甘えん坊たちのモラトリアム 喉仏を指で軽く押さえて、喉の奥を大きく開く。肺から喉までが一本のパイプになっていて、その中間に声帯があるイメージだ。声を出すんじゃなくて、肺から出す空気で声帯を震わせた。意識して中音域を膨らませる。
「ア゛ー、ア゛ー」
ふた呼吸ほどの間の後、遠くから声が応えた。
「ア゛ー、ア゛ー」
何往復かのやり取りのあと、荒っぽい羽音と共に、声の主が現れる。漆黒の翼、漆黒の瞳。俺たちがずっともっと豊かに暮らしていた頃は隣人でもあったカラスが、立ち木の枝の高い部分にとまって、じいっと俺を見ていた。
「ア゛ー」
にやり、と笑ってもう一度呼びかけると、カラスは少し動揺した様子でばさっと羽を広げ、威嚇の声を上げて、飛び去っていった。
……なぁるほど、これが、この辺りのカラスの「危険はないぞ」と「ふざけるな」の声ね。
でも、都市部で俺らと共生していた頃よりも鳴き声や行動パターンは単純で、臆病そうだなと思う。この世界のカラスはヒトと共に生きていないらしい。街の残飯という餌場が存在しないから、食べ物を集めるのに必死で、余暇が無いんだろう。遊ぶ暇がないから、知能が伸びない。だから、少し野鳥っぽい。
そこまで分かったので、そろそろ休憩もおしまいにしようかな、と、さっきからもじもじと動かずにいる背後の気配に声をかけた。
「……なあに、スイカちゃん?」
小柄な少女がゆっくり出てきた。どういうわけか、少しだけ怖がっているようにも見える。どうしたんだろう?と思っていると、スイカちゃんはおずおずと
「ゲンはやっぱり妖術使いなんだよ?」
と聞いてきた。
ますます分からない、どういうことだろう。まさか、カラスを使う魔女の伝承が残っているとも思えないけれど。首を傾げていると、スイカちゃんは
「百物語にあるんだよ。妖術使いが連れてきた『黒き翼』が疫病を終わらせる話。だから、ゲンがカラスと喋ってると思ったんだよ」
と続けた。それでピンと来る。
は〜ん、なるほどねえ。これは公衆衛生の話かな?
ヒトの残した食べ物や、屍肉を漁る生き物を、穢れとして忌み嫌うなかれ。スカベンジャーと共生せよ。彼らの生態は、俺たちの社会の衛生水準を上げる仕組みに組み込める。
「それって、俺らの食べ残しを村の外にまとめて、カラスや野犬たちが食べやすいようにしてあげようっていう話? 腐った食べ物は俺らにとって毒になるから、それが好きなコたちに食べてもらえばみんなハッピー♪ っていう」
当てずっぽうをすると、下半分しか見えないはずの顔が、ぱあっと嬉しそうに笑った。
「そう、そうなんだよ! どうしてゲンは百物語のことを知ってるんだよ!?」
スイカ頭のレンズの奥の、まあるい瞳がきらきらと輝いている。俺たちにとっての「当たり前」は彼らにとっての神話だし、彼らにとっての「当たり前」は俺らにとってのチート技だったりもする。その中の1つを、今日も見つけられたらしい。
「ふふ~ん♪ 妖術使いだからかな~?」
石の世界のことをまた1つ知って嬉しくなったから、お礼に古代人としてもう1つ、マジックのタネを見せてあげることにした。
「じゃあスイカちゃん。これは分かる?」
よく乾燥させたケヤキの木片を2つ、凹凸面を合わせてよく磨き、鉄のボルトでつなげたものだ。不思議そうな少女の眼前ですり合わせるようにねじると、チチチチ、と甲高い音がした。
「春に来る、可愛い緑の鳥なんだよ!」
「そう、メジロの声ね♪ さすが山育ち、勘がいいね〜」
千空ちゃんに作ってもらった、手慰みのバードコールだ。マジックで使う機会はまだ来ていないのだけれど、いろんな音が出せるので気に入ってる。
「カラスって俺らの時代でもあんまり好かれてなかったけど、俺は割と好きだったのよね、馴れ合わない隣人って感じで。あと、見た目もカッコイイじゃない? コウモリ男の俺にピッタリ♪」
