饗宴シュンポシオン1.18世紀──────
──あの美しい肌に、触れてみたい。
ジュデッカ宮の演奏会を終え、居城のトロメア宮へ向かう長い帰路の馬車の中。
夜景の中の庭園演奏会の鑑賞は、アルバフィカの要望だった。それは冥界でアルバフィカを再生させてから、半年以上の経過で、たった二つ目の申し出。
ミーノスはこの麗人の望みを、長らく捉えかねていた。
望みがわかれば、それを叶えて取り入ることもできようかというのに。肝心の望みを、アルバフィカは見せない。そしてミーノスの求愛にも、強情な拒絶を続けていた。
こちらが敗戦の屈辱を押してまで、こうも身も蓋もない執心を示しているというのに。そして「近づくな」「触れるな」というアルバフィカの要求を、呆れるほどの愚直さで守っているというのに。そこへ無情な軽蔑の視線を浴びせられる。ここまでされては、誇りにかけて、いっそ再び命を奪ってしまおうと思ったことも一度や二度ではなかった。そしてその度に、アルバフィカが視界から永遠に喪失することにこそ耐えきれず、断念する。
その思いは、自分でも持て余すほどだった。
ミーノスは馬車の中で、紅色の天鵞絨に覆われた椅子に並んで座る、隣のアルバフィカを見る。美のイデアの具現のように美しい彼は、金色の窓掛けを端に寄せ、硝子の窓から流れ行く景色を眺めている。
いつもの、望んでこうしているのではない、と、言わんばかりの顔。
この美しい顔立ちをそばで眺めるためだけに、どれだけの労力を払ったか。ミーノスはため息が出た。
「荒れ果てた裏庭、夜景の庭園。他に、あなたの心を捉えるものはもう、何もないのでしょうか。あなたのためなら、なんでも叶えるというのに」
ミーノスがそう呟く。窓の向こうを眺めたままのアルバフィカは、少し沈黙を置き、言った。
「なににも、捉えられるものか。おまえは何ものにも変え難いかのように私のことを言う。しかし、それはおまえが私を見誤っているからだ。見てくれの美しさなど、何ほどのものでもない」
ミーノスはにわかに苛立った。
「ほう。ではあなたは私のこの思いも、ただの気の迷いだと?」
「そうだ」と、アルバフィカは語気を強めた。窓から視線を移し、ミーノスを見た。いつもの端正な美が視界を占める。
「人を所有することなど、できるものか。まして触れ合うことで相手を手に入れるなど、気の迷い以外のなんだという」
ミーノスは笑った。
「生前、他人とまともに触れ合ったこともないあなたが。随分大きく出ましたね」
「もう散々おまえの問答に付き合わされた。何を言われようと私の気は変わらない。面倒だ。おまえの言うように私を抱いて手に入れられると言うなら、試してみるがいい。そして──諦めろ」
馬車のキャビンの中から、御者台の傀儡に向けて中の主人から怒号が飛ぶ。トロメアの城に向け、いかづちの速さで傀儡の馬四頭を走らせることになった。ジュデッカからトロメアに着くまで、駿馬の傀儡でも三時間はかかる。
傀儡の馬は、部分部分を繋ぐ球体の接合部が、外れて砕けそうなほど身を揺する。人形であっても、全身の軋みがただならぬ要求に応じる悲壮を表していた。
そして間もなく、キャビンの窓がわずかに押し上げられた。金色の窓かけがはためくその下の隙間から、手袋をはめていない白い手が覗く。その指先は、熱気にうっすら染まった色味を見せている。
窓かけと窓の間のガラスが、吐息に濡れたように白く曇る。窓の隙間は、コキュートスの冷気を室内へと送り込んだ。冥界の者でも、この氷地獄を通過するときには寒気のあまり固く窓を閉ざすものだというのに。
