ドールハウス男はオンム・アルメ街七番地に佇む邸宅の門扉の前に立っていた。
六月五日の蜂起から既に一週間が経過していた。諸々の雑務が片付き、職務熱心な彼にしては珍しく、気が進まず後回しにしていた職務にようやくとりかかることにしたのだった。
ノックから随分時間が経ってから、使用人らしき老女が扉からおずおずと顔を出した。
「どちら様でしょう。」
「ここの主人に会いに来たのだが。」
男がそう言うと、老女は不審げな色を瞳に宿しながらたどたどしく言った。
「ご主人様は、あいにく、不在にしておりますが。」
「いつ戻ってくる。」
「それは、わかりかねます。」
帰りの時刻も告げずに外出したのか? 馬鹿な。やつはおれに・・・。
男がそう眉間に皺を寄せた時、屋敷の奥から慌ただしい足音がした。
「お父様?」
玄関に飛び込んできたのは娘だった。
以前男が彼女を見かけた際は年頃の淑女にならって髪を結っていたと記憶していたが、今日の娘は長い髪をざんばらとさせ、目の下にはひどい隈があった。
「おじょうさま!」
老女は慌てた様子で声をあげる。
「この方は?」
「ご主人様、に、会いに来られた、そうです。」
「お父様に?」
娘は、瞳に不思議そうな色を宿した。
「珍しいわ。お父様にお客様だなんて。申し訳ありません、父は六月五日の夜から、戻っておりませんの。」
そう、憔悴しきった様子で答えた娘に、ジャヴェルは数年前に出会った娼婦の面影を見た。
「お、じょう、さまっ」
か弱い娘が使用人の老女のみと今ここで過ごしていることを見ず知らずの他人に知られるのは危険だと判断したのだろう、老女が悲鳴のような声をあげる。
「戻っていないだと?」
思わず答える声が剣呑になる。
六月五日ということは、バリケードでジャヴェルと出会った後、あの男は自宅に戻っていないということになる。
「わたしはオンム・アルメ街七番地にいる。」
バリケードでの別れ際にヴァルジャンにそう言われ、ジャヴェルは彼に会いに来たのだった。誰にも行き先を告げず、一人で。
以前のように部下を連れてこなかったのは、バリケードで自分を逃がしたヴァルジャンへのせめてもの敬意だと自分に言い聞かせながら来たが、ジャヴェルにも自分がここに来て何がしたいのか、ドアをノックをする直前にすらわかっていなかった。ヴァルジャンを捕まえにきたのか、それともただ彼の無事を確かめに来たのか。
あの後、ジャヴェルは今回の蜂起で捕らえられた者がいる牢獄にも、犠牲者達の遺体が並ぶ安置所にも足を運んだが、ヴァルジャンらしき者には巡り合わず、安堵と落胆を同時に感じていた。
(あの時のバリケードの暴徒達は袋のネズミも同じだった。どうやってかはわからないが安置所にも牢屋にもいないということはヴァルジャンはまた奇跡のように逃げ切ったということだろう。あれほど精力的だがヴァルジャンももう高齢であるし、加えて仮出獄後の数々の窃盗に加えアラスでの裁判後に冤罪らしき大仰な罪もいくつも追加され罪状はかなりの数に上っている。仮に今回も運良く死罪を免れたとしても不衛生な牢獄への収監と長期労役、流石の彼ももう生きてあの場から出ては来れないだろう。おれは果たしてあいつの命を奪う覚悟があるのか。)
(・・・そう、限りなく散々と悩ませておいて。)
ジャヴェルの胸に轟轟と怒りが燃える。
(自分は逃げも隠れもしないと自宅の住所をほいほいと教えておいて、数年前あんなに助けたいとおれに訴えていた例の娘を呆気なく捨てのうのうと逃げたのか。そう思うとあの時のあいつの必死な様子も全て己が捕まりたくないがための演技だったのかと疑いたくもなる。なるほどあいつは紛れもない屑だったのか。)
怒りの様相を隠しもしない得体のしれぬ訪問客に、女性たちの間に緊張が走った。
「ところでムッシュ、ご要件は?」
