6. 約束だけを残して君は自分の中の名前を付けられない感情は、あれからずっと燻っている。
あの日の光景。
立花さんが楽しそうに女子高校生と会話をしている姿が頭から離れない。
今までだって立花さんが他の女子学生や友人と話している姿は見てきたし、それに対して何も感じていなかった。
それなのに。
どうして今はこんなにも胸が苦しいのだろう。
苦しくて苦しくて・・・勝手に涙が溢れてくる――
約束だけを残して君は
どんなに辛くても、どんなに逃げ出したくても、否応なしに時間は流れ、後戻りをさせてはくれない。
「・・・ひどい顔」
鏡の前の顔を見て、思わず呟く。
眠れない日々が続いているせいか、顔全体から生気が失われているように見える。
何をそんなに思い悩む必要があるのだろう。
鏡の前の自分を相手に自問自答してみる。
別に私は立花さんと特別な関係にあるわけでもないし、そうなりたいとも思っていない・・・と思う。
憧れる気持ちはあるが、それはあくまで尊敬する先輩としてだ。
こんな風にいつまでも立花さんのことを考えること自体がそもそもおかしい。
そう思うのに。
あの時の光景がフラッシュバックのように襲ってくる度に、私の心臓は病気かと思うほど苦しくなり、知らず涙が浮かんでくる。
(本当に何かの病気なんじゃないのかな)
それらしい症状について調べてみたが、これというものはなかった。
(・・・そうじゃない)
本当は自分でも気づいてはいる。
この症状が病気ではないことは。
でも、それを認めることがどうしてもできない。
納得が、できない。
他人と距離を置こうとしている自分が、誰かとの距離を縮めたいと思うなんて、おかしい。
論理的じゃない。
私は・・・立花さんに恋をしているわけじゃない。
何度も自分に言い聞かせているうちに、気持ちが少し落ち着いてくる。
目の前の顔も心なしか生気を取り戻してきたような気がする。
そう。
きっと私はこの状況に酔っているだけなのだ。
自分が他人とそこまで関われたことがないからこそ、脳が勘違いをしているのだ。
誰かを好きになるなんて・・・。
「そんなはず、ない」
呟いても、鏡の中の自分が答えをくれることはなかった。
試験期間に入ったため、構内はいつもより閑散としている。
部活動もさすがにこの期間は活動を自粛しているのか、グラウンドから聞こえてくる掛け声や校舎から響くハーモニーも聞こえない。
代わりに賑わうのが図書室だ。
いつもは自習生や次の講義まで一休みする学生などがまばらにいるだけだが、この時期だけは活気づく。
友達同士で教えあったりノートをコピーしたりと大盛況だ。
私としてはいつもの静かな図書室が好ましいのだが、こればかりは仕方がない。
図書室の他に時間を気にせず自習で使える場所もないため、せめてもの抵抗として図書室の隅にある仕切り板で区切られた自習スペースを確保する。
ざわついた空気を背後に感じながら、鞄から取り出した教科書に視線を落とした。
と、その時だった。
机に置いてあったスマホが微かに振動する。
表示されたメッセージの送り主の名前を見て、私は息をついた。
眠れなくなっているのは、立花さんのことだけが要因ではない。
その弟である橙くんも、ある意味私の中では悩みの種と言えた。
一緒に食事をしてから、以前にも増して橙くんからの連絡が届くようになった。
あの日・・・私はおそらく橙くんに対して最低な態度をとっていたと思う。会話もそぞろに別のことに気を取られ、挙句の果てには何を会話していたのかもはや記憶にない。こんな自分は呆れられて当然だと思うのだが、橙くんから届くメッセージにはそれを責めるような文言も気配も感じられないし、そもそも連絡が減るどころか増えるというのも奇妙な話だ。
(あの人は何を考えているんだろう)
橙くんは私がいい、と言ってくれた。
何の変哲もない私を。
それが本心だとしたら、尚更辛い。
私のことを見てくれた人の目の前で、私は別の人を見ていたのだ。
そこに至るまでの経緯が強引だったとしても、誘いを受け入れた時点で私は誠意をもって橙くんと接するべきだったのに。
だからこそ、橙くんからの連絡が来ると、あの日の不誠実さへの申し訳なさも相まってつい躊躇してしまう。
それがまた失礼になってしまうと分かっているのに、手が止まる。
(連絡、無視しないでって言われてたっけ・・・)
結局、いつも通り応答か質問に答えて終わるだけのメッセージを送信し、スマホを机に置く。が、しばらく逡巡した後、鞄にしまった。
なんとなく、誰とも繋がらない時間の中にいたかった。
「勉強、しよう・・・」
勉強に集中していれば余計なことは考えないでいられる。
