2025.02.22「にゃ〜あ」
事務所を訪れた皇坂逢を迎えたのは、誰に吹き込まれたか分からない頓珍漢なセリフを口にするレアではなく、聞き覚えのない猫の鳴き声だった。
その声がする方に視線を向け、そして更にそこから上方向に視線を向けてやれば見知った顔が、どうしたの、といった顔を猫の方に向けていた。
「由鶴」
猫を抱いていた張本人、城瀬由鶴は自身を呼ぶ声で初めて逢がこの場に居たことに気付き、ほんの少しだけ慌てたような顔を見せた。
「ああ、逢さん。お疲れ様です」
「そいつはどうした」
「ああ……ちょっと預かって欲しいって言われてしまって」
「ハウスに留守番させられない理由があるのか」
由鶴の膝の上で心地良さそうに寝そべっている猫は、逢にも見覚えがあった。ハウス──管理部の面々が住まうAporia第二の寮と称されるそこに、彼らと共に住んでいる猫・おこげだ。基本的に、管理部の面々はその大半が在宅ワークをしており、故におこげをわざわざ誰かに預けなければならないシチュエーション──すなわち、誰一人在宅しておらず、且つおこげを単身留守番させることができない状況──は普通なら発生しないはずだ。にも関わらず、事務所に連れてこなければならない了見とは何なのやらと、そんな意図を持った逢の疑問は至極もっともだった。
「どうやら、おこげの定期検診が今日の予定で、病院がAporiaの近くということで、事務所での用事を済ませた後で槻本さんが連れて行く予定だそうで」
「つまり、その短い間だけであればという条件付きで預かった、ということか」
「ええ、槻本さんのご用事が比較的すぐ済むのは承知の上ですし、おこげならそんなに邪魔にならないと判断した次第です」
由鶴のその言葉に同調するように、おこげが再びにゃあと鳴いてみせた。
「まあ、業務に支障が出ないのであれば好きにすればいい」
「すみません、事前に逢さんにも申し送りをしておくべきでした」
「いや、この程度の些末なことでいちいち報告を求めるつもりはないし、元よりお前もそういう考えだったんだろう」
「ええ、まあ」
敢えて、この状況なら逢からの反対も無いだろうと思っていた、とまでは由鶴は口に出さなかった。逢が考えそうなことは粗方想像がつく程度には、想い人のことは知っているつもりだが、別にそんなことをアピールする必要も今は無いだろうし、意味もあまりないだろう。そう思いながら由鶴は逢の方を見遣ると、ところが逢は何故かおこげの方をじっと見ていた。はて、逢はそんなに動物に興味を持つ方だっただろうか、それにおこげについても別段何か思い入れなどを持っていただろうか――そう思いながら、由鶴の顔には自然と不思議そうな表情が浮かんでいた。
「どうした」
「えっ」
気付けば、逢の視線はまたも由鶴の方に向いていた。ごくいつも通りの表情のはずなのに、けれども妙な緊張感を覚えてしまい、由鶴は一瞬返答に詰まってしまう。
「ああ──想像以上に大人しくしているのが、好ましいと思っただけだ」
「好ましい」
猫に対して逢からそんな言葉が飛び出すとは、などと思うのはやや偏見だろうという自覚はありつつ、とはいえつい鸚鵡返しに逢の言葉を口にしてしまう程度に、今の発言は由鶴にとって意外だった。
「そう思わないか。どこぞのインコのように妙に癇に障る言葉を不定期的に投げられるよりは、これぐらい大人しい方がよほど良い」
「インコと猫を比べるのもどうかと思いますが、とはいえ逢さんが言いたいことは理解はできます」
ナンダッテー、と、これもまた絶妙なタイミングでレアが声を出すものだから、逢は少しばかりの顰めっ面を、由鶴は苦笑を浮かべてしまう。
「と、いうわけなので、もう少々おこげをここに居させてあげても」
「ああ、構わない──従順なペットは嫌いじゃない」
そんな言葉と共に、逢はそっとおこげの顎の下辺りに指を当てた。そのまま撫でてやると、おこげが気持ち良さそうな声を出しており、思わず由鶴の顔が緩む。
「思いの外、懐いてるんですね」
「ハウスに顔を見せると、割と自分から擦り寄ってくる程度にはな。それに今日は、偶然だろうが『猫の日』とやらだろう」
猫の日、という単語に、由鶴がふと壁に掛かったカレンダーに目をやると、確かに今日は二月二十二日だった。逢の口からおよそ出るとは思っていなかった言葉と、彼の振る舞いに、また由鶴の顔が少し緩む。
「そうでしたね」
「別に、だからといって今日は猫を特別愛でる日でもないだろうが、今日ぐらいは良いだろう」
「ええ、確かに──あ、それなら一瞬おこげを預かってもらってもいいですか。この調子で俺の膝に乗ったままだったんで、少し動きたくて」
「構わない」
そう言うが早いが、逢は慣れた手付きでひょいとおこげを持ち上げた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどではない」
そう言いながら、逢は今度はおこげの頭をそっと撫で始めた。すると、おこげも満更でもなさそうな様子で逢にその身を擦り寄せており、そこまで触れ合って例えば逢のスーツに毛が付いてしまわないだろうかなどと、そんな余計な気まで回しそうになっている由鶴がいた。が、そもそも逢自身が嫌がる様子を見せていない時点で、そういった可能性も込みで許容しているのかも知れない。
今日だったからこそだろうか、随分と珍しいものが見れたなと思う一方で、自分がまずされなさそうな可愛がられ方をされているおこげに、僅かながら嫉妬心を抱いている、と──それを由鶴が自覚するのが先か、それとも。
「なんだ、お前も可愛がってほしいのか」
「えっ……」
そんな、由鶴ですらも自覚しているか怪しい感情を逢が指摘するのが先だったのか。
その答えは、当人らにしか分かり得ない。