二人なら 木枯らしが窓を叩く今日この頃。俺は昼食を終えて、リビングでまったりとテレビを見ていた。テレビではくだらないお笑い番組をやっている。そこに、香が淹れたてのコーヒーを持ってやってきた。
「あー! この人たち、すごく面白いのよ!」
そう言いながら、香はコーヒーを載せたトレイをガラステーブルに置いた。俺の目の前にマグマップを一つ置くと、香は自分のマグカップを持って俺の隣に座った。
「あははははっ! おっかしぃんだぁ!」
「……フン」
何がそんなにおかしいのか、俺にはさーっぱりわからない。俺は熱々のマグカップを取ると、静かに飲み始めた。
「……ねぇ」
「んぁ?」
顔を上げると、香が俺の顔を覗き込んでいた。
「獠ってさ。大笑いする事って、あまりないよね……?」
「そうかぁ?」
「だって、あんたの笑顔って言ったら、イヤミな顔しか思い浮かばないもん……」
確かに、香をからかって遊ぶのは、俺の趣味だが……。
「自分じゃよくわからんなぁ……」
鏡で自分の笑顔なんて、見たことねーし。
「あっ! いけない! もうこんな時間だわ!」
香は壁に掛かっていた時計を見た。時計の針は、一時半を指していた。
「二時に中央公園で、依頼人との待ち合わせがあるわ。あたしは伝言板見てから行くから、獠は先に行ってて」
「あ~い……」
香は飲みかけのコーヒーをトレイに乗せると、リビングを出て行った。
俺はガラステーブルの上に置いてあったタバコを取ると、火をつけた。――食後の満腹感、美味いコーヒー、そしてタバコ。ただでさえ少なかった午後からの労働意欲を、見事に削いでくれる。
「めんどくせぇなぁ……」
そう独り言ちながら、ごろんとソファへ横になると、突然目の前に、香の顔が現れた。
「うぉっ! 変なモン見せんな!」
「うるさいっ! つべこべ言わずに働けっ!」
香はきれいに整えられた眉を顰めて、そう言った。俺は慌てて寝転がったばかりのソファから起き上がった。
「もう出たんじゃなかったのかよ……」
「……忘れ物したのよ」
香はソファに掛けられていたマフラーを取ると、首へ巻きつけた。
「じゃあ、遅れないように来てね」
「……あぁ」
香は小走りでリビングから出て行った。
長くなったタバコの灰を灰皿に落としてから、俺は窓の傍まで歩いて行った。黒く低い雲が、どんよりと重そうに垂れ込めている。今にも雪が降り出しそうなぐらい、真っ黒な雲だ。
「車で行くかぁ……」
最後の一口を吸ってからタバコを灰皿へ押し込むと、俺はコートを片手に駐車場へ向かった。
中央公園に着くと、適当に空いてるベンチを探して座った。待ち合わせ十分前だが、香はまだ着ていなかった。見上げた空は、何処までも真っ黒で……。自分が吐く息も、白くなるぐらいに寒かった。
硬いベンチはスースーと風が通り抜け、尻から冷えてくる。雪が降りそうなぐらい冷え込んでいるんだ。
「さみぃ……」
さすがの俺でも、ポケットで握り締める自分の手が悴みだす。
――せめてこんなとき、アイツがいたら。
人肌が恋しくなった俺の脳裏に、今はこの場にいない相棒の顔が浮かんだ。
『りょお〜っ!』
……笑った顔。
『獠ぉっ!』
……怒った顔。
『りょ……』
……泣いた顔。
香は本当に表情が豊かだ。ころころと変わる様は、俺も見ていて飽きない。
それに対して、俺は確かにあまり笑わない。元々、感情を顔へ出さないようにしているせいもある。
もっこりちゃんを見かけたときは、ニヤリと口元が緩むことはあるが……。香みたいに「ハハハハ……!」なーんて、顔全体がくしゃくしゃになるような笑い方はしねぇなぁ……。
俺は低く濁った空を見上げて、少し笑ってみた。口元は僅かに歪むが、目が笑っていない気がする。上手く笑えた実感は全くと言っていいほどなかった。
『きゃははは……!』
『あははは……!』
小さな子供が数名、公園の中を笑いながら走っていく。その表情は遊びに夢中で、満面の笑みを浮かべていた。
俺、変なのか……? 笑い方を、忘れちまったか……?
