お前と海へ行った。 場地と海へ行った。
厚い雲に覆われた日だった。電車に揺られつつ海を見ると、外では蝉が目一杯鳴いているのに、静かな気持ちになった。クーラーの風がゆるく吹いている。途中の駅でドアが開くと土と潮の匂いがした。
この電車は山と海が近い。向かい側には八月の森がこんもりとしていて、背には海が広がっている。曇っているから海の色も重い。
車両には人がまばらだった。俺たち以外は地元の人間なのだろう。降水確率九〇%で海に行く人なんてそうそういない。
なぜそんな日に海へ行くかというと、場地が行こうと言ったからだ。
両親が離婚して以来、父の暴力から解放された。しかし代わりに孤独がやってきた。母さんは俺が居ても居なくてもいいみたいだ。だから外に遊びに行くようになった。
俺が友達と遊んでるのは母さんも初めは知らんふりをしていたのに、近所のババアが「心配」だとか言いに来たらしい。母は外面を気にするひとだ。頑張ってる私が悪く言われるのだと、俺を殴るようになった。もはやあの家に俺の居場所なんて無い。いや、そもそも両親と一緒にいるときも心安らぐ時なんて無かった。
そんな状況を察して場地は海へ行こうと言い出したのだろうか。
「電車の終点まで行ってみようぜ」
道中の場地はというと、はじめこそ近所に現れる猫の話やくだらない話をしてたものの、目的地まであと半分というところで寝てしまった。お母さんに持たされたという麦わら帽子を膝の上に置き、うつらうつらと舟を漕いでいる。
場地が倒れないように横目で気にしていると、車窓を軽く叩く音がした。雨だ。そこからは一粒一粒の見分けもつかない勢いで降ってきた。
海を見ようにも、景色が溶けたようで海と空の判別がつかない。静かだった景色が不安定になる。急に車内がひどく寒くなったように感じた。蝉が鳴きやんで、さっきよりも車内のクーラーの音も雨音もよく聴こえるのに、全部ニセモノの音みたいで、悪夢に一人でいるような感覚に陥った。
ふいに意識が戻ってくる。左肩に重みを感じた。そちらを見てみると、場地が俺に寄りかかっていた。
「もうすぐ着くぞ」
そう言われた場地は、薄く目を開けた。俯いて目にかかった髪が揺れている。まだ俺に寄りかかっている。
起こしたのは自分なのに、ずっと寄りかかっててほしいと思った。その重さが心地よかった。
目的の駅に着いても雨は降っていた。ベンチに座って止むのを待った。駅に降りてようやくすっきりした顔をした場地はまた話し始めた。別の友達の話だった。場地の話に何度も出てくるやつだった。話を聞いてる限りでは随分ワガママなやつだ。場地の幼馴染だけど性格は場地と全然違う。絶対友達になんかなりたくないと思った。
いつか会わせてやると場地は言うけれど、俺は場地と居られればいい。でもその仲間のなかに入れることは、場地にとって特別であることを意味するのはわかってたから、さもそいつに興味があるようにした。
「晴れてきた」
場地の声で空を見る。雲が流れて途切れたところから光が射し込んでいた。蒸し暑さがいっそう増した道を歩いて海へと向かう。昔はこの町も海水浴の客で賑わっていたそうだが、今ではサーファーと地元の家族連れがまばらにいるだけだ。
人の少ない海で泳ぐ。スクールに通ってたから泳ぎは得意だった。でもプールと違って、急に深いところがあったり波が来たりするので、なかなか慣れない。必死に立ち泳ぎをしていた。
いきなり頭に水がかかる。
「おい大丈夫かよ。こえーのか?」
「別にこわくねーよ。深いのに慣れないだけだし」
「ん、じゃあ鬼ごっこしようぜ。俺が鬼になるからお前逃げろよ」
「え」
「じゅー、きゅー、はち、なな」
カウントダウンが始まって慌てて泳ぎ出した。
さきほどまで雲の間で見え隠れしていた太陽が顔を出し、ギラギラとふたりを照りつけていた。
もう正午も過ぎたのだろう、泳ぐだけ泳いで体力を使い果たし、手持ちの飲み水も尽きていた。八月の陽の下で二時間も泳げば水の中であろうと暑さにやられる。浜辺に上がったふたりは歩くのも億劫で砂浜に倒れ込んだ。
横たわっても暑さは変わらないが、気休めばかりに場地の麦わら帽子で日陰を作った。ふたり分の頭を隠すには小さい日陰で、頭は常に熱砂で茹でられているようなものだったが、寝転んで何を話すわけでもなく編まれた麦わらを眺めていた。粗い目からはところどころ光が入り込み、内側を触れているのも熱かった。
他の海水浴の客の声も遠く、聴こえるものは波の音と隣からする呼吸の音ばかり。
そのとき俺は思った。いまこの瞬間に死んでもいい。
それから、どちらからともなく笑い出した。ばかだ。こんなところでふたりで死にかけてる。死にかけてるのに明るい気持ちだった。ひとしきり笑ったあと「海の家へ行こう」と促した。
海の家で昼ごはんを食べた後はもう泳ぐ気にはなれず、砂浜でカニを捕まえたり、砂の城を作って過ごした。
帰りの電車でも場地は寝てしまった。クーラーの風がゆるく吹いている。土と潮のかおりがした。
さすがに俺も疲れて微睡んだ。左肩に重みを感じながら。