無題.
*
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*
ひとつ、ふたつ、みっつ。
少年は突然数を数え始めた。
「なにを数えているんですか?」
揺れる人差し指と、少年の丸い目を交互に見る。すると、少年は妙にうっとりした顔で言った。
「飛んでる」
「え?」
「今日はいっぱい飛んでるから、数えてみたい」
なにが、飛んでるのだろうか。
よっつ、いつつ、むっつ。
邪魔しては怒られそうなので、黙って体温を味わっておく。なめらかな肌。柔らかい肉。
「えへへ」
少年は笑う。
どうやら、数え終えたらしい。
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*
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*
*.
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168話 かえりタイ回
『私はケータくんとずーっと一緒でうぃっす!』
胸を張って、そう言い切った。両腕を広げ寄り添って、頬擦りをする。ぱたぱたと、ふざけるように腕を振るのは、少しでもーー。
『うわっ、きもい』
『ひどい〜』
もしもこの時、素直にありがとうと言えたなら、君は帰らずにいただろうか。
「……ウィスパー?」
ずっと一緒にいてよ。
おれは、君のメダルすら持っていない。
*
かえりタイの影響で帰ってしまったジバニャンたち。しかし、数日後ケータのところに帰ってきてくれた。新しい居場所として、すっかり落ち着いてしまったらしい。ケータのところに帰ってきたのは自分の意思だよと言ってくれたかえりタイの言葉はとても嬉しいものだった。
「にゃにゃ! で、エミちゃんが……」
トムニャンが帰ってきて、ジェリーも随分喜んでいた。今夜はホットケーキパーティらしく、ケータたちも誘われたが丁重にお断りし、ヒキコウモリはクローゼットに、カメッパたちは玄関の靴箱に。そして、ジバニャンはケータのベッドの上で、ケータの隣で、エミちゃんの話をしていた。
エミちゃんのところに帰ったジバニャンは、数日間だけだが、とても楽しく、懐かしいものだったらしい。
「にゃ〜。それにしてもエミちゃんはすぐにお母さんとケンカしちゃうというかなんというかにゃ〜」
「そうなんだ」
「そうにゃ! 昨日はドンヨリーヌの所為かと思ったにゃんけどいなかったにゃ」
「あ! そうやってすぐ妖怪の所為にする!」
「にゃにゃにゃ! ケータに言われたくにゃいにゃーん!」
ゴロン、とジバニャンがベッドに仰向けになり、寝返りを何度も打つ。その度に身体をケータの脚に当ててくるので、ケータは可笑しくて笑ってしまった。
「あーあ。もう寝よっかジバニャン。明日も学校だし」
「にゃ? ウィスパー待たないにゃんか?」
「うん。今日帰ったところだから、たぶんまだ帰ってこないよ」
立ち上がって部屋の電気を消す。最近、電気を消すのはウィスパーがする事が多かった。そのため不思議な違和感を感じながら、ジバニャンはケータの枕元に移動する。ギシっとベッドが音を立てて、ケータを乗せた。きちんと掛け布団をかぶったケータは、大人しく寝る枕に顔を置く。
「ケータ」
「ん?」
ケータとふたりで寝るのは、久しぶりだった。
だいたいウィスパーがいない夜は、代わりにセバスチャンか、ガッテンマイヤーがいた。ウィスパーはいつもケータと一緒だ。片時も、とは言い過ぎだが、いつもふたりセットが当たり前なのだ。
「代わりの執事呼ぶにゃん?」
ウィスパーが怒るかもしれないが、と思いながら話す。
「えー。またヘンなの来たら困るじゃん。それに、別におれ執事いなくても平気だよ」
もともとひとりだったから。
一人っ子のケータが小さく笑う。
「にゃー。じゃあウィスパーが帰ってくるまで、おれっちがお兄ちゃんしてやるにゃん」
「なにそれ」
