【小説】赤い山脈大学の研究室に、ひそやかな噂が流れた。
「物神志摩雄が亡くなったらしい」
その噂は、顕微鏡や試薬瓶に囲まれたツンとした空気を震わせるように広がった。志摩雄——物神家の当主にして、国内でも数少ないクローン研究の先駆者。その名を聞けば、研究者なら誰もが尊敬と畏怖を同時に抱く。
制一は手元の筆記具を置き、口元に薄い笑みを浮かべた。
「……チャンスだな」
机を挟んで向かいに座る同僚が眉を上げる。
「香典を持って行くついでに、次期当主に媚びを売ってくるつもりか?」
「まあね。せっかくだし、クローン研究の裏事情も探ってみるさ」
「まったく、抜け目のない奴だな」
そう毒づきながらも、同僚の声には羨望が混じっていた。研究の世界を左右するのは、必ずしも実力だけではない。少しの縁が将来を分けるのだ。制一はそれをよく知っていた。
その時、隣の席に座っている弟の譲次が、おずおずと口を開いた。
「にいさん……」
「止めるなよ、ジョー」
譲次は、制一と同じ「箱野」という姓である。二人を区別するため、研究室において譲次は「ジョー」というあだ名で呼ばれていた。
兄の冷ややかな声に、譲次は言葉を飲み込んだ。それでも勇気を振り絞り、絞り出すように言った。
「物神家は危険だよ。クローン動物の研究で名を挙げたけど……裏ではクローン人間を造っているって噂もあるんだ」
「それの何が悪い?」
制一は振り返らずに言い捨てる。
「人間が人間を造るなんて“神の領域”だよ。そりゃあ、技術的には興味深いけど……実用化には絶対反対だ」
譲次の真剣な声が震えた。しかし制一は返事もせず、白衣の裾を翻して去っていった。
残された譲次は、兄の背を見送りながら、深いため息をついた。
夜行列車の窓から、暗い山並が流れていく。制一は座席に身を預け、煙草を指に挟んだまま、窓の外を見つめていた。
ジョーのやつ、善人ぶりやがって——いや、あいつの場合、本物の善人だから尚更タチが悪い。そういうところが気に食わないんだ。
制一は、ゴールデンバットをスパスパと急いで吸う癖がある。一方、譲次はピースを味わうようにゆったりと吸う。男にとって、煙草の吸い方は自身の心の在り方だ。
煙を吐き出すと、車内にわずかな焦げ臭さが漂った。胸の奥でくすぶるのは、野心と嫉妬と、言葉にできない苛立ちだった。
翌朝、制一は駅からタクシーに乗り、村へ向かった。舗装された道が途切れると、運転手は「ここまでだ」と短く告げ、制一を降ろした。
そこから先は、人の気配の薄い山道だった。鳥の声が澄んで響き、緑は濃く、その風景は絵葉書のように美しい。しかしふと目をやると、斜面の岩の裂け目から、血のように濃い赤色の泥がじわじわと滲み出し、どろりと流れ落ちていた。
——酸化鉄を多く含んだ地質なのか。
制一はその赤が目に焼き付いて離れない。その時、不意に頭の奥で声がした。
——かえれ。
制一は立ち止まり、辺りを見回した。しかし山風が葉を揺らすばかりで、誰の姿もない。
——なんだ、今の声は。気のせいか?
制一は額の汗をぬぐい、再び歩き出した。
やがて辿り着いた火見根村——物神家の本家がある村は、外の世界から切り離されたように静まり返っていた。道端にいた村人たちは、余所者の制一をじろじろと見つめ、ひそひそ声を交わす。その視線の重さ。
「おお、箱野くんじゃないか!」
声をかけてきたのは、クローン研究所の現所長、照彦だった。
「所長、お久しぶりです」
「まあまあ、上がりたまえ」
照彦は、快活とも下品ともつかぬ笑みを浮かべ、制一を物神家の本家へと招き入れた。
物神家の屋敷は、山間に忽然と現れた古城のようだった。磨き抜かれた黒塀の門をくぐると、庭には松が整然と枝を伸ばし、奥に建つ母屋はまるで寺院のような威容を誇っていた。
案内された大広間には、金屏風が立てられ、その前に分家筋や村の有力者たちがずらりと並んでいた。線香の香りが濃く漂い、室内の空気は張り詰めている。壇上には照彦が正装で座り、その脇には彼の妻が控えていた。
「……どちら様かしら?」
制一に向けられたその声は氷のように冷たく、嘲りを含んでいた。
——照彦の妻にして志摩雄の長女、ハツ子。物神家で実権を握っているのは彼女だと聞く。
制一は表情を崩さずに心の中で測る。
「私の取引相手だ」
照彦が短く答える。
「フン」
ハツ子は鼻で笑い、それ以上は口をつぐんだ。
その時、襖が静かに開き、一人の娘が入ってきた。濡羽色の長い黒髪、整った顔立ちに柔らかな光を宿した少女。
——ハツ子と照彦の娘、ルリ。美しい娘だ。上手く手懐ければ、利用できるかもしれんな。
続いて、重々しい車椅子が押し出されてきた。包帯にぐるぐると巻かれた、まるで人形のような男——女中が介助しながら彼を壇上へと押し上げる。制一は思わず息を呑んだ。
——物神家の長男、千助。過去の事故で全身に火傷を負ったと聞いてはいたが……これほどとは。とても家督を継げる状態ではない。やはり次期当主は、所長の照彦か。
