2. 大人の階段、落ちる時「今日はいつもと違うお茶なんですね」
おそらく、私は間が抜けた表情をしていたに違いない。
表情を取り繕うことも考えられないくらい、「彼」の言葉に驚いたのだから。
大人の階段、落ちる時
そこは、通っている大学からほど近いコンビニエンスストアだった。
通学前に立ち寄って飲み物を購入するのが日常となっていて、その日も多分に漏れず、私は朝の喧騒を過ぎた店内でお目当てのお茶を求めてガラス張りの冷蔵ケースを覗いていた。
(どうしよう・・・)
基本的に購入する銘柄は変えないが、その日に限っては何故か違う銘柄がやけに目についた。
値段に差があるわけでもないので、気になった方のボトルを取り出し、レジへ向かう。
いつもの動作。何ら変わりのない日常。繰り返される毎日。
だからこそ、私はまったく想定していなかったのだ。
「コンビニの店員に話しかけられる」なんて。
「!?」
なんと返したらいいのかわからず、思わず口をパクパクさせてしまったのは仕方ないと思う。
そもそも、大勢の人が利用するコンビニで、客が何を買っているかなんて店員は覚えているものなのだろうか。
何か特徴のある商品ならいざ知らず、私が買っているのはお茶である。
ごくごく一般的な大手企業のお茶である。
それなのに、先ほどの台詞。
(・・・もしかして、何か不審に思われている?)
けれど、店員に怪しまれるような行動をした覚えはないし、店の滞在時間だってほんの僅かだ。
それを怪しむというなら、店を利用する大概の人間は怪しまれているということになるのではないだろうか。
(返事くらいした方がいいよね・・・「そうですね、今日は気分を変えてみました」とか?・・・ないない。そんな気軽に会話できるような関係になった覚えはないし、そんな切り返しできるわけない)
まごついている私をよそに、店員は先ほど発した言葉などなかったかのようにてきぱきとレジの処理を進めていく。
「またのご利用お待ちしております」
店員の笑顔に見送られつつ、結局、私はそれから一言も発することなく店を出たのだった。
それが、きっと私たちの「始まり」――。
私―桐生朔良(きりゅう さくら)-は、家から一番近い大学に合格し、高校時代とは違う大学の雰囲気に圧倒されつつもそれなりに充実した日々を過ごし、新しい春を迎えることになった。大学生活もこれで2年目に突入することになる。一つ上の従兄が同じ大学にいるのが憂鬱の種ではあるが、学部が違うので、向こうから呼び出しがかからない限り構内で会うことはない。従兄の存在さえなければ割合快適な大学生活と言えた。
従兄―桐生真琴(きりゅう まこと)-については顔を思い出すだけでも精神力が削り取られるので、脳内から極力存在を消すことにする。
(本当に「あの人」は・・・同じ人種とは思えない)
大きく頭を振って、私は思考を切り替える。
私にとって大学は、誰に制約されることもなく自由に学ぶことができる素晴らしい環境だった。
この大学では、大学の講義のほかにも「ティーチングアシスタント」制度が設けられているので、苦手な分野や伸ばしたい部分を教授より身近な院生に教わることができる。
私自身も苦手な数値データの統計・分析などの数学的分野について工学部博士課程所属の立花紺(たちばな こん)さんに定期的に教わっている。
(今日は立花さんに教わる日・・・嬉しい)
知らず頬が緩む。
立花さんに教わるようになってしばらく経つが、その人柄が出るような誠実で丁寧な教え方は非常に分かりやすかった。少しでも立ち止まるような疑問があれば、嫌がることも急かすこともなく私が自分の頭で理解できるまで一緒に取り組んでくれるので、こちらも焦らずに正直に疑問を口にできる。そういう空気を立花さんが作ってくれる。
(苦手という意識自体が薄れてきたような感じ)
成績の底上げに繋がっていてありがたいというのもあるが、最近の自分はそれだけが目的でもないような気がしている。
(立花さん、大人だし優しいし包容力があるしかっこいいし、こんな素敵な人に憧れない女子とかいないよね)
あくまで客観的に見ても、という目線で自分を肯定してしまうのは照れなのか後ろめたさなのか。
こんな感情を抱きながら個人レッスンを受けているなんて立花さんに知られたら、幻滅されてしまうかもしれない。
あくまで私は「学ぶ」ために立花さんの力をお借りしているのだ。
(余計な感情は排除、排除・・・)
己の中の勉強に不要な感情を押し込みながら、レッスン場所である工学部棟に向かう。
まるで待ち合わせ場所がそこだったかのように、彼は棟の前で私を迎えてくれた。
「朔良さん、こんにちは」
柔らかい声音で名前を呼ばれ、押し込めていた甘い感情が表に出ようと突き上げてくる。
ぐっと息を詰め、一つ深呼吸をし、私は「いつも通り」の笑顔を彼に向けた。
「こんにちは、立花さん。今日もよろしくお願いします」
神さま。
今まで生きてきて、男性にまったく縁がなかった私だけど、恋の花を咲かせる他の女子学生のように、少しくらい夢を見ても・・・望んでもいいですか。
今時中学生でも口にしないような陳腐な願いを抱くくらい、私は立花さんという存在に大きく心を動かされていた。
立花さんと並んで歩きながら、他愛のない話をする。笑いあう。
そんな小さなことがたまらなく嬉しい。
足元がふわふわと揺れるような、落ち着かない、けれど不快ではない感情。
今まで経験したことのない状況に上せていたのかもしれない。
浮ついた感情と、この後に起こる展開に、私の脳はショートした。
「初めまして。弟の立花橙です。よろしくね」
教室に入ろうとした私たちの目の前に現れた人物。
にっこりとほほ笑むその男性こそ、コンビニで出会ったあの店員だったのだ――