「ケーター。早く寝なさいにゃん」
二股の尻尾で、ケータの胸を布団越しにポンポンと叩いた。どこで覚えてきたんだろうと思ったが、そういえば、ウィスパーがたまにする手の動きだ。
「いつも通りにしてよ」
「にゃふ……」
残念そうに、尻尾が落ちる。それからジバニャンは、もう寝る体勢に入った。猫らしく身体を丸めて、顔をシーツに押し付ける。
「おやすみ、ジバニャン」
「おやすみにゃん、ケータ」
赤い毛並みをそっと撫でてやると、気持ち良さそうにジバニャンが頬を緩めた。それにつられて、ケータも目を細める。いつの間にか、猫を撫でることに慣れてしまった。
(代わりなんていらないよ)
セバスチャンも、ガッテンマイヤーも、たとえジバニャンであっても、ウィスパーの代わりにはならないだろう。ウィスパーよりも、優秀かもしれないが。
「ウィスパー……」
帰りたい気持ちは、大事にしてあげたい。自分も経験があるからだ。かえりタイが思い出させてくれた、家に帰りたい気持ち。
だから、ウィスパーも帰りたいなら、帰らせてあげたかった。
『ウィスパーは? 帰らなくていいの?』
あの時帰らなかったのは、どうしてだろう。
「もう寝たのかな」
今頃、どこで、何を。
ケータは、ウィスパーのことを何も知らない。帰る場所も、何も。
*
目を覚ますと、そこは暗がりの中だった。ほんのり温かい中心に安心して、そういえば帰ってきたんだったと思い出す。
しばらくして、ガシャの中から脱出する。隙間をこじ開けて、お得意の変幻自在さを生かしてするりとカプセル出口から抜け出した。
夕方から眠ってしまったのに、もうとっくに朝になっていた。久しぶりに長い時間寝たなあと身体を伸ばし、空を見上げる。今日は曇りだ。
「今何時でしょう。ケータくんは今日も学校ですね」
背中から妖怪Padを取り出しながらつぶやき、画面を表示させると時刻は8時を回っていた。もうケータは家を出たあとだろう。
「昨日はちゃんと寝れたんですかねぇ」
ジバニャンたちが帰ってしまった後、布団の中にはいつも通りの時間に入ったのになかなか寝付けなかった。そして、ぽつりと、仕方ないよね、と言った。
『すぐに帰ってきますよ』
そう言って、掛け布団を肩まで引き上げる。それから胸のところをポンポンと叩いた。
『GWみたいな大型連休は、みんな実家に帰ったりするんですよ』
『そうなの?』
『ええ。だから、連休が終われば帰ってきます。カメッパたちは、分からないですけどね』
『そっか……』
白い小さな手で布団が叩かれる音が、一定のリズムを刻んで、跳ねる。その音に微睡んできたケータが、ウィスパーの方に身体を向けた。珍しい、とウィスパーは少し驚く。
目を瞑ったケータに安心しながら、ウィスパーはケータの背中をゆっくり叩いた。
ややあって、もう寝たかな、と思った頃。
『……ウィスパーは……』
『うぃす?』
『……』
続きのない言葉に、寝言だろうかと、叩くのをやめる。顔に掛かっていた髪の毛を払って、頭を撫でた。
なんだかいつもよりも、ずっとケータの顔を見ていたかった。
*
クマとカンチに手を振った。ジバニャンも見えていないと分かっているのに手を振っている。
そうして家に帰ろうと、足を1歩前にした。2歩。3歩。ジバニャンは足が短いから、もっとたくさんの歩数だろう。
『私はケータくんと』
歩きながら見える、昨日のウィスパーの顔と声。
『ずーっと一緒でうぃっす!』
反芻してしまう、希望の言葉。
「ケータ」
突然の呼び掛けに、ケータの肩が跳ねた。
「な、なに」
「おれっちエミちゃんちに忘れ物しちゃったにゃんから、取りに行ってくるにゃん」
「えっ」
一瞬で不安そうな顔になるケータに、ジバニャンがニカリと笑う。
「おれっちもすぐ帰るにゃんよ!」
「そ、そう。気をつけてね、ジバニャン」
ジバニャンにも手を振って、ジバニャンが曲がり角を曲がるまで立ち尽した。挙げていた手を下げて、俯き加減で家の方に身体を向ける。
あとひとつ、角を曲がれば自宅だ。
