ずるい人 広げられた手に、一歩。かかとを引く。
スタートラインが額が触れる程度だったから、取れた距離はたかが知れている。
当然、こちらを見上げた目に嫌悪の色が宿ることはなくて。変な汗が背を流れた。
今日はどこ寄ってく。久しぶりに駅前の喫茶店でも行くか。
久しぶりにソロのブース籠ろうぜ。負けた方が明日の昼、食堂でメシ驕りな。
いまのいままで耳に触れていたはずの周囲の雑踏が、嘘みたいに凪いでいく。
肌に刺さる視線は、間違いなくクラスメイトのものだ。でも、残念ながらそのすべてに反応している余裕は微塵もなかった。
ああ、もう。いったいぜんたい、どうしてくれよう。
いつものように、全力で逃げ出すか。はたまた、誘いに応じてしまうか。
放課後の教室だ。大抵の生徒は帰路へ着き、教室に残る人影は数える程度。みんな、一年近く同じ空間で過ごしてきた自他ともに認めるほど仲の良い。信頼できる人たちだ。そこに、異論はない。
なんなら、付き合いはじめた報告だって済ませた仲だ。
曰く、これまでの隠岐の頑張りと振り回されっぷりをみたら、祝福するしかないでしょう。だとか、なんとか。
おかしな話だ。ひどい言い分だ。いつだって、振り回されているのはいつもこちら。その反応をみて楽しんでいるのは、我がクラスメイトで師匠――改め、彼氏サマの方だっていうのに。
コクン。いつの間にか滲んだ唾を嚥下する。かさついたくちびるを、口の中へ巻き込むように噛み締めた。頭の中ではじりじりと後退を続ける私がいるけれど。現実はそうもいかない。踵は、半歩引いたきり。その場に縫い留められたように、ピクリとも動きやしなかった。
交わった目は、逸らせないまま。柔らかな声音で名を呼ばれて肩が跳ねる。
クスクス。クスクス。響く笑い声は、やっぱり上機嫌。
いったい、何が楽しいんだろう――私の反応か。そうか。ほら見たもんか。と、眉根に力を入れて睨んだところで、悲しきかな。効力は毛ほども真価を発揮してくれない。
いっそ、残ったクラスメイトのみんなが茶化すだとか、冷やかすだとかしてくれたら、退路だって確保できたのに。現実は、かくも残酷なモノで。どうにもうまく転んでくれやしない。
頼みの綱であったみんなはどうやら見守り体勢へシフトしてしまったようだった。
好奇にさらされると言うよりは、生暖かい視線が肌に触れて、居たたまれなさがいっそう羞恥心を掻き立てる。
細められた双眸から目をそらし、瞳が宙を泳いだ。
ついでに、教室の片隅を窺う。やっぱり、息を潜めたクラスメイトは、帰るでもなく。茶化すでもなく。ただ、こちらのやり取りを、見守っている。
「弓弦」
繰り返し呼ばれた名は、飴玉みたいに甘く耳朶に触れて。茹でダコにでもなってしまいそう。いや、もしかしたらもう手遅れかもしれないけど。
「おっ、おっきーっ」
「んー?」
やっぱりどこか楽しげに首を傾いだ。
大きく横に広げられていた手が前へ向き、こちら側へと伸ばされる。
「ちょっ、な」
そのまま、流れるような手つきで半端な位置で留まっていた私の手を取ったかと思えば、おもむろに重なった指先が、その側面を撫でた。
反射的に腕を引こうとして、三度。鼓膜へ触れた名が私を止める。
「明日、B級ランク戦やろ。せやから、弓弦の元気わけてもらおうかなぁって」
憎らしいほどすらりと伸びた指が、ご機嫌にこちらの指を絡めとる。
相変わらず甘い、甘い。それこそ、この前放課後に連れてってもらったカフェで食べたパンケーキくらいふわっふわで、甘い声。
ああ、もう。ずるい。
そんなこと言われたら、逃げ出すこともできないじゃないか。
心の内で嘆息をつきながらも、首筋から顔へ昇る熱が不平不満を押し込む。
「なぁ、あかん?」
まろい声。こちらを見上げた瞳が、蛍光灯の光を宿して、私を映す。
あかんもなにも、ひく気なんて微塵もないくせに。とは、思っても口に出さずに置いた。
きっと、間髪入れずに肯定される方が恥ずかしい。
代わりに、尊大な溜め息をリノリウムの床へ降らせて、繋いだ腕の先を視線で辿る。
深い、深い。海の色のような瞳が、静寂で満ちた。
一陣。風が吹き込み、夕暮れ色に染まったカーテンをはためかせる。
白旗をあげる心地で、一歩。足を前へ踏み出した。自ら取った距離をまた、自分から縮める。
伸びだ腕はゆったりと弧を描いて。繋いだ手がするりと腕へ滑った。
少し前に引っ張り出したカーディガンの上を指先が這い、途中で道を外れて腰を取る。
せめてもの抵抗にと、最後に残していたわずかな狭間は、躊躇う間もなく。文字通り、アッという間に埋められた。
椅子に座ったおっきーの額が、ポスンと胸元に収まる。ふわりと鼻腔を擽る匂いは、よく知る柔軟剤の香りだ。
「……みんな、みてると思うんだけど」
「せやなぁ」
いや、せやなぁ。じゃなくって。
はなから応じるつもりなんてさらさらないんだろう。訴えを右から左へ聞き流されて、ほんのりと夕日の色を映した頬を膨らませてやる。けれど、もちろん。効果はいまひとつ。そもそも、こちらに半身をあずけたおっきーが、そんな私の顔面の変化を知る由もない。
だからせめて、明後日でも良いから、特訓付き合ってね。と、不貞腐れた声で告げてやる。
はいはい。わかっとるよ。お手柔らかにお願いします。なんて、返る言葉は、やっぱり随分と楽しげに宙へ弾んで。気づけば、ひとけもすっかりなくなった教室でふたりきり。膨らんだ頬から吐き出したため息を追いかけ、柔らかな髪へくちびるを埋めた。