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    頬に伝う雫 一瞬で、空気が冷えた気がした。
    背の高い、彼の向こうで扉が妙にゆっくりと閉じていく。
     窓のない玄関は、そうするだけで昼間だというのに薄暗く変わって。見慣れたはずの彼の顔が違って見えた。
     いらっしゃい。開いた扉の先。そういいながら佇む彼をこの家に迎え入れて、まだ、ほんの数秒。
     だのに、楽しみすぎて早よつきすぎたわ。なんて、穏やかにまなじりを下げて笑っていたはずの彼は、こちらの姿を捉えるやいなや、瞬く間にその様相塗り替えてしまった。
     わずかばかり見開かれた青い眸。訝しげに寄せられた眉が、漂う空気を一段、低くする。
     多分、彼と共に舞い込んできた外気の所為じゃない。
     これは、そういうのじゃないことくらい、鈍感だと友達によく言われる私でもわかる。
     なにかに、怒ってる。
     まって、なんで。どうして。さっきまであんなに機嫌よかったじゃん。
     わけもわからぬまま。本能が警鐘を鳴らす。
    無意識に一歩。足を引いた。
     けれど、すぐに追いかけ伸ばされた手がその動きを制されて。剣呑な眼がこちらの姿を射抜く。
     ほんの少しだけれど、確かにとったはずの距離は、あっという間に詰められ、壁際に追い込まれた。

    ――いや。ほんと、なに。

     こんなの、はじめてだ。
     こうして付き合う前から幾度となく、揶揄うみたいに詰めよられて。それこそこうして壁際に追い込まれては、いたずらに愛を囁く素振りを見せられてきたけれど。
    今日のこれは、なんだか様子が違う。
     いつだって、優しげに和んでいる表情は。穏やかな暖かな雰囲気は。いま、相対する彼からは微塵も感じられない。
     付き合ってから――否、彼のことを意識するようになってから、もっぱら変わった私の反応を楽しむように機嫌よく細めていた眸や、機嫌よく緩んでいたくちびるだって。全部が全部。嘘みたいに消し去られたまま。
     温度のない表情。光の灯らぬ目が、影の中でこちらを見据えている。