帰ったら、ヒキコウモリとカメッパがいるはずの、我が家。
軽くない足取りで、その角を曲がると。
「おかえりなさい、ケータくん」
「……え」
家の前に、ウィスパーがいた。
「ちょっと帰りが遅くて心配しましたよ。クマくんたちと遊んでたんです?」
「な、なんで……」
「なんでってそりゃあ、学校帰りはだいたいクマくんたちとサッカーか野球ですし……」
そうじゃなくて。ケータはそう言う前に、ウィスパーに近寄った。そんなケータの様子を察してか、ウィスパーも迎えに行く。両手を広げて、今日も無事で良かったと思う。
「うそつき」
本当は、そう言うつもりじゃなかった。もっとゆっくり帰ればいいのにと、そう言ってやるつもりだった。
くしゃ、と顔を歪めるケータ。その後頭部に、ウィスパーが腕を回した。
「ずっと一緒って言ったくせに」
ずっと一緒ですよ、と言えない代わりに、頬にケータの感触を押し付ける。髪の毛が刺さって、くすぐったい。それから、息がとても熱かった。
ああ、やはり、この子の愛おしさはこうでなくては。
目を瞑って、確かめる。
堪能するのは、これくらいにしておこう。
すっと離れて、愛想笑いでごまかそうとした。
「いやー、やはりかえりタイの力には勝てないですね! うぃっす!」
「ばか! ばか!」
そして、玄関のドアに手をかける。
「ただいまー!」
「ただいまでうぃっすー!」
今日もまた、一緒に帰ることが出来た。
手を洗いましょうねと洗面台を指差せば、意外とすんなり言う事を聞いてくれる。それに笑って、ウィスパーは機嫌良く尻尾を揺らめかせた。
「ジバニャンが帰ってくるまでふたりきりですね?」
「ヒキコウモリもカメッパもいるよ」
「そうでした」
手を洗い終えて、階段で2階に上がる。もう一度ここでただいまと声をかけるが、クローゼットからは何の反応もなかった。
クローゼットを開けると、ヒキコウモリは留守のようだ。しかし、いつものひきこもりセットはそのままだったことから、いつも通り出掛けているだけだと安心する。
「なんか気を遣わせちゃったみたいで申し訳ないですね」
「……なんで気を遣うの」
「なんででしょう」
意地悪そうに笑うウィスパーに、なんだか悔しくなってきた。
いつも、いまだに、ウィスパーの考えてることがよく分からない。
『私はケータくんと』
でも、あの言葉だけは。
「ねえ」
この気持ちだけは。
「ずっと一緒だよね」
「うぃっす!」
その笑顔だけは、信じたいんだ。
*
『私も、帰ってきましたよ』
そう言って、瞬きをした。
愛しい愛しい、かけがえのない子どもの温かさを抱きながら、眠りたくなる時がある。
『この狭さがいいんですよねぇ……』
私とあなた。たったそれだけで、十分なのだ。
ねえ、ケータくん。
『おやすみなさいでうぃす』
永遠に、このまま眠れたらいいのに。
あなたと、この世界で。
not not noting
ジバニャンはネコだから毛が抜ける。
ブラッシングの音が、すこし強めに、じゃり、じゃり、と鳴っている。気持ち良さそうだった。
季節の変わり目はすごく抜ける。だから、学校から帰ってきてびっくりすることがある。
「うわ、くつ下毛まみれじゃん!」
「にゃはは〜」
笑うところじゃないんですけど。仕方ないから、コロコロで床に落ちた毛を取っていく。そのたびに、ウィスパーは物珍しそうにおれを見る。掃除するのが珍しいって、思われている。知ってる。
お母さんが、見兼ねて、よく掃除してくれた。代わりに雷が落ちるけど。今はウィスパーがよくしてくれるから、雷が落ちることは少なくなった。
だから気付かなかった。そっか。ジバニャンのこの赤い毛が、こうやって落ちてるのなんて、お母さんには見えないんだ、って。
「ジバニャン。明日はシャンプーする日ですよ。逃げないでくださいね。そのあとたっぷりブラッシングしますから」
腰に手を当てながら、ウィスパーがジバニャンに言う。明日は朝から一苦労しそうで、全部ウィスパーに任せたくなった。ジバニャンは、知らんぷりしながらチョコボーを食べている。冷や汗と、やけにフリフリしているしっぽを見て、ウィスパーとカオを見合わせた。
