ハッピーエンド
ハッピーエンド/back number
僕は明日、昨日の君とデートする
ハッピーエンド
御神木の葉が揺れている。まるで背中を押されているみたいだ。むしろ、急かされている。同じように風を受けているはずオレの身体は、熱いまま。喉の奥も、握った手だって、とても。
オレの言葉を待つ君の笑顔は昔から変わらない。
柔らかで、甘くて、いつまでも、溺れたくなる。
「ありがとう」
さよならと言えないオレを、君は笑ったりしない。
そんな優しい顔を向けないで。
オレは、君に言いたい事がある。たくさん、ある。言わなくちゃ、と気持ちだけ焦って、少し俯いてしまった。
言えないよ。
何も言えない。
頭の中は、君が隣にいる日々が延々彷徨っている。
「大丈夫ですよ」
何も言わなくても、と、君の瞳は言ってくれる。
「……ウィスパー……」
うそつき。
ばか。
本当、へたれ。
「さよなら」
召喚式が、オレたちを囲う。
そのまま収束して、君だけを包む。
消えていく光と一緒に、こんな想い、握り潰したんだ。
大丈夫、大丈夫。
それでもオレは、君が好きだよ。
「なんてね」
足下に転がった黒い球体を拾おうとしたら、そのまま膝から地面に座り込んでしまった。
「うそだよ」
オレがいれば、何もいらないと言って。
今すぐに抱きしめて、キスをして。
「ごめんね」
最期、となれば、思い返してしまうのは、お約束、と言っても過言ではないでしょう。
思い返せるほどの記憶があるということは、とても、それはそれは、素敵なことでした。こんな時に思い返してしまっては、辛いだけだと分かっていても、この温かい気持ちを、あなたの代わりに抱いて、眠るのです。
覚えてますか、と、あれも、これも、引っ張りだしては、あまりにあなたが可哀想で、仕方なく、1つに留めておきました。
「嬉しかったです」
泣いてしまうんじゃないか、と思いました。
でも、あなたは強かった。
きっと、私の方が、泣いてしまいそうな顔をしていますね。
だからあなたも、それ以上は言わないで。
「大丈夫だから」
ええ。11才のあなたは、必ずここに来るでしょう。
どれだけ離れていても、どんなに会えなくても、気持ちは変わらないでしょう。
御神木の葉が揺れる。
私たちを、見送るように。
「さよなら」
見慣れた召喚式が、円を描く。
すぐに収束して、私だけを捉える。
ああ、あなたを好きなまま、消えることが出来る。
「ケータくん」
私をずっと、覚えていて。
なんて。
嘘ですよ。
元気で、いてくださいね。
ずっと、あなたらしい人でいてくださいね。
最期まで
泣かないオレに
泣かない私に
少しほっとした顔をしていた
相変わらず暢気だなあ
相変わらず暢気ですね
そこも
大好きだよ
大好きですよ
出会ったのはいつだっただろうか。
「あれって妖怪の仕業じゃない!?」
気が付けば隣にいて、一緒に妖怪不祥事案件を解決して、共に、共に。
「ケータくん……」
別に、君のままでいいのになんて、シッタカブリを許してしまうなんて、どれだけ罪なことか分かっていますか。
勝手に私の涙を拭いたりして、私がどうなるか、どんな気持ちだったか、あなたは、知っていますか。
「……ウィスパー」
あなたに声が届く、と、あなたに触れることが出来る、と、さんざん喜んでいたくせに。世界が色づいたのは、君だけじゃないから。
オレも、オレもだよ。
オレだって。ねえ。
「好き」
召喚式の文様が、空に浮かび上がる。
瞳に張った涙の膜が、キラキラしていた。綺麗な、水色だった。
「なんてね」
好きなままで、いてくれますか。
「嘘だよ」
そしたら、もう離さないでいてくれるのかな。
「さよなら」
さよなら
「またね」
また、会えるよ。
「また、明日ね」
そして、暑い日に
それは小学5年生の1学期、もうすぐ夏休みに入る手前のことだった。あと何日で終業式、夏休み、とカウントダウンをしていた頃。今年こそ普通じゃない夏休みを過ごしたいと意気込んだものだ。と、毎年そうなのだが、結局はごく普通の小学生らしい夏休み。