やがて、弁護士が厳粛に遺言状を読み上げる。
「……新たな当主には、長男・千助を指名する。また、長女ハツ子の娘・ルリに子供が産まれた場合、血縁上の父親が誰であっても、その子供を千助の養子とし、次の当主とすること。以上」
「い、以上!?」
照彦が立ち上がり、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「そんなはずはない! 私はお義父様から多額の支援を受け、研究所を運営してきたんだぞ! その功績を無視するなど……!」
照彦の言葉を遮るように、分家筋の者たちが一斉に立ち上がった。
「遺産の配分はどうなるんだ!?」
「その遺言状は偽物じゃないのか!?」
やがて掴み合いが始まり、乱闘の様相を呈する。座敷の畳が軋み、怒号と悲鳴が飛び交う。
少し離れた場所で、ルリは身をすくめ、怯えたように視線を泳がせていた。制一はすかさず歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。
「お嬢様。どうかご安心を。私があなたをお守りいたします」
ルリはハッと顔を上げた。
「あなたは……?」
「帝都大学の箱野制一と申します。所長とは研究でお取引をさせていただいております」
「……お父様のお知り合いなのですね。お気遣いありがとうございます」
ルリの頬がほんのりと赤く染まった。
——しめしめ……これで物神家の娘と繋がりができたぞ。
制一の胸に、野心の炎が燃え広がった。
——ここはどこだろうか。そうだ。生まれ育った実家だ。
幼い自分と、弟の譲次が居る。
父は譲次にミニカーを買い与え、満面の笑みを浮かべている。
「よしよし、おまえは良い子だね、譲次」
その光景を傍らで見ていた母が、言葉を絞り出すように言った。
「あなた……少しは制一にも構ってやってくださいな」
しかし父は冷たく吐き捨てる。
「あいつは芸者との間にできた子だぞ。愛するおまえとの間に生まれた譲次とは違う」
「そんな……」
母の声が震える中、幼い制一は何も言えずに佇んでいた。胸が締めつけられるように痛かった。
——おれと譲次は、生まれが違うんだ。おれは——まともな生まれじゃない。だから出世して力をつけるしかない! まともな人間だと認められる方法は、それしかないんだ!
「はっ……!」
制一は汗だくで布団の中から飛び起きた。暗い部屋の中で、荒い息だけが響いていた。既に夜は明けていた。
それは、平穏な朝ではなかった。廊下をバタバタと走る音や、動揺した人々の声が聞こえた。
「大変だ……千助様が! 赤沼に……」
制一は慌てて部屋を飛び出すと、廊下を駆け抜けていく使用人が目に入った。村人たちの声のする方向をたどり、屋敷の裏手にある赤沼のほとりへと急いだ。
そこでは、物神家の人々と村人が群れをなして集まり、ざわめいていた。制一の目に、ぞっとする光景が飛び込んでくる。
沼の中央に、包帯に覆われた千助の死体が浮かんでいた。全身を濁流に揺らめかせ、包帯が切り裂かれた胸の中央には深々と刺された痕が走っている。
「ひぃ……!」
「祟りだ……! 胎神様の祟りだ!」
村人たちが口々に叫ぶ。
「いや……祟りに見せかけた殺人じゃないのか!?」
「だとしても……いったい誰が……」
村人たちはひそひそ声を交わし、そのうちの一人がちらりと照彦に目を向けた。
「ま、まさか……私を疑っているのか!?」
照彦が声を張り上げる。
「たしかに当主になれなかったのは悔しい。だが、だからといって義兄を殺すなど——そんなこと、私にできるものか! 信じてくれ!」
だがその言葉をもってしても、漂う不信感は消えなかった。
やがて一人の老人が震える声で言った。
「……待て。わしは今朝、胎神様のお告げを聞いた。“よそもの”と……」
「余所者……?」
視線が一斉に制一に注がれる。
「そうすっと……この余所者が犯人なんか?」
「そうだ……余所者が……!」
制一は必死に首を振った。
「わ、私は違います! そんなことするわけがない!」
その時。
「おい! もう一人の余所者を捕まえたぞ!」
村人が縄を引きずりながら現れた。縛られているのは——譲次だった。
「こいつが千助様を殺したに違いねえ!」
「違うんです! ぼくは、ただ兄を追ってこの村に——」
「ジョー!?」
制一の口から思わず声が漏れる。
「なんだ、知り合いか?」
照彦が眉をひそめる。
「彼は私の弟なんです。私を追ってきたというのは本当でしょう。汽車の切符の時刻で、ゆうべこの村に居なかったことも証明できるはずです……どうか信じてやってください!」
照彦は腕を組み、しばし考え込んだ。
「……箱野くんの弟か。おい、その縄をほどいてやれ。この男は客人だ」
「フン……」
村人は不服そうに顔をしかめながらも、渋々縄を解いた。
夕暮れの田舎道を、制一と譲次が並んで歩いていた。空気は重く、遠くから村人たちのざわめきがまだ聞こえる。
「ありがとう、にいさん。おかげで助かったよ」