窓の中の音は、けたたましい車輪の回転と、荒くれるいくつもの蹄が、かき消してしまう。
2.20世紀──────
春の始まりを告げるぬるい風は、夜の闇のさみしさをやわらげる。
ギリシャ──アテネの聖域は、冥王ハーデスの復活の予兆に警戒を強めていた。集められるだけの聖闘士を聖域に召集し、その警護に当たらせる。
その中の一人に、一角獣座の邪武がいた。聖域の入り口近くの崖を見下ろすと、人のような白い姿が闇の中に見て取れた。緩やかな風に、靡くのは長い髪か。ひやりした冷たさが邪武の延髄を抜けるよう。
邪武は崖を駆け降り、松明をかざして白い姿に近づいた。
土に座り込んだ姿は、白いローブと長い青みがかった銀髪をしている。灯を翳すと、女神と見紛う美貌が邪武の目に明らかになった。しかしその視線は見るともなしに、ただ虚空を眺めている。
「何をしている。ここは聖域だ。速やかに去れ」
美しい顔は、邪武の声に振り向いた。邪武はその視線に背筋が凍った。こちらを射抜くような鋭利な視線は、ただ人のものではない。上位の──はるかに上位の黄金聖闘士に匹敵する洞察と厳かを感じ取った。
「ここは、聖域……? それは、なに」
天上の笛かと思う麗しい声がそう問う。邪悪な気配は何もない。
邪武は、何故これほどの人が知らないのかと、疑問を抱いて答えてしまった。
「聖域は、女神アテナを奉ずる聖闘士の拠点ではありませんか」
「女神……聖闘士……」
そう言葉を繰り返して、麗人は記憶を辿るように額を右手の平で押さえた。
「あなたが何者かはわかりませんが、ここを去ってください。冥闘士が襲来しないとも限らない。危険なんです」
「冥闘士……。聖域に、冥闘士が……?」
額を押さえ、呻くように声を出す麗人になす術もなく見守るしかない邪武だた。ふとのそばに、黄金聖衣を纏った乙女座のシャカが現れた。邪武が黄金聖闘士の出現に喫驚の顔をしていると、シャカは麗人の方に顔を向けた。
「おや。先ほど聖域に現れた怪異の正体は、あなただったか。死の国から、何故現世に? 肉体までともなって」
麗人はシャカを見た。シャカというよりは、その身を包む黄金聖衣に目を走らせた。しかし、目を凝らすばかりで、麗人は何も語り出すことはない。
「記憶障害を起こしておられるようだ。死者が急に生身を得れば、それは不具合も生じよう。しかしあなたの様子は、自ら望んでというよりは、──何者かにこの地に引きずり出されたのか? 強引に、肉を備えて」
シャカが観察を進める間に、上空を猛禽の翼が飛来し風を切って舞った。旋回した後、猛禽は目標を定めて高度を下げた。一心に、シャカの元へ急速に降下して来る。
「貴様ら──」
空からの怒声がシャカと邪武の頭上に降りかかった刹那、鳥の翼が巻き起こす巨大な旋風が二人を包んだ。咄嗟に、シャカは防御の印を唱え、邪武と麗人とを庇った。衝撃と同時に、昏い色の冥衣と共に激しい怒りを帯びた冥界の冥闘士が、地に降り立った。
「貴様らか。アルバフィカを地上へ奪い去ったのは」
邪武は冥衣の出立ちに顔を蒼白にした。いま間近にいる黄金聖闘士のシャカにも劣らぬ威圧と脅威を身に纏った男。その異様は、一目で天からの災厄だと邪武に感じ取らせた。
「月のように冴えた輝き放つ、冥王の冥衣。きみが冥闘士だな。その禍々しい冥衣の意匠は、鷲獅子か」
しかしグリフォンの冥闘士はもう答える事をしない。シャカのそばで額を押さえて佇む麗人を目に止め、手を伸ばす。
「アルバフィカ。戻りますよ」
その言葉の直後だった。
「私に触るな!」
