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    最後の晩餐 その日は一日中、地上に灼熱地獄を作る太陽を厚い雲が覆い隠していた。だがその代わり蒸し風呂のように、暑く、湿った空気が長旅にくたびれたグエルとオルコットの体を蝕んでいた。夕方近くに少し大きめの街に着いた時には、身体中の穴から水分と生気が放出され、一刻も早く体を洗って眠りたいと、それだけを考えていた。
    「ようやく着いたな。ここに今夜泊まっても明日中には軌道エレベーターに着くだろう」
     オルコットの声は珍しく疲れの色が濃かった。
    「ああ。じゃあ宿を探すのか」
    「そうだ。だがその前に市場に行く」
     オルコットは迷い無い足取りで人混みを進んでいく。グエルはその後ろをはぐれないよう、溺れた人のように不恰好に着いていった。
     市場は街の広場に店々がタープを広げて、それが連なったものだった。夕日に赤く照らされたかつて真っ白だったであろう薄汚れたタープと土と、店に並べられた色とりどりの野菜や服などの商品が鮮やかな風景を描き出している。戦災で荒んでいるだろうと思っていたが、人間というのは逞しい生き物で、店主たちは売り込みの声を上げ、客は値切りに精を出していた。
     食料品や日用品を扱っている通りを五、六本進んで止まったところは、人がまばらで、いてもがっしりとした体の男ばかりであった。タープの下の店舗に並んでいるのは、カーキーや砂色の商品……武装勢力や軍隊の放出品のようだった。
     帰りの分の装備とか食料を買うのか。明日、軌道エレベーターに搭乗すればひとまず旅が終了するグエルとは違い、オルコットは、地球上のどこかにいるフォルドの夜明けの拠点に帰るのだ。それは必要だよなと納得しつつ、グエルはやるせなく思った。
     オルコットにとってはグエルに食料や着替えを与えて、帰り道を案内することではなく、スペーシアンに銃弾を打ち込み、戦場を駆けるのが普通なのだ。グエルは共に旅をするうちに知った、オルコットのさりげない優しさや、魂に染み付いた誠実さが好きだった。誰かを傷つけるのではなく、オルコットの善良さが主体になる人生を生きて欲しかった。
     そんなグエルの心情を知らないオルコットは、携帯食料や、パウチに入った水を店主相手に淡々と値切っていた。少し値引きしてもらったオルコットは何の感慨も見せずに機械的に金を払い、移動する。グエルもその後ろを、とぼとぼと着いていく。
     屋台三軒分歩いた後オルコットが立ち止まったのは、別の携帯食料を販売する店だった。店頭には両手で抱えられるほどの箱や、カーキーの袋や缶詰が整然と並んでいて、その奥から無愛想な中年男の店主がグエル達を無気力な目で見ていた。
     オルコットは段ボール箱を一つ一つ見聞しては戻すを繰り返し、やがて目当ての物を見つけると、一つ取って店主に渡した。店主は億劫そうに、だが手慣れた様子で手早く会計を済ませると、商品をオルコットに手渡した。
    「よし、宿を探すぞ」
    「わかった。今更だが、こんなに遅くから探しても大丈夫なのか」
    「さあな。最悪野宿でも大丈夫だろ。今までもやってきたことだからな」
     それなら森の中の方がマシだ。あそこなら小川や泉があって体が洗えるし……と、グエルは憤った。だが体力も気力も限界な彼から、発言されることはなかった。

     グエルの杞憂は幸いなことに外れ、すんなりと宿を取ることができた。メインルームには、人が二人やっとすれ違えるほどの狭い通り道を挟んでベッドが二つ置かれ、窓際には小さな四角い木の古いテーブルに、同じ意匠の椅子が二脚配置されていた。部屋やシーツは古びていたが清潔そうだし、グエルが確認したところ、お湯も問題なく使えそうだった。
    「よかった。久しぶりのシャワーだ」
    「そうだな。石鹸もあるから髪までちゃんと洗えよ」
    「……いいのか?」
     グエルの眉間に皺が寄った。野宿ではもちろん、これまで旅の途中で泊まった宿では、水が途中で止まることすらあった。そんな環境からいきなりグエルの豊かな長髪まで石鹸で洗っていいと言われたのだ、信じきれないのも無理はなかった。
    「お前、明日は軌道エレベーターに乗るんだぞ。清潔な格好しとかないと怪しまれるだろ」
    「そっか……」
     筋の通った理由をあっけなく示されたのもあるが、イコールこの旅が終わることを改めて面と向かって思い知らされて、グエルの胸に去来したのは、喜びではなくさみしさだった。会社を立て直すという大仕事があるのは忘れていたわけではないし、早く取り掛かりたいと焦っていた。だが、オルコットに食べられる野草や、テントがなくても枝で小屋を立てる方法を教わったり、立ち寄った地域の祭りを通じてアーシアンの生活を知ったりすることがとても楽しかった。なにより、オルコットが無知で鼻持ちならないスペーシアンのグエルに、そっけないながらも真摯に向き合ってくれたのが嬉しかった。
    「もたもたすんな。入るならとっとと入れ」
     感傷に浸るグエルをオルコットが浴室に放り込んだ。グエルは気を取り直して、服を脱ぎ、さみしさまで洗い流さんと石鹸を泡立てた手でしっかり体を洗った。