バードコールを袖にしまいながら笑いかけると、スイカちゃんは警戒心を解いて隣に座ってきた。素直でかわいいなあ。
「ゲンは、どうしてカラスと喋ってたんだよ?」
「行動パターンを知りたかったんだよね〜。カラスはコミュニケーションが上手だから、奴らの言葉から危険の有無なんかが分かる。あと、多少の牽制もできちゃうし」
「けんせい?」
何の? と言わんばかりのスイカちゃんに、こっそりと羽織をめくって見せた。
「みんなには、内緒ね?」
ピヨ。
羽織の中から出てきた、黄色い羽毛玉に、スイカちゃんが目を丸くする。
俺の懐からひょいと顔を出したひよこは、スイカちゃんを見ても警戒する様子もなく、「ピ?」と一声鳴いた。
「うわあ、可愛いんだよ……」
スイカちゃんが慈しむような声を出す。ひよこは軽く首をかしげたあとに、もぞもぞと俺の懐にもぐりこんだ。
「生まれたてで迷子になってるのをつい拾っちゃってさあ。そしたら懐かれちゃって。こいつ全然警戒心がないから心配なのよ」
「ほんとだ、全然怖がらないんだよ」
生まれたての、目も開いていない雛鳥が落ちているのを見つけたのは、停戦が成立して司ちゃん帝国から村に帰る途中の道だった。
何の鳥かも分からないし、周囲に親鳥らしきものもいない。親鳥は巣から落ちた雛は見捨てるから、こいつが生き延びるのは不可能だってことは、俺が見た時点で確定していた。
そんなものを拾っちゃった理由は、俺の湿っぽい感傷から出たエゴだ。眠りにつく司ちゃんを見送った直後のことで、消えゆく命をそのままにするのがどうしても我慢できなくなった。
救えっこない。そんなこと分かっているのに衝動的に拾い、仕込みだらけの服の中に突っ込んだ。夜も昼もなく1時間おきに様子を見て、すりつぶしたミミズとか、噛み潰した穀物とかを少しずつ喉の奥に突っ込んで、点滴でもするように水を飲ませて、絶対に冷えないようにいつでも胸に入れていた。そうやって手を尽くして、それでもきっと死んでいくのを見ることになるだろうって思っていたのに、こいつは生き延びた。
それから数日でふわふわの綿帽子みたいな産毛が生えてきて、あらかわいい、と思っているうちにあっといまに黄色く可愛らしいひよこになった。拾ってから1ヶ月ほど。未だに何の雛なのかは分からないけれど、しっかりと大きくなっていて、なかなかに可愛い。
「こいつがカラスに襲われるのは、ちょっと見たくなくてねえ。あ、でも村の人には内緒ね、特に千空ちゃんには」
「どうしてなんだよ?」
『あ゛? テメーこのクッソ忙しいときに可愛いペットの面倒見れるほど暇か? おありがてえ、仕事はクソほどあんだよ』
喉に手を置いて雑な声帯模写をすると、スイカちゃんはキャッキャと笑う。それから返す刀で「いくら千空でも、そんな酷い言い方はしないんだよ!」と叱られた。
「メンゴメンゴ〜、そうねえ♪」
「でも千空が呼んでたのは本当なんだよ、サボり上手なメンタリスト様を見つけられるのはスイカ探偵だけだ! って」
「ありゃ、ズイマー」
そろそろ戻らないと叱られそうだ。スイカちゃんにお礼を言って立ち上がり、造船場に向かった。
造船場の雰囲気は独特だ。「みんなで力を合わせて未知なる大モノを作るぞ」という熱気が満ちてテンション高いことこの上ないが、その分熱気が空回って揉め事が起きたり、事故や怪我人でやる気が萎んだりしないよう注意しなくちゃならない。適度にテンション高く、適度にクレバーに、安全に最速で造船を進められる雰囲気ってやつをコントロールする必要がある。力仕事の場所だけど、メンタリストとしてのお仕事もそれなりにあるのだ。
それにしてもこいつ、これからどうしようかなあ、ともぞもぞと動く気配を感じながら歩いていると、肌を伝うさらさらした感触が、異常を伝えた。