毎年、天野家ではお盆の時期にケマモトに住む祖母の家に行っていた。父の育った家だ。向日葵が咲き並び、流れる川は底が見えるほど綺麗。しかし今年は、父の仕事の都合で行けるかどうか分からないらしい。いつもなら5日間ほどある休みが、ズレてしまうか、日数が減ってしまうかもしれないとの事だ。ならば今年は家でゆっくりするかと、先日両親が話していた。
「あーあ。旅行にも行けないだろうし、おばあちゃんちにも行けないし、おれの夏休み…」
どこかに行って、休み明けの話題にしたい。どうせみんな遠出するのだ。カンチなんて、海外に行くし、クマだって父の仕事の手伝いであれこれ自慢してくる。フミちゃんだって2泊ほど旅行に行く。
特別なことがなにもない。不満だ。
「ねー、お母さん。今年どこにも行かないのー?」
「どうかしら。海には行くでしょ。プールにも」
「違うよ! どっか遠く! 夏休みなのにさあ」
夕食中に母にお願いする。どこかに行きたい。父は、接待で帰りが遅くなる日だった。父の仕事次第なのは分かっているが、貴重な夏休みだということも、分かってほしい。母も察してか、「そうねえ……」とお椀を置く。
「明日、お父さんにお願いしてみよっか」
「うん!」
やった、と左手を強く握る。早く夏休みにならないかなあと壁掛けのカレンダーを見やった。つられて母も、カレンダーを見る。
「そういえば、ケータ、今年の夏休みじゃない?」
「ん? なにが?」
「なにがって、あんた言ってたじゃない。小学5年生の夏休みは忙しいって」
「……え?」
忙しい? 宿題が多くなるのは知っている。だが、わざわざ母に言うことかと首を傾げた。すると母がクスリと笑う。
「ま、1年生の時に言ってたことだものね」
「1年!?」
可笑しそうに笑う母と反対に、ケータは驚いた。そして更に分からなくなる。何を思ってそんなことを言ったのか。たった6才で。
「お母さんも、なんで覚えてるのか分からないけど、ケータ必死だったから。よく覚えてるわよ」
あとで日記見せてあげる、と微笑まれて、力なく「うん」と答えた。そして、ちゃんと野菜も食べなさいと怒られる。
夕食後、母は片付けを後回しにして日記を10冊も取り出してきた。その量に「すごいね」と言えば、
「ケータのことばっかり書いてあるわよ」
とその内の1冊をめくる。なんだか照れてしまって、何も言わずに引き詰められた文字たちを見た。
そして8月。母の指が、文字を追う。
「ケータが泣いて帰ってきた。何があったか聞いても全然答えてくれなかった。その夜、何かをずっと書いていた」
「……覚えてないんだけど」
まったく、覚えていない。転けて泣いただけではないのか、とケータは自分に呆れる。
母は構わずに次の日の分を読み上げる。
「ケータの目がとても腫れていた。お母さんはどこにも行かないでね、と言われた。なにがあったんだろう」
「……」
「3人でプールに行く。ケータは元気だった。良かった。五年生になったら、夏休みが忙しくなるらしい。なんの予言だろう」
そこまで読んで、母は日記を閉じた。それから、ケータの頭に手をポン、と乗っける。
「なんかあったら、ちゃんとお母さんやお父さんに言いなさいね」
「……うん」
なにもなかったと思うけど。
そう思いながら、ケータは2階にあがった。
「おれ予言とか出来るのかなぁ」
呟きながら、ベッドに寝転がる。もし、予言できるんだったら、と一瞬過って、鼻で笑う。ケータは今時の小学生らしく、割とドライだ。そんなわけないなと大きくため息をつく。天窓から見える空を見上げて、夏休みに想いを馳せる。
今年こそ、フミちゃんと2人で遊びに行きたいし、アッカンベーカリーの限定メロンパンを食べたい。あと、大きなクワガタを取ってみたい。
「クワガタ……」
のっそりと起き上がって、引き出しの中を探る。乱雑にノートやおもちゃが突っ込まれているのを退けながら、底の方にあるノートを取り出した。
「日記」
思い出したという感覚はなかった。母の日記を見て感化されたような気もしなかった。
いつだったか、クワガタを取ってくれた覚えがある。父と一緒だったかは不明。
その出来事は、夏休みだった。あやふやの記憶だが、小学校には入っていた。1年か2年生の頃だ。