     グエルの後に烏の行水でシャワーを浴びてきたオルコットは、自分のベッドの側に置いておいた薄く埃を纏ったバックパックから、最後に立ち寄った露店で買った紙箱を取り出した。箱には「Ration de Combat」と印字されている
    「開けてみろ」
     窓際の椅子に座って物思いにふけていたグエルに箱を渡し、自分も向かいに腰掛けた。グエルは緊張と、期待が混じった様子で、慎重に箱を開けた。
    「レーションのキットか」
     箱の中に入っていたのは、見慣れた長円形の大きな缶詰と円形の小さなが二つずつ、ビスケットとミューズリー、スープ、飲み物の袋に、エナジーバーがいくつか入っていた。物珍しそうに眺めるグエルの前に、オルコットが長円形の缶を二つ取り出した。隙間なく詰め込まれていたらしく、缶と缶がぶつかる音がした。
    「好きな方を選べ。今日の夕飯だ」
     缶にはフリカッセ、とビーフシチューと書かれていた。いつぶりだろう、こんな家庭料理を食べるなんて。グエルの胸のあたりがじわりと痛んだ。
     散々迷って、グエルはビーフシチューを選んだ。二人はそれぞれの缶を開けた。瞬間、グエルの目の前の缶から、牛肉とトマトとハーブが混ざった、食欲をそそられる香りが立ち上った。
    「このキットは簡易ストーブがついてて缶を温められるんだが火が出るんでな。別の機会にやってみろ」
     まあ、順調に会社が立ち直れば食うことはないだろうがな。とオルコットはつぶやいた。グエルは少し顔を歪めた。だが、増進させられた食欲が気分を前向きにさせた。
    「そんな便利なものがついているのかよ。すごいな」
     グエルは感心しながらビーフシチューを、キットの中に一緒に入っていたビスケットに乗せて口に入れた。
     トマトの酸味と、牛肉のコクが絡み合ったビーフシチューであった。グエルは瞳を輝かせた。
    「すげえ美味い」
    「ここのメーカーのレーションは高いが味がいい」
     フリカッセを頬張るオルコットの口角がわずかに上がっていた。心なしか誇らしげである。
    「すごいな、レーションでこんなに美味いものがあるなんて」
    「戦闘中の数少ない楽しみだ。士気にも関わるしな」
    「そうか……そうだよな」
     グエルはビーフシチューをせっせと口に運ぶ。牛肉は柔らかくほぐれていて、にんじんや玉ねぎにはしっかりスープの味が染み込んでいる。手間と時間をしっかりかけて作っているのだろうと思える逸品である。
     ビスケットも単品で食べてみた。ボキッという音を立てて折れる硬い食感である。ほんのりとした甘さはメインディッシュの邪魔はせず、だが単体でも美味しく食せた。中に胚芽の粒が入っており、食感の変化に心が躍った。
    「フリカッセはどんな味だ?」
     グエルに問いかけられたオルコットは、一瞬動きを止め、グエルを凝視した。
    「普通だ」
    「普通じゃわかんねえよ」
    「……食ってみるか?」
     オルコットはフリカッセの缶をグエルに差し出した。今度はグエルの動きが止まった。人の食事を取るのは行儀が悪いと教わっていたからだ。だが、ここにはマナーの教師も、家族も知り合いもいない。旅である意味開放的になっていたグエルは、好奇心に身を任せることにした。一口サイズの肉と野菜を少し、缶から掬った。
    「これも美味いな」
     鶏肉も野菜も柔らかく煮込まれている。クリームも牛乳の味がしっかりと出ていて、かなり食べ応えがあった。
     メインディッシュとビスケットを食べただけでも、このキットに同封されていたほかのレーションも、期待できそうだった。
    「よく知ってたな。こんなに美味しいレーションがあるなんて」
    「こんな仕事だからな。何種類も食べてるうちに知っただけだ」
    「それを何で今夜、買ったんだ」
     グエルの声が緊張で硬くなった。過酷な旅を終えたことへのご褒美、これからの難事業への激励、ただのきまぐれ。道中、味気ないレーションでも顔色を変えずに食べているような、食にも寝床にも関心のない男が、どうしてこのタイミングで、おそらく値が張るであろうこのキットを食べさせてくれたのか、知りたかった。
    「……市場で売ってたから、久しぶりに食いたくなっただけだよ」
     ほんの少し決まり悪げなオルコットの様子をグエルはくすぐったそうに笑った。この旅でわかったことだが、オルコットは優しい人間だが、その優しさを表現するのを恥じているところがあった。
    「ご相伴に預かれて光栄だよ」
     グエルはオルコットの言い訳に乗ってやることにした。実際、本心からこのレーションを食べれてよかったと思った。美味しい食事が疲れを吹き飛ばすと身をもって知れたし、レーションの常識が変わって楽しいと思った。
    「今度はコンロ使って温めたやつ食うよ」
     できればあんたと一緒に食いたいけど。その一言が口に出ることはなかった。

