帰郷「………はい、郁李です。」
「葵が死んだ。」
「え?」
電話の向こうの母親の顔が想像できなかった。
「3年前に死んでいた。もう一人の被害者と取り違えられたままでいたんだ。」
「俺が隠していた。」
「どういう意味。」
母親の声がいやに淡々として聞こえた。
「骨壺を持っていくから、墓に入れてほしい。」
「………巧、」
「それじゃ。」
一方的な連絡のあと、電話を切った。
今日、家に帰る。
ここ最近はめっきり冷え込んできていた。息が白い。つめたいジャケットに袖を通して、ここ数日の間机の上に置いていた『妹』を抱き上げる。桐箱はそう重いものでもないから、簡単に腕の中に納まった。
本当は、もう少し早く帰るつもりだったのだが……何かと手続きをしていたら遅くなってしまった。いや、本当のところは、単に気づまりだったのかもしれない。なんせここ数年は泊まりさえしていない。顔を見せて、申し訳程度に食事だけしては帰るだけ。もの言いたげな両親の顔を見るのが嫌だったから。
謹慎処分が出されたとはいえ残務はあったから、それを言い訳にして、ずるずるとここまで来た。とはいえ、職場のことはそれなりに気がかりだったが―――理解のある上司からは『こちらは大丈夫だ、そんなことは気にしなくていい』と笑って送り出されたのだから、考えるのも野暮だろう。
後ろでは先輩がパソコン画面とにらめっこしながら資料を探していたし、当の上司の画面には何やら怪しいメッセージウィンドウが出ていたような気がするが。
………まあ、大変に有能であらせられることだ。
6歳の誕生日を目前に失踪した俺の妹は、最終的にこの小さな骨壺になって戻ってきた。
複雑に入り組んだ『庭師』事件が、的場の逮捕で幕引きとなったあと。
相模原涼の遺骨を納める際、仲間の立ち合いの元で『相模原涼』として葬られていたこの骨を取り出した。
3年も前に死んで終わっていたそれは白く、軽く、乾いていた。熱くもなんともない。
それを今、膝に乗せている。
タクシーが目的地に着くのを待つ間、車の揺れに合わせてかたかたと時折音を立てるそれを、手持ち無沙汰で撫でていた。小さな頭も、やわらかな子供の髪も、思い返せばそこにあるように思う。
妹が―――郁李葵が南玲子だった20年近くの間、どんなふうに暮らしていたのか、俺はほとんど知らない。
重要参考人と裏書された捜査資料の写真には、物静かな落ち着いた雰囲気の女性が写っている。
間違いなく、これは葵だ。葵だとわかる面影がある。
それでも、自分の記憶にあるのは5歳の葵の笑顔で。
きっとこれから先それが変わることはない。
ただ、親には見せるべきなのかもしれない、そう思ったから。
タクシーは住宅街を進む。葵が通うはずだった通学路も、二人でよく遊んでいた公園も通り過ぎて、ようやく見慣れた家の屋根が見えてくる。
玄関の前には中年の女性が一人立っていて、それが自分の母親であると気が付くのに少しかかった。
母さん、髪切ったのか。
「巧」
タクシーを降りる。近寄ってくる母親の顔を見られない。
うつむいたままただいま、と一言絞り出す。
母が、俺を見る。
それから俺の手元を。
「それ、」
「………葵だよ」
骨壺の納められた箱を、母の手元に近づける。
母の手が震え、怯えるように少し飛びのく。
少し深呼吸をして、改めて手が伸ばされる。
箱の底に手を添えて、そっと渡す。皺の増えた手が、労わるような動きでそれに触れる。
「葵ちゃん、」
ぽつりとつぶやいた母の顔にはなんの表情も浮かんでいない。
母の顔がわずかにうつむく。
次の瞬間、乾いた破裂音が響く。軽い衝撃と熱さ。自分の頬を張られたのだと気が付くまでに、一拍かかった。
がたん、と続けて音がする。
あれは、あの電話は、どういう意味なの。あんたは、知っていたら、知っていたのならなんで3年も。
なぜ何も言わなかったの。こんな、今になって、
なぜあの子が。
胸倉をつかまれ、呼吸が詰まる。矢継ぎ早にかけられた問に答えられず、黙り込む。父親が何か向こうで声をはりあげている。
どうして。
その一言が聞こえたとたん、手が離れる。ぶわりと空気が入ってきて、呼吸ができるようになる。
頬がずきずきと痛い。あとからあとから言葉が、感情が、こぼれ、歪み、砕け、溶け落ちていく。
なぜ私の娘でなければならなかったの。どうしてあの子が。こんな風にならなければならなかったの。こんなになるまで家に帰ってこれなかったの。絞り出すような叫びの後ろはほとんど涙にのまれ、聞こえなかった。
目の前にあった身体が力尽きたようにふらりとかしぐ。
受け止めようと屈むと、母親の頭は自分の胸よりずっと下にあって、不思議な気持ちになる。この人は、こんなに小さかったろうか。母親が癇癪を起こすようにして胸をたたく。こぶしはひどく弱く、手首を捕まえれば簡単に止まった。俺の力なんて別に強くないのに。引き寄せて、背をさする。母の髪に白いものが混ざっていると、ふと気が付いた。とうに過ぎてしまった年月が降り積もったように、白かった。
どうして。なんで、なぜだったんだろう。何がいけなかったんだろう。あの子は何も悪いことなんかしてなかったのに。何も悪くなかったのに。葵は、妹は、どんなに寂しかったか。どんなに悲しかったか。不安だったろうか、泣いたろうか。痛かっただろう。苦しかっただろう。悪かったのは、見つけられなかったのは、隠していたのは。
「ごめんなさい」
ただ口をついて出る。腕の中で母が泣いている。どうして、どうして、と繰り返す。あの子を返して。私の、私たちの娘を。巧の妹を。これまで聞いたこともなかったような母親の叫びが、胸の奥で鋭く鳴り響く。呼吸が詰まる。冷気と共に胸に突き刺さって、痛くて、苦しくて、熱い。刺さっていた同じ痛みが、涙と共に溶けだしていくようだった。
「ごめんなさい、母さん」
そっと肩に手が添えられる。こちらもやはり皺のよった、父親の手が。
「………中に入ろう、ここは寒いから。」
背を丸めて父親が家の扉を開く。手には『妹』が乗せられている。そこに小さな葵の姿がちらついて、いつか撮った家族写真が重なる。父に促されて、しゃがみこんでいた母を立ち上がらせる。泣きじゃくっていた母は涙をふいて、息子の手を引く。今となっては俺の方がずっと大きいのに。つめたい風が吹いて、髪の束を揺らし、部屋に入っていった。
「おかえり」
誰ともなく言葉をかける。
玄関扉が閉まり、居間に明かりが灯った。