おれは、ジバニャンを洗うのは大変だから嫌。でも、そのときだけ、ジバニャンはいい匂いがする。
「にゃふ〜」
「アータね……、あんなけ暴れておいて……」
ネコ用のシャンプーじゃなくて、おれと同じシャンプーで無理矢理洗う。案外だいじょうぶ。ジバニャンが妖怪で良かった。
戦争のようなシャンプーが終わったあと、ジバニャンは心地好さそうにウィスパーにブラッシングされている。ウィスパーは、いつの間にか慣れていた。こういうところ、内緒だけど、とても器用だなあって思ってる。
おれはかたまりで落ちるジバニャンの毛を集める。フワフワしてる。
「ウィスパー、早くしろにゃん」
「はやく〜」
「なんですかアータたち!」
ようやくキリのいいところまで終わって、解放されたジバニャンが伸びをした。それから、ケータァ!とよじ登ってくる。
「おれっち、いい匂いするにゃんよ!」
「うん!」
抱っこしながら、匂いをかぐ。いい匂いがする。おれと同じシャンプーだけど。
目の前で、ウィスパーがあきれたって顔してた。
「ふふ」
思わず笑っちゃった。ジバニャンも、ウィスパーも知らないんだ。
妖怪はみんな、匂いがなくて、分からなくなるんだ。
ウィスパーなんて、息とか臭そうなのに、全然。なにも匂わない。毎日一緒にお風呂に入って、同じボディーソープで洗ってるのに、ジバニャンと違って、分からない。
「もう、ケータくんのお洋服に毛がいっぱいついちゃいますよ」
「あとで取って」
「いやご自分で取りなさいよ」
知らないんだ。こうやって、なにか証拠を付けてくれるほうが、嬉しいんだって。おれだって知らなかった。
あーあ。ウィスパーも、匂いあればいいのになあ。なんて。
「頬にも毛ついちゃってますよ」
代わりにおれは、さわってくれる、温度のない手が、あたたかいって思うよ、ウィスパー。
ジバニャンを抱き直して、ゆっくりベッドの上に座った。
無題
妖怪パッドは背中にしまったまま、子ども部屋に響く時計の音で、明日に向かう夜に浸る。カチ、カチ、カチ、カチ。秒針が刻む。長針が揺れる。
今何時? 今PM11:00。夜更かしですね。悪い子。悪い大人。
AM00:00を過ぎたら街を出よう。
頼りない声で、あなたが言う。
どこに行くの? どこかへ行こう。どこがいいの? どこかな……
*
「これが例の件の報告書でうぃす」
そう言って、書類の束を渡すとエンマ大王の眉間に皺が寄った。側近のぬらりひょん曰く、幼い頃からそうらしい。机に向かうのが苦手で、文字を読むのも嫌い。失礼ながら、かわいいな、と思う。まるで宿題をしたくない子どものようで。
エンマ大王は受け取った書類の束を机の上に乱雑に置きながら、ため息をついた。もともと置いてあった巻物を手にとって広げたかと思えば、もう一度ーー今度は小さくため息をつく。
その様子を見ながら私は斜め後ろに控えた。いつ何を申しつけられてもいいように、いつもこうやって3歩分ほど後ろで静かに浮遊する。こうして、誰かの後ろにつくのは昔からだ。
しばらくして、エンマ大王は振り向かないまま口を開いた。
「もう今日はいいぞ。ぬらりもいるし」
「ありがとうございます」
私はなんの躊躇いもなく王室を出る。そして背中から妖怪パッドを取り出した。日付を確認して、またすぐ背中にパッドをしまう。
人間界に出向くのは、決まって1年に1回。
人間界は、昔から好きだ。人間は見ていて飽きないし、何より妖怪である以上、人間を驚かせたり、取り憑くことが有意義である。ーー最期に取り憑いたのは、もう430年も前の話だが。
街並みは、過去に思い描いていたよりも大きくは変わらなかった。確か、90年前はもっと違う景色だった。おそらく高度成長期があったからでしょう。忘れっぽい性格をしていると自負しているのに、こういうことはちゃんと覚えている。
「プリチーな姿にしておきましょうかね」
