切り捨てるべきもの 名を呼ばれた気がして、立ち止まる。
気のせいだ。生まれ育ったこの場所に、自分を知るものはすでにひとりとしておらず。ここから連れ出され、教育された世界に住まう小綺麗な奴らがこんなところへ足を向けるはずもない。
ひとつ、息を吹く。埃っぽさが鼻についた。軽く頭を振り、雑念事振り払う。
未練は捨てろ。自分で決めて、ここに戻ってきたんだろう、と。心の内で叱咤すれば、自然と背筋は伸びた。
――さて、これからどうするか。
母と再会する。その望みが果たせぬものだと知ったのは、ほんの数日前。
記憶にあるよりいくらもくたびれたあばら家をノックした自分に、知った声が応えることはなかった。
代わりに現実を教えてくれたのは、いまにも屋根が落ちそうなぼろ屋に住まう隣人。聞けば、母は数年前に病で息を引き取ったという。それからこの家は空き家のままで。こうして訪れてきたのは自分がはじめてだ、と。
不思議と悲しみはわいてこなかった。涙すら溢れぬ自分を薄情者だと罵りながら、それをも勝るあの男への憤りが胸を支配していた。
よほど見ていられぬ顔を晒していたのだろう。親切に現実を教えてくれた隣人は、礼も癒えぬうちに小さな悲鳴を残して扉の向こうへと骨と皮だけに近しい身体を隠してしまった。
ひとり取り残されたその場所で、己の愚かさを恨む。
あの男の望む駒であれば、母の生活が豊かになるだなんて。耳障りの良い甘言を信じて。それだけを支えにして。
その言葉がすべて偽りであったことは、古びた家が示している。守る気など、さらさらなかったのだろう。単に自分をしばりつける理由が必要だっただけで。それが真でも嘘でも、なんだってよかった。確かめる術など、駒たる自分は持ち合わせていなかったのだから。
あぁ、馬鹿らしい。愚かしい。何を信じていたのだ。何を期待していたのだ。
母を捨てたあの男に。自ら『息子』を迎えにも来なかった男に。
どうして証拠もなく、母の暮らしのためにと従順にしたがっていたのか。唇を噛み締める。ぶちりと切れた薄い膜が口腔に鉄錆の味を広げたけれど、胸を刺す痛みを掻き消すことなど、できようはずもなかった。
「――っ」
どんっと足に触れた軽い衝撃に意識を引き戻される。
あの日、歯が裂いた唇はすっかりと塞がり、血の味を舌先に感じることもない。
お兄ちゃん、と拙い声に呼ばれ視線を落とせば、ボロい布に穴をあけ腕を通した子供がしかと足に抱きついているのが見えた。
目線を合わせてしゃがみ、艶のない髪を撫でつける。そうすると屈託のない笑みを零す姿は、生まれてから幾度も顔を合わせたことのない『弟』の姿を思い出させた。
きゃらきゃらと首に甘える子を腕に抱いて立ち上がる。母親の姿が見えないのは、いつものこと。生きているのかすらわからないのは、この場所では日常茶飯事だ。母と二人。ボロいながらも屋根のある家で生活できていた自分は、まだ恵まれていたのだろう。
あぁ、そうだ。これからどうすか、なんて。決まっている。そんなこと、考えるまでもない。
「……これは、復讐だからな」
「?」
指を立てて教えてくれた齢よりも随分と幼く見える子供が首を傾ぐのに、目を細めて返す。
そう、これは復讐だ。嘘を吐いた男への。自分たちを使い捨てたあの家への。
「あいつらのためじゃないさ」
俺は俺の道を行く。そのために背を向けた友らとの未来が不意に頭をよぎる。嘲笑で吹き飛ばしたはずのそれは、まだべったりと背に張り付くようではあったけれど。埃にまみれた家を振り返ることはもうしなかった。