【逢由】only me, only yours ──今夜は、どうか今夜だけは、早めに帰ってきてくださいね。
出掛けにそんな言葉を彼から告げられ、その理由や意味を深く考えず、「善処はするが約束はしない」と、そんな返事をしてしまったことを後悔したのは、夜の随分と遅い時間になってからの話だ。
午前中は弥代から上がってきた次のドレスアップイベントの企画書の確認などを始めとする事務所での諸業務、午後は立て続けに外でのアポイントメントが予定されているという、普段からやや多忙気味な皇坂逢にとっても一際忙しない一日だった。だからこその約束は「できない」ではなく「しない」であったことは、きっと相手も分かっていたことのはずだ。
だから、だったのだろうか──。
「ああ、やっぱりこの時間まで掛かっちゃいましたか」
時刻は日付が変わるまであと僅か、といったところで、普段であればまず事務所に人がいない時間帯だ。それなのに何故かその場にいた彼──城瀬由鶴の姿に逢はやや困惑気味の顔を浮かべた。
「何故、ここに居る」
「遅くなるとしても直帰せずに一度ここに戻ってくるだろうと思ってここに来た、って言ったら分かってもらえますか」
「意味が分からない。俺が直帰せずに戻ってくるだろうと思ったからといって、お前がわざわざ事務所に来る理由は」
「逢さん、今日って何月何日でしたっけ」
由鶴の言葉に、逢は深く考えることなくごく自然に口を開く。
「四月十四日だろう、それがどうした」
「逢さんはそもそもあんまりご自身の誕生日をそこまで盛大に祝われる方ではないでしょうけれど……かといって、別にそれ自体を忘れていたわけでもないでしょう」
「確かに明日がその日だとは覚えていたが、そもそも積極的に祝われたいとも思っていない。生まれた日だからといってそれを記念日だなんだと過剰に特別視する必要性など無いだろう」
淡々とそう告げる逢に、由鶴は驚かなかった。逢の反応は概ね予想通りだったし、寧ろこの程度に留まっているのが意外なほどだった。きっと、これが例えば自分以外の相手ならばもう少し棘のある物言いに──例えば、そんなくだらない話をするために残っていたのか、とでも言っていたかもしれないが、それはさておいて、だ。
「過剰、ではなく普通に特別扱いされるのも、嫌だったりしますか」
「……そういう扱いをしてくる相手次第、ということにでもしておく」
まだ少し怪訝そうな顔を浮かべつつも、とはいえ別段刺々しさを感じさせてくるわけでもない、そんな表情を向けてくる逢に、由鶴は柔らかな笑みを返した。
「明日は普通に平日で、お互いそれなりに仕事がある身なのは重々承知してます。けれども、一杯ぐらいは飲んでも罰は当たらないでしょう」
そう言って、由鶴は手に提げていた袋を持ち上げてみせた。
「逢さんお気に入りのワインを持ってきました。あと、バーで出した余りですが、おつまみも」
「俺が帰宅するまで待てなかったのか」
「単なる我儘かもしれませんが……誰よりも早く、真っ先にお祝いしたかったからと言ったら、納得してもらえますか」
それが、他の相手であればそんなのは有難迷惑の自己満足だろうと一蹴していたかもしれない。けれども、相手が他ならぬ由鶴である以上、逢の返事など決まり切っていた。
「いいだろう――望むところだ」
グラスを貸せ、いえまず主賓は注がれる側でしょう、などと言い合いつつ、二人はワイングラスを手にしていた。
そして、いつしか時計の針は──。
「三、二、一……お誕生日おめでとうございます、逢さん」
零時丁度に贈られたその言葉に、逢は満更でもなさそうな笑みをそっと浮かべた。
「ああ……有難う、由鶴。確かに、真っ先に祝ってくれるのがお前というのは、悪くないな」
こうして、二人だけのイブから始まったバースデーは、そんな穏やかな雰囲気ながらも特別なものとなったのだった。