寄せてくる様を、何回も見た。
運ばれてくる小さな枝や海藻。それらは次の波に飲まれ、一緒に海に去っていく。
隣で寝転ぶグレるりんが、「朝まで雨振ってたから砂が気持ち悪い」と、ウィスパーに寝心地の悪さを訴えた。
ならば寝転ぶなと言いたかったが話を逸らすわけにはいかない。
「グレるりんがそんなに根に持つタイプだと思いませんでしたよ。」
「誰だって名前忘れられちゃあショックだろうが。」
「まあそうですけど。」
波が砂を打つ音が2人の沈黙を緩和させる。
「取り憑かず、契約もしない、記憶障害の妖怪を執事として側に置くもんじゃない…。確かにそうでうぃす。実際のところ、ケータくんからの信頼はゼロですし。」
「あー…。なんでお前はケータの側にいるんだ?」
「契約上、の話です。」
その言葉にグレるりんは勢いよく起き上がり、ウィスパーを睨んだ。
湿った砂がグレるりんの背中からいくつかの固まりになってボロボロと落ちる。
「不良なのにとても友達思いなのですね。ケータくんに良い友達がいて安心しました。」
言う割には安心したような顔など見せてこないウィスパーに、本当にそう思っているのかとグレるりんは疑ってしまった。
それに、不良なのにとは心外だ。内心大声で反論し、口ではケータとウィスパーの関係について言及していく。
「お前がそうさせてんじゃねえのか?妖怪ウォッチを渡したんだろ?」
「私が渡しました。でも、妖怪を見つけるのはいつもケータくんです。あなたを見つけたのも、ケータくんですよ。私が先に妖怪を見つけることはあまりありませんねえ。」
ケータの話になってようやく少し和らいだ表情を見せるウィスパーは、「私も勘はいい方だと思うのですが」とすっとぼけた発言をする。
それにグレるりんは少し笑って、「ケータは」と切り出した。
「無事だったんだな。ったく心配かけやがって。」
「いや元はと言えばアータの所為ですから!変なこと吹き込まないでくださいよ!」
面白そうに笑うグレるりんに、「あのあと大変だったんですから」と愚痴る。グレるりんは「そりゃあおれぁ、ワルだからな?」とドヤ顔をかましてみせた。
ぶつぶつ言うウィスパーなど視界に入れないまま、同じくウィスパーも。2人はただ目の前の海を眺めた。
「もしもだ。」
「?」
「お前がいなくなったら、ケータは俺達と別れることになるのか?」
「いなくなる?」
静かに問いだすグレるりんに、こういう一面もあるのかと、妖怪のくせに友情に熱いことに感心する。
「妖怪ウォッチを持ってたら皆様の姿も見えますよ。前みたいに、妖魔界の決定でもない限り。」
妖怪ウォッチは貸しているだけだ。だが、今や3台もある。ウィスパーが貸したのは初期タイプ。今ケータがつけているウォッチはヒキコウモリがくれて、進化したタイプだ。
返せと言えるわけがない。それに、
「私がケータくんの側からいなくなるなんてこと、ありませんよ。」
何回も考えたことのある別れ。だが、自分が能力を明かさなければ別れずに居られるのだ。
ずっとこのままだらだらと稚気なご主人様と執事ごっこをしていくのかと、よく考えれば馬鹿らしいが、自分にはそれしかない。
「ま、いてもいなくても一緒だろ。」
グレるりんが言う。それは妖怪執事としての話だ。
「お前じゃなくてケータが見つけたんだろ、俺たちを。」
そうだ。いつもケータが察して、見つけて、友達になる。
「ならもっとーー」
ーー自信持てよ。
ザザーンと海らしい音と一緒に耳に入り込んできた。
自信?自信なんてとっくに持っている。
自分がケータを御神木に導いたあの時から。
「ウィスパーが離れても、また、ケータは見つけられるな?」
ウィスパーのことを。
そうだ。ケータがどれだけの妖怪たちを見つけてきたのか、ウィスパーが1番知っている。妖怪のことも、ウィスパーよりも知っているのだ。
もし自分が離れたってきっと追いかけてくれる。あの深夜雨の中のように。
ウィスパーはグレるりんの言葉に力強く頷いた。
「もしかして、気を遣ってくれました?」
「ちげーよばーか!」
グレるりんが妙に楽しそうだ。悪い顔をしている。
それがさっきまでと違ってグレるりんらしくて、安心した。
「あんな普通のおこちゃまに俺様のメダルを持つ資格があるのかどうか確かめたかっただけでぃ!」
「何もかも普通でうぃっす。本当に。」
「それでもポンコツ執事より有能だから認めてやるよ。これからもメダル持ってて良しって伝えとけぃ。」
もしや今まで自分が有能に見えていたのかと希望という名の疑問が過ったが聞かないでおこう、と、ウィスパーは満面の笑みでお礼を言った。