別に泣いていた理由なんてどうでもいいし、母にどこにも行かないでと言うなんて、怖い夢でも見たのだろう。今さら掘り返されても興味はない。
しかし、何かを思い出さなきゃいけない気がした。
それがクワガタを取ってくれた出来事と、泣いていた事が関係あるのかは分からない。
ケータは過去に自分が書いた日記をめくる。ひらがなばかりで読みにくい。
「8月」
確か、終わりの方だった。夏休みが終わる、8月の終わり。母が見せてくれた日記。ケータが泣いて帰ってきた日。
日曜日だった。この休みが終わったらすぐに終業式だ。そして始まる夏休み。どこかそわそわしながら、ケータは家を出る。昼過ぎだった。
「予言だったらどうしよう」
先日まで自分で馬鹿にしてたくせに、内心そんな夢を見る。両手に、大事そうに、小学1年生の時に書いた日記を抱えて、おおもり山へ向かう。
小学1年生の自分は、相変わらず普通だった。唯一笑ったのは、鼻をほじりすぎて鼻血が出たと書いていたことだった。鼻は今でもよくほじるので覚えがないが、鼻クソを飛ばしまくっていた時期は確かにあった。もしかしたら、1年生の時かもしれない。
階段を上がって、神社を横目に森の中へ入る。大きな看板が目に入った。立ち入り禁止なので、そちらには向かわない。
この辺りは、ケータがよく虫を取りにくる場所だった。あまり1人で奥まで行くのは勇気がいるし、かといって手前すぎるとクワガタどころかカブトムシもいない。セミくらいだ。
ケータが思う、ちょうど中間地点。
「クワガタいるかなあ」
虫取り網は持ってきてないが一応木の幹を覗く。
「たぶんこの辺だよねぇ」
クワガタを取ってもらって、とても喜んだことは覚えていた。クワガタを手に乗せるのは生まれて初めてだった。本当に角が2本あって、艶があって、かっこよかった。
「誰と……」
日記には、今よりずっと拙い字で、「やくそく」と書いてあった。涙で滲んだ痕が、たくさんあった。
はやく5ねんせいになりたい
日記に書かれていた内容は衝撃的だった。自分で書いたもののはずなのに、何故だか心を打たれてしまった。
あいたい
たった6才で、誰にそんなに焦がれているのだろう。
きっとクワガタを取ってくれただけの優しい人だろうに、どうしてそんな感情を抱くのだろう。
木々の向こうに1本背の高い木が見える。御神木があることは知っていた。直接は見たことないが、それはそれは立派らしい。そしておそらく、飛び出たそれが御神木だということもなんとなく分かっている。あんなに大きな木は他にない。
「あれ」
頬に、濡れた感触があった。ぽろっと溢れて、ノートに落ちた。この光景は、前にもあった。錯覚かもしれない、知らない、とも思う。
あいたい
小学1年生の自分が、泣いている。
御神木を見て、泣いて、泣いて、どうしようもなかった。たった1人で、両手で強く目を擦っていた。
「もう、すぐ」
小さな自分を抱き締める。
小学5年生の夏休み。ずっと待っていた、暑い日に。
予言なんて、信じない。第一、自分が予言するなんて考えられないし、これが予言だなんて思えない。
でも、全然泣き止まない小さな自分の涙は拭ってあげたかった。
「もうすぐだよ」
小さな自分が、やっと顔をあげる。肩は震えていた。抱き締めている腕は、固くなっていた。
小学1年生の夏休み。日記には、夏休みの一部だけが記録されていた。ほんの一部だった。途中で投げ出したから、という訳ではなさそうだった。
「会いたい」
夏休みまで、あと少し。ほんの少し。
特に旅行の予定もない、どうせいつもの普通の夏休みだろうに、と頭の端で想像する。
こんなに待ち遠しい夏は、初めてだった。
誰彼の彼方
「ヘイ! ケータ!」
爽やかなボーイソプラノ。ボリューミーな赤みがかったオレンジ色の髪。屈託のない笑顔で駆け寄ってくる少年に、景太は手を振った。
「どうしたの? そんなに走って」
また何か見つけたのかなと、目を輝かせながら2歩、歩み寄る。彼との冒険はケータも好きだ。ノープランで思うままに切り開いて行く道は、景色は、いつも雄大だった。