「りょぉーっ!」
待ちわびた声が聞こえてきて、俺は声のした方向へ振り向いた。
「ごめーん! 遅くなっちゃった!」
息を切らせた香が、俺の前で足を止めた。どうやらここまで走ってきたらしい。
「待ち合わせは、あっちの広場よ。遅れちゃうわ!」
「……あぁ」
俺は空へ視線を戻して返事をした。あんまり今の顔を、香に見てほしくなかった。
「寒い中、何をしてたの? 一人でニヤニヤして……」
「別にぃ……」
「変なの~」
ふふふ……と笑った香の笑い声は、その場の空気をも暖めてくれそうなぐらいに、優しいものだった。香は……。どうしてそんなに、底抜けに笑えるんだ?
その時、俺の前髪にかすかに重みを感じた。
「あっ。雪……」
そんな香の声に空へ目を凝らすと、雲の隙間から一つ、また一つと雪が落ちてきていた。
香へ目を遣ると、香は空を見上げながら、その場でくるくると回っていた。さっきの子供みたいに笑いながら。
何がそんなに楽しいんだ? たかが雪が降ってるぐらいで……。
「おまぁって、ほんとよく笑うよな」
「だって獠といると嬉しいんだもん」
「……なっ⁉」
思わずベンチに座ったままの俺の身体が硬直する。何故だか顔がポカポカとして熱い。さっきまで感じていた寒さは何処へやら……。
「獠、照れてるの……?」
そういって香はにんまりと笑いながら、俺へ顔を近づけてきた。そして……。俺の唇へ、一瞬だけ熱が触れた。何が起こったのか分からず、思考回路が停止していた俺を置いて、突如香が逃げ出した。
キス……された⁉ 俺が、香に……⁉
俺の心臓が、うるさいぐらいにバクバクと胸を叩いている。どんな敵と邂逅したって、動揺することなんて無いのに、こいつにはいつも振り回されて、ドキドキさせられっぱなしで……。
香は奥の広場に向かい、走って逃げていた。その姿が段々と遠く、小さくなる。
「……っこの! 待ちやがれ!」
俺はベンチから立ち上がると、香を追いかけて走り出した。香は俺の方を振り返り、足を止めた。
「あははは! 獠、置いてくよ~!」
そう叫んで、再び香は走り出す。香の走るリズムに合わせて、マフラーがパタパタと跳ねていた。これじゃあ、まるで子供の追いかけっこじゃねぇか……。
「待てっ!」
俺が少し本気になれば、香に追いつけないはずは無い。俺と香の差がどんどんと縮まっていった。
「待てよ!」
「やだっ!」
香は顔だけ俺へ向けると、べーっと舌を出して見せた。
ちらちらと降り出した雪は、やがて牡丹雪となって落ち始めた。
「待てって!」
やっと香に追いついた俺は、香の首に右腕をかけた。そのまま力任せに香の身体を引き寄せた。
「いたっ!」
少し勢いが強過ぎたらしい。――だが。
「あははは……!」
聞こえてきたのは香の大きな笑い声だった。
「はははは……!」
香につられて、俺からも大きな笑い声が漏れた。ごく自然に。
コイツと居ると楽しい。コイツが居ると嬉しい。こいつが笑うと……それだけで、俺も笑える。
……そうか。きっと。人は誰だって、一人では心の底から笑えないんだ。一人で笑うなんて、そりゃ無理な話だよな。――お前が居てくれるから、俺は笑える。
思い切り笑ったら、さっきまで寒々しかった身体が、何だか暖かくなったように感じた。雪が降ってたってちっとも寒く感じない。
笑えるってことは……いいもんだな。ありがとな。香。
了