4. 痛み無き苦しみ自他ともに認める地味な存在。それが私だ。
「あ、いたんだ」
なんて言われることはしょっちゅうだった。
従兄が異様にオーラを発しすぎているのもあって、親戚の集まりでも学校関係でも、私の存在は空気程度でしかなかった。
私自身もそれでいいと思っていたし、むしろそうしてほしかった。
だから、「私」に注目する人は苦手だった。
痛み無き苦しみ
「また・・・」
スマホの画面を見つめながら、一つ息をついた。
『こんばんは。明日はお時間ありますか?』
あの時。
立花さんに勉強を教わりに行った先で出会った、コンビニエンスストアの店員であり、立花さんの弟さんである、立花橙(たちばな とう)さん。
強引ともいうべき方法で私の連絡先を確認してからというものの、頻繁に連絡が来るようになった。
どう返事していいのか分からず、とりあえず挨拶だけは返すようにしているが、誘いにはすべて時間的な理由で断りを入れている。
(正直、困る)
連絡を入れてくるということは、少なくとも毛嫌いをしているわけではなさそうだ。
(お兄さんに近づく女子を追い払いたいとかでなければ)
文面からも、会った時の印象も、悪意は感じない。
だからもっと気楽に接してもいいのかもしれないが・・・。
心の奥底でそれを拒む自分がいる。
嫌いというわけではない。
ただ、苦手なのだ。
あの日会って以来、彼の働くコンビニには行き辛くて別のコンビニを利用している。
「こんばんは。すみません、明日も時間が取れなくて・・・と」
いつもと同じように挨拶と断りを入れ、スマホを枕元に置く。
出てくるのはため息。
どうしてこんなことになっているのだろう。
思い返してみても、自分を誘う男性は今までいなかったし、それを当然と思う自分がいた。
人見知りと言ってしまえばそれまでだが、親戚に対してもつい遠慮してしまう自分にとって、初対面の相手と気さくに話すということはたまらなく苦痛だった。
今回、立花さんにTAとしてお願いするようになったのも、たまたまゼミの教授が立花さんを知っていて、紹介してくれたからだった。
そのため、当初はまともに会話が成立せず、立花さんも相当苦労したのではないかと思う。
それについては申し訳ない気持ちでいっぱいだが、そんな状況でも立花さんは根気よく私に話しかけ、丁寧に指導し続けてくれた。
だからこそ今がある。
少なくとも他の人に対するよりは、立花さんと話すときは落ち着いて話すことができる。
やっと構築できた関係なのだ。
そんな私が、まだ名前を知ったばかりである弟さんと気楽にやり取りする、ましてや二人で会うなんて、できるわけがない。
相手の意図はよく分からないが、少し距離を置こうとしてしまうのは許してほしい。
心の中で謝罪しながら、私は今日も眠りにつくのだった。
翌日。
私の気分とは裏腹に、外は雲一つない快晴だった。
(こんな風に心もすっきり晴れればいいのに)
それでも、どんよりとした空を眺めるよりはいくらか気持ちも上向きになる。
「今日も頑張ろう」
身支度を整え、私は大学へと向かった。
午前中は講義がなかったので、工学部棟で立花さんに教わりながら課題を片付けていく。
立花さんと時間を共有していると、穏やかで心地いい。
心の中のもやもやも和らぐようだった。
(このままずっとこうしていられたらいいのに・・・)
自分に存在する微かな欲が首をもたげてきた時だった。
「お邪魔します」
研究室の扉が開かれ、顔を出したのは・・・弟の橙さんだった。
(え、え、どうして)
昨日断りの連絡を入れているのもあって、つい狼狽えてしまう。
立花さんを見ると、弟の来訪をさして驚いた様子もない。
(また忘れ物を届けに来たのかな・・・)
「これ兄さんに」
立花さんに手渡されたのは、明らかに店で購入してきたと思われる紙袋。
「差し入れ~」
「ありがとう」
(あれ、忘れ物じゃないんだ)
ぼんやりと二人のやり取りを見つめる。
不意に立花さんは弟に向けていた視線を私に向けた。
「もうお昼だし、今日はこの辺で終わりにしようか」
「あ、はい。ありがとうございました」
立花さんは私が頷いたのを確認し、じゃあ、と軽く手を上げて隣の部屋へ入っていった。
残されたのは、教科書が広がったままの私と、横に立つ弟さん。
(き、気まずい・・・)
もちろん、視線を向けることもできない。
ぎこちなく教科書をカバンにしまおうと手を伸ばす。
「朔良さん、お久しぶりですね」
急にかけられた声に、思わず喉が固まる。
「あっ、おひ・・・さしぶりです」
横に立っていた橙さんは、先ほどまで立花さんが座っていた正面の席へ移動し、私と視線を合わせようとしてきた。
気配は感じるが、私は目を合わすことができない。
「お昼ごはんまだだよね?一緒に食べましょう?」
友達と食べる約束がある、と言いたかったが、あいにく私にはそんな友達はいなかった。
午後からは講義があるので、帰るわけにもいかない。
「“時間”ないですか?」
昨日の返事を持ち出されたような形で問われ、私は逃げ場がないのを感じた。
「・・・昼休みだけなら」
「じゃ、早速行きましょう!」
ぱっと表情を明るくし、橙さんはいそいそと私の片づけを手伝い始めた。
私と一緒にいて何が楽しいのか分からないのか、橙さんは元気いっぱいだ。
