これまでも、これからも目の前に提示された3つのテニスボール大の球体に視線を向けながら、キースは眉間のしわが深くなるのを自覚していた。
「おい、アルバス。これは…なんだ?」
キースは視線を上げて、自らがアルバスと呼んだ目の前の人物に問う。
テーブル越しに相対するアルバスは、不審極まりないキースの様子などまったく意に介した様子もなく、大きな瞳を輝かせてキースを見つめながら、びしっと3本の指を立てた。
「今回は3択返しなのです」
「はぁ?」
一瞬何を言われたのか分からず、思わず声を上げる。
すると、アルバスはまるで物わかりの悪い子供を見るように顔をしかめた。
「相変わらずキーやんは世間の常識に疎いのです。ホワイトデーといったら、3が付く何かでお返しするものなのですよ?」
(いやいやいやいや)
心の中で全力否定するが、どうせ押し切られるので黙っておく。
彼女の中の常識は、大抵仕事仲間からの入れ知恵で占められているのだ。
(大体、「3倍で返せ」とチョコを渡したときに言っただろうが。それがどうして3択にすり替わる?)
入れ知恵する方もする方だが、それを鵜呑みにする方もどうかと思う。
(僕の言葉はスルーで、彼女の言葉は何でも信じるんだな・・・なんだか面白くない)
眉間のしわがますます深く刻まれていく。
「キーやん?」
アルバスの声で、キースは思考を引き戻された。
「・・・はぁ。分かった。3択なんだな」
仕方なくキースが折れると、アルバスは少し膨れていた頬を再び笑顔で緩ませる。
「そうなのです。前回は3杯返しでキーやんの大好物のうどんを3杯ご馳走しましたが、今回は別の趣向を凝らしたのです」
(前回と変わらず集合場所がKuの働くうどん屋だから、今年もうどんを3杯食わされるのかと思ったが、そうじゃなかっただけ良しとするか)
「それで?」
「だから3択返しなのです」
「・・・・・・」
キースからの怒気を含んだ無言の催促に、さすがのアルバスも説明が必要だと悟ったようだった。
「ええと、この中のどれか一つを選ぶのです。選んだボールの中に書いてあることを叶えますです」
(普通にお返しできないのか、コイツは・・・)
好意で用意してくれているのはアルバスの表情からしても明白だ。
しかし、何故かその中にとある人物の影を見てしまうのは、キースの穿った思い込みなのか。
いずれにしても選択しないことには話が進まないため、キースは3つのボールに再び目を向け、思案を始める。
(まぁ、お返し用に用意しているんだから、どれを選んでも問題はないだろうが・・・)
お返しの程度の幅が変わるのだろうか。
アルバスの表情を見る限り、外側から区別することはできないらしく、彼女自身もどの球体にどんな内容が記載されているか把握していないようだった。
子供の頃に読んだ昔話を思い出しながら、キースは3つのうちの真ん中を指し示した。
「じゃあこれにする」
「分かりましたです」
急に神妙な面持ちになったアルバスが、球体の真ん中にある切込みを回転させ、中に入れられている紙を取り出す。
折りたたまれた紙を開くと、そこにはたった一言が記載されていた。
『3倍力でハグ』
「え?」
想像の範囲を超える内容に、思わず声が漏れる。
キースの選択に何故かアルバスは驚いているようだった。
「まさかそれを選ぶなんて・・・さすがキーやんなのです」
(3倍力でハグってどういうことだ?ただ字面だけで判断すると・・・ハグを、3倍の力でするってことか・・・?つまり、彼女が力を込めて僕を抱きしめる、と・・・!?)
自分で至った結論に、キースは思い切り赤面し、動揺する。
(いや、まさかそんなこと・・・だがアルバスならやりかねない、か・・・?)