そうひとり呟いて、紫色の煙を立てるなり白くて丸いフォルムが特徴的な姿になった。唇は紫がかった青色で、ぷっくりと。目も丸く奥行きのある黒目にして、柔らかそうな癒し系を目指す。
機嫌よく、尻尾を揺らめかせながら、私は向かう。大事な、愛しい人がいる場所へ。
*
クラッカーの音と、そのカラフルな紙が少年の目の前を舞う。そんな中で、照れくさそうに、けれども満面の笑みを浮かべていた。
「ケータくん! お誕生日おめでとうございます! うぃす!」
「えへへ、ありがとう」
今日は、ケータくんの誕生日。早いもので、もう16才になってしまった。出会った頃とは見違えるほど身長も伸び、サッカーで鍛えられた筋肉が程よくついて、輪郭も声も大人びた。そんな中で、まだ頬の丸みや、変わらない3点の寝癖は11才の頃のままで、私はよく、その箇所を撫でた。お気に入りだった。
「いや〜。ケータくんが高校生になっても私と誕生日を迎えてくれるなんて。反抗期の時はもうどうなることかと。私、感激です!」
「いやここおれの家でウィスパー居候だからね」
「そうにゃん! それに、ケータが反抗期の時やばかったのはウィスパーの方にゃん!」
ジバニャンが、ケータくんの膝の上で私に指を指した。そのまま少し盛り上がって、ベッドの中に潜る。
子供用のベッドじゃなくなったが、ケータくんの成長のおかげでジバニャンも私も床で寝るのがお決まりになっていた。添い寝していた頃もあったのに、今では狭くてだいたい拒否される。たまに、ジバニャンと交代で一緒に寝る。たまに。
「おやすみ」
ケータくんが、私の手を握った。だから私も、握り返す。大きくなった手のひらに包まれて、もうしっかりと握り返すことはできやしない。けれども、確かに同じだけの思い込めて、ぎゅっと手のひらの端を握る。
「おやすみなさいでうぃす」
目が覚めても、手を握っていられますように。声が届きますように。願いながら、目を瞑る。
12才の誕生日、ケータくんが不思議がっていたのを思い出す。誕生日に、こうして一緒に日を跨ぐたびに、ああ、あの時、とよみがえるのだ。
来年も一緒にいましょうね。
そう微笑んで、手を握る。うん、と、握り返してくれる。
初めて一緒に迎える誕生日に気づいてしまったことは、どれだけあったのだろう。もしかしたら、何も感じてなかったかもしれないけども。
AM00:35。私は、ケータくんの手に、感じ入る。
妖怪ウォッチがあれば、誰だって妖怪を認識することができた。だって、その為に作られたものだから。ケータくんのおじいさまが、正義と愛を訴えながら、作り上げたものだから。
普及して、広がっていく、人間と妖怪の絆。嬉しそうにするエンマ大王。世界は美しいものだった。ケータくんのおかげだと、私はずっと思っている。
「日付変わるまで起きてる」
ケータくんは、私の手を握る。私は、震えないように気をつけながら、何事もないように包まれた。
「今日は疲れたでしょう。たくさんの妖怪たちが前祝に来てくれましたしね」
「うん、疲れた。でも楽しかったね」
日付が変わったら、おめでとうと言う。来年も一緒にいましょうね。手を握る。ぎゅっと、されて、私も同じだけのものを。
「あーあ。大人になっちゃいますねえ」
「嫌?」
「まさか」
「よかった」
目を瞑る。感じ入るのは、あなたのすべて。
「……ケータくん」
何度も何度も、逃げ出そうと思った。
遠くに逃げて、ふたり。ふたりきり。なんて甘やかで、夢現な響き。
「お誕生日おめでとうございます」
来年も一緒にと、ふたりで決めた。時間の上で、並んで歩こう。たった1年。1年限りの、12才。13才、14才、15才。勿体無い。でも、ふたりで決めたからそれでいい。後悔なんて、していない。
「好きですよ、ケータくん。大好き。大好きです」
ぽろり、ぽろ、ぽろ。涙がつたって、シーツに染みをつくる。でも、もうケータくんに涙は見えない。だから怒られない。最期に思う存分、流してやろう。あなたへの気持ち。こんなにも溢れて止まらない。