そんなケータの手をつかんで、「ゴーゴー!」と走り出す。驚きながらも迷いなく脚を出す。右、左。早く、早く。彼はとても、脚が速い。
着いたのは、彼とつくったイカダが待つ、今となっては自分たちの秘密基地。
「ホラよ!」
「わっ!」
景太が乗った、イカダのロープがほどかれる。イカダはすぐに川の流れに従って、彼とどんどん離れて行く。
続いて乗り込んでこない彼に、慌てて声をかけた。
「一緒に行こうよ!」
「ちゃんと前見ろよ~!」
え?と言われるまま進行方向へ顔を向けると、すでに目の前に岩が来ていた。「やば」とホッピング機能を使おうとしたが、使えない。
「あれ? なんで?」
焦っていると、軽快なギターの音が聞こえて来た。次いで、「ミャーウ!」
「ケータ! 何してるミャウ? グルメツアーはまだ終わってないミャウ!」
ハイテンションな声に苦笑いしていると、彼がイカダに乗り込んできた。わずかに沈んでまた浮いたイカダが、その重力のおかげか進行方向が歪む。掠ってしまったが、岩との衝突を避けることが出来てほっとひと安心する。
「セーフ…」
「ケータ! あそこ行きたいミャウ!」
小さな手が指した先には、饅頭屋があった。
「あれって」
「よーう、ケータじゃねえか」
USAに現れた饅頭屋に呆気に取られていると、乱暴に頭をなでられる。ぐしゃぐしゃと、髪の毛が更に跳ねる。
目を瞑ってしまった隙に、足元はイカダじゃなくなっていた。アスファルト。ジャポンの景色。
首を傾げていると、もう一軒隣の饅頭屋からありがとうございましたーと店員の声が聞こえる。
「むっ。お前たちも買いに来ていたのか」
「ちょっと! もう喧嘩しないでよね」
対面する2人の顔色を伺いながら、ケータは宥める。もう饅頭の好みで喧嘩に巻き込まれたくはない。
すると、真後ろからカンカンと、下駄の音が鳴るもんだから、
「ああ、懐かしい顔が見えるな」
「ガッツ!」
いつかのヒーロー。世界はともだち、全部守るぜ!
ガッツ仮面は健在だった。ごっこなんてものでは、なく。
ケータによく似た背丈と、褐色の肌。嬉しくなって駆け寄って、てれってれってーと踊り出した。キメポーズまで揃えてから久しぶりの同調感に頬が緩む。一瞬目をつむった。
立ち上がると、はにかんで笑う、金色の瞳。
「わっ。人間界に来てたの?」
「ああ! お前に会いに来たんだぜ」
人間界が好きなのは知っているけど、珍しいなあと彼のお目付き役を探してしまう。以前、勢いで召喚してしまったときに少し怒られてしまったから。
仕草で気付かれてしまったのか、「大丈夫だよ」と可笑しそうに笑われる。
指をパチンと、弾く音はずいぶんハッキリと聞こえた。
「フウ2!」
「えっ、あ、あれ?」
いつかに妖怪になったときに、取り憑いた少年が隣で顔を覗き込んでいる。両手に持つサッカーボールを少し顔に近づけて、
「サッカーしようよ」
「うん!」
公園に着く前に、ポーンと軽く、曲線を描いてボールが行く。フウ2はサッカーボールに駆け寄った。
「僕さ、まんが描いてるんだよ」
「そっかー…よかった。描けたら見せてよ」
サッカーボールに追いついて、この姿でどうボールを蹴ろうかとくるくると回り浮く。「ねえ」
「おれさー、……あっ」
公園の、木の幹にもたれかかって、小さく手を振っている。右目は長めの前髪にかかって見えないけど、微笑んでくれているのは良く分かった。
「どうしたの?」
「ケータくんがここにいるって聞いて」
「サッカー?」
「うん」
「おれさー、この姿でどう蹴ろうか迷ってたんだ」
ため息をつきながら相談すると、急に目の前に水色の龍が現れた。驚いて後ろにひっくり返ったケータは、そこで初めて人間の姿に戻ってることに気付く。自分の両手を不思議そうに観察していると、龍のマフラーを纏った彼が正面に立った。
「ケータ、探したぞ」
「なんかあったの?」
「相変わらず呑気だねぇ」
立派な九つの尾がゆらゆらと揺れている。腕を組んで、相変わらず偉そうだった。凶器になるほど長い爪が、ケータの方に向けられる。顔を強張らせると、「後ろ」と鼻で笑われた。
