朝ごはん 目が覚めたら隣に女性が、というのはまあ、よくあるお決まりの導入なのかもしれないが。
朝起きて目の前にあるのがケロイドまみれの職場の先輩の顔、というのは……そういい気分でもないと思う。
思わずぎゃっ、と大声を上げると、ううん、と不愉快そうな声を上げて当の本人が起き出す。大きなあくびを一つ二つして、傷の奥からじろりとこちらを見る。そもそもあんまり寝起きに見たい顔じゃないが、まず場所が場所だ。
「な、んであんたがうちに」
「ああ?お前を連れて帰ってやったんだろうが。昨日の晩べろべろだったろ」
昨晩、と言われてみて、改めて記憶を辿る。そういえば、昨日は課内の飲み会があったんだった。あの『庭師』事件の後処理が落ち着いて、久しぶりの……。
チーフも、後閑サンも、もちろんこの先輩も、みんな楽しそうだった。こんな風に笑っているのは、なんだか久しぶりだった、と思う。もしかすると、三年前が最後だったのかもしれない。あのころと同じでは、決して無かったけれど。でも笑っていた。
きっと自分自身もそうだったんだろうと思う。普段はあまり飲まない酒を勧められて、つい杯を受け取ってしまった。後閑サンの同じ話(あの時点で三周目だったと思う)を聞きながら、だんだん眠くなって………何だったか、組み立てが楽なテントの話だったか、回数を重ねるたびアピールポイントが増えてるなって……それからあとの記憶が無い。
「新卒じゃあるまいし。もうちょっと加減しろよ。」
どうやら慣れない酒に呑まれて人前で酔い潰れたあと、この男に自宅まで送り届けられた……ということらしい。
見ると、自分は布団におさまっていたが、相手は床の上だ。毛布だけが男の肩には被せられていた。送り届けた後家に帰らず、ここで眠ったらしい。
「吐いたりとかしてないな?水飲んどけよ。」
あまり状況をのみ込めていないまま、とりあえず頷いておく。軽く体調を確認すると、じゃ、俺は帰るわ。と狗飼が立ち上がった。
「え、帰るんスか?」
「お前も起きたしな。うち帰って寝直すわ」
「ちょっ……このまま?」
とたん、相手が何で?とでも言いたげな顔をする。あ、まずい。取り消そうと思ったが、それもおかしいだろう。しまった。何を口走ったか、自分でもわかる。何だその発言。
……でも、だって、このまま帰すのは借りを作ったままなのと同じではないか。
「何かあんのか?」
何を勘違いしたのか、急にやさしい声音を出してくる目の前の男に苛立つ。いや、何も無いのだ。本当に何もないのに、こういう発言が出てきたことの方がおかしい。どうかしてる。ああもう、俺だって聞きたい。
「や。別に。でも、せっかくなんで。風呂、貸しますし。」
内心の方は動揺したまま、でもそう決めると口はすらすらと動いてしまう。嫌な性分だ。
「朝飯くらい食っていってくださいよ。なんか作るんで」
「お前が?」
「俺が作っちゃ悪いんスか」
「いや、いいけど」
機嫌の悪い言い方になってしまった。いや、そういう意味じゃなくて……どうしてこう。相手には特に気にした風もないのが余計に痛い。頭を抱える。昨日洗いそびれた頭が少しべたついていて不快だった。
軽い頭痛がするのは、多分ただの二日酔いだ。
「お前、テーブルくらい無えのかよ」
風呂から出てきた男が開口一番、呆れたような声を出す。
丁度段ボールを並べた即席の机の上に茶碗を置いたところだった。
「……要らないと思ってたんスよ」
言ってから今更、何で引き止めてしまったのかと後悔する。そもそも、郁李の部屋は人を招くことなど想定していない。普段から友人知人をほいほい上げている狗飼とは性質が違う。人に見せられるような生活はしていない。それは本当にどうでもいいようなことで、それだから今の今まで気にしたことは無かったのだが。もっとも、それは課内での様子からとうに知れているようなことではあったが。男は小言を言うと気が済んだのか、案外すんなりと向かいに座った。
いただきます、とどちらともなく呟いて、箸を手に取る。
郁李は未だに、この男の扱いを決めかねている。
ありあわせの具で作った味噌汁と、炊いただけの米。おかずというほどのものも無い、ごく簡素な朝食。やっぱり人をもてなすのには向いてない、と自分でも思う。狗飼の家のものより薄めの味付けの味噌汁は、それでも郁李が得意な料理のひとつだった。二日酔いの身体にしみ込むような温かさが口の中に広がる。