もうケータくんの手の中に私はいない。声も届かない。記憶も、ない。さよならは言わない。私は、あなたの執事を辞めたわけではないから。
*
可愛い顔をしているなと思っていたのに、今ではこのザマだった。プリチー族とはなんだ。古くから伝わる妖怪のおぞましさを隠さずに、ジバニャンは笑う。相変わらず、チョコボーが好きなようだ。
放浪している彼を見ていると、なんだか切なくなってしまう。ジバニャンは、私がエンマ大王の下で働いている方がゾッとするらしい。すぐ喧嘩を売ってくるのは変わらなくてホッとした。
軽く手を振って、都心部へ向かう。ジバニャンが苦笑いしていたのは、バレているからだろうとすぐに分かった。
人間界は夜。こんな時しか、夜に包まれることはなくなってしまった。星を見上げていたあの頃が懐かしい。今では、星のない空ばかり眺めている。
妖怪パッドの画面をつけた。PM10:44。
日付が変わる前に寝る姿勢を見ると、褒めてやりたくなる。夜更かしはいけませんと、何度も言った甲斐があった。今日もお疲れ様でした、ケータくん。
私は窓を通り抜ける。そっと、ケータくんに近寄って、掛け布団をかけたくなるけど我慢する。ケータくんは、よく横向きになって寝る。それは大人になって、おじさんになってきても変わらなかった。
カチ、カチ、カチ、カチ。
時計が刻む。
また、経ってしまったのだ。無情なものだと薄く笑う。笑って、手を差し伸べた。
皮膚が少し堅くなった手のひらと、変わらぬ温度。細い睫毛、唇の形。幼さ残る、丸い頬。愛しい、たったひとりの。
「お誕生日、おめでとうございます」
目を覚まして、笑ってくれますように。声が返ってきますように。願いながら、目を瞑る。
来年も、あなたのそばに来てもいいですか。
しばらく寝顔を眺めて、前髪を払って撫でつける。ふわりと浮かび上がって、窓を通り抜けた。振り返って、ケータくんが眠ったままなのを確認する。
「おやすみなさい」
どうかあなたが、優しい夢をみれますように。
王室に戻れば、エンマ大王はちらりとこちらを見やっただけだった。そのあといつも、小さくため息を付いている。昔から気遣いの出来る、立派な王だなとその度に痛感する。
もうすぐ、この王室も大きく動くだろう。私も、1年に1度と言わず何度も人間界へ赴くだろう。人間界は好きだ。人間は見ていて飽きないし、最愛の人が暮らしているから。
その人が、守った世界だから。
「ケータくん……」
目を瞑る。瞼の裏で、あなたの肩が見える。
振り向いてくれますように。名前を、呼んでくれますように。
ウィスパー
ああ、あなたの声が聞こえる。出会った頃の、そう、11才の頃の、可愛らしいボーイソプラノ。
*
「誕生日、覚えてくれてたんだ」
そう言って、ケータくんは微笑んだ。もちろん、覚えてますとも。胸を張って、えっへん、と鼻息も勢いよく出してしまう。私は、あなたの執事。あなたは、私のたったひとりのご主人様。忘れるわけがない。この、私が。
「ウィスパー」
ケータくんが、私の手を握る。私は、震えないように気をつけながら、ケータくんの手を握り返す。
時計の音が聞こえない。良かった。私は時計の音が嫌いだ。今は、何時だろうか。妖怪パッドを見れば分かるかもしれないが、わざわざケータくんの手を離してまですることではない。
おそらく、AM02:00。いや、もっと深い夜の淵でしょう。
こんな時間に抜け出してしまって、悪い子。悪い大人。どこに行こうなんて、選択肢はひとつしかなかった。どこがいいかな、なんて言いながら。冗談。分かっていました。
「もう、忘れていいよ。ぜーんぶ、忘れていいからね」
さわさわ。さわさわ。空と地の間で、青い葉が揺れている。一帯の木々と共に。街もざわめき、夜明けを待つ。
私は、目を瞑る。丸くなって、自分を抱きしめるようにする。この狭さが、いいんですよねえ。
「好きだよ、ウィスパー。大好き」
あなたも私も、眠りの中。
永遠がないことは知っていた。