アルバフィカと呼ばれた麗人は鋭い声を跳ね上げた。生前、毒の血を持つ毒薔薇と呼ばれていた頃のように。アルバフィカはローブの長い袖で冥衣に包まれた手を跳ね除け、アルバフィカは身を翻して後ずさる。そして顔を上げると、かつての魚座の黄金聖闘士そのままの気迫を持った眼光は、明確な敵意を持って冥闘士を睨めていた。
「おまえ…、ミーノス! 来たか、冥闘士」
邪武は別人のようなアルバフィカの俊敏さに目を見張った。なにひとつはっきりと認識することのなかったアルバフィカが、いま、目の前の冥闘士のことだけは記憶にあるように捉えている。
ミーノスと呼ばれた冥闘士は、闇にも艶かしい柳眉を曇らせ、アルバフィカに視線を送った。
「まさかあなた、記憶が?」
アルバフィカは強い眼差しをミーノスに向けたまま、明らかに全身で彼を警戒している。
「自ら死地に飛び込んで来るとは、愚かなやつ」
そう言われ、ミーノスは風のようにアルバフィカの間近まで距離を詰めた。その動きの速さに、目で追えなかったことを悔やむようにアルバフィカはミーノスを睨み上げた。
「また、そこからですか。どうしてもあなたにとって、私は敵ですか。あなたは一体何度、私を跪かせれば気が済むのです!」
アルバフィカは魔宮薔薇をその手に出現させようとするが、薔薇は現れない。アルバフィカは険しい顔をし、腕を構えた。
「魔宮薔薇がなければ、私が戦えないとでも…!?」
ミーノスはその腕を捉えた。悲しげな目で。
「そうですね、私たちはそうして出会いましたね。しかし、あなたの霊魂は、冥界でもう240年以上前に聖闘士であることを辞め、戦わないと決めた。その気迫は見事なものですが、あなたにはもう私と相対するだけの力はありません」
アルバフィカの表情に戸惑いが生じた。
「まして私たちは、敵でもない」
ミーノスが眼光で微弱な威圧を送ると、アルバフィカの意識はたやすく揺らぐ。そして体の力を失い、ミーノスの腕にもたれた。
ミーノスはアルバフィカを抱き留めると、周囲に改めて視線を送った。黄金聖闘士の乙女座が一人、そして、青銅聖闘士の一角獣座。ミーノスは乙女座の手元に108の魔星を封じる数珠があるのを認めた。小さく吐息する。
「私はハーデス様の冥闘士。天貴星グリフォンのミーノス。利害は一致すると思います。手を貸してもらえませんか」
ミーノスはそう呼び掛けた。シャカが口を開く。
「そのお方は、先の聖戦の魚座の黄金聖闘士アルバフィカか。冥界三巨頭の天貴星を討ったという」
「そうです。聖戦の相討ち以来、冥府で我々は共にありました。240年以上の恋人として」
ミーノスの言葉に邪武は声を上げた。しかし慌てて口を噤む。
「私はただ、この愛する人を元いた冥府に連れ帰りたい。──きみたちにもわかるでしょう? このような記憶障害を伴う不完全な復活は冥王の秘術ではありません。何者かがにわかの反魂で、アルバフィカを現世に連れ出した。そうとしか考えられないでしょう」
「アルバフィカを呼び出した反魂の術者が、術を解かなければアルバフィカは冥府に帰れないということか」
シャカが答えると、ミーノスは頷いた。そして忌々しそうに口元を歪める。
「その通りです。このようないびつな反魂。生身がある以上、冥府に帰るにはまたアルバフィカを殺さなくてはなりません。仮初の身であったとしても、私はアルバフィカを手にかけたくはない」
ミーノスは満天の星に覆われた春の空を見上げた。日が沈み切り、空の暗さはいよいよ深い。
「しかし、この反魂では、そう長い時間を生者でいられるものでもないでしょう。器である肉体が崩壊すれば、時間とともに肉に馴染んでいく霊魂もまた、支障を受ける」
