最高の上官 俺が初めてついた上官が、上司という生き物の嫌なところを煮詰めたようなクソ野郎で、とっとと事故って退官しろと当時仕事中ずっと思っていた。
基本的に部下に対しては横柄で、演習の報告書で指示の順番を間違えて書いたとき、「お前はマジメな顔して突っ立ってりゃいいと思ってんのか⁈」とか「腹の底じゃどーでもいいと思ってんだろ⁈」とかグチグチ言われたな。そんな舐めた考えでこの仕事してねえっつーの。あ? 十年以上たってるのによく覚えてるって? 忘れるわけねえだろあんな陰険野郎。
部下全員に対していじめてたが、とりわけマジメで気が弱いヤツに対しては酷かった。そのターゲットに俺の同期がなっちまってな。ミスったとき嬉々として暴言わめき散らすのはもちろんなんだが、同期の後ろ通るとき、そいつが座ってる椅子いちいち蹴ったり、同期が報告するとき機嫌悪そうにしたり、とことんいじめ抜いてた。そうするとさらにミスが増えてパワハラがひどくなっていって、結局その同期、メンタルやられて辞めちまった。辞めるのはそっちじゃねえだろってな。結局あのクソ上司はどうしてるかって? 確か何年か前ハラスメントで訴えられて懲戒免職食らってたかな。もっと早くそうなりゃよかったのにな。
だから俺は部下がついたとき、そいつがやったクソなことの真逆のことをした。間違いがあったときは言葉が荒くならないように、理由をちゃんと解説する、報告受けるときは機嫌良くするとかな。死んでもあいつと同じにはなりたくなかった。そうやってるうちに、人格の評価は平均以上いくようになったと思う。あのクソ野郎がやった唯一のいいことかもな。
そのクソ野郎の次についた上官が二度目の大きな転機だ。その人は仕事もできて、性格もいい上司の理想像を具現化したみたいな人だった。クソ野郎の下で頑張ってきたご褒美かと思ったよ。
だけど喜んでいられたのも最初の一、二ヶ月くらいだった。
その人は普通グチの一つでも出るような徹夜続きの繁忙期でも、いつも通り、よく言えば穏やかなままだった。
それがすごい怖かった。その後も俺の後輩がありえないミスした時も、上層部から無茶を押し付けられても、淡々と処理していて、なんというか、機械と仕事してるみたいだなって恐ろしかった。グチの一つでも言ってくれた方がマシだったよ。
この件があってからは俺は適度に上官のグチを言ったり、いろいろ自分の素を出すようにした。その方が下の奴は親しみ持ちやすくなるから、気楽に過ごせるようになるんじゃないかと思ってな。結構苦労したんだぞ、いい塩梅を探すの。
……
「しんどくないスか? それ」
サタケの昔話にイサミは一言、静かに尋ねた。その手には少しぬるくなったカクテルの缶が収まっている。
昔話のきっかけになったのは、サタケ宅の郵便受けに入っていた宅配の不在届であった。仕事が早く終わったが、電車の遅延で三十分後ろにずれ込んだため、宅配が届く予定の時刻に間に合わなかったのだ。宅飲みをする予定で一緒に帰宅したイサミの前で、サタケはチッと舌打ちをしながら些か乱暴に靴を玄関に脱ぎ捨てた。
「隊長って仕事中とプライベートでめちゃくちゃ人格変わりますよね」
プライベートの「こういう感じ」からどうやって仕事中のとこまで変わったんスか。とイサミは苦笑まじりにサタケに聞いた。玄関から居間に場を移して始まったのが、サタケの上官列伝が混ざった人格形成記であった。
サタケがついた上官は能力も人格も様々で、パワハラ上司の話のときなど、イサミはこんな上官じゃ潰れちまうと震え上がりながら、サタケが初めての己の上官であることに心底感謝した。
以前から、サタケのその「紳士ないい上官」ぶりの下には、サタケの努力と苦労があるのだろうとイサミは薄々察していた。そう思うほど、素のサタケは案外乱暴でガサツな、等身大の三十八歳であった。その落差の秘密は元々気になっていて、ついそれが出てしまったのだ。
「時々仕事終わり直後とかに戻れなくてヤバイなって思うことはある」
人格形成記を語り終えた後に落とされたイサミの疑問に、サタケはほんの少し考えてから穏やかに答えた。
「じゃあそんな……」
やめて大丈夫ですよ。という言葉は次のサタケの言葉に消された。
「これは継ぎ足しし続けた秘伝のタレみたいなものでな。結構便利だから今更やめる気はないよ。それに今じゃこのまま退官までどう変わっていくか、ちょっと楽しみなんだ」
サタケは心底楽しそうに口角を上げると、手元のビールを飲んだ。
そんなサタケにイサミは肩の力が抜けるのを感じた。自分の敬愛する上官の苦労はなるべく減らしたいが、本人が楽しんで受け入れているなら言うことはない。
すごいなと感心しながら、仕方ないなともイサミは呆れていた。そんな彼が浮かべた、優し気な微笑みを鑑賞しながら、サタケはビールを飲み干した。
−−それに上官の俺と、何でもない俺、どっちも知ってて受け入れてくれるお前がいるから、結構どっちの俺でも気が楽になったんだよ。
サタケは心の中だけで、イサミにそう告げた。
「なんすか? 俺の顔に何かついてます?」
「仕事終わりに跳ねっ返りの部下が自分の奢りで飲み食いするのを見るのは楽しいなって」
そう宣ったサタケは悪童のように笑ってイサミを見た。
「……随分な趣味をお持ちですね」
イサミは一つ苦笑すると、カクテルを飲み干したのだった。
fin.
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