ジューンブライド
天気予報は雨だった。だから、晴れ男でも呼ぼうか、と話していた。空を見上げながら、しばらく何かを考えていたようだ。気がついたかのように「あー」と声を落として、
「別にいいよ」
「いいんですか」
「うん。いい」
少年は、窓の淵に手を置いていた手を離して、後ろに手を組み微笑んだ。
「緊張するね」
へら、と唇を艶めかせて、丸い頬を強調させる。
本当は、ここで、後悔していませんか、と喉まで出てきていたのを飲み込んで、肩を抱いて、最後の綱を握ろうとした。もう戻れませんよと、きちんと忠告をしておきたかった。しかし、彼はそこまで強くない。
少年が、手を伸ばす。目尻を優しく拭うのは、彼がいつもしてくれたからだ。
「なんで泣くの」
彼と少年は、契りを交わす。
まもなく、結婚式。雨の中の、そう、今でいう、ジューンブライドだった。
神職の巫女妖怪が、空気の間を抜けるように本殿へ進む。その後ろを、少年と彼はゆっくりと歩んだ。一歩、一歩。本殿へ向かう足取りは軽くなく、しかしその爪先からは水面に広がる波紋のように、意志の強さをじわりと伝えさせる。
彼は、ちらりと少年を見やった。白無垢と、綿帽子を纏った、たった11才の男の子。彼の身長では、少年の表情などまるで見えやしなかったが、緊張しているのはよく見えるようだ。実際は、彼の方が緊張しているのだが。
厳かで格調高く、どこか異様で神妙な雰囲気が、重くのしかかる。雅楽の音色もまるで身体中を襲ってくるようだった。
戻れない、戻れない。
帰れない、帰さない。
そして入場し、祓詞を受け、清められる。神様に結婚を報告し終えても、まだ、彼は不安に包まれた。幸せに、してあげられるのだろうか、と。
お酒はやめておきましょうねと事前に話したのをぼんやり思い出しながら、
永遠の契りを結ぶ。
「えへへ」
嬉しそうに笑みをこぼす少年に、ようやく心を救われた。良かった。この人と出会って、本当に良かった。
真っ白な、汚れのない衣装に背負われて、輝く銀を指に嵌めながら、その憂いを帯びた瞳を覗く。
「ふふ」
今度は、彼が微笑んだ。ついに、最愛の人を、自分のものにしてしまった。同じ指輪を指に通されながら、太陽のきらめきを実感する。
日が差してきたこの境界は、彼らの婚姻をどう捉えるのだろう。
祝福? 戒め? 永遠? 生贄?
彼は、誓詞を開き、背筋を伸ばす。少年も読めるように、位置は低く、しかし、堂々と。
「私共は、今日を佳き日と選び、」
重い正装を身につけながら、少年は顔を膨らませた。
「どうしておれがこっちなの」
「おや、袴の方が良かったですか」
彼は少しだけ、ため息をつく。予想はしてたが、ここまで着込んでおいて文句を言うなんて今更すぎなのだ。是非ともこの姿で誓ってほしいと思わざるを得なかった。純白の衣装で目の前に立つ少年の、儚く、奥ゆかしい様よ。もう一度、ため息が出る。あまりの美しさに。
「ケータくんが、私のところに来てくれたので、勝手にそうしちゃいました」
「んん? ウィスパーはおれの家に住んでるのに?」
「ええ」
そう言って、彼はお化けのような姿から、背の高い人に化ける。いつも通り情けない顔つきなのに、その体格の良さから一気に衣装映えをする。紋付羽織袴を着こなす、立派な旦那様だった。少年はほわ、と口を開く。
「この世のものではないところに、踏み込んだからです」
彼は、片膝をついた。少年の左手を取って、握り込む。
「後悔してませんか」
「それ、もう100回くらい聞いた!」
「事の重大さを分かっていなさそうなので」
「失礼だなあ」
少年は、ジト目を向けた。今まで何度もしてきたやり取りだ。いい加減、うんざりしている。彼はいつも、自分に自信がない。
「おれがいやだって言ったら、ウィスパー泣いちゃうくせに」
「な、泣きませんよぉ」
「泣く! 絶対泣いて、ケータきゅ〜ん! とか言う!」
「うぐ……!」
あと、と少年が、息を吸った。
「おれがいいよって言っても泣くもんね」