シャカは身を庇うような温かな風に巻かれながら、ミーノスと、その腕に収まるアルバフィカを改めて見た。
「──アルバフィカはもう、戦いを望みません。彼がそう決めたのなら、私もそれで構わない」
ミーノスの言葉を聞きながら、シャカは観察を行う。確かに敵意を発するば禍々しい魔星であったが、アルバフィカと対するこの天貴星には、邪悪は微塵もない。そしてシャカは決断した。
「術者を探そう。聖域といえども、反魂を行える者は限られる。自ずと知れるはずだ。そして、あなた方がいずれ、二人してこの数珠に収まってもいいと言うのなら」
ミーノスは答えた。
「前聖戦で我ら魔星を封じ込めた忌々しい数珠か──。いずれ、そう違いのない事になるでしょう」
ミーノスの腕の中でアルバフィカの長いまつ毛が微かに瞬いた。小さな呻く声とともに、アルバフィカは目を開く。そしてミーノスの顔を見上げた。
「おまえ……、討ったはずだ……。何故……」
「少しは思い出しましたか? あの時と違って冥界ではなくて、ここはまだ聖域です。帰りたいのですがね、まだあなたを呼び出した不埒者が見つからない」
「帰る……? 冥界に?」
アルバフィカは再び視線を虚ろにしていたが、もうミーノスがそばにいることに拒絶を示さない。アルバフィカの指先は絡みつくようにミーノスの腕に添った。長年そうであったように、体を寄せたままでいた。
シャカが沈黙の末に口を開いた。「──前教皇シオン」と。
「シオンであろう。反魂が扱えるとすれば。あの方の積尸気転霊波以外に、死者をこの世に連れ出す秘術など──ありえまい」
「しかし、シャカ! シオン様はもう」
邪武が血相を変えて口を挟んだ。前教皇シオンは、13年前、サガの乱でサガに暗殺されている。この聖域の墓地に埋葬されているはずなのだ。
「そちらが先か。そちらが先に、ハーデス様のお力でこの現世に蘇ったのですね」
ミーノスが言うと、シャカは頷いた。
「今夜は、何人もの死者が聖域を訪れる──か。邪武よ、この二人に不自由があれば案内してやりたまえ。それか、シオンがもし本当に現れるなら、二人に任せてきみは逃げろ」
逃げろ、と言われ、その温情よりも戦力外の通告に内心炎を燃やしながら、邪武は歯軋りした。しかし、前聖戦のたった二人の生き残りの一人である前教皇シオンの名が出ては、慎重にならざるを得ない。
「私は処女宮へ戻る。邪武よ、きみの役目は重大だ。この二人をシオン以外に目合わせずに、速やかに冥界にお帰りいただきなさい。そしてきみも戦力として欠けず、聖域の守りに戻ることだ」
シャカは音もなく闇に溶けるように姿を消した。邪武は「承知いたしました!」と、その背中に威勢よく答えた。
ミーノスは邪武に問い掛けた。「きみ、この近くにロドリオという村はまだありますか?」と。
「──ある」
邪武の応答に、ミーノスはそこへ行くと言い残した。そして、もう用はないと言わんばかりに、アルバフィカと二人でロドリオ村に向かった。
「ロドリオ村?」
アルバフィカがミーノスに問い掛けると、アルバフィカの肩を抱くミーノスは答えた。
「あなたと私が共に倒れた最後の場所。そこにシオンもいたでしょう」
「……シオン…」
細い月明かりが、村の入り口を照らしていた。夜だからではなく、夜風の通り抜けるその村は、無人だった。聖戦の予兆に、村人はもう、疎開を終えたのだ。
ミーノスとアルバフィカが足を進めると、村の中央と思われる広場に出た。その中央には、赤い薔薇の花壇と噴水がある。水は、薔薇の花を生かすように、無人の村の中で流れ続けていた。