気丈にも震える声を抑えながら上ずった声で娘に問われ、ジャヴェルは我に返った。
「失礼した。先日この家の主人に自宅の住所を教えられて、用事があったらここに来るように言われたのだが。」
いつものジャヴェルであれば逮捕しに来た旨を臆せず口にしたのだろうが、それでもまだ気が咎めて少々曖昧な返答をした。
「お父様がそう申していたのですか? それなら、帰ってくるつもりだったのだから家出をしたわけではなかったのね。」
ほっとした様子で娘はそう口にし、それでも帰ってこない父に想いを馳せまた表情を曇らせた。
「お父様とはどこで会われたのですか?」
「六月五日、シャンヴルリー通りの付近でだ。」
ジャヴェルが答えると、彼女らの間に衝撃が走った。
「シャンヴルリー通り?」
口元を押さえて震える娘の前で、老女がおずおずと尋ねる。
「そこは。先日、学生たちが主立って、蜂起した場所では?」
「そうだ。」
「あなたは、そこに、何をしにいらっしゃったのです?」
「私はパリ市警の警視で、蜂起の鎮圧の為に潜入していたのだ。そこで、ご主人に命を救われた。」
そう正直に口にすると、二人ははっとして目を見開いた。
「お父様は、なぜそんなところに。」
「それは私にもわかりかねるが。」
「まさか・・・! そこで命を落としたり大怪我をしたりしていないでしょうか? あの通りの路地は血で染まったと噂で聞いています。」
体の震えが止まらない様子の娘に、ジャヴェルは首を横に振った。
「それも考えて探したが、ご主人は死体安置所にはいなかった。特にこちらに連絡がないということは病院にもやはりいないだろう。わたしは生きているものと思っている。てっきり帰ってきているものとばかり思っていたのだが。」
その返答に、彼女らのこわばった肩から力が抜けるのがわかった。
「ありがとうございます。お父様の足取りが全く掴めていなかったので、少し安心致しましたわ。」
娘は弱々しく微笑んだ後、思いつめた表情をした。
「あの、申し訳ないのですが、ひとつお願いしても?」
「何でしょう。」
「私を、死体安置所に連れて行って欲しいのです。」
まっすぐな目でジャヴェルを見てそう言う娘に、男は戸惑った。
「あなたの父の死体はなかったと言ったはずだが。」
「他に探したい人がいるのです。いえ、死体安置所にいないことを自分の目で確かめて安心したいのです。女が一人であの場に行くのはあまり喜ばれないので、付き添って頂けると嬉しいのですが。」
「探したい人とは。」
「パリの学生です。私が急に引っ越すことになったせいもありますが、彼ともあの時から連絡が取れていないのです。名前は、マリユス・ポンメルシー。」
ジャヴェルの身に衝撃が走った。
マリユス・ポンメルシー?
「いや、やはり淑女があの場所に行くのは推奨できない。肉親を引き取る必要のある身内なら別だが、無闇に行く所ではない。申し訳ないが、血と腐臭でむせ返る小屋で無惨に損壊された他人の骸を見て正気でいられるほど貴女が気丈とはとても思えない。」
淡々と諭す声でジャヴェルは言う。老女は話だけで青ざめている。娘も、悔しそうに唇を噛み俯いた。
「だから、私が見てこよう。」
「でも、私は名前と顔しか知らないのです。ご遺体は身元がはっきりしている方ばかりではないのでしょう?」
戸惑った声でコゼットは問う。
「偶然にも、私もマリユス・ポンメルシーとは顔見知りでな。以前彼がゴルボー屋敷に住んでいた頃に、隣人が犯罪を犯そうとしていると通報を受け犯人逮捕の協力を要請したことがあったのだ。彼にもバリケードで出会ったが、死体安置所では見なかったな。牢屋にも。また改めて確認するが。」
「バリケードで・・・?」
青ざめる娘の様子にも気づかず、ジャヴェルは胸騒ぎを感じていた。
そうだ、マリユス・ポンメルシー。彼もまた、姿を消している。あの狭い袋小路で?