なにかと思って振り向くと、「ハナホジ~」といいながら宿敵が走ってきていた。どんなに強い彼らでも、ケータの宿敵はなかなか手強い。
それでも立ち向かおうかと砂利を踏み直す。
「あれー? ケータじゃない?」
「おーい! なにしてんだー?」
鼻にかかった声で、親しい友人が人差し指を鼻に突っ込みながらやってきた。その光景にズッコケそうになりながら、ハッと大げさにリアクションする。幼馴染で、クラスのマドンナである彼女は、公園の前を1人で歩いて通り過ぎていった。
追いかけようと公園を出る。
みんなで一緒に遊ばない? そう、言おうとした。曲がり角まできて、後頭部を掻く。
「んー。帰っちゃったかな?」
「ケータくん」
不意に、笑顔で話しかけられて、ケータはだらしなく口元をゆるめた。「よかった」
「ちょうどみんな公園に来ててさ、一緒に遊ぼうよ」
「うん、遊ぼう。ーーでもね、ケータくん」
「なあに?」
「まだ、みんな揃ってないから」
あとは誰が来るんだろう。
クラスメイトの顔を思い出そうとしながら、ケータは振り向いた。そのタイミングで頬を小さな手がむにっ、と突く。
「にゃは~!」
牙をむき出しにして、楽しそうに笑う赤い猫が、肩に乗っかっていた。少し目を丸くして、「もう」と突かれた頬を膨らます。すると猫は、ピョンっと軽やかに着地した。二股の尻尾が揺れる。
「ケータズラ!」
遠くで、たくさんの声が聞こえる。どの声も特徴的で、ひたすら恋しく思えた。引き寄せられる、友達たちの存在に引き寄せられて、小走りをした。
運動靴の音。たったった。
アスファルトを蹴る、小学生。
あの、曲がり角を、曲がれば。
「ケータくん」
彼がいる。
白くて、頼りなくて、どこまでも優しい彼がいる。その紫色の唇が開くと煩いことは知っている。すぐに妖怪パッドを見ることも、鼾がきもちわるいことも知っている。
ああ、目の前に彼がいる。
とても大切な、彼がいる。
赤い屋根の家の前で、おかえりと言わんばかりに待っている。
細い腕を持ち上げて、両手を広げる彼がいる。
「ウィスパー!」
「おかえりなさい、ケータくん…!」
今日の夕飯はカレーですよ。
言いながら、広げた腕を、華奢な首の後ろに回す。
「やった! お腹空いたなあ。ーーそうそう、あのね、」
彼がするりといつもの位置に来る。右肩より少し上。波打つ尻尾が、肩先にちらちら当たるか、当たらないか。
頭をかすかに傾ける。触れそうで触れない。隙間の空気。髪先からの感触。存在。錯覚の温度。
*
重みがある。腹の上、知ってる大きさ。そんなとこに顎を乗せないで寝てほしいと文句を言いたいが、またそこから猫の持論を聞かされるのは目に見えている。
「ジバニャン」
「にゃふ~」
名前を呼ばれても起きる気のなさそうな顔と声に脱力して、もう一度目を瞑って、また開けた。
「もう夕暮れかあ」
葉が、キラキラしている。高くで揺れて、茜色。
この御神木が、この辺一帯で最も大きな木だった。そして、最も居心地のよい場所だ。
水色の手で、ジバニャンの頭を撫でる。心地よさそうに微睡むのを見ていると、自然と笑みがこぼれた。無意識にピコピコと動いてしまった尾が、今度はジバニャンの眉間に皺を寄せさせる。
「夕飯カレーにしない?」
「おれっちハンバーグがいいにゃん」
「…チョコボー食べときなよ」
「にゃんですとぉ!」
無理矢理ジバニャンをどかして浮き上がると、うーんと伸びをしてから、そろそろと空へ浮き上がった。
ジバニャンは、片目でその姿を見やる。
街を見下ろしているであろう彼は、とてもお腹が空いてそうに見えた。
短い尻尾が、忙しなく動いている。
「カレーにしようよ」
「しょうがないにゃんねぇ。甘口ならいいにゃんよ」
ようやく起きる気になったジバニャンが呟いた。なんとなく、根元にあるガシャマシンを軽く叩く。
彼の星型に縁取る茜が、とても綺麗だった。
約束
チョキ、チョキ、と勢いのいいハサミの音。少ししてから、「お待たせしました」と元気な女性の声がした。
「今日は、いい天気で良かったですね」
どうぞ、と綺麗にまとめてくれた花を渡されて、お金を渡す。手を振って見送ってくれるのは、花屋の女性。
