世は全て事もなし「それで、どこまで行くんだ」
「さあ?」
どこかまでじゃない?と、女は笑う。何が楽しいのか、無邪気な顔で笑う。呆れはしたものの、咎めるような物言いをする気にはなれなかった。
平日の昼間、都市を離れていく鈍行の路線に、乗客の姿はほとんどない。ぎしぎしと軋む車体はビルの並ぶ都市部を抜け、郊外へと向かっていく。
こんな時間から遠出なんて、ここ何年も無いことだった。事件で職場は焼け落ち、頼る相手もない。腹は減るし、何よりひどい不安感で普通の生活もままならない。節約と精神安定のためやむを得ず生活を共有することになった相手は、突然思い立って私を駅に連れてきた。近い時間の列車に飛び乗って、今は向かいの席で駄菓子を頬張っている。
「なそじくんも食べる?舐めてると途中で味が変わるんだよ、これ」
駅のキオスクで買った妙な包み紙のキャンディを握らされ、仕方なく一つ口に入れた。酸味が強い。不思議な味だよね〜、おいしいかは微妙だけど、と女が続ける。そういうことは食べる前に言えばいいものを。
女は何度かつま先を上げ下げすると、暇を持て余したらしく外の景色を眺め始めた。黙っていればかんばせだけは完成されたように美しい。目を細めた横顔は少し物憂げで、白い髪の毛が春の日差しに透けて眩しい。
手元のぬるい茶を口に含み、いささか落ち着かない気持ちで座席に座り直す。
「えいっ」
唐突に女が窓を開ける。止めようとしたが、辺りを見回してみてやめた。迷惑になるような他の乗客など誰もいない。
うまく開かない窓はギシギシ、ガタガタと軋んだあと唐突に持ち上がった。風が女の髪を巻き上げる。
女はひゃあ!と間の抜けた声を上げ、それからけらけらと笑い出す。
「いい風だあ。ほら、」
女が窓の外を示す。青々とした空と白い雲のコントラストが目を引いた。
春のぬるい強風が吹きつける。うららかな気配はひらりと車窓から入り込み、客車の中を気ままに駆け回り、やがてどこかへと去っていった。
女は笑っている。事件の前も今も変わらない。この女は風が吹くだけでも笑う。長いまつ毛が影を作る。何がおかしいのか、私の顔を見つめ、目を合わせては繰り返し笑いかける。いつもいつも。何度も。車窓から差し込む昼前の日差しが、じんわりと身体を温める。
女の顔がいつまでも曇らなければいいと思った。