譲次が安堵の息をつく。
「まったく……何しにきやがったんだ、ジョー」
制一は吐き捨てるように言った。
「……にいさん、このどさくさに紛れて、クローン人間の研究に首を突っ込むつもりなんだろう」
「だったらどうする?」
制一の瞳がぎらりと光る。
「全力で止めるさ。言っただろう? クローン人間は“神の領域”だって……」
譲次はさらに声を落とす。
「物神家は戦時中、クローン兵士を軍に提供していたという噂がある。資金力が急に膨れ上がった時期は——日清、日露、そして先の大戦と、ぴたりと重なるんだ」
「だからどうした。人間がやりたがらない仕事を、クローンにさせられるなら良いじゃないか」
「……そのクローンの気持ちは考えないのか!」
「うるせえ!」
制一の声が田舎道に響いた。
「クローンの気持ちが問題なら、感情のないクローンを開発すれば済むまでさ!」
「にいさん……」
譲次は言葉を失い、ただ兄を見つめた。
「まともな両親の間に生まれたおまえに……おれの必死な気持ちがわかるかよ!」
制一は振り返りもせず、吐き捨てた。
昼下がり、物神家の洋館の一室では、厚いカーテン越しに光が差し込み、重苦しい沈黙が漂っていた。
「……それで、あなたは本当にやってないの?」
ハツ子の鋭い眼差しが、夫である照彦に突き刺さる。
「おまえまで私を疑うのか!」
照彦は声を荒らげる。
「だって……にいさんが死んで、一番得をするのはあなたでしょう?」
唇の端に浮かぶのは、微笑とも冷笑ともつかぬ表情。
「わ、私はやってないぞ! 絶対にやってない!」
照彦は机を叩き、必死に否定する。
その緊迫を破るように、奥からミノ子がひょっこり顔を出した。
「……あい、見たど!」
「まあ?」
ハツ子は扇子で口元を隠しながら、意味ありげに微笑む。
「何を見たの?」
「見たど……なんだっけ……アハハハハ!」
ミノ子はあっけらかんとした笑い声を響かせ、部屋の中を駆け回る。
「ホホホ……」
ハツ子は艶やかに笑い、ミノ子の頭を撫でた。
「おまえは頭が悪くて可愛いわね。ねえ、何を見たのか……覚えているだけでいいの。教えてちょうだい」
照彦は黙り込み、深刻な表情で妻とその妹のやりとりを見守るしかなかった。
その頃。屋敷の縁側に出た制一は、手にした煙草に火を点けていた。紫煙がゆらゆらと立ち上る先には、どこまでも広がる森と、赤い泥の滲み出す大地。
——予想を遥かに超える奇怪な家だ。だが、この混乱の中だからこそ、俺が食い込む余地がある!
目を細めて野心を燃やすその時、後ろから軽やかな足音が近づいてきた。
「制一さん!」
振り返ると、ルリが駆け寄ってくる。彼女は濡羽色の髪を揺らし、その瞳に澄んだ光を宿していた。
「ああ、ルリさんか……気分は大丈夫かい? あんな事件があって」
「ええ、驚きはしましたけれど……大丈夫ですわ。この村では、時折、こういう奇怪なことが起こるんですの」
「へえ……いわくつきの村、ってわけか」
制一は興味深げに地面の泥を見やった。
「ところで、ルリさん。この村の沼や、いたるところから湧き出している赤い泥……あれはいったい何なんだい?」
「あれは“胎神様”の血だと言われていますの」
「胎神様……?」
「はい。この村の地下深くには、生命を司る神様が眠っているのだと……その神様の血が溢れ出しているんですって。そして、時折聞こえる奇妙な声は、胎神様のお告げだと伝えられています」
「神様、ねえ……」
——馬鹿馬鹿しい。だが、信じる者が多いなら、それは利用できるだろう。
ルリは少し唇を尖らせて言った。
「……ねえ、そんなことより、東京のお話を聞かせてくださいな。いつか東京に行くのが、私の憧れなのですの」
制一は煙草を靴底でもみ消し、少女の瞳を覗き込んだ。
「東京か……きっと君のような人が輝ける場所だよ。いつか案内してあげよう」
「まあ……!」
ルリの頬がほんのりと紅潮した。
「ハハハ……箱野くん、君も隅に置けんな」
軽やかな声が割り込んだ。照彦だった。
「い、いえ! これは決して下心などではなく……」
「いやいや、君のような優秀な男ならば安心だ。ルリを任せられる」
「えっ……?!」
制一は虚を突かれ、言葉を失う。
「まあ! お父様ったら!」
ルリは顔を真っ赤にしてその場を駆け去ってしまった。
照彦は真剣な眼差しで制一に向き直る。
「冗談ではない……君が私に協力してくれるなら、婿として物神家に迎えてやっても良いと考えている」
「そ、それは……大変ありがたいお話ですが。協力というのは……?」
「……場所を変えよう」
照彦の目が怪しく光り、制一の胸に熱い期待を同時に灯した。
夕暮れ時の赤沼は、一際濃い赤をたたえていた。照彦は悪びれもせずに沼のほとりの祠を開け、中の仕掛けを押し動かす。
「見ていろ。これが物神家の“秘密”だ」
すると、水面が渦を巻き、赤い泥が鉄枠の排水溝に吸い込まれていく。やがて沼の中央に重厚な扉が露わになった。
——なんだ、これは。いや、これは大きなチャンスだ!