これから、お参りに行く。
大事な友達の、お墓へ。
ジバニャンはそっと、頭から葉っぱを外した。
天野景太は、先月、人としての人生を終えた。
祖父のケイゾウと同じく、奥さんと子供たちを置いて。
「どうせ妖怪になるんでしょ」
そう言って笑っていたのに、彼はジバニャンの前に現れることはなかった。
どこか遠くに飛ばされたのか。この時代に来れなかったのか。ずっと妖怪になったケータの姿を思い浮かべながら、ジバニャンは歩く。
先日は、雨だった。
それでも、足を運ばずにいられなかった。
「ケータ……」
太陽が眩しい。
同じくらい輝いていた、あの笑顔を、もう一度。
「ケータ、今日も来てやったにゃんよ」
毎回チョコボーを添えるのは、ジバニャンらしいと笑ってくれていると思っている。
「ジバニャン」
「にゃ……?」
天気がよくて、つい日向ぼっこをしてしまった。すっかり眠っていたジバニャンは、懐かしい声に瞼を持ち上げる。夢かなあと疑いながらも、眩しさに耐えて目を凝らす。光の中で、見慣れたシルエットが浮かんでいる。
「寝過ぎ」
「ケ、ケー……タ?」
「そうだよ」
ジバニャンの頭をゆっくり撫でたその手は、確かにケータの手だった。いつの間にか大きくなった、立派な男性の手。ずっと、抱き上げてくれた手。左の手首には、妖怪ウォッチはなかった。
「ケータ、まだ妖怪になってないにゃんか? おれっち待ちくたびれたにゃん」
隣であぐらをかいて座るケータの膝に、顎を乗せる。心地よい。女の子以外で撫でられていたいのは、唯一、ケータだけだった。
またうつらうつらになるのは、安心からだと知っている。
「うーんとね」
ケータの手は、いつも優しい。声も、話し方も変わらない。
優しくないのは、いつもーーー
「おれね、妖怪にならないっぽい」
陽が暮れる。空が赤い。浮かぶ雲は数えられるほどだった。今日は本当に晴天だ。
そのおかげで暖かい。この腕の中は、その何倍も温かい。
においをつけるかのように擦り寄ると、ケータはくすぐったそうに肩をすくめた。「あぁ」と呼吸ついでに出たような声は、最期を思わせない言い方だった。
「ジバニャン」
もう行かなくちゃ。
そう告げられたけど、腕は緩められなかった。
きっと、ケータも嫌なんだ。
でも、約束をした。
「また会えるにゃんよ」
本当は、妖怪になって、会えると思っていたんだけど。
ジバニャンは、自分の将来を知っている。そうか、そういうことかと、納得をする。
明日にでも、呼び出して話を聞こう。もう、猫の毛並みがなんて言ったりしない。
「おれっち、ケータが生まれ変わるまで待つにゃん!」
ぱあっと顔を、綻ばせる。泣いたらたぶん、ケータはずっとここにいる。この優しい友達は、相手が妖怪だろうが人間だろうが、困っていたら立ち止まってくれた。そっと手を、差し伸べてくれた。
「待つのは慣れてるにゃん」
エミちゃんが、帰ってくるまで。
またエミちゃんに飼われるまで。
どれだけ待とうが、構わない。
君の笑顔が見れるなら。
ケータは、少し驚いていたようだった。それから可笑しそうに笑って、「そっか」と頷いてくれる。
「じゃあ、それまでおれの家族のことよろしくね」
「任せろにゃん!」
「ふふ」
ジバニャンを抱き上げる腕は、本当に立派になった。ありがとうね、と地面に下ろす。
ああ、もういってしまう。
大事な友達が、消えてしまう。
「最期のお願い、してもいい?」
夕陽が沈む。地平線の向こうへ隠れてしまう。同じ景色を、今、共有している。
「ウィスパー、連れて行ってもいいかな」
屋根の上。3人並んで、夕陽を眺めていたかった。
ケータの膝に頭を乗せて、撫でられて。その横に、ウィスパーがいる。
1階から声が聞こえる。ご飯よ、と。鼻の利くジバニャンは、今日のおかずはハンバーグだにゃんと得意げに話す。割と、当たらない。猫のくせに。
「いいにゃんよ」
二股の尻尾を揺らすと、短い手で腕を組んだ。いばるような姿勢で、鼻から思い切り息を吐く。
「絶対ふたり揃っておれっちを迎えに来いにゃん!」
未来で待ってる。
最新テクノロジーを駆使して、何度でも助けてあげる。