     数年後。
     アウトドアのレジャー施設が広がる上には、一面に継ぎ目のある青空が広がっている。擬似的に地球の自然を体験できるフロントであった。グエルは数少ない休日に、とある目的でここにやってきていた。
     グエルがカバンから取り出したのは、両手で抱えられるほどの紙箱であった。箱には「Ration de Combat」と印字されている。かつて軌道エレベーターの旅の最後の夜に食べたレーションキットを、この三つの単語を頼りに探し出して買ったのだった。
     グエルは持参したアウトドアチェアに座り、うきうきと弾む心を押さえながら、箱を開封した。箱には隙間なく、以前と同じように、レーションの缶やビスケットの袋が詰まっている。
     全て取り出してパッケージを確かめて、簡易ストーブ見つけ出すと、手元の端末で使い方を調べた。持参したアウトドアテーブルの上で慣れない手つきで組み立て、着火剤に火をつけ、取手をつけておいたビーフシチューの缶を火にかける。二分ほどで缶から湯気と、ビーフシチューの香りが立ち上ってきた。満遍なく熱が行き渡るよう匙でかき混ぜる。火にかけてから五分経ったのを確認し、取っ手を持って火から下ろした。取っ手は小さいながら頑丈で、しっかりと缶に取り付けられていたのにグエルは感心した。
     ビスケットを開封し、その上にシチューを乗せた。グエルは唾を飲み込んだ。
     疲れが吹き飛ぶほど美味しかったレーションが、温めたことでさらに美味しくなるなら、どんな味だろう。
     大きく息を吸った後、口を開けて、ビスケットを口に入れ、咀嚼する。
     何の変哲もない、ビーフシチューとビスケットであった。
     グエルは首を傾げて、急いで飲み込んだ後、シチューだけを口に入れる。よく煮込まれた肉と野菜には、トマトの酸味が効いたスープが染み込んでいる。あの日食べたものと同じ、ビーフシチューだった。
     目の前のビーフシチューが色褪せたようにグエルには見えた。あんなに美味しかったのに、それをもっと美味しくなるように加工したのに、実際はどこにでもあるビーフシチューと変わりがなかった。まるで良い夢から覚めた時のように虚しかった。
     どうしてあの時はあんなに美味しかったのだろう。グエルはアウトドアチェアの背もたれにどかり、と体を預けた。今と違うのは、長い旅をしていたこと、命の危険があったこと、食事にあまり恵まれなかったこと、野宿や安宿で疲れが取れきれてなかったこと。
     そこでちゃんと作られた家庭料理なんて食べられたら、美味しく感じるよなあ、とグエルはため息をついた。一杯の水でも、砂漠を彷徨った後に飲むのと、自宅でウォーターサーバーから飲むのとは感慨が違う。それに気づかなかった自分がおかしくて、思わず笑ってしまった。
     なにより、オルコットがいない。レーションを買った言い訳をさらりと言えない、優しさがわかりにくいあの男がいない。
     もし目の前にオルコットがいたら。グエルは想像の翼を羽ばたかせた。缶からフリカッセをビスケットに乗せて食べる想像の中のオルコットはわずかに嬉しそうに微笑んでいる。それがグエルの心の柔らかい部分をくすぐった。口にビーフシチューを運んでみると、少し美味しくなったような気がしたのだった。


    End


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    2024/04/21 17:30:27

    最後の晩餐

    ##表 #水星の魔女 #オルグエ
    15.n話。旅の最後の晩に、美味しいレーションを食べる二人の話。アド・ステラの「目黒の秋刀魚」的な話。

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