制一は息を呑んだ。驚きよりも先に、胸の奥にぞくりとした高揚感が走る。ここで掴める情報は、喉から手が出るほど欲していたものに違いない。
照彦に導かれるまま、制一は地下への階段を下りた。
古めかしい村の外観からは想像できない光景がそこに広がっていた。
白い蛍光灯が隙間なく並ぶ天井。壁際には銀色に輝く機械の数々。そしてガラス張りの培養槽がずらりと並び、その中では形を成しかけた人間の肉体が、液体の中でゆらめいている。
制一は、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。そこでは、村人たちが無表情に作業していた。朝方までモンペを着ていた農夫たちが、ここでは白衣を着て研究員として働いている。
さらに奥では、既に完成したクローンが首輪と鎖をつけられ、鞭で打たれながら無理やり立たされていた。呻き声とも泣き声ともつかぬ声をあげるクローンたちに、研究員は一切の容赦を見せない。
——なんと残酷な! だが、これほど徹底して人間を支配下に置けるのなら、従順な兵士として利用するのも確かに夢物語じゃない。
制一の目が怪しく輝いた。
「……クローン兵士。実在したのですね」
制一が息を詰めて問うと、照彦は満足げに笑みを浮かべた。
「噂には聞いていたか。そう、これこそがこの村の資金源なのだよ」
「ええ……それにしても、兵士として実用可能な品質のクローン人間を造るとは……すごい技術ですね」
「技術自体は大したことはない。遺伝子情報を含んだ寒天を培養液に沈めれば、肉体はできあがる……それよりも注目すべきは“クローン・アメーバ”だ」
照彦は声をひそめ、制一の耳元で囁く。
「……クローン・アメーバ?」
「ああ。こいつは筋肉にも皮膚にも内臓にも変化できる。あらゆる細胞を模倣し、組織を形成する……クローン培養液の主成分は、実はそのアメーバなのだ」
制一は息を呑む。
照彦はさらに言葉を重ねた。
「不思議なことに、クローン・アメーバは脳を持たないくせに、ある程度の意思を持って動いている。そして——なんと、テレパシーで意思疎通もできるのだ。クローン・アメーバを二つのシャーレに分け、片方にストレスを与えると、ストレスを与えた側は、逃げようとするかのようにシャーレの端に寄って過剰に繁殖し、研究員にテレパシーで攻撃的な言葉を投げかけるようになった。要するに、クローン・アメーバには感情があるということだ。」
制一の脳裏に、あの日聞いた“声”が甦る。
——かえれ。
「まさか……“胎神様のお告げ”というのは……」
「そうだ。あれは神ではない。このアメーバの声だ。この村で起こる不思議な現象は、アメーバで説明がつくのだよ。村人どもは信心深いふりをしているが、それはこの地下工場の秘密を外に漏らさないための建前……もちろん、私が口止め料を渡しているからだがな。ハハハ!」
ぞっとするほどの冷笑が、地下室に響き渡った。
「だがな……」
照彦はふいに顔を曇らせる。
「アメーバの原産地は極秘とされ、私ですら知らされていないのだ。私は、予め培養されたアメーバを使ってクローンを造らされているにすぎん」
「……なるほど。つまり、その原産地を突き止めれば……」
制一は目を細めた。
「この研究は、完全に私のものになる。そして……箱野くん、その役目を君に任せたいのだ。私は君に縁談を、君は私に情報を提供する……この取引に不満は無いだろう?」
制一の胸に激しい鼓動が打ち鳴らされる。
——物神家の婿に……そして、この研究を独占する力を掴む! これこそ、俺が求め続けた“突破口”だ!