立花さんに一声かけると、私たちは研究室を後にした。
背の高さも違うので、当然歩幅に差が出てくる。軽やかに歩を進める大きな背中を私は必死で追いかけた。
途中、人とぶつかりそうになった橙さんを見て、思わず手を伸ばして引き寄せる。
少しばつが悪そうに振り返った表情が思ったより幼く見えて、そんな風に考える自分に驚いた。
(確か年齢は一つ下って言ってたっけ・・・)
年下と感じる要素が今までどこにもなかったので意識していなかったが、よくよく見てみると、顔立ちも立花さんより若いし、身にまとう雰囲気自体が瑞々しい。
(いや、立花さんが若くないとかそういうことじゃないけど)
自分で自分に言い訳する。何を言い訳しているのかももはや不明だ。
(それに、比較することでもない。二人は兄弟だとしても別の人、なんだから)
歩みを促す橙さんの後ろにつきながら、そっとその背中を見つめる。
今まで理由の分からない「怖さ」を橙さんに感じていたけれど、垣間見えた年相応の表情に少しだけ安心する自分がいた。
兄弟でたまに来るという、構外からほど近いイタリアンのお店に入り、天気がいいからと橙さんの勧めでテラス席へと向かう。
季節柄、暑くも寒くもないこんな陽気の日は、確かに外で食事すると気持ちがよさそうだ。
といっても、思ったことはあっても実行に移したことはない。
外食するときは基本的に隅の席を選択している。
友人や恋人同士が楽しげに会話する様子を遠くに見ながら、自分には縁遠いものと思っていた。
そのため、席に着いたのはいいものの、どこか所在なさげにしてしまう。
そんな私を見ながら、橙さんは終始笑顔だった。
その視線がどうにも落ち着かず、柄にもなく口火を切ってしまう。
「・・・あの、立花さんは」
「立花さんってどっち?俺?それとも兄さん?」
「あ、ええと・・・」
あなたです、と手を向ける。
「なんか呼びにくいし、俺もどっちを呼ばれてるのか分からないから、下の名前で呼んでほしいな」
「えっ」
突然の申し出に言葉を失う。
確かに二人が同じ場所にいたら、名字で呼んでも特定できないのはあるけれど・・・。
(男の人を名前で呼ぶ、なんて・・・)
頭の中では名前で呼んでいたが、それを口にするのとでは天と地ほどの差がある。
「そ、それは、難しい、んですが・・・」
「ほらほら、敬語もなしで!朔良さんのほうが年上なんだし、さ」
有無を言わせぬ橙さんに、たじろぐしかない。
「兄さんを立花さんって呼ぶなら、俺を名前で呼ぶしかないでしょう?」
もっともな意見ではある。
が・・・。
(えええー・・・)
とんでもないハードルを突きつけられた。
途方に暮れながら、向かいの席に悠々と座る相手の表情をうかがう。
橙さんの表情はあくまで笑顔だ。
しかしそこはかとない圧力を感じる。
(受け入れないと帰らせてくれない気がする・・・)
しばらくの逡巡の後、今持てるだけの勇気を振り絞って口を開いた。
「・・・・・・と、と、とう、さん・・・?」
「さん付けもやだなー。まるで俺がお父さんみたいじゃん」
容赦ない注文が降ってくる。
この人は本当に私をどうしたいのだろうか。
「・・・で、では、橙くんで・・・」
「うん」
にっこり。
ようやくお許しが出たようで、私は大きく息を吐いた。
そのことで私もある種の覚悟ができたのかもしれない。
そこからは、ぽつりぽつりとではあるが、橙くんと会話を続けられるようになった。
わずかではあるものの、先ほどまで抱えていた橙くんに対する後ろ向きな気持ちが払拭されたような気がした。
食事も終盤に差し掛かったころだった。
何の気なしに大学の方向へ視線を向ける。
テラス席からは大学の校門がよく見えた。
すると、大学方向から小走りでやってくる人物にふと目がいった。
「あれ・・・」
それは、先ほどまで勉強を教えてくれていた立花さんだった。
(なんだか急いでいるみたいだけど・・・)
なんとなく気になって、立花さんの行方を目で追う。
あんなに慌てた立花さんを見るのも珍しい。
ほどなくして、立花さんは歩みを止めた。
そしてきょろきょろと辺りを見回している。
どうやら誰かを探しているようだった。
(どなたかと待ち合わせ、かな)
人の動向をじろじろ見るのは失礼だとは分かっていたが、目を離せなかった。
やがて立花さんの視線が一点に定まり、そして・・・今まで見たことのない情感のこもった笑顔で手を上げた。
その表情に、心臓が嫌な鼓動を上げた。
立花さんが駆け寄ったその先には、制服を着た高校生と思しき少女が立っていた。
(なんだろう、これ・・・)
二人の様子をそれ以上見ていることができずに、私は目を逸らした。
心臓の音がやけに頭に響く。そのせいなのか、酸素が足りない状態の時のように頭が痛い。
膝の上に置いた両手をぎゅっと握り、突然襲ってきた症状にじっと耐える。
もともと体調が悪かったわけではない。
それなのに、全身が重くてうまく思考が働かない。
橙くんが何か話しかけてきているが、一向に耳に入らなかった。
一瞬しか見ていないはずなのに、先ほどの二人の様子が・・・立花さんの表情が、頭から離れなかった。
どうして。
私はこんなにも今、苦しいのだろう。
自問しても、答えは出なかった。
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