ヴァルジャンならともかく、あの凡庸な青年が熾烈なあの戦場から逃げ延びたとは到底思えない。
消えた二人の謎に、ジャヴェルは顎を撫で思案した。
「ところで、あなたとマリユスはどういう関係で?」
何気なく聞いた言葉に、うら若き乙女はぱ、と顔を赤らめた後ぎこちなく微笑んだ。
「・・・知り合いですわ。」
改めてジャヴェルは死体安置所と刑務所を回った。
死体安置所は既に身元がわかった遺体の引渡しが終わり閑散としており、ポンメルシーの実家にも彼が借りていたアパルトマンにも確認したが彼が帰ってきた様子はなかった。・・・ただジャヴェルは蜂起した側を取り締まっていた警察であるので、マリユスは生存しており警察に見つからぬよう密かに保護されている可能性もないわけではなかったが。
コゼットにマリユスの死亡は確認できなかった旨報告に上がると、娘は安堵の表情を浮かべた。
「よかった。・・・でも、ご実家にも連絡が来ていないのですね。」
「大学にもあの日以降出席していないようだ。」
コゼットは目を伏せた。
「まあほとぼりが冷めるまでどこかに潜伏している可能性もある。」
「そう・・・ですね。」
でもそれならなぜ私にも連絡のひとつもよこさないのでしょう。
と小さな声でコゼットは呟いた。
恋仲だったのだろうか。
ジャヴェルが思案しているとふと娘が顔を上げた。
「ところで、ジャヴェルさんはお父様とバリケードで初めて出会われたのですか?」
「え」
不意打ちを受けて面食らっていると、だって、と娘は言葉を紡いだ。
「お話振りを聞いていると、お父様のことを前からご存知のような気がするのです。」
「・・・ああ。確かに私はお前の父を昔から知っている。」
隠すこともないかとジャヴェルが認めると、ふわ、とまだ微かに残っていた彼女の中の警戒が解ける気配がした。
「謎の多いお父様をご存知の方、フォーシュルバンおじさま以来二人目だわ。」
そう言ってコゼットが出会って初めての心からの笑顔を向ける。ますますお前の父を逮捕しにきたと言える雰囲気ではなくなり、ジャヴェルは内心嘆息した。
「わたしはオンム・アルメ街7番地にいる。」
遠くで聞こえる怒号、体にまとわり付く煩わしい霧雨、眼前に立つ黒い人影がヴァルジャンだとわかるのはその落ち着いた声音に聞き覚えがあるからだ。
「ここからもし脱出できたのならば。」
ジャヴェルはふと目を覚ました。
そうだ、ヴァルジャンは真摯な声で「生きていれば」と口にしていた。
家を捨てたのではなく、生還できなかった可能性。
ジャヴェルにとって、ヴァルジャンが死ぬという可能性は到底現実的とは思えなかった。何せ嵐の海に飛び込んで逃げおおせ、一度は看守たちに自身を死んだものと信じ込ませた男だ。降りしきる砲弾など彼にとってなんだろう。
・・・とはいえ、ヴァルジャンがまだ帰ってきていないことは確かだ。ジャヴェルは暫しベッドの上で考えて、まだ太陽も出ていない漆黒の室内で身を起こした。
シャンヴルリー通りの要塞は、すっかり取り払われていた。石畳の血痕も洗い流され、アパルトマンの壁に残された砲弾の痕だけが当時の面影を残している。残務処理等で何度も足を運んだ場所だ、新たに何かが見つかるとも思えない。そう思いながらも、ジャヴェルは俯きまたは空を仰ぎ、何かヴァルジャンの逃走経路の痕跡が残ってはいないかと目を光らせた。
「む。」
違和感を感じてしゃがみこむ。恐らく誰も気付かなかったのだろう、下水道入口の扉の鉄格子が、何か乾いたどす黒いものによって色を変えていた。
「これは。」
何故これまで気付かなかったのだろう。ジャヴェルは臍を噛みながら、パリの下水道の位置関係に想いを巡らせていた。
単身下水道に潜り捜索したならばきっと生きて出られはしないだろうと、役人に出口の鍵束を借りた上で、ジャヴェルは下水道の出口を片端から当たり、最近誰かが出入りをしたような跡がないかを確認した。
幾つ目の出口だっただろう、セーヌ川そばに口を開けている門扉の奥の暗がりに何か黒い塊を見つけた。ジャヴェルは首筋がざわつくのを感じながらコートの中の鍵に手をやった。
近づいてランプを翳すと重なり合った二つの骸であった。目は落ち窪み、コートの袖が汚水と混じり合ってたゆたっている。既に人相から誰なのかを判断しづらい状態ではあったが、一つの骸は懐に入っていた紙切れからマリユス・ポンメルシーであることが判明した。そしてもう一人は。身元がわかるものを何一つ身につけてなどいないこの男は。