「……はい」
短く答えた声は、熱に震えていた。
その夜。物神家の古びた廊下の一角、柱にもたれかかりながら、ミノ子はいつものように歪んだ笑みを浮かべていた。
「見たど……あい見たど……」
意味深な言葉を繰り返すその声は、虫の羽音のように空気を震わせ、不気味に廊下へと消えていった。
研究所の培養層では、液体の満たされたガラス槽が、不気味な光を放ちながら並んでいる。そのひとつの中で、泡がボコボコと立ち、内側からガラスが軋むような音がした。
どろり、と培養液から、何かが這い出してきた。
それは、腰から上しかない人間の上半身。骨と腱がむき出しの肋骨の奥で、心臓がグチグチと湿った音を立てていた。皮膚はまだ張り付かず、筋繊維がむき出しのまま、のたうつように手を突き出す。次の瞬間、頭蓋骨が、そこにあった。千助。赤沼に沈んだはずの、物神家の長男。その焼け爛れた面影を残した顔が、未完成の肉体の中に浮かび上がっていた。
「……あぁ……う……」
口腔は肉に覆われきらず、歯の列がむき出しのまま、声とも呻きともつかぬ音が漏れる。肉が、じわじわと盛り上がり、剥き出しの骨に貼り付いていく。生肉の塊が伸び、肩を覆い、背筋を形成する。やがて血まみれの塊は人間の四肢を形づくり、ずるずると床に這い出してきた。
翌朝、赤沼の方向からまたもや悲鳴があがり、制一と譲次は飛び起きた。駆けつけた先には、村人たちが群がり、泥水の中に浮かぶ新たな死体を指差していた。
「ひっ……!」
譲次が目を覆う。
沼に浮かんでいたのは、ミノ子の変わり果てた姿だった。本来なら腕であるはずの場所からは、脚が突き出していた。胴の横腹からは歪に生えた腕。首の位置は胸と腰の中間にずれ落ち、顔はねじれて後頭部が前を向いていた。
まるで、一度肉体をバラバラに分解され、誤った場所に組み直されたかのようだった。
「ミノ子……! ミノ子おおおお!」
ハツ子が泥の縁で崩れ落ち、声を張り上げる。
村人たちは一様に顔を青ざめさせた。
「やはり……これは祟りじゃ!」
「人間の仕業ではねえ……」
照彦は額に汗を浮かべ、震える声を上げた。
「こ、これで……私が犯人じゃないと分かっただろう!? なあ、君たち!」
制一はその騒動のさなか、誰にも気づかれぬよう、しゃがみ込み、赤沼の泥を試験管に採取し、スーツの内ポケットにしまった。
その場を離れながら、譲次が震える声で言う。
「にいさん……もうこんな村から逃げよう……! ここは人の住むべき場所じゃない!」
「帰りたいならおまえだけ帰れ」
制一は低く吐き捨てた。
「おれには、すべきことがあるんだ」
「こんな悍ましい村で、すべきことなんてあるのかい!? これは……もしかしたら本当に祟りか妖怪の仕業かも……」
「まさか、オカルトか? 科学者の風上にも置けない奴だな。いいからとっとと帰れ」
譲次は言葉を失い、その背を見送るしかなかった。制一の眼は野心でぎらついていた。
物神家の一室。障子を閉め切り、ランプの明かりに照らされた机の上で、制一は顕微鏡を覗いていた。
赤沼から掬い取った泥を載せたプレパラート。視界の中で、ぬらりと光る微生物が蠢き、目の前で変化を繰り返していた。寸前までは筋繊維に似た繊条を伸ばしていたと思うと、すぐに皮膚のような薄膜へと姿を変え、さらに小腸の粘膜に酷似した構造を形作る。制一は息を呑んだ。
——なるほど……そういうことか! クローン・アメーバの原産地はここ、火見根村だったんだ。これは所長の盲点だったな。灯台下暗しってやつだ
顕微鏡から顔を上げ、指で机を叩く。興奮で口元が吊り上がった。
——これでおれの婿入りも、出世も確実だ。いや、それだけじゃない。クローン技術そのものを手中に収められる——照彦氏から、調査のためにと工場の鍵も預かっている。今夜、探ってみるとしよう。
その夜、村が眠りについたころ、制一は一人で祠の仕掛けを動かし、赤沼の底に口を開けた扉から地下工場へと潜り込んだ。
白光灯の下、冷たい金属の匂いが漂う廊下。機械の唸りだけが響き、人影はない。制一は緊張を押し殺しながら、研究資料の保管棚を次々と探っていった。
——どこかにあるはずだ。一般の研究員は閲覧できない、秘密の情報が。
引き出しを開け、帳簿をめくり、無造作に積まれた紙束を漁る。だが、求めるものは出てこない。
奥の扉を開け、やがて彼の視線が照彦の執務机に向かった。机の横に据え付けられたソファ。そのクッションに、わずかな膨らみがあるのに気づく。
「……なるほどな」
慎重にクッションのカバーを外すと、中から分厚いファイルが姿を現した。制一は震える手でそれを取り出し、ページをめくる。
そこには、数々の顔写真が並んでいた。番号を振られたクローンたち——ほとんどが、実験台かクローン兵士である。だが、ページを捲り、制一は思わず息を呑んだ。
「……ルリさん……?」
白黒写真の中に、見覚えのある少女の顔があった。ページの端にはこう記されている。
〈遺伝子情報:物神瑠璃子〉
瑠璃子——それは、志摩雄氏の正妻の名である。若くして逝去したと伝え聞いていた。
制一の脳裏に衝撃が走る。
——ルリさんが……瑠璃子のクローン? だが、彼女は実験台でもなければ兵士でもない。では、一体何の目的で造られたんだ!?
