蛍 春一番が遠くなって、初夏の陽気が漂い始める五月。あたしと獠は、とある依頼の打ち合わせで駅前のホテルにいた。
打ち合わせ自体はとても順調に終わり、帰る頃にはすっかり日も暮れていた。ホテルの玄関を出た途端、吹き付けた風が少し肌寒く思えて、あたしは身体を縮こまらせた。
その時、あたしの目の前をふわりと光が横切っていった。見上げてみると、いくつもの小さな光の点が木を、宙(そら)を、水辺を、彩っていた。
「ホタル……か 」
あたしの背後で、獠がそう呟いた。
ホテルの玄関には、ビアガーデンが作られていて、そこにビオトープが併設されていた。たぶん、これはそこに放たれた、ホタル達だ。
「かわいそう……」
「どうして?」
「だって……。ホタルって成虫になってから、七日しか生きられないんでしょ?」
ホタルはそのほとんどの生涯を水中で過ごす。二年かけて成虫になり、成虫になってからは水だけを食料に一~二週間過ごし、その間にパートナーを見つけ、卵を残して死んでいく。誰かに教えてもらうわけでもなく、伝えられるわけでもなく、命の営みは繰り返されていく。
「たった十日程なんだよ。その間にパートナーを見つけたって、たった数日しか一緒にいられないんだよ」
葉の先に止まっていたホタルは、再び飛び立ち、身を焦がして宙に舞う。
ホタルはその変えようのない事実を知っているのかな? そのことを知ってて、その命を燃やすように淋しく光ってるの? 愛する人を求めて……。
「せめて……。このホタルみんなが、大切な人に巡り逢えたらな……」
そう。あたしが獠と巡り逢えたみたいに。それぞれの「大事な人」が見つかればいいのに。
「……大丈夫さ」
あたしの横に並んだ獠は、ポケットに手を入れたまま、ただ静かに宙を見上げていた。
「なぁ……。人が『その人』として生まれる確率を知っているか?」
「……知らない」
「男が一生の間に作るおたまじゃくしが約一兆~二兆。女の人は月一回の生理があるから、男より少ないように思われるが、ほんとは同じ数の卵が作られてるそうだ」
「そうなんだ……」
「そこから一つと一つが出会って、『一人の人間』が生まれる」
その確率は――
二〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇×二〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇分の一。
あたしも、獠にも、あたしたちをこの世に授けてくれたおとーさんとおかーさんがいたはずで……。その確率を潜り抜けてあたし達が生まれた。
「それだけでもすげーってのに、こうして同じ人間、同じ時代に生まれて、一緒にその時間を過ごしているわけだ」
獠はまだ静かにホタルを見つめていた。獠と同じ時間を共有して、こうして一緒に過ごしていることは……。
「……奇跡、だよね」
「そんなもんで片付けられるかな?」
獠の言葉に少し驚いたけど、獠は真剣な眼差しであたしを捕らえていた。
「ずっと前から、ひょっとしたら俺たちが生まれる前から……決まっていたのかもしれない」
そう。同じ時代に生まれてなかったら、獠と出会っていなかった。あたしと獠がこうして出会って、そして愛しあえる確率っていったい……。それは、獠の言うとおり、「奇跡」を通り越して「必然」なのかもしれない。
一匹のホタルが、あたしの足元に舞い降りた。仄かな光をたたえながらも、しばらくじーっとしている姿は、まるで必死に肩で息をして、少しでも長く生きようとしているようだった。そのホタルも、再び宙高く飛んでいった。
「それでも……。一緒に過ごせるのがたった数日だなんて」
せっかく出逢えても、次の日には別れが待っているかもしれない。二年も待って、その日がたった一日とかだったりしたら……? 獠とあたしが、明日、引き裂かれるとしたら……? あたしの心の中を、一瞬影が過ぎた。
「長さの問題じゃねぇだろ」
そっと、あたしの肩に獠の手が回された。
「俺達だって、永い永い宇宙の営みから見れば、瞬きみたいなほんの一瞬の命さ」
獠の手が、あたしの身体を引き寄せた。触れる獠の身体はどこまでも温かい。
「そんな一瞬に、俺達は生きて、戦って、怒って、泣いて、愛し合うんだ。俺達もホタルも、たいして変わらないさ」
「……そっか。そうよね」
ホタルだって、この一瞬がずっと続くかのように信じて、舞っている。あたしだって、明日が当たり前にあるように信じて、生きている。ホタルも、あたしも同じ。そこにあるのは……。
「……よく見つけてくれたよな」
「えっ?」
「『俺はここにいる』って叫んでるみたいじゃねぇか?」
獠はあたしを背中から抱きしめて、ポツリとそう言った。
そう。きっと、獠もあたしも、ホタルと同じなんだよ。
終わりのない戦いの日々。今だってそうだけど、あたしと出会う前の獠は、もっと悲惨な日々を過ごしてきた。人の心配なんかする余裕もない、まして誰かが喜んでくれるわけでもない。そんな戦いの中で、獠は必死に生き伸びてきた。まるでその命を燃やすかのように。けれど、戦いの日常は、毎日毎日同じように繰り返された。日付もわからなくなるような戦いの毎日の中で、獠は傷付き、傷つけられた。
それでも、獠がここまで生きてきたのは……。こうしてあたしに見つけてもらうためだったのかもしれない。獠がそんなことを意識していたはずもないけど、いつかこうして、愛する人にこの命が届くように、本能がそうさせたのかもしれない。――あたしはちゃんと、獠を見つけられたよ。
獠と出逢ってからだって、お互いに何度も傷ついて、涙も流したけれど……。今は、獠はあたしのそばであたしを守るように寄り添ってくれている。
ビオトープの中の水辺で、一組の番(つがい)が死んでいた。水に押し流されそうになりながらも、決してお互いが離れないように願ったのか、脚を絡め合い寄り添ったままで。
「……帰ろっか」
「あぁ」
どちらからともなく差し出されたのは、お互いの手。何でも包み込んでしまいそうな大きな手に、あたしの手を重ねる。体温が合わさると、何となく照れくさい気分になった。獠もすこし恥ずかしそうに、はにかんでいた。
「……みんな、見つけてもらえるよね」
「そうだな」
ホタル舞う夜空の下、あたし達はアパートに向けて歩き始めた。
了