おはよう、世界 窓の外が急に明るくなって、
緑色の光が空いっぱいに広がるのを見た。
今まで見たこともない光景で、
何かとんでもないことが起きていて、
私はすでにその「何か」に巻き込まれていて。
多分もう、逃げることはできないんだろう、と。
そう思った瞬間に、身体が動かなくなった。
何も見えない。音も聞こえない。指先の感覚もない。
作業台を舞う木くずのにおいも、手に持った鉋の重さも、よく研いだ刃が木を滑る感触も分からなくなって。
意識が、脳みその真ん中の暗いところに吸い込まれるみたいになって。
ああ、これが死ぬってことなのかな。私、死んだのかなって。
そう思った次の瞬間に、だだっ広い荒野に立っていた。
「……え、」
岩肌の地面が視界を埋めて、吹きっさらしの風が肌を打っている。ここ、どこ。私、さっきまで工房にいたよね?
「……?」
何が何だか分からなくなって視界を上げると、巨人みたいな男の人が私を見下ろしていた。
とにかく大きくて、迫力というか、圧力というか、存在感がすごい。
すごく筋肉とか見せつけてくる感じの服……服なのかな、これ。動物から剥いだそのまんまみたいな、生皮の腰巻きとマントを羽織っている。
「ええ、と?」
身の危険を感じて自分の身を見下ろすと、似たような……ただ、もう少し可愛い、ワンピースみたいな服を着ていた。
これも皮だ。重くて、硬い。
「おはよう、カナデ」
状況を飲み込めずにいる私に、目の前の男の人は、落ち着いた……でも、なんとも言えない圧力を感じさせる声をかけた。
「人類は、3700年間、石になって眠っていたんだ。文明はすべて滅び、世界は一度浄化された。今は目覚めた俺たちで、新しい国を作ろうとしている。それで……うん、君の力が必要なんだ」
「は、い?」
何言ってんの、この人? なんで私の名前、知ってるの? 私が意識を失っている間に、一体何がおきたの?
そういう感情が、全部顔に出ていたのだと思う。超然とした様子のままでいるその人の背後から、小柄な人影がひょっこり出てきてくれた。
「まあ〜、急にそんなこと言われても、何がなんだか分かんないよね〜。順追って説明するからね?」
「ほ、北東西さん!」
「南でいいよ〜」
知ってる人がいる。その安心感で、少しだけ体の力が抜ける。それでやっと、目の前の、でかい男の人の周囲を見まわせた。
似たり寄ったりの筋肉がいっぱいいる。ほとんど男性で、みんなすごい服。髪型もなかなかすごい。
女性もいるにはいるが、とても少ない。ここ以外の場所にはもっといるんだろうか。あと、男性の中にも何人か、もう少し着込んでいる人がいる。
そこまで周囲を見渡して、ようやく人ごみの中にもう一人、知った顔がいることに