ちらりとアルバスに視線を向けると、アルバスは了承したとばかりに大きく頷き、席を立ったかと思うと・・・何故かキースに背中を向け、背後に声をかけた。
「お願いしますですよ、Ku!」
「え、なんでここでKuを呼ぶんだ・・・?」
Kuと名を呼ばれた体格のいい男性が、当初のキース以上に顔をしかめながら二人の元へやってきた。
「どうしてそれを選ぶかな、お前は・・・」
「いや、そんなことを言われても・・・というか、なんなんだ?」
二人に気圧されるようにキースもテーブルから立ち上がり、自然とKuと対峙する形になる。
「お前が選んだんだろうが」
「選んだって・・・その、3倍力でハグ、か?」
「そうだよ」
キースが選んだ内容により登場したKu。
その事実に、キースの頭が警鐘を鳴らした。
(まさか、紙に書かれていたハグって、アルバスがしてくるんじゃなくて・・・)
「それでは、どうぞなのです!」
アルバスの嬉々とした声が今は悪魔の声に聞こえる。
急激に体温が下がったような気がするのは気のせいなのだろうか。
「自分のくじ運を呪うんだな」
死刑宣告とともに距離を縮めてきた相棒に、キースは自分の中の最悪の想像が当たったことを悟った。
「当社比3倍だ」
その瞬間、キースの体はKuのたくましい両腕にがっちりとホールドされる。
背骨から肋骨にかけて強い圧迫を受け、キースは思い切り悲鳴を上げた。
「い・・・痛い痛い痛い!これはハグじゃなくてベアハッグ・・・!!!!」
彼の悲鳴はそれからしばらくの間店内に響き続けるのだった。
「・・・とんだお返しだったよ」
地獄のハグから解放され、キースはぐったりとテーブルに突っ伏した。
「びっくりしたですか?」
無邪気に笑うアルバスに思い切り罵詈雑言を浴びせたいが、その気力さえ今のキースにはない。
何をどうしたらお返し候補にベアハッグが挙がってくるのか、アルバスの思考が理解できない。
何より、紙を開いた瞬間の己の都合のいい解釈に恥ずかしさと腹立たしさが収まらない。
(僕はどうしていつも彼女に振り回されるんだ・・・)
「・・・ちなみに、他の2つはなんだったんだ?」
力無く問えば、アルバスは種明かしとばかりに残りの球体を開いて見せた。
示された文言に、疲労がどっと押し寄せる。
「3回キス権と、3回おねだり権・・・だと・・・?」
(まさかこれも全部Kuが・・・)
キースの恐怖をよそに、アルバスは残念そうに、そしてほんの少し羨ましさを込めてキースを見つめた。
「この2つはわたし担当だったのです。でも唯一のKu担当だったハグを選ぶなんて、キーやんの相棒に対する思いの強さに感動なのですよ」
「・・・ろ」
「?」
机に突っ伏したまま呟くキースの声が聞き取れず、アルバスはテーブルに顔を近づける。
「よく聞こえないのです」
「・・・いいだろ」
「え?」
再度聞き返したアルバスに向かって、キースは顔を上げて大きく叫んだ。
「全部君が担当すれば良かっただろっっっ!!!!」
(キョウ姉は何か面白いことをした方がキーやんが喜ぶと言ってましたが・・・なんだかキーやんはぐったりしているのです)
自分の想像とは違う反応に、アルバスは顔を曇らせる。
彼女も別にキースを苦しめようとしていたわけではない。
ただ、記憶に残るようなホワイトデーにしたかっただけなのだ。
(キーやん、疲れてます)
叫んだあと再びテーブルに突っ伏したキースを見て、アルバスの表情は更に翳りを増した。
(これでは、わたしが用意したアレも、そんなに喜んでくれないかもです)
肩を落としつつも、せっかく用意したものだという気持ちがあったため、アルバスは疲労困憊のキースを残し、静かに席を立ったのだった。
当のキースはというと、アルバスの気配が消えたため、何事かと顔を上げる。
気配がないのだから、当然姿はない。
Kuは先ほどの行為が終わったところですぐに厨房に引っ込んでしまっているため、フロアにはキースただ一人が残される。
開店前のがらんとした店内。
遠くから聞こえる仕込みの音に、なんだか取り残されたような気分になる。
(アルバスはどこに行ったんだ・・・?)