何度も助けてあげたけど、変わらずにこれからも世話してあげる。
本当にこのふたりは、自分がいないと何も出来やしないとため息をついた。まったく。仕方ない。
どうでもよくなるほど、大好きだ。
空の赤みが引いていく。
涙は全然引っ込んでくれなかった。
バカな人
ウィスパーが悪い。
ずっとそう繰り返して、頼りないつま先を眺める。片膝を曲げて、伸ばして、ブランコがキィキィと一定のリズムで音を立てた。
「ばか。ウィスパーのばか。ばーか」
「だーれがバカですか」
顔を上げると、ウィスパーがいた。
「……なんで八頭身?」
「なんでだと思います?」
むかつく。ウィスパーがおれを怒らせたくせに、と心の中で文句を言って、顔も見たくないから俯いた。
早くどっか行って。
「ケータくん」
喋りかけないで。
「帰りましょう。お母たまも心配してますよ」
「……」
無言の抵抗をするおれに、ウィスパーがわざとらしくため息をついた。そんなに面倒くさいなら、放っておいて構わないよ。
ウィスパーが、砂利を踏む。一歩。二歩。近づいて来る。
怒られる、と思った。
ウィスパーは、悪くない。だっておれが、ひどいことを言ったから。
唇が震えて、更に頭を垂れて目を瞑る。
ウィスパーは、怒ってるんだ。
「よく我慢しましたね」
膝、痛いでしょう。
慰めるような声と、頭を撫でる大きな手。ドッドッと高鳴る、心臓の音。
手が離れてから、目を開けた。それからしゃがみんで顔を覗き込んでくるウィスパーの顔を、ようやく見ると。
「ウィスパ…」
にっこり微笑む、ばかな人。
「おいで」
広げられた大きな腕。その胸の中に、とびこんだ。よしよしと、背中をポンポンと、優しく叩かれて。
「ごめんなさい」
「わたくしも、すみませんでした」
ぎゅっと抱き締められてから、一旦身体を離される。くるりと後ろを向いて上半身を前倒しにするウィスパーの背中は、とても広かった。
この為に、八頭身になったんだ。
肩に手を乗せる。ウィスパーの腕に脚を預けて、腕を思い切り回して乗る。
「恥ずかしい」
「誰も見てませんよ」
おんぶなんて、迎えなんて、転けたのを知ってるなんて。
とても嬉しいと思った。
白昼夢
夏の日差しが、痛いほどだった。
*
流れる雲を、ぼんやりと眺める。遠くに見える入道雲。あの下は今、雨だろうか。
目の前では、ケータが虫取り網をもってじりじりと歩みを進めている。ターゲットを見つけたらしい。逃げないように、様子を伺っているのがその背中から丸わかりだ。
持たされた籠を覗くと、立派なカブトムシが1匹窮屈そうに動いていた。白くて丸い手で、籠の外からトントンと軽く叩く。ガサガサと音を立てて、手足を必死に動かしていた。元気なカブトムシだ。ウィスパーは、視線を上げる。ケータは、網を構えていた。
「上手になりましたね」
ふふ、と声を漏らして笑うと、ケータが狙っていた虫が逃げてしまった。少し間があって、ケータが振り向いて口を尖らせている。
ふよふよと、ウィスパーはケータの元に寄った。
「惜しかったでうぃす」
「あーあ。クワガタだったのになあ」
大きく口を開いて、残念そうに言う。
まだない喉仏が見えた。この太陽の下で晒される白いところ。汗がつたって、きらりと光る。
背中からハンカチを取り出して、ケータのこめかみにそっと当てた。そのままもっと近付いて、前髪を払いながら、ハンカチを移動させる。えへへ、とケータが笑った。
「ありがと」
「いーえ。もう少し頑張りますか?」
「うん。もうちょっと奥に行く。今日の目標はね、クワガタ」
「むむ。では、さっきより大きなクワガタ見つけましょう」
腕を後ろに回して、ハンカチを仕舞う。
風が消えた。
暑さが、加速する。
**
虫取り網を肩にかけて、一息つく。目の前のウィスパーは背中を向けていた。1本、1本、木の幹を確認していく。クワガタを、探している。
そうしているはずなのに、ウィスパーの視線の先に何があるのかは、分からない。
あと、ここから5歩でも足を踏み出せば、その綺麗な曲線に触れられる。燃え盛る太陽に負けない、白い肌。波打ち続ける尻尾。
どう? クワガタいた?