「──その花は魔宮薔薇の子孫だ、アルバフィカよ」
二人は背後からの声に振り向いた。
牡羊座の黄金聖闘士シオンが、前聖戦の──18世紀の頃の18歳の年少者のシオンの姿そのままでそこに立っていた。ただ、その身を覆うものは、黄金の聖衣ではなく、月の冷たい輝きを持つ漆黒の闇の色の冥衣だった。
「おまえも冥闘士か……?」
アルバフィカの問いに、シオンは静かな表情を悲しげに曇らせ、微笑した。
「かつておまえとそのミーノスがこの場で死闘を繰り広げ、おまえとミーノスの血液が混じり合った白薔薇が、この地に落ちた。その血溜まりから、新たな薔薇が生じた」
シオンは二人の先にある薔薇の花壇を見つめながら言う。
「魔宮薔薇と同じ姿をしながら、その薔薇はもう毒を持たない。おまえの形見のようで、私はずっと、この場にその花を残し続けた。──私のことは覚えていないか、アルバフィカ」
シオンは再びアルバフィカに視線を移した。アルバフィカは怪訝な顔をしながら、言葉を返す。
「悪いが、わからない。少しずつ記憶が戻るようだが、おまえのことまでは。──いや、私は生前に、何人もの冥闘士と通じるような黄金聖闘士だったのか? 私はそんなに不品行な者だったのか」
シオンは吐息した。
「この姿でおまえに会いたくはなかったが、ほかに方法がなかった。アルバフィカよ、思い出せなくても構わない。私は最後に一目おまえに会いたかった。私はこれから罪を犯す。聖域への裏切りを行う。私は前教皇でありながら、逆賊と呼ばれよう。だが、私の心は──」
シオンは、冥衣と同じ色をした両目を艶めかせた。その目を向けられたアルバフィカは、ついとミーノスの腕を離れ、シオンに歩み寄った。そして、シオンの間近で、自分より少し背の高い年少の男をわずかに見上げた。
「それは牡羊座の聖衣だな。そうか、お前は黄金聖闘士。覚えていないが、そうなら仲間だったのだろう。知らなくとも、おまえのその面構え、悪くない。おまえは志を遂げる男だ。そういう顔をしている。──行って、おまえのすべきことをするがいい。それがおまえの道だ。友よ──」
シオンは、みずからへの憐憫に満ちていた表情を、目を見開いて改めた。アルバフィカは──、かつてと同じ姿をしたアルバフィカは、目の前で慈しみの顔をしてシオンに微笑み掛けている。
シオンは、目頭を熱くする涙を堪えた。その涙は見せてはいけないものだから。そして、絞り出すように言った。
「すまなかった」と。
シオンのその言葉とともに、シオンの振るった指先が鈍い光を放った。反魂の術が解けたのだ。
途端、黙して静観していたミーノスが、二人の間に割って入る。シオンの前に割り入って、シオンからからアルバフィカを遠ざけた。勘のいい男だ、と、シオンは思う。──アルバフィカと違って、と。
「全く。利己的な私情で迷惑を被ったものです。帰りますよ」
ミーノスが非難の声色でシオンに言い、アルバフィカの背を抱いてシオンに背を向ける。噴水の周囲に広がる花壇の薔薇の香りが、夜風に乗って甘く広がった。アルバフィカが振り向いて、シオンを見る。暗闇の中、アルバフィカの藍玉の色をした両目がシオンを捉えた。シオンの指先は微かに震えた。藍玉の目はすぐに正面を向き、ミーノスと歩幅を揃えて遠ざかって行く。
──そうだったのだな。もう、長い間。
シオンは知らず知らず握る拳に力を込めていた。視界には、いまもまだあの淡い水の色の輝きがこちらを見ているようだった。
──あの目が私を見た。240年前のように。もう思い残すことはない。
「行こう」
指を開き、シオンも踵を返した。聖域へ向けて。
3.