柔らかい物言いに、彼は目を見開いた。ああ、バレている。今にも泣きそうな、この気持ちが。
「ねえ、ウィスパー」
少年は、抱きしめられながらささやいた。
彼はいつも、不安がる。どんなことにも、だ。何度大丈夫だと言っても、信じてくれたことはなかった。その理由は、分からない。
きっと結婚しても変わらないだろうというのは想像できた。過保護で、なのにおっちょこちょいで、空回りして、縋るように好きだと言う。
ずるいな、と少年は思う。
好きになって止められなかったのは、彼だけじゃない。少年は、知っていた。
「好きだよ」
そう言うと、彼は目をまん丸にした。なんで、驚くのかと笑ってしまう。
結婚するほど好きなのに、と。
晴れ間は一瞬、また雨が降ってきて、ふたり、この空間に取り残される。ザー、ザー。雨が、ふたりをふたりきりにした。晴れ男を呼ばなくて、正解だった。
ややあって、彼は苦笑いする。
「そう、突然優しくされると戸惑ってしまいます」
「何それ。おれいつも優しくないってこと?」
「いやそんなことは」
ケタケタ笑って、少年が彼にもたれかかる。疲れたのかな。彼が少年の顔を覗こうとした。この婚礼の儀式は、彼でさえ圧力に負けてしまいそうだった。異類婚姻。いろんなものを、敵にしてしまった気分だ。少年は、もっと重く感じてるに違いない。
少年は、彼の袖をぎゅっと握った。
「キス、しないの?」
結婚式ってするよね、と、テレビで見た知識で問う。
「今しても?」
「いいよ」
そのままの体勢で、そっと顔を近づけて、やめた。
これは、儀式だ。ふたりだけの、誓いなのだ。
華奢な肩を、両手で掴む。綿帽子は邪魔だな、と思った。しかし、これはこのままにしておこう。少年は今、隠しているのだ。ならば、共に隠し通さねばならない。
雨の檻の中、しっとりと、誰にも気づかれることのなく、正面で向き合って、ゆっくりと唇を重ね合う。
まだ、雨はやまないだろう。
誰も迎えに来ない時の中で、少年は思い出す。
雨の中、いつもの傘もささずに、必死の形相で、息を荒げて、見つけ出してくれた日のことを。
「何を考えてるんです?」
顔を離した彼の両手が、少年の頬をそっと包む。
「内緒」
「え〜」
また不安がる前に、ちゃんと言っておかなくちゃ、と近い唇に目を奪われながら、彼の言葉を思い出す。
今度は、自分の口から言わなくちゃ。
また、雨の日になってしまった。もしかしたら、ふたり揃って雨男かもしれない。
「おれと一緒に生きて」
強く抱きしめられながら、そう言われたことは、生涯、忘れないだろう。ずぶ濡れになりながら、ふたり揃って泣きながら、うんと答えたことも。
過ごす世界に違いなんてなかった。同じ雨に打たれて、同じ空を見たことが、何よりの証明だった。
そんなことばかり繰り返して、彼と共に見てきた景色は、どんなものより信じていられる。
日が差した。雨は勢いを弱めることなく、ふたりを止めずに地を打った。
この世は不思議なことだらけ。
妖怪が、ひとりの少年を手に入れた話が、そう告げた。
.
*
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今日はそれがよく見えた。
ぽや、ぽやぽや。ふわ、ふわ。掴んでしまうのは良くない気がして、いつも眺めているだけにしていた。でも、あまりにもたくさん浮かんでいる。これはよく、漫画やアニメでよく見るやつだ。
彼の頭に、顔まわりに、たくさんのハートが飛んでいる。活きがいい、というにふさわしいほど、実態しているようなほど、はっきりと見える。
「ななつ、やっつ、ここのつ」
ああ、こんなにたくさんある。両手では足りなくなるくらい。
ウィスパーは、ほんと、おれのことが好きだよね。
言ったところで、もちろん!と胸を張る。知っている。
おれも、好きだよ。ウィスパーより、たくさん。
なんて、言わないけれど。
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