ジャヴェルは既に事切れた因縁の男の腕を肩にかけ担ぎあげた。馬車にかつぎ込むと泥ととろけた肉で布張りの座席が汚れ御者は青ざめたが、馬車ごと弁償する旨約束してジャヴェルは探し人達の骸と共に馬車に乗り込んだ。
その夜ジャヴェルの夢に現れたヴァルジャンは牢の中で鎖に繋がれていた。以前トゥーロンで脱獄後に連れ戻され懲罰房で繋がれていた際の腕ほどもある太い鎖だ。
娘の恋人を結局助け出せず自身も命を落とし、無力感に苛まれたこいつは今天国にも地獄にも行けないのだろう。
とヴァルジャンの前に立ち静かに見下ろしていたジャヴェルに気づいたのか、俯いていたヴァルジャンはゆっくりと顔をあげた。
「ジャヴェル」
すがるような目を向けられジャヴェルは困惑した。
「コゼットのことを頼む。お前しか。お前しかあの子を救える者はいないのだ。」
「なぜわたしが。」
「このままではコゼットに辛い想いをさせてしまう。あの娘を幸せにできなければ、私の人生に何の意味もない。」
ジャヴェルの話を聞かないヴァルジャンの目の中で濃い絶望が揺れた。
「何の意味も?」
ジャヴェルはハッ、と乾いた笑いを漏らした。
「お前にとってはバリケードで学生達の元から逃した男のことも、市長時代に束の間とはいえ繁栄と安寧の日々を享受させた多くの人々も眼中にないわけだな。」
ヴァルジャンからは何の反応もない。
「あの娘を迎えにいく時といい、なぜ私に頼むのだヴァルジャン。お前と私は敵だろう。甘えるな、反吐が出る。」
屑め、とは言えず、ジャヴェルは口を噤んだ。
「ファンティーヌとの約束を果たせない。」
項垂れたままヴァルジャンは囁く。彼を拘束する鎖が耳障りな音を立てる。
そんなヴァルジャンを見下ろしながら、ジャヴェルは舌打ちした。
「ジャヴェルさん! また来てくださって嬉しいわ。」
目の下の隅が未だに消えない娘は、それでも久方ぶりの客人にお茶菓子を用意しながら以前より随分と和らいだ笑顔を向けた。
「あの、もし今日お時間があれば、ジャヴェルさんがご存知のお父様の話をしていただけませんか?」
にこにこしながら言う娘にどんな顔をしたらいいかわからない男は聞き返した。
「私が?」
「ええ。私、これまでお父様にお友達はいないんだって、そう思っていたんです。だってこれまで訪ねていらっしゃる方もお手紙をくださる方もいらっしゃらなかったから。お父様も私に会うまでずっと一人ぼっちだったのではと、少し心配していたのだけれど。」
いたのだなって。私には教えてくださらなかったけど。
そう言ってコゼットは眉を下げ微笑んだ。
「友達?」
思わず繰り返す。
「ええ。お友達なのでしょう? いなくなったことを心配して定期的に来てくださるなんて、お友達以外にいないと思います。」
ティーカップを両手で抱えて無垢な娘は首を傾けた。
「友達か・・・」
考えたこともなかった関係性に、ジャヴェルは中途半端にカップを持ち上げたまま固まった。
年齢も性格も違うが、出会い方が異なればヴァルジャンと友情を育んだ可能性もあったのだろうか。
一瞬想像しかけた所で我に返ったジャヴェルは、緩く首を振った。想像してみても仕方がない。
過去は変えられないし、未来も変えることはできない。
二人の遺体と馬車に乗り込んだ後、ジャヴェルはマリユスを実家に引渡し、その足で教会へ向かいヴァルジャンの小さな墓を作った。コゼットにはまだ伝えられずにいる。 愛する養父と愛していたのだろう恋人を同時に亡くした事実にこの娘は果たして耐えられるのか、と躊躇している自身にジャヴェルは驚いていた。娘の母親には命が尽きるほどの絶望を与えるだろうと理解していながらその目の前でヴァルジャンの正体を暴露してみせたこの自分がと。
人は変わることができるのだろうか。
何も言わず見つめるジャヴェルに娘は不思議そうに首を傾けながら微笑む。
可愛い娘に朴訥ながら誠実な家政婦。樹木に囲まれた小さなお家。
自分とは無縁の世界だと、中に入ることは叶わないのだと幼少期から諦め眺めていたドールハウス。
・・・因縁の男に、託された。
「ちょっとした提案、なのだが。」
ジャヴェルは口を開いた。
あの警視が養女を迎えたのだという噂が、パリの路地で密やかに語られ、やがて消えた。