制一の胸に、これまでになかったざわめきが芽生えた。
翌日、小川に架かる木橋の上。せせらぎが涼やかな音を立て、蝉の声が森を満たしている。
「制一さん……」
ルリが足を止め、振り向いた。
その瞳には、不安が入り混じっていた。
「……私が、クローンだと知っていたの?」
制一の胸に罪悪感が込み上げ、視線を逸らすことができない。
「……ごめん。知ってしまったんだ。だから教えてほしい。君はなぜ造られた? 何のために……」
「……聞かないで。お願い……」
ルリの潤んだ瞳が、揺れている。
「ルリさん……」
「私は……どう生まれたかより、どう生きるかが大切だと思うのです」
その言葉に、制一は言葉を失った。彼の中にある科学者の好奇心と野心が、今だけ鈍ったように感じられた。
「どう生まれたかより、どう生きるか……」
彼はその言葉を、反芻するように呟いた。
ルリはそっと彼に歩み寄り、声を震わせながら告げた。
「ねえ……いつか私を東京へ連れ出してくださらない?」
「……連れ出す?」
「私、こんな村で一生を終えるのは嫌なの。クローンじゃなく、人間として幸せになりたい……」
制一は一瞬ためらったが、すぐに笑って答えた。
「もし僕が婿入りして、君と夫婦になったら……東京観光に連れて行ってやるさ」
ルリの顔が翳った。彼女は制一の手を強く握った。
「観光じゃなくて、ずっと居たいわ……」
その温もりに、制一の心が一瞬揺らぎ、思わず惚けてしまった。だが——直後、はっと我に返った。
その夜、屋敷の廊下を、制一は忍び足で進んでいた。
——昨日は工場を探った……だが、肝心な核心には辿り着けなかった。なら今夜は屋敷を探るまでだ。
その時——コの字型の廊下に囲まれた奥の部屋から、かすかな物音が漏れてきた。
制一は壁際に身を寄せ、障子の隙間から覗き込んだ。そこで目にした光景に、彼は言葉を失った。
ルリが、村の男たちの手に弄ばれていた。
彼女は抵抗することなく、無表情のまま、次々と男たちに体をまさぐられている。
人形のように感情を剥ぎ取られ、ただ与えられた役割を果たしているかのようだった。
制一の胸が裂ける。
——嘘だろ……ルリさんが……!
動揺する彼の背後から、不意に声が響いた。
「——見てしまったようね」
振り向いた瞬間、冷たい針が首筋に突き立った。制一は反射的に振り払おうとしたが、もう遅かった。血の気が引き、意識が闇に沈んでいく。
最後に見たのは、無表情で注射器を引き抜くハツ子の顔だった。
気がついたとき、制一と譲次は縄で縛られ、沼のほとりに転がされていた。燃える松明の炎が揺れる。
やがて——その場に一人の男が姿を現した。紋付袴に身を包み、威厳を纏ったその姿。だが顔は、死んだはずの千助に他ならなかった。男はルリの肩を抱き、その傍らにはハツ子が恭しく控えている。
「ば、馬鹿な……千助さんは死んだはずでは……」
制一は目を見開いた。
「私は千助ではない。偉大なる——物神志摩雄である!」
「物神……志摩雄……!?」
「“様”をつけろ、無礼者!」
制一の頭の中で、記憶の断片が一気に結びついていく。
「生きていたのか……! じゃあ、あの葬儀自体が茶番だったということか……?」
志摩雄は鼻で笑った。
「葬儀は茶番ではない。儂の肉体は確かに死んだ。だが、千助のクローンに儂の脳を移植して生き返ったのだ。声帯も復元した。手術は照彦にやらせた——予め脳を冷凍保存しておいたからな。どうだ、我が研究所の科学力に恐れ入ったか!」
ハツ子が恍惚とした声で続ける。
「お父様……素敵……」
制一は息を呑んだ。
——脳を冷凍保存!? そんな話は聞いてないぞ! 脳移植は理論上可能だと言われているが、成功例は無い。要するに、全ての血管や神経を、周りの組織と繋げれば良いのだが、それを手作業で行うのは到底不可能だ。しかし、クローン・アメーバを使って短時間で血管や神経を繋げば可能なのか……!?