「出発点をこの世の美に置いて、目的地を超自然的な美に置きましょう。[中略]ちょうど梯子を使うかのように、とどまることなく上に昇ってゆきます。ただひとつの美しい身体から出発して[中略]、ふたつの美しい身体へと上昇し、二つの身体から出発して[中略]、諸々の身体の普遍的な美しさへと上昇します」
プラトン『饗宴』
「随分素直に身を任せますね。思い出しましたか?」
ミーノスは、聖域へ来たときのように、グリフォンの冥衣の背中の黒い翼で、上空に舞い上がった。アルバフィカを抱えて。アルバフィカは風に長い髪をねぶられながら、ミーノスの体の方に頭を寄せておとなしく抱き抱えられている。
ミーノスの目指す先は、ギリシャの聖域からドイツの地方都市にあるハインシュタイン城だった。そここそは、地上のハーデス軍の拠点、ハーデス城だった。ハーデス城の地下階の底に、冥界に通じる穴がある。
「おまえのことは、おぼろげに。私はおまえと、随分長い時間を共にしていたようだ。何度も初夏の薔薇園を、おまえと巡った記憶がある。あれはこの世の薔薇園ではあるまい。──相反してあの聖域は、記憶に遠い。最早そこに私の居場所はないだろう」
ミーノスは応じて口を開く。風が、ミーノスの言葉を発されるや否や、後方へ吹き飛ばして行く。
「記憶の再生は、霊魂がその仮初の体に馴染みゆく証でしょう。しかし冥界に戻れば、その身体も失われる。いま、冥府にあるあなたの肉は抜け殻。そこへ戻りなさい。あなたの還るところは冥府です。もう、240年前から」
アルバフィカはその一語一語を耳を澄ませて聞き取っていた。そしてふと、間を置いて言う。
「──シオン。あれは牡羊座のシオンだ。ようやく思い出した。彼は私の死後、教皇になったのだったな。聖戦で全滅寸前になった聖域を一人で再建した。そしてまた、聖戦のために、その手で築いた聖域を滅するというのか」
「……随分、気に掛けますね。あの男を」
低い声でミーノスが言うので、アルバフィカは、ミーノスの首のすぐ下からミーノスを見上げた。
「シオンは年少の同胞だ。思い出せなくて悪いことをした。それだけだ」
「ああ、汚らわしい。あんな蛆虫共を気軽に近づけて」
ミーノスはすっかり気を害したように吐き捨てる。アルバフィカは素知らぬ顔で、ただ疑問を返した。
「旧友に近づいたくらいで汚れるものか。お前がいうのはシオンが私に恋心でも持っていないかという疑いだろう。あるわけがない。おまえこそシオンの高潔な精神を侮辱するな」
アルバフィカは完全無欠の気のない顔だった。それもかつて、よく見慣れた顔だった。ミーノスに向けられた。ミーノスはシオンの恋心を確信してはいたものの、アルバフィカに一切顧みられてないという点でわずかにシオンに同情した。
「そもそも私は好きでもない相手に体を許すような事はしない。そういう事をしたわけじゃないのだから、あまり責めないでもらえないか」
「それには異議がありますね!」
思わず口にしてから、ミーノスは失言を悔いた。ミーノスの苦い思い出は、焦れるあまりに愛の誓いの合意を待つより先に、アルバフィカと情交してしまいたいとそちらを優先した事だった。それも覚えていないという相手に、この話をしてどうなるというのか。しかし早速アルバフィカは関心を持っている。
「異議がある、とは、私は好きでもない相手と寝るという意味か。そんな事があったのか」
「……あなたは覚えていないのでしょうけど、私は、あなたの体だけでもすぐに欲しかったので。あなたはそれに応じた」
「だとしたら、私はその時はもうお前を好きだったんだろう」
ミーノスの飛行にやや戸惑いが生じた。
「な、な……」
「危ないな。落とさないでくれよ」
「………」
「初恋が仇敵で、私は強情。敵に恋をしたなど認めたくない最たる事だろう。お前が手練手管で強引に私の応を引き出さなければ、今日までもただの敵同士だったかもしれない」
ミーノスはたまらずに顔を逸らした。今更240年前の事を種明かしされたようで気まずい。しかも不意に。そんな様子をあまりアルバフィカに見られたくない。その顔を追って覗こうとまではせず、アルバフィカは大人しくミーノスの腕に収まって動きはしなかった。
「少し思い出して来た。そうだな、私はお前のこの腕に覚えがある。240年も私に変わらない愛を抱くとは、お前は案外情が深い。そんな貴重なものを忘れてしまうのは惜しい。思い出せるなら、思い出したい」
「……なんなんです。随分率直じゃないですか」