そう言って近付こうとした。
その前にきっと、ウィスパーは振り向いて気付くだろう。どうしましたか、と微笑んで、クワガタいませんね、あっちに行きましょうか、のど乾きましたね。
ぼう、と日差しに溶けていく視線。蝉の声。
「ケータくん」
「ん、なに」
焦点を合わせると、ウィスパーはケータの目の前まで寄ってきていた。
胸なんて位置の分からないウィスパーの身体。鼻先に感じる間の空気。両手を後ろに回されていることだけがぼんやり分かる。かぶってなかった麦わら帽子の端をつまんで、そうっと前に持ってきた。
ぽす、と頭に、かぶせられた麦わら帽子。
「今日暑いですね」
ふーっと、息を吐いて、ウィスパーは遠くを眺める。
「あそこ、見て回ったらもう帰ろうかな」
指した先は、更に少し奥の方。ウィスパーはその先を振り返るなり、宙で一回転した。
「クワガタいますかねえ」
難しそうな顔で言うもんだから、「見つけてきてよ」と挑戦的に言ってみる。
「じゃあ、競争ですね」
「ウィスパーなんかに負けないよー」
「うぃす! わたくしだって!」
両手で籠を抱えながら、ウィスパーはスピードを上げて先に奥に行く。せこい、ずるい、とケータは思った。
走って追いかける気にはならなかったのを知ってか知らずか、ウィスパーはケータから見える範囲でクワガタを探し始める。
「もう……」
ため息がでた。同時に口角も上がる。
遠くなる残響に気付かない。
***
雨さえ降れば、目が覚めたかもしれなかった。確証はないけども、そう思ってしまった。
雨さえ降れば、涙は涸れなかったかもしれなかった。泣いてなんかないけども、迷子の子供のように声を張り上げて泣きたかった。
地面から立ち上る、炎のような揺らめきに目眩がする。
「ケータくん……?」
クワガタを捕ると意気込んでいたのに、少し離れて立ち尽くしていた。その距離が、やけに遠い。
そのまま、後ろを向いて行ってしまう。誰よりも何よりも大切な人が、消えてしまう。
その背景に映る太陽が、連れ去ってしまうのだ。
この子を元の世界に返してあげましょう。
「ああ……っ」
ウィスパーはケータを追いかける。
肩にかけてぶら下げていた籠が揺れた。中にいるカブトムシは動じない。
「どうか、それだけは」
手を伸ばせば、ケータは振り返ってくれた。
優しい語りを囁いて、しょうがさなそうに笑いかける。
「ケータくん!!」
「なに?」
見つけた? とケータは周りをキョロキョロと見渡す。それからややあって、
「クワガタいないじゃん」
呆気に取られるウィスパーを置いてけぼりにする。
首を大げさに横に振って、目の前にいるケータの輪郭を確かめた。
「あ、あれ、ケータくん……」
「帰ろう。なんか疲れちゃった。家に帰ってアイス食べようよ」
「……そうですね」
まだ心がついていかないウィスパーが持つ籠をのぞく。蓋を開けて、捕まえたカブトムシを掴むと近くの木に還してやった。
ばいばい、と小さくお別れを言って、ケータはゆっくり山を下りるべく歩き出す。そのカブトムシをウィスパーも見送りながら、ケータの隣に着いた。
「いいんですか? てっきりお持ち帰りかと」
「うん。今日はクワガタが欲しかっただけなんだ」
それにね、と続けるなり、ケータは立ち止まってしまった。言葉の続きを待っていたウィスパーは、不思議に思って顔を覗く。
傾いている陽に照らされた頬は、細かく、キラキラしていた。綺麗だ、と思う。今はなんだか、いつもよりも憂いを帯びた顔つきの所為で、更に美しく感じた。
開いた唇は、少し乾燥している。
「なんでもない」
「えっ! 気になるじゃないですかあ。言ってくださいよ」
「やだ」
「なんで!」
虫取り網を持ち直して、ケータは笑った。
「明日ね」
そうしてまた歩き出す。帰って、アイスを食べながらサッカーを見るのだ。クワガタなら明日捕ればいい。明日も、明後日も、明々後日もあるのだからと。
階段を下りる前、ウィスパーは何となく後ろを振り返った。暑さにやられてしまったのだろうか。あのカブトムシは、明日もいるのだろうか。
「変なもの見てしまいました」
一人言だ。しかし、ケータは反応した。
「おれも」
この街を見渡せる淵で、微笑みながら思い出す。
ウィスパーは、またもやケータに目を奪われた。今度は、もっと、震えるような、背中が凍るような感覚だった。
あの時、光の中で囁いた意味を聞けば、なんて言うだろうか。微笑みの、理由が知りたい。
陽炎だけが揺れている。ゆらゆらと、歪んでいく。
ヒグラシの囁きすら聞こえない。ゆらゆらと、きらめいている。
ゆらゆら。
ゆらゆらと、真昼の白い夢に堕ちていく。
ゆらゆら。
ゆら、ゆら。