試験期間中は立花さんにも会わないし、橙くんにも時間は取れないと伝えてある。
本当はどうしたいのか・・・気持ちの先を知るのが今は怖かった。
朔良さんからの返事は相変わらず素っ気なく、そして反応は遅い。
「少しは慣れてくれてもいいのになー」
まぁ、そこが彼女の面白いところではある。
女子は大抵俺と話すと嬉しそうにするし、俺もそうなるようにうまく彼女たちを乗せるようにしている。
浅く広く、本心は見せないままでひらりひらりとかわしていく。
そんな感じでこれまでうまく関係を築いてきた。
ところが、朔良さんはそうはいかない。
基本的に俺を警戒しているし、打ち解けようとする空気を感じない。
なかなか難攻不落な城だ。
兄さんはどうやって彼女と関係を築いたのか聞いてみたけど、ゆっくり時間をかけて接しているうちに今のような関係になったらしい。
俺にはできない芸当だ。
そもそも俺と兄さんでは持っている空気も、他者に対する態度も全然違う。
俺だったら気になる相手には躊躇わずに近づいて、あらゆる手を尽くして自分に関心を向けさせる。
欲しいものは必ず手に入れたいタイプなんだと思う。
兄さんは自分より相手を尊重するタイプだから、結果的に自分が一番被害を被ったとしても笑っていられる人だ。
そんな兄さんが俺は好きだし、尊敬している。
けれど、それとこれとは話は別だ。
手に入れたいものを誰かに譲るなんて、俺にはできない。
「今日はもうバイトは終わりなのか?」
リビングで朔良さんからの業務メール(としか思えない単調な返事)を見ながらぼんやりしていると、兄さんが大学から帰ってきた。
朔良さんからも聞いていたが、今は試験期間中で通常とは違う時間割で動いているらしい。
「あ、おかえり。うん、今日は早朝シフトだったからもう終わり」
「そうか。お疲れさま」
「兄さんも」
俺と兄さんの関係は非常に良好だ。
何があってもこの関係は崩れないと思う。
だからこそ、余計に確認しておきたい。
「兄さんは朔良さんのこと、本当はどう思ってるの?」
俺の問いかけに、兄さんはまたかという表情をした。
「それ、少し前にも聞いてなかったか?前にも言ったけど、彼女は俺がTAを受け持っている学生さんの一人で、真面目だしとてもいい子だとは思うけど、どう思うと言われるとそれくらいしか言いようがないな」
さすが兄さん。
それを朔良さんの前で平気で言えちゃいそうなところがすごいよね。
「じゃあさ、この間大学の近くで待ち合わせしてた彼女は?」
「え・・・なんで知ってるんだ?」
兄さんは少し目を見開いて俺と視線を合わせた。
どうやらあの日俺たちが兄さんを目撃していたことにまったく気づいていなかったようだ。
それもそうか。
兄さんは彼女の待つ、前しか見ていなかったから。
「朔良さんとランチした店が、俺たちがたまに行くあのレストランでさ、兄さんが走っていくのが見えた」
「ああ、なるほど・・・」
「それで?彼女のことは?」
重ねて問いかけると、兄さんは何か躊躇うような間を見せた後、口を開いた。
「・・・それも前に言ったと思うけど、放っておけない子でね、近くで見ていてあげないと心配になるというか・・・まぁ、向こうからしたら余計なお節介に思われているかもしれないけど」
「ふうん」
兄さん。
兄さんは自分のことに鈍感だからまったく意識もしていないんだと思うけど、朔良さんのときは即答したのに、その子の時は一瞬間が空いてたよ?
なんて、周りが鈍感だと勝手にこっちが色々鋭くなっちゃうのは自然の摂理だよね。
でもとりあえず兄さんの現状の気持ちは確認できた。
あとは・・・。
「朔良さん、かな」
無意識って本当にタチが悪い。
思い切り踏み込んでほしいわけじゃないけど、関心を向けられないっていうのも寂しいものなんだよね。
特に、自分が気になる相手には、さ。
関心を向けれらないのは寂しいと思うのに、あの真っすぐな瞳に見つめられると、本心を見透かされそうで少し苦手だったりもする。
あー、つくづく面倒くさい。
でも気になるから、やっぱり会いたいし話したい。
試験期間が終わったら、また食事にでも誘おう。
たくさん話して俺のことを知ってもらおう。それに朔良さんのことも色々知りたい。
今度はどの店にしよう。どんな話をしたら彼女は興味が湧くだろう。何をしたら彼女は喜んでくれるだろう。
期待に胸を膨らませながら、俺は試験期間の終了を指折り数えたのだった。
けれど。
試験期間が終了したのとほぼ同時期から、朔良さんからの連絡は途絶えたのだった。
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