そんな…まさか…! 公園のベンチから見上げた新宿の夜空は、どこまでも暗く星が少ない。遠い昔、ジャングルで何気なく見上げた夜空は、数え切れないほどの星で埋め尽くされていたような覚えがある。満天の星空と言えば聞こえはいいが、身を置いていた場所はゲリラのキャンプ地だったわけで、ムードもクソもへったくれもなかった。
都会で見上げる夜空は、星が少なくても、それはそれで構わない。もっこり美女ちゃんと夜空を見上げられたなら、その後の「お楽しみ」に期待して、胸も股間ももっこり膨らむってもんだ。
「……それで、お前はどうするんだ?」
俺の右側に座っていた男が、ボソリと低く呟く。
もっこり美女ちゃんと夜空を見上げるならまだしも、男同士、こんな真夜中に公園のベンチで二人きり……なんて真っ平御免だ。
どうして俺はこんなところにいるのだろう。今夜は、一人で呑みにでかけたはずなのに……。
だが、今、俺の隣にいるのは、見間違うはずもなくあの男だ。見た目も雰囲気も物静かなこの男は、話す時も静かで……。久しぶりに聞くその声――昔の相棒で香の兄でもある、槇村秀幸の声は、聞いているだけで穏やかな気持ちになれる。
だが、今日はちょっと違った。俺の背中がぞわぞわとして落ち着かない。俺の手には、槇村から渡された写真があった。
「そんな……。まさか……」
写真を見て絶句する俺の指は微かに震えていた。それもそのはずだ。俺が手にしていた写真には、俺の知らない男と、ホテルから出てくる香の姿が写っていた。
「全く……。香はお前と寝るようになってから、変わってしまった。お前が毎日毎日、香を抱くから、香もすっかり味を覚えたようだ」
「なんのことだ……?」
槇村の言葉が、言葉として聞こえてこない。ハラリと俺の手から、写真が滑り落ちていった。
「今じゃお前だけじゃ物足りないと、手当たり次第に声をかけ、男と寝ているようだ。写真がその証拠だ」
膝の上で手を組み、伏目がちに遠くを見ていた槇村は、ずり落ちそうになっていた眼鏡を、指でくいと持ち上げた。
「嘘だろ……」
「お前に預けたのが、そもそもの間違いだったのかもしれないな。悪いが、責任をとってもらう」
槇村がパチンと指を鳴らした。次の瞬間、身体の中心がふっ……と軽くなった。
身体の重心が変わったような気がして、座るのも落ち着かない。左右のバランスが取りづらくなっていた。違和感の正体が下半身からやってくることに気づいた俺は、そっとその部分へ手を伸ばした。
「え……?」
そこはペタリとしていて、長年連れ添ったモノがなくなっていた。握っても擦っても股間はどこまでもなだらかで、柔らかい感触も硬い感触もなかった。あるのは、肉の丘だけだった。
「そんな……! まさか……!」
「あぁ。お前には、これから女として生きてもらう。香を狂わせた罰だ……」
「ちょ……! 槇ちゃん、これは冗談キツイぜ! これがなかったら、俺は香と……」
ジロリと槇村から冷たい目で睨まれ、俺はそれ以上の言葉を失った。こいつ、マジで怒ってやがる……! 香の名を口にすることすら許さない槇村の怒りが、ヒシヒシと伝わってくる。物静かで表情があまり変わらない槇村だからこそ、かえってその怒りの大きさをよく表していた。
「わかった! わかったから、せめてコレだけは返してくれ!」
「もう遅い……」
槇村がコートのポケットへ手を入れて、ゆらりと立ち上がった。
「じゃあな、獠……」
足音一つ立てず、槇村は俺に背を向けて歩き出した。見慣れた槇村の背中が、次第に遠ざかっていく。
「槇村! おい! 俺を置いていくな……!」
俺は、立ち上がり槇村を追いかけようとしたが、背中がベンチと縫い合わされてしまったように身体が重く、動けなかった。
「お願いだから返してくれ、槇村! ……槇村ぁぁっ!」
闇に消えていく槇村の背中に呼びかけたが、槇村は振り向いちゃくれなかった――。
「……!」
目を覚ますと、どこまでも暗く、星の少ない夜空が見えた。背中に触れるのは硬いベンチの感触。慌ててがばっと起き上がれば、腹にかけていた新聞紙が滑り落ちていった。俺は思わず股間へ手を伸ばした。そこには、触り慣れた相棒の感触があった。
「よかった……」
俺はホッと胸を撫で下ろした。
香は絵梨子さんと出掛けていて不在だった今夜。暇を持て余した俺は、ゴールデン街へ飲みに出掛けた。ちょっと横になって星でも見よう……と、このベンチへ来たことは覚えていたが、そのまま眠っちまったようだ。
しかし、胸糞の悪い夢だった。夜な夜な、香ともっこりを楽しんでいるとは言え、どうしてそれを槇村に咎められなきゃならないんだ? 俺だけが楽しんでいるわけじゃねぇ。香だって、楽しんでいるはずだ。……はずだよな? そんなまさか……と、あらぬ疑問は頭から追い出した。
公園の時計は、午前零時半を指していた。そろそろあいつも帰ってきているはず。人肌のぬくもりが恋しくなった俺は、家路についた。
家の中は静まり返っていた。玄関に、香が履いていた靴があったので、帰宅はしているはずだった。だが、リビングもキッチンにも客間にも、香の姿はなく、明かりも点いていなかった。……となると、恐らく香は、上にある俺の部屋で、俺の帰りを待っているのだろう。
