アラガイ・ビー・ザ・デスハンター 第二話「……雨、か」
文月某日。雨に濡れた歩道を歩く一人の男。
長身でやつれたような顔立ちをした彼こそは――最早説明するまでもあるまいが――本作にて主人公を務める会社員の荒貝氏仁(あらがいうじひと)である。
(暦の上じゃ梅雨どころか七夕もとっくに過ぎて夏本番、ぐらいのもんなのになぁ……)
氏仁はふと立ち止まり、物憂げに空を見上げる。
薄汚れたビニール傘越しの空に広がるのは、米のとぎ汁を少し腐らせたような灰色の雨雲。
「……」
別段雨が嫌いだとか、そういうわけではない。
『日の光が恋しい』などと、そんな柄にもないことを言うつもりもない。
ただ、こうも雨続きではやはり気が滅入るし、何より不便も多い。
(まあ、水害に見舞われてねえだけマシか……)
人間関係で例えるなら『憎悪するほどではないが、さりとて仲良くしようとも思わない』程度。
(さっさと帰るか)
特にどこかへ寄る予定があるわけでもないしなと、青年は足を踏み出した――その時。
「……なんだぁ?」
歩道の脇、古ぼけた街灯の傍に立つ、何かの影。
どこか不自然な雰囲気の"そいつ"は、最初こそただの黒い影にしか見えなかった。
だが注視すれば輪郭がはっきりし、その全容を視認できる。
(……女?)
氏仁の目に映る影の正体は、黒いリクルートスーツに身を包んだ一人の女。
身の丈は恐らく氏仁より頭一つほど低い程度。されど女にしては長身か。
更にスタイルも良く、スーツ越しにも豊満で恵まれた体格であることは明白。
背が高いなら髪も長い。その長さたるや腰に届くほどで、色は爽やかな快晴の空を思わせる明るめの青。
瞳は濃い朱色。肌は白く、端正で中性的な顔立ちは紛れもなく美人の域にある。
実際、不可思議な魅力のあるその女に、内心氏仁は密かに惹かれてもいた。
(女優かなんかかね。それにしちゃ見ねえ面だが……ん?)
理由もなく遠目から女を観察していた氏仁は、ふと気付く。
(……なんで皆、あいつ無視してんだ?)
確かに、雨の中傘もささず道端に立つ女というと、不審で近寄りがたい存在かもしれない。
だがそれにしても道行く人々の反応は余りにも不自然だった。何せ誰しも、女に声をかけるどころか視線を向けすらしないのである。
普通なら一瞥くらいはしそうなものだが、誰もが素通りしていく。まるでそこに彼女が存在しないかのように。
(まぁ、気にする程でもねえか……)
訝しみつつもさらりと割り切った氏仁は、小走りで最寄りのコンビニエンスストアへ向かった。
「うーん、それほど多くもないとはいえ、少ないとも言い難い数ですね……」
古びた街灯の傍。雨に濡れながらも顔色一つ変えずに呟くのは、先程氏仁が目を奪われていたスーツ姿の女であった。
彼女はある目的の為、延々とこの場に立ち続けていた。昼飯を済ませて以後足を曲げてもいないので、もうかれこれ五時間以上になるだろうか。
諸事情あって幾らか頑丈だし、忍耐力もそれなりに自信があるとは言え、それでも寒さや疲れと無縁ではいられない。
「そろそろ休憩……いえ、もうちょっと片付けてからにしましょう。
これからの時期は特に増えやすくなりますし――」
「おう、姉さん」
「っっ!?」
右側から唐突に声をかけられ、女は軽く飛び退く。
聊か大袈裟とお思いであろうが、彼女にしてみれば至極当然の反応であった。
「事情は知らねえが、この雨ん中傘もささずに居たら体調崩すだろう。余計なお世話か知らんが、良けりゃどうかね」
そう言って氏仁は女に、先程買ったビニール傘とペットボトル入りの紅茶を差し出す。
「あ……ありがとう、ございます……」
唐突な出来事に困惑しつつも、断る気になれなかった女はそれらを受け取る。傘をさし、暖かい紅茶を少し飲めば、それだけで身体が奥底から温まるような気がした……が、そこで女はふと我に返り思案する。
(そんな、私が見えているなんて……術式に不備でもあったと? 否、それならば既に誰かしらに気付かれていた筈……ということは、まさか……!)
女は思う。『この男、ひょっとしたらひょっとするかもしれない』と。
そして、だからこそ彼女は意を決し、
「……あ、あのっ!」
「あン?」
「この後、お時間ございますでしょうかっ!?」
その場を立ち去ろうとする氏仁を、力一杯呼び止めたのだった。
「……あぁ、まあ、そんな予定とかねぇし、別にいいけど」
(……良しっ! 第一関門突破!)