<中略>
まだクマとカンチは退院していない、が、次の月曜日に退院出来るらしい。
思い切り一緒にサッカーを出来るわけでは無いが、学校に登校出来ると知っただけで、ケータも嬉しくなった。サッカーも、どんな遊びも、すぐに一緒にできるようになるだろう。
今まで暗かった学校も、もうすぐいつものように明るくなるに違いない。
「人間の力ってすごいね。妖怪不祥事案件より、こんなに影響あるんだ。」
ケータが神社までの階段を上りながら、隣にいるウィスパーに話す。
神社に寄って帰ろうと言い出し寄り道をした。集団下校がなくたったからだ。
ランドセルを背負ったままでは重いだろうにと思いながらも、長い階段をテンポよく上がっていく姿に、すっかり元気になったなとウィスパーは心底安心する。
「今回の事は異例だと思った方がいいですよ。でも確かに人間の力は妖怪の力より偉大であると、私も思います。」
「どうして?」
「ジバニャンが言ってたでしょう。妖怪に振り回されない人間もいるって。」
「ああ。意思とか個性が強い人だけでしょ?」
ケータの息遣いが荒くなってきた。ランドセルの肩ベルトを掴みながら、腰を少し曲げて足を上げる。
その一生懸命さに笑って、ウィスパーは空を見上げた。
「ええ。人間なら誰もがそう成り得ます。もちろんケータくんだって。」
「結構取り憑かれてるのに?」
「ええ。人間は、成長し続ける生き物ですから。ケータくんもこれからの成長が楽しみですねえ。」
やたらとにこやかに語るウィスパー。親のように成長が楽しみだと頬を緩ませる姿に、ケータは何も実感できなかった。
「妖怪だって成長するじゃん。モレゾウがガマンモスになったりさ。それにおれ、大きくなってもきっと普通だよ。」
口を尖らせながら話すケータにウィスパーは変わらず楽しそうに笑う。
「おんやあ。ケータくん、普通のままでいいんですかあ?」
馬鹿にしたような口調でケータのコンプレックスを弄る。それに過剰に反応する姿は、ウィスパーは嫌いではない。
やっと階段を登り切り、ふうっと息をついてから、ケータはすたすたと歩き出した。
「ウィスパーはさ、おれが普通のまま大人になったらどう思う?」
ポケットからごそごそと何かを取り出した。5円玉だ。
「ケータくんらしいなと思います。」
「それだけ?」
「それだけですよ。」
誰もいない神社の中。
賽銭箱の前に立ち止まり、手にした5円玉を投げずにウィスパーの目の前に晒してみせた。
「おれが普通じゃなくなるのお願いするなら今だよ。」
「しませんよ。何も神頼みしなくても、ケータくんは誰よりも強い男の子に成長します。」
目の前の5円玉の穴を見つめる。
どこかで見覚えがあるような感覚だ。
こうやって、なにかを覗いて、その先を見る行為を、どこでしたかな。
穴の向こうには本殿が見えるだけで、「なんでそう言いきれんの?」と真横で聞いてくるケータが何故か急に遠い存在に思えた。
背筋に悪寒が走る。それに気付かれないように出来るだけ口角を上げて適当に答えた。
「勘でうぃっす。」
質問してきたくせに答えには無関心そうな顔をさせると、ケータは5円玉を賽銭箱の中へ放り込んだ。
「ウィスパーの勘なんて当たらないよ。」
5円玉がすり抜けていった隙間を見つめながら、相変わらず冷たいことを言う。それに「はいはい」と流して、内心信用ないですねえと悲しくなる。
「ほら、2回お辞儀してから2回拍手するんですよ。」
参拝の仕方を言えば、ケータは黙ってウィスパーの言う通りに二例二拍手する。そして、そのまま手を合わせて、両人差し指を自身の額にくっつけた。
しっかり目を開けたままのケータに、目を瞑ってお願いしてくださいと言いたかったが、ケータはそのまま顔だけをウィスパーの方へ向けてきた。
「おれ、強くなるよ。妖怪とも、今回の事件みたいなことも。どんなことにも向き合いたい。ウィスパーとも、ちゃんと向き合いたい。だから、」
せっかく幼い決意を口にしたのに、その先の願いはウィスパーが塞いでしまった。
突然の出来事に目を見開いたケータは、すぐにウィスパーを受け入れて、やっと瞼を閉じた。
お願いごとは、言えなかった。
それに、まさかの顔を背けたままの参拝で、神様に申し訳ない。
ああ、あの穴の先をどこで見たかな。
ウィスパーはケータを味わいながら無い記憶を漁る。
とても脆くて、苦しくて、切ない。
ーー自信なんて、本当はこれっぽちもないですよ。
泣いてしまいそうだ、と閉じた瞼を更に強く閉じた。