「……お、うまいな」
「味噌汁、好きなんで」
そうか、の一言が返ったきり、食卓には沈黙が広がる。気づまりというよりは、どこか穏やかで静かな性質のものだった。黙って食事をとる男の向かいで、自分も箸を進める。目だけは少しあげたまま、表情を伺う。不味ければ鬼の首でもとったように言うだろうから、嘘ではない、のだろう。自分の好きな味にはできても、この男の好みなど分からなかった。食事なんて、ほとんど自分のためにしか作らなかったから。
人と食べる食事はちゃんと味がする。胸の中に空白を抱えたままでも、生きていくことはできるらしい。
箸を止めた男があたりをしげしげと見回す。少しばかり居心地の悪い思いで、それを見る。ああ、まただ。人のプライベートにずけずけと立ち入ってくる。そもそも家主への遠慮とかないのか、こいつ。
「本まみれだな、お前んち」
「……まあ、そうスね」
雑然とした部屋だという自覚はあった。床には数えきれないほどの本が積み上げられ、あちこち塔のように伸びては、人間よりも横柄な態度であたりを占拠していた。適当に脇に寄せて、スペースを開けて、この程度である。別にそれでいいと思っていた。さっきまでは。
「床に置くなよ、本棚ぐらい買え」
何も知らないくせに小言だけは言う。この図々しさが、前は嫌だった。
今は、どうなのだろう。不愉快ではないような気がした。そもそも、言い返す言葉も無い。
「あと布団も。万年床だろどうせ。めったに布団上げないならせめてベッドにしろよ。湿気たまるぞ」
「あんたは俺の母親スか」
「お前みてえな息子を持った覚えはねえよ」
小言に軽口の応酬。事件前と同じ。あまりにいつも通りで、それがどこかで心地よかった。あんなことがあったのに、これは変わらなかったのか。不思議だった。本気で殺そうと思った相手と、今はこうして食卓を囲んでいる。
狗飼のゆがんだ唇の間に、米粒が消えていくのを眺めながら、毒でも入れれば簡単に死ぬのだろうな、と思った。するはずもない、今となっては意味もない空想が、よぎっては消える癖。
――この事件で婚約者を亡くした上司は、それを抱えて生きて行けと言った。言ったからにはそうするのだろう。喪失はいつも違った形の傷を作るから、彼の傷と自分の傷は同じではない。そもそもあの上司と同じ強さでものを眺められるとは思えなかった。二十数年の月日はあまりにも長かったし、これから先過ごす人生はそれよりもずっとずっと長いのだという。これを、やりすごしていかなければならないのだろうか。気の遠くなるような年月の前で、何から取り掛かればいいかもわからず途方に暮れている。
「お前、家具買いに行けよ」
目の前の客人は朝食を食べ終わったらしい。食器を置いて、両手を合わせるしぐさをする。おそまつさまで、と聞かせるでもなく呟く。とりあえず机とベッドだろ、それに本棚と、お前の部屋もう少し暖房置けよ。寒いだろ。小言をつきながら、狗飼がこの部屋にないものの名前を羅列していく。この男はなんでこう、俺なんかの世話を焼きたがるのか。
「いいスよ、重いし。かさばるし。」
「手伝ってやるよ。お前非力だろ」
狗飼がそれを何でもない事のように言って、少し笑う。
「一旦うちに戻って車とってくるか。今日これから暇か?」
はあ。と返事にもならないような返事をする。可愛げがない自覚はある。とてもいい後輩にはなれそうもないという自覚も。可愛くねえやつだな、なんて、わざわざ言わなくても初めから分かっていそうなことだ。最悪な初対面だったし、意見がぶつかったことも何度もある。それでも構うのは何故なのか。未だに、理解できないでいる。けれど、どうやらたぶん、この男は自分のことが嫌いな訳じゃないらしい。ふたを開けてみると簡単なことだ。
「………まあ、そうスね。暇スよ。」
待ち合わせの時間を決め、男は一度部屋を去る。時間にはまたここに来て、自分を連れて出かけるつもりのようだ。それまでに風呂に入って着替えて、となるとそう時間の余裕はない。帰り際に冷蔵庫を開けて何か言っていたから、あの様子じゃ小言は家具だけにはとどまらないだろう。思っていたよりも忙しい休日になってしまった、と思う。
とりあえず目の前の事からだ、と二人分の食器を流しに運び、洗う。人並み外れた郁李の頭脳は、今更どうやったら「ありがとうございます」が言えるのかを考え始めていた。