    ――怖い。

     多分。はじめて、彼に対してそう感じた。
     訓練のときとも。学校にいるときとも。それこそ、あの大規模侵攻のときに少しだけ目にした、姿ともまた違う。
     それは、知らない。知りようがなかった、彼の姿。
     確かに他の人から一歩引いて、境界線を作り出して。気を許した人くらいにしか、見せない表情は、ままあったけれど。
     これは、多分。そのどちらでもない。はじめてみる、彼の一端。
     そんな風にいろんな表情を見せてくれたことに嬉しいと思う反面。不透明な理由が。凍り付いたように凍てついた空気が。なによりも恐怖心を煽って、らしくもなく身が竦む。
     こちらをみつめる目が。纏う空気が。怒っているのだと伝えてくれるけれど。その理由がまったくわからない。
     わからないことが、悔しくもあった。
     コクン。静まり返った空気に、息を呑む。
     見上げ、映した青色の目は、影に紛れて暗く。やっぱり、いつもの漂わせている穏やかな雰囲気は、どこを探しても微塵も感じられなかった。
     まるで、捕食者のそれだ。スナイパーらしい鋭い目と言えなくもないけども。彼には、似つかわしくもない。
     少なくとも、表にはだそうとしない。それが、私の知る彼だったから。
     取り繕う余裕がないんだろうか。そうなってしまう何かを知らず知らずのうちに、私は犯してしまっていたんだろうか。
     話が聞きたい。
     錆びついたみたいにうまく動かない腕を、どうにかして動かそうとほんの少し、身を捩る。
     凍てついた空気をとりあえず解そうと、こんなところでいるのも寒いし。話すなら中にしよう。おいしいお菓子も用意したしさ。紅茶かコーヒー今ならすきなの選べるよ。ほら。そう持ち掛けようとした提案は、けれどもう片方の手のひらに頬を包まれて、宙を泳いだ手と共に行き場を失った。
    「っ、」
    「なぁ」
     聞いたことのない、声。吐息とともに耳朶に触れるその声音に、不自然に硬く肩が跳ねる。身体が強張る。
     いつもなら、それを揶揄って。笑って。楽しげにこちらの反応を見つめるはずだのに。そんな彼の姿は、やっぱりどこを探しても見つからないまま。呼吸を詰めたくちびるに、息がかかった。
     いやいや、ほんとどうしたの。なにかあったの。私でいいなら話聞くよ。なんたって、私は同級生で、弟子で。それでもって、そう。恋人だからね。なんて、こちらから冗談交じりに笑い飛ばして。胸でも肩でも押して、抜け出せばいいだけなのに。変に乾いた喉が引き攣って、用意したセリフは、うまく形になりそうにない。
     いったい、どうすればいいんだろう。
    どうして、こんなことになってるんだろう。
     ほんの少し前まで、いつも通りだったはず。
     なにも、変わったことなんてなかった。
    彼がこの部屋を訪れるのは、いつのまにか、指折り数えるのも億劫なほど、日常に紛れたことで。
     お互い、地方からこの街に来て、独り暮らしの身。B級である生駒隊に所属する彼に遅番の防衛任務が入っていないときは、大抵どちらかの家で、夕飯を食べるのが常だった。
     今日も、そのうちのひとつで。変わったことと言えば、定期考査にランク戦。それから防衛任務と立て続けに予定が詰まっていたから、久しぶりに来る約束をした。
     いつものことだ。怒る要素は、どこにもなかった。
     ただ、早く着すぎたと笑って、そのことにこちらも肩を竦めて、笑って返そうとした。それだけのことで。なにも特別なことなど、なかったはずなのに。
    「弓弦」
     痺れを切らしたように低く名を呼ばれて、逃げ場もないのに引いた踵が壁を叩く。
     痛い。夢じゃない。
     そりゃそうか。こんなに、空気が冷たく感じられるんだし。ちゃんと、触れた感覚だってあるんだし。
     宙を迷っていた手を漕いで、胸元に戻す。
     冷たいつま先を擦り合わせ、所在なさげに視線が、右へ左へと彷徨った。
    「いや。その、え、っと」
    「誰の所為や」
     いつの間にか。瞬けば睫毛の絡む距離に、彼が居る。
     逃がそうとした視線はうまくいかないまま。深い深い、海の色に囚われた。
     光りを灯さぬ瞳は、相も変わらず剣呑にこちらを射貫いて。すぐ傍で紡がれたはずの言葉が、どうしてか遅れて耳に届く。
     誰の、所為。
     紡がれた言葉を繰り返せば、浮かんだ疑問符が瞬きを生む。
     なんの、ことだろう。なにが言いたいんだろう。
     誰の所為も何も、いま、自分が追い込まれているのは他でもない。眼前にいる彼だけで。戸惑う理由も。うろたえる理由も。全部が全部そこにあるんだけど。
     頬を包んだ手のひらに、寄りかかるみたいに首を傾ぐ。
     なにが。そう、言葉でも尋ねようとして。けれど、続く彼の言葉が、問いかけを攫った。
    「誰に泣かされたんか、ええから言うて」
     なぁ。黙っとったらわからんで。また深く。眉間に皺が刻まれていくのがわかる。
     目元まで赤なっとるし。そう言いながら親指の腹で目元に触れられて。また一度。視界の中を睫毛が行き交った。
    「へ?」
     間抜けにくちびるを割り開いた言葉が、冷たい空気を押し戻す。壊れ物でも扱うみたいに頬を撫でる指先は、よく知る優しさのまま頬の形を辿って。わずかに湿り気をおびたその感触に、ようやっと合点がいった。
     あ、と短く声をあげたこちらに、訝しげに寄せられた眉がピクリと跳ねる。
     鋭い視線はなにひとつ、さっきまでと変わらないはずなのに。一度答えを得てしまった私にとって、そのすべては愛しいものへと姿を変えて。あとからあとから湧き出た暖かな気持ちが胸を満たした。
     ああ、なんだ。そんなこと。
     深く考えるまでもなかった。
     答えは、多分ずっとそこに在って。綺麗に食い違っていただけのこと。
     バカみたいな話だ。こんなこと、本当にあるんだなんて小さく肩を竦め、目を細める。
     ネタじゃん。それこそ、彼が所属する生駒隊のみんなに話したら、笑い飛ばしてくれるに違いないくらいの。くだらない、漫画みたいな話。

    ――でもまぁ、こんなかわいい勘違い。他の人に知られたくないから言わないけど。

    「あのね、孝二くん」
    「なん」
     さっきまであれだけ怖かった低い声が、嘘みたいに優しく聞こえる。
     知らず知らずのうちに握り締めていた手を解き、彼の纏うコートをつまんだ。
     まだ少し、外気の名残を残した布地は、冷たいけれど。そんなこと、気にならないくらい変に気分が高揚している。
     なんだか、のぼせてしまったみたいだ。
     いや、まぁ。彼から向けられた感情に。暖かくて、優しい気持ちに。のぼせているのは、あながち間違いじゃないかもしれないけれど。
    馬鹿だなぁ。そんなことに怒ってたんだ。
     そういう風に、怒ってくれるんだ。
     くすぐったいような。嬉しいような。愛しさが、胸にあふれて仕方がない。
     背に逃げていた自重をつま先へと移して、首が痛いくらいに在る身長差をこちらから縮めてやる。ほんの少し、跳ねた肩に小さく、ささやかな笑みだけをこぼして。そっと寄せたくちびるに言葉を紡いだ。
    「あのね。これ、タマネギ切ってたからだよ」
     努めて、揶揄う口調にならないように。柔らかく解いた言葉に、今度は彼の方が間抜けた声をあげる。
     え、うそ。なんて、素っ頓狂に漏れ出す声にはもう、剣呑さは微塵も感じられなくて。自然と背にまわされた腕が、やっぱりのぼせてしまうくらい、あたたかく感じられた。
    藍音凛 Link Message Mute
    2023/05/17 16:02:39

    頬に伝う雫

    ##隠弓 ##ワートリ夢

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