軽く見回しても彼女の姿はない。
(まさか帰ったとか・・・?)
先ほどは疲労と羞恥と痛みのあまり、彼女に向かって思い切り叫んでしまったが、そのことで傷つけてしまったのだろうか。
問いかけようにも相手は目の前におらず、不安だけが膨れ上がる。
「おい、アルバ・・・」
ス、と名前を呼ぼうとしたその時、アルバスが再びキースの目の前に現れた。
「あ、キーやんが起きてるのです」
おっとりとした口調に、知らずキースの肩の力が抜ける。
「急に消えるから何事かと思ったぞ」
「キーやんが倒れてるから、その間に準備しようと思ったのですよ」
「準備?」
「はい、これの準備なのです」
そう言ってアルバスが差し出したのは、大きな天板だった。
天板の上にはクッキーで作られた色とりどりの花や鳥、動物がにぎやかに飾られており、焼き立てなのか、微かに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「甘いものが苦手なキーやんのために、今回もお砂糖は控えめなのですよ」
「これは・・・」
「さっきのはお返し前の準備体操なのです。これがホワイトデーの本番なのです」
驚きで目を見開くキースを見つめながら、アルバスはにっこりと笑った。
「クッキー生地には香りのいい紅茶を練りこんでありますです。生地に甘さはほとんどないのですが、表面の色付き砂糖で少しだけ甘さを感じるようにしてあります。頑張って作ったのです」
えへん、と解説を加えながらアルバスは胸を張る。
そんなアルバスの様子に、キースは先ほどまでの疲労がすっと消えていくようだった。
「焼き立てなので今食べてほしいのです」
「分かった分かった」
急かされるようにキースは花を形どったクッキーを一つ口に運ぶ。
さくっとした歯触りが心地良い。
口の中でほのかに紅茶の香りが広がった。
「・・・うん、うまい」
キースの率直な一言にアルバスの表情がぱっと明るく輝いた。
「本当ですか?」
「ああ、これなら僕でも十分美味しく食べられそうだ」
「良かったのです。嬉しいのです」
アルバスの満面の笑みに、キースもつられて微笑んだ。
(かなわないな、アルバスには)
「あ」
「?」
「キーやんが笑った!すごく嬉しいのですよ!」
きゃっきゃと子供のようにはしゃぐアルバスに、キースは照れ隠しのためか、つい否定してしまう。
「べ、別に僕はそんな笑った覚えは・・・」
「笑ったのです!さっきまでは怒っていたので、もしかしたらわたしのことを嫌いになるかと思ってちょっと心配だったのです。でも笑ってくれて・・・本当に嬉しいのですよ」
「アルバス・・・」
安心したように、にこにこと笑うアルバスを見て、観念したかのようにキースも再び相好を崩した。
(嫌いになんか、ならないさ)
振り回されるのは本意ではないが、たまにはそれも悪くないと思える。
何より、アルバスの笑顔は周りを明るくしてくれる。
たまにどう扱っていいか困るときもあるが、いないとそれはそれで物足りないような気もしてしまう。
何より、こんな風に自然に他人といられるのはキースにとってはそんなにあることではなかった。
「ねぇ、キーやん」
「ん?」
クッキーを口に運ぶキースを見つめるアルバスの目は、いつもより「大人の女性」らしい優しさを滲ませていた。
「これまでも、これからも、ずっと近くにいてほしいのですよ」
終
余談。
「ちなみに、クッキーの中に一つ、超激辛唐辛子を練りこんだものを混ぜてありますです。楽しみにしていてくださいです」
「だから・・・そういうサプライズはいらないって言ってるだろっっっ!!!!!」