「んだぁ? 昼はあんなこと言ってたから、しばらくオアズケかと思ったが……」
それは、日中の出来事だった。久しぶりに伝言板へ依頼が来ていたが、香が連絡をとってみると、依頼人が男だとわかった。即決でお断りを決め込んだ俺だったが、香は般若のような顔をして俺へ仕事をするよう迫ってきた。
『そぉんな顔をしてたらぁ、本当に鬼の顔になっちまうぜぇ。ここは、イライラを鎮めるためにも、この間買ったいやらしいスケスケパンティでもっこり一発……』
『おのれが真面目に稼いでツケも生活費も心配しなくてよくなりゃ、こっちだってやらしい下着でもっこりナイトどころかもっこりモーニングだろうがアフタヌーンだろうが付き合ったるわぁぁぁ!』
香の罵りの言葉とともに、普段の三倍はあろうかという巨大なハンマーで叩き潰された俺は、床深くめり込まされた。
『あんたの頭の中は、それしかないのか!』
香はそう吐き捨てると、荒々しくドアを締め出ていってしまった。
俺が真面目に仕事をすりゃ、香にあのパンティを履かせて、一日好きにしてもいいってことか……。そんなまさか、夢のようなご褒美を香からぶら下げられたが、それでも男の依頼を引き受けるのは、俺のポリシーに反するのでやっぱり断ることにした。
昼間、そう言っていた香が俺の部屋、つまりベッドの上で俺を待っているということは、いつもどおりもっこりを待っているということだ。
「ぐふふ……♪」
ベッドの上で俺の帰りを待っているであろう香に応えるべく、俺は先にシャワーを済ませてから部屋へ行くことにした。
シャワーを終えバスタオルで濡れた髪を拭きながら、トランクス一枚で部屋に来てみると、香はそこにいた。
「獠の……バカ……」
香は何故か、丸まった布団にチョークスリーパーを掛けながら、眠っていた。タンクトップは胸の下まで捲れ上がり、白い腹が丸見えになっている。臍の辺りへうっすらと縦に走る線が、妙に艶かしい。
香の口元が、紅く汚れていた。よく見ると、布団も一部、掠れたように紅く染まっている。一瞬、何事かと思ったが、ヘッドボードに蓋の閉まっていない口紅と手鏡があることに気づいた。コイツは一体、寝る前に何をやってたんだ……?
ヘッドボードには、呑みかけのビールもあった。俺の帰りを待ちながら、ここで一杯やってたってワケだ。
その脇には、怪しげな紙袋もあった。中を覗けば、買ってきたばかりと思われる下着が入っていた。サイドは赤いリボンで結ばれている黒いレースのショーツは、クロッチが二重になっていて、左右に開くようになっていた。いかにもソッチ系の下品なショーツとは違い、香が好みそうな飾りの少ない洗練されたデザインだった。
そんなまさか、これ、俺のために……?
「獠……?」
「んぁ?」
香の声に呼ばれて振り返ると、香は目を覚ましていた。
「……遅い」
「あぁ、わりぃ……」
俺はショーツを手に、ベッドへ座った。香もベッドから起き上がり、その場へ座った。
「これ、どうしたんだ?」
人差し指にリボンを引っ掛け左右に伸ばすと、小さな布切れがぴらんと広がる。香はショーツを見て、恥ずかしそうに視線を伏せた。
「今日ね。絵梨子にあんたの愚痴を言ってたら……。逆だって言われた」
「逆……?」
香がそっと、俺の背中へ寄り添ってくる。その口元は口紅で汚れたままで、まるで化粧の失敗したピエロのようになっているが、香は気付いていないらしい。
「絵梨子がね。『獠に頑張ってもらいたいなら、報酬は先払いでもいいんじゃない?』……って。で、流れでそのまま、あちこちお店を回って、口紅とそれを買ってきたの……」
「へぇ……」
「ねぇ獠。一日あたしを好きにしていいから、あの依頼受けてよ……」
そんな……まさか……! 願ってもいない条件の提示に、俺の心がぐらりと揺れる。俺のもっこりにいたっては、「はいはーい!」と勝手に両手を上げて挙手をしている有様だった。
「しょうがねぇなぁ……」
香がそこまで言うなら、やるしかねぇか。まぁ、前払いはたっぷり貰っているような気もするが、ここはありがたくいただいておこう。
「香」
「何?」
「お前は今からシンデレラになれ」
「へ……?」
俺は香の身体をベッドへ押し倒し、香のタンクトップを毟り取った。
「明日の夜零時まで、服は取り上げだ。あぁ、エプロンぐらいは許してやる」
「ひっ……!」
香の顔が一気に引き攣った。一日って言ったんだから、一日中ヤルに決まってるだろ?
その日、たっぷり報酬の前払いを頂いた俺は、ちゃんとその依頼を引き受けた。よくよく内容を確認してみると、依頼人は男だったが、対象はその男のイトコにあたるもっこり美女ちゃんで、ボディガードの依頼だった。俺としては言うことナシだったため、即決で引き受けた。
「そんな……まさか……」
香はやつれた顔でげんなりとしていたが、最終的にはしぶしぶ依頼を了承した。
元はと言えば、依頼内容を確認するのも香の仕事だったはず。ちゃんと確認していれば、前払いなんてせずに済んだのにな。
その後、依頼中はオアズケを食らったが、たっぷり前払いをもらったおかげで、そう堪えることはなかった。逆にさっさと依頼を終わらせ、後払いの成功報酬までいただいてやったさ。
了