「ん? ..…あっ、ああ!」
袖の中の仕込みが1つ破れて、仕込んでいた花びらがこぼれ落ちている。来た道を振り返れば花が点々と足跡を残し、まるでヘンゼルとグレーテルだ。いたずらっ子が仕込みをつついたらしい。
これが血糊だったら大変じゃないか、と叱るつもりで羽織を開き、手のひらを出すと、ひよこはぴょんと飛び乗ってきた。「もう」と睨んでみせたのにどこか得意げな素振りを見せられて、毒っ気が抜けてしまう。
「お前は手癖が悪いねえ」
ダメだなあ、呆れはするけど叱れない。ひよこは軽く首を傾げて、ピ、ピ、と可愛らしく鳴いた。
「もう〜……俺、こういう甘えん坊に弱いんだよなあ〜誰かさんといい~」
ひとりごちながら黄色い羽毛玉を懐に導いていると、
「ほ〜〜〜ん。どこで油売ってんのかと思ったら、お可愛いレディとご一緒だったか」
「っひゃい!?」
背後から飛んで来たぶっきらぼうな声に心臓が跳ね上がった。
「おーおー、デートに夢中でメンタリスト機能してなかったかあ?」
「せ、千空ちゃん、いっじわるだねえ!? 何よストーカー!?」
「するかよバァカ、立ちションだ」
そのままガサガサと茂みから出てきた少年が「ん」と手を出してくる。仕込みから水筒を出すと、千空ちゃんは当たり前のように俺の飲み水で手を洗った。
「俺は洗面所じゃないんだけど」
「おう、悪ィな、サンキュ」
背を向けて、ぺぺっと水を切りながらでも千空ちゃんが礼を言うのはそれなりに珍しく、あらま可愛い、なんて思う。どうした少年。
「いいえ、どういたしまして」
ポカンと返すと、千空ちゃんはニヤリと笑いながら振り返って
「……でー、その甘えん坊ちゃんはどうするつもりだよ」
と言った。
え、なにこの感じ。千空ちゃんの引っ掛かりって……
「え、もしかして千空ちゃん、甘えん坊の自覚あんの?」
なんとなくストレートに聞くと、千空ちゃんは少しだけ気まずそうに、肩越しに俺を睨んだ。
「……あるよ、悪ィか」
「わあ、可愛い~」
思ったままの言葉が口から出て、千空ちゃんがチッ! と鋭く舌打ちする。いや、そういうとこも可愛いんだけど。
「ペット枠にいれんな、クソ」
「してないしてないって! メンゴ~!」
ひよこちゃんにぼやいていたのは、千空ちゃんの甘えに対する愚痴でもあった。それは確かだ。でも言ったじゃん、俺こういう甘えん坊に弱いんだって、ジーマーで。
「戻るぞ、材料加工エリアがちーとピリピリしてる。仕事だメンタリスト」
「はいは~い♪」
ピ、ピ、と懐から控えめな鳴き声がする。もうちょっとしたら袖に隠しておくこともできなくなりそうだ。
船ができる前には成鳥になっちゃいそうだし、卵を産めるなら村で飼育してもいいよね、どのみち俺は船には乗らない。陸でのんびり千空ちゃんたちを待ちながら、性格の悪い政治家として科学王国の中継ぎ宰相をやることになるんだろうし。
大きなものをみんなで作るぞーっていう今が、モラトリアムのような状況だってことは分かっている。だからこそ、この期間が終わるまでは、こういう寄り道をしてもいいんじゃないかなと思う。
多分船が完成したら、千空ちゃんは子供のままじゃいられなくなっちゃうんだしさ。
「ねえ千空ちゃん」
「あ゛?何だよ」
「俺ねえ、甘えん坊さんのこと、割と好きよ」
「あ゛ー、そうかよ」
背中越しに返す声はいつもよりぶっきらぼうだ。どんな顔してるのかはちょっと見てみたい気もするけど、……ま、いっか。
「あと俺、科学王国のみんなのことも割と好きだな~♪」
「テメーのそういう素直なところも、お可愛いんじゃねえのか?」
「ふっふふ、俺はそういうキャラだから♪」
な~~んにも意味のない、ペラッペラの会話で時間を潰して歩いていれば、あっという間に造船場だ。
さあ、メンタリストの仕事、始めなきゃね。