「私は普段あまりそうではないのだろう。そうだろうな。こんな時でもなければきっと言わない。でも、こんな時だから言う。いつまでもこんな時間が続くわけではないし、いつ言えなくなるかも知れないから」
「あなたって移動中にそういう事言いますよね。何なんですか、それ。私が堪える姿を見て喜んでるんですか」
「前にもそんな事があったのか」
「本当に覚えてないんです? それとも私に言わせたいんですか、今日のあなた」
「さあ」
アルバフィカは笑う。
「馬車でさえないので、さすがにあなたを抱えて飛びながらこれ以上何もできませんね。もう少しお待ちなさい。間も無く国境を越えてドイツです」
「馬車!」
「……あなたがあんな場所で話に応じるから。最初なのに狭い場所で不自由な思いをさせたくはなかったのですが、でも帰り着くまでに気が変わってやっぱり嫌だと言い出すんじゃないかと、私も気が気じゃなかったんです」
ミーノスはまるで言い訳するように言い、アルバフィカはくすくすと笑った。
「私は、焦れに焦れているお前に全く無頓着だったのだろうな。いやひどい。でも私も嫌がらなかったのだろう?」
「何を聞き出したいんですか…。嫌がっていたのかどうか、正直言ってわかりません。あなたは言い出したら聞かない分、応じたら頑なに約束を違えない。だから嫌だと思っても拒否しなかったのか、嫌ではなかったのか、わかりません」
「どちらだと思う」
「思い出したんですか?」
いや、と、アルバフィカはとぼけた顔をする。
「嫌がってはなかったでしょう。そうとしか思えない。なのにそれから避けられるようになったので、本当に参りました。何なのかと」
「嫌がらなかったと思う。今そうされているように、情交の時もこれだけ優しい抱き方なら、嫌がらないはずだ。好きな相手がそうしてくれるなら、喜んでいたと思う」
「じゃあ、何故避けたんです」
「きっと、照れていたんだ。嬉しくて」
「わかりました、もうあと少しですから。それ以上何も言わないで下さい」
制されたが、アルバフィカはミーノスの胸に体を預けて言った。
「”ただひとつの美しい身体”」
「なんです」
「プラトンの対話篇『シュンポシオン』だ」
「ああ、あなたいつも読んでいましたね」
「美しい肌に触れてみたい。そう思っても、私はどうすればそれを自分に許せるのか、まるでわからなかった。だから、これは何ほどの事でもないのだと、自らに言い聞かせなければ、とてもそうはできなかっただろう。ただひとつの美しい身体など、なんでもない。善に繋がる美は、そんな容易いものではないと」
ミーノスは口を閉ざした。アルバフィカは続ける。
「しかし私は善よりも、結局はおまえとの交歓を望んだのだよ。そうおまえに伝えるまでに、私も気持ちの整理が必要だった。それだけだ」
「ああ、なんということ。私はいまになってようやく、私の思う人がどれほど強情なのかよくわかりました。地獄の第二圏の暴風にあおられ、吹き回される罰を受けてさえ、頑な魂はその罪を一向に悔いないわけです」
ミーノスは呻くようにそう言うと、また黙り込んだ。
逆風は、暗い空の中で、二人を打たんばかりに向かって来る。しかし、どれほど強い風が二人を流そうとも、ミーノスはアルバフィカを抱いたまま、一心に森の先のハーデス城を目指した。
やがて二人がハーデス城に降り立ち、鎮魂の音色を奏でるパンドラの竪琴が鳴る部屋を過ぎ、冥界へ連なる地下の螺旋階段を降りる頃。アルバフィカは、仮初の身体を失い、冥王がミーノスに授けたときの藍玉色の小さな玉になった。アルバフィカの霊魂の姿だった。
ミーノスはその藍玉色の玉を懐に隠し持ち、螺旋階段を地の底へ降りる。
この霊魂を持って、ミーノスの居城である第八獄のトロメア宮へ帰る。そこで再びアルバフィカに受肉させる。冥界の人の姿に。
霊魂が語り掛けた。
──間もなく次の聖戦が始まろう。
「ええ」
──私はもう、聖域にも冥王にも与するつもりがない。それが私の終わりの時なら、それを受け入れたいと思う。……お前は、お前の思う通りにするがいい。
「………」
ミーノスは、みずからの心臓のそばに隠したアルバフィカの藍玉色の玉に触れた。
「私は、あなたと離れることは、望まない」
ミーノスは背の黒翼を広げて、階段を蹴った。落下するように、一息に地の底へ落ちていく。
「───ありがとう、ミーノス。幸せな日々を」
ミーノスの耳の奥に、アルバフィカがそう呟いた。
これからだって、ずっと…
底に向かって舞い降りるミーノスから、そんな声が響いた。
(了)
参考文献 『美学への手引き』白水社