溜め息の保存方法 意図せず漏れた溜め息に、傍らのその人が顔をあげた。
空を写したような大きな眸が忙しなく瞬いて、傾いだ首の上でさらりと長い髪を頬に流す。
――なんだろう。
倣い、こちらも首を傾いだ。ひとつ。ふたつ。瞬きを数えたところで、隣にある影が動く。
ふわり。陽だまりの匂いが鼻腔を擽り抜けた。
あ、とこちらが声をあげるより早く。眼前へ手が伸びた。
短く爪を切りそろえた指先が、ぱふっと柔らかく空気を手のひらで包み込む。
大切に。大切に。まるで、壊れ物でも扱うみたいな手つきだ。
また幾度重ねた瞬きに、傾く頭は角度を深くする。
数歩、前へ出た彼女はその勢いのまま、あともう二歩だけ前へ進んで、くるりとその細い肩を返した。
黄金色の髪がふわりと宙に広がる。降り注ぐ秋の日差しを受け、きらめくそれは、まぶしいけれど、目に焼き付けていたいほど美しくて。あれほど繰り返した瞬きが嘘のように目を見開いた。
得意げに胸を張る彼女の名を、無意識にくちびるへ零す。和やかにほころんだ淡い色のくちびるが、緩やかな弧を描いた。
花の咲くような笑顔と良く言うけれど、彼女の笑顔は、多分、自分の知る中で一番その表現に近しい。
「捕まえた」
合わせたままの手のひらを掲げる。
その向こうから覗く目は、やっぱり得意げに笑みを湛えて。え、なにを。なんて、思わず問うたこちらに、ほんの少し膨らむ頬が愛らしい。
「わかんない?」
ぽふんっと足元を軽く叩く衝撃に目を向ければ、また一度、見慣れたぬいぐるみがその短い腕を振り上げて、太ももを叩かれるところだった。
何を、怒っているんだろう。
また変なことを言ってしまっただろうか。
いつもこう、だ。
自信を持てたためしがない。どれだけ力をつけても、まだまだ。胸を張ってヒーローになりたいと言えない。いつだって明るく笑う彼女に、きっと自分は相応しくないのだろう。
そう思うことだって一度や二度の話じゃなかった。
どうして傍に居てくれるのか。どうして自分だったのか。
もっとふさわしい人がいるだろう。なんて、零した日にはそりゃもう盛大に怒られてまた深く落ち込んだこともあるけれど。
「ご、めん」
肩を落とし、背を丸める。
見下ろした地面の傍には、やっぱり見慣れた彼女の相棒が居る。ぽふ、ぽふ。叩かれたって痛くもかゆくもない程度の攻撃だ。それでも、彼女の胸に抱かれていることの多いその子を見れば見るほど、じんわりと視界が水面を揺らす。
ぐっと喉元までせりあがった溜め息をこらえもせずに吐き出そうとして、くちびるに触れた温度がそれを制した。
「あのね」
瞬き、見開く。
視界に宿る空の色は、どこまでも果てなく澄んでいて。むぐっと不格好に歪んだ吐息が触れる先が、彼女の指だと遅れて気づいた。
「っ、な。ま」
認めて、慌てて飛び退く。
ほんの少し驚いたように目を開いた彼女は、けれど瞬きひとつでそれを塗り替えて。いたずらな笑みを刻んだ。
彼女が軽く肩を弾ませる都度、宙に揺れる毛先が太陽にきらめく。
ああ、まぶしい。目が眩む。けれど、目を逸らすこともしたくないのだから、おかしな話だ。
「溜め息ついちゃ、幸せが逃げるっていうでしょ」
こちらが飛び退いたことなど、まったく気にも留めずに続ける。宙に置いてけぼりになっていた指先と、それからこちらとを交互に見遣って。ふっとやっぱり花がほころぶみたいに柔らかく笑みを浮かべた。
離れた指先が空気を包む。
重ね合わせたまま、胸元に戻された手は、やっぱり、なにか大切なものを包み込んでいるみたいだ。
耳に触れたセリフに、頷きを渡す。
それは、幾度となく聞かされたことのある台詞だった。
両親から。それから、とびっきりの秘め事でも話すみたいに、声を弾ませた同級生で、クラスメイトでもある波動さんから。
だから溜め息を吐いちゃダメだよ。とは、誰も言わなかったけれど。多分、その言外には同じセリフが隠れていた。
半歩。かかとを引き、下唇を噛み締める。
揺らぐ視界はその水面を崩すまでには至らないけれど、啜った鼻の奥が少しだけ痛んだ。
まったく。情けない。
「環くんいっぱい溜め息ついちゃうからさ」
ああ、ほらやっぱり。自分は彼女にふさわしくない。
いつも鬱々として。溜め息ばっかりついて。肩を落として。自分に自信なんて持てはしない。
いつだってしゃっきり背筋を伸ばして、明るく笑顔を絶やさない彼女とは、正反対の自分なんて。
「だから、もしこらえきれずに環くんが溜め息を吐いちゃったときは、私がこうして環くんの幸せ、預かっておくね」
まぁ、さっきみたいに勢いで返しちゃうときもあるかもだけど。それもそれでいいよね。幸せ、失くさないもん。そう言いながら声を弾ませる彼女はあどけない。
「ね、約束」
解かれた手のひらの内側は、からっぽだ。
それでも、そこについさっきまであっただろう『なにか』は。自分へともどされただろう『そいつ』は。自分にとって、きっと何にも代えがたい特別なもので。引いた足を前へ踏み出した。
一歩、二歩。開いた距離を縮める。足を叩くぬいぐるみは、いつの間にか、いつものように彼女の足元に身を寄せていた。
風が一陣。吹き抜ける。伸ばした腕は確かな彼女の体温を掴んで、ふわりと日に透けた髪が宙に躍った。
きらきらとまばゆい光に目が眩む。とくとくとうるさい心音はきっと、彼女にも筒抜けだろうけれど。柄にもなく縮めた距離は、不思議といつも湧き出る罪悪感を感じない。驚きに声をあげた彼女が少しだけ押し返そうと折りたたんだ腕で胸を叩いたけども、離すつもりはハナからなかった。
「ごめん、少しだけ」
いいかな。自分らしくもない。それでも、いいかという気持ちが勝っていた。
やがて観念したんだろう。胸元に感じていたわずかな抵抗は姿を潜め、するりと布地を滑った手のひらが背にまわった。
ほんの少し、伸びた背筋を手のひらがなぞる。
ゆるんだ口元を太陽のぬくもりを移した金色に埋めた。
トクトクと、自分と同じ速度で進む鼓動を肌に感じながら、そっと閉じた目蓋の裏。描く彼女の姿を遠く感じることはもうない。
もし、君が溜息を吐くようなことがあったら、その時はおれがちゃんと手のひらで包んで、大切に。大切に預かっておくから。そんな風にはまだ、口に出来そうにはないけども。
きっと大丈夫だって、今なら言える。