志摩雄はルリを抱き寄せ、声を張り上げた。
「ルリは——愛する我が妻の再来だ!」
「ふざけるな!」制一は縛られたまま叫んだ。
「あの子はあんたのカミさんの代わりなんかじゃない! 命を弄ぶな!」
「フン!」
志摩雄の眼光が鋭く光る。
「おまえだって、ルリを利用するつもりで近づいたくせに」
その一言が、制一の胸を深く抉った。後悔と罪悪感が込み上げ、言葉が詰まる。
「照彦も、おまえたち兄弟も所詮使い捨てだ。儂の遺産は一銭もくれてやらん!」
志摩雄は勝ち誇ったように嗤った。
「……最低な奴め!」
「ルリ、こやつらを始末しろ」
志摩雄は匕首を鞘から抜き、ルリに渡した。
「……はい。お祖父様」
ルリは静かに歩み寄り、手にした匕首を掲げた。その刃が、松明の炎を受けて妖しく光る。譲次が恐怖に顔を歪めた、その時——ルリは縄を断ち切った。制一と譲次の身体が解放される。
「ルリ!? 何をやっているの!?」
ハツ子が叫ぶ。
「制一さん、弟さん——逃げて!」
「ルリさん……君も来るんだ! この村は危険すぎる。一緒に東京へ行こう!」
制一はルリの腕を掴んだ。
「制一さん……!」
「ホホホ……愚かな女ね、ルリ。その男を助ければ、愛してもらえるとでも思っているの?」
ハツ子が高笑いを響かせた。ルリの顔が凍りつく。
「……え?」
「その男は、あなたの“あの姿”を見たのよ」
ハツ子の声音は鋭く、刃のように冷たかった。
「……あの姿……?」
ルリの唇が震える。頬から血の気が引き、たちまち蒼白になる。
「そう。おまえが男たちの慰みものだと知って、愛してくれる男なんて居る訳がないでしょう?」
ルリは制一の手を振りほどき、その場に崩れ落ちた。瞳は虚ろに揺れ、絶望がにじみ出ていた。
「ルリさん! 確かに……ぼくは最初、君を利用しようとした。だが、今は違う!」
制一は声を張った。必死に訴えた。
「君を東京へ連れて行くよ! たとえ君がクローンであっても、男たちにあんなことをされていても……そして——罪人であっても!」
その言葉に、志摩雄が目を細めた。
「ほう……罪人だと?」
ルリの瞳が揺れる。震える声が、夜の闇に溶け込んでいった。
「……制一さん。私が事件の犯人だと……いつから気づいてたの?」
制一は静かに答える。
「あの橋の上で——君が手を握った時だ」
「……!」
「言葉じゃなかった。直接、心が流れ込んできた……アメーバのテレパシーかもしれない。君の記憶と感情が——ぼくの中に入ってきたんだ」
制一の脳裏に再び甦る。あの瞬間、確かに聞こえた。
——ふたり ころした ごめんなさい。
ルリの瞳に涙が溢れる。彼女は震える唇で、呟きはじめた。
「……千助伯父様は、私を……人工妊娠させようとした……」
——暗い研究室。ルリは必死に逃げ場を探していた。
「いや! やめて!」
車椅子で、千助がよろよろと迫る。
「ウウ……ウウ……」
その手には光る注射器。粘つく息が近づいてくる。
ルリの背が壁に押し付けられ、逃げ場を失った瞬間。手探りで掴んだ瓶を床に叩きつける。鋭い破片を握り、渾身の力で突き出した。その破片は千助の胸に突き刺さり、呻き声がこだました。
「ウウウ……!」
「……ミノ子叔母様は、そのことを知ってしまった。そして、私に強引に掴みかかってきて……」
——赤沼の縁。ミノ子の目が狂気に光っていた。
「見たど……あい見たど!」
ルリの腕を掴み、ずるずると引き寄せる。
「お願い……叔母様、このことは……内緒にして……!」
「見たど!」
叫びは止まらない。彼女はなおも迫り、爪を立てて襲いかかる。
「やめて!」
ルリは恐怖に突き動かされ、無我夢中でミノ子を突き飛ばした。
——沼に沈む水音。赤い水面が、ミノ子を飲み込んでいった。
「……私は、もう誰の思い通りにもならないわ」
ルリの声は、静かでありながら決意に満ちていた。
「ルリさん!」
制一が必死に叫ぶ。だが彼女は、制一の方を振り返ることなく、ゆっくりと赤沼の縁に歩み寄る。
その瞳には涙が光り、しかし口元は微かに微笑んでいた。
「さようなら」
次の瞬間。濡羽色の髪が靡き、少女は赤黒い水面へと身を投じた。
「ルリさん!」
制一は声を張り裂けんばかりに叫んだ。
音と共に水面が大きく波打ち、闇を割るように泡立つ。そこから現れたのは、無数のルリの顔。無数の手足。彼女の姿を写した肉の群れが、ひとつの巨大な塊となって沼から這い出した。塊は呻くような声をあげながら、志摩雄とハツ子に襲い掛かった。
「ヒイッ! お父様、助けて!」
ハツ子は悲鳴を上げ、志摩雄の背後にしがみつく。
「知るか! おまえが犠牲になれ!」
志摩雄は躊躇なく娘を突き飛ばした。
「ひどいわ……お父様……こんなに……愛していたのに……キャーーッ!」
ハツ子の絶叫は途切れ、塊に呑まれていった。
耳をつんざくようなテレパシーが、その場に響き渡る。
——にくい……にくい……にくい!
志摩雄は顔を歪めた。
「この塊……ルリの怒りがアメーバに伝播して暴走しているのか!? チッ……だが儂は生き延びるぞ!」
その目は狂気に燃えていた。
「また一からやり直すのじゃ! 再び瑠璃子のクローンを作り、そして妊娠させ……その子に脳を移植すれば良い! それを繰り返せば、儂は永遠に物神家の当主として君臨できるのじゃ!」
「……お義父さん」
背後から静かな声が響いた。照彦だった。彼は音も無くそこに居た。
「なに……!? 照彦!」
「地獄まで、ご一緒します」
照彦は志摩雄の両腕を背後から羽交い締めにした。塊はずるずると迫り、二人の足元の泥水を吸い込んでゆく。
「やめろ! おまえ……まさか儂を道連れにする気か!」
志摩雄は必死に抗う。その目が、ふと制一を捉えた。
「そ……そこのおまえ……箱野とか言ったな……助けてくれ! 礼はする! 研究所の重役の肩書をくれてやる! それからルリそっくりの新しいクローンも……遺伝子操作で、おまえ好みの女に造ってやるぞ! どうだ!?」
制一は俯き、拳を震わせた。だが次の瞬間、きっぱりと顔を上げた。
「あの気高いルリさんは、もう死んだ……あの子の代わりなんか、どこにも居ねえよ!」
その言葉を皮切りに、赤沼の塊が一気にうねりを上げた。水面が割れ、赤い渦が志摩雄と照彦を丸ごと飲み込む。
「た……助けてくれ……る……瑠璃子……!」
志摩雄が最愛の女の名を呼ぶ声がかき消された。
塊は呻き声をあげながら、ますます膨れ上がっていった。
「兄さん! 村の外に逃げるぞ!」
譲次が血相を変えて叫ぶ。
「逃げる前に——すべき事がある。悲しむのは、その後だ!」
制一の目は燃えていた。彼は工場へ駆け込み、壁に掛けられたプラスチックケースの中の消防斧を引き抜いた。
鎖に繋がれたクローンたちの前に立ち、深く息を吸う。
「おまえら、今まで辛かったよな……今日はとことん無礼講だ!」
刃が鎖の根元を断ち切り、金属音が工場に響いた。解放されたクローンたちは、工場の外へと走り出した。そしてその肉体は赤沼と溶け合い、一つの巨大な異形の群体へと変貌した。
——おれたち いきている!
そのテレパシーが村中に轟き渡った瞬間、赤沼の塊は加速度的に暴走を始めた。村人たちは逃げ惑い、泣き叫びながら次々と飲み込まれていく。阿鼻叫喚が広がり、火見根村は地獄そのものと化した。
制一と譲次は必死に駆け、丘の上に辿り着いた。そこから見下ろす村は、赤い渦に飲み込まれていった。
譲次が息を切らしながら口を開いた。
「あの赤い塊は、ぼくら二人を狙わなかった……きっと、恨むべき相手を選んでいるんだ。ああいう、人智を越える力を持つ生き物や自然現象を……昔の人は“妖怪”と呼んだのかもしれないね」
「ああ……そうかもしれないな」
制一は弟の言葉を肯定し、しっかりと握手を交わした。
「ジョー……おまえの言う通りだったよ。クローン人間は“神の領域”だった。人間がどうこうして良いものじゃない」
「にいさん……」
「だが……あの子、ルリさんの想いだけは無駄にしたくないんだ。“どう生まれたかより、どう生きるか”——あの子は嘘吐きだったが、あの言葉だけは嘘じゃなかったぜ。おれもこれからは……自分の生まれを気にするより、“どう生きるか”を考えるさ」
やがて、村を飲み込んだ塊は音もなく崩れ落ちていった。赤い塊は灰へと還り、風に舞いながら空へと溶けていく。その灰が制一の頬をかすめた、その時——
——せいいちさん ありがとう。
ルリの声が確かに聞こえた。
制一は振り返らず、胸ポケットから煙草を取り出す。火を点け、深く吸い込むと、細く長い煙を夜空へと吐き出した。
灰と煙は一つになり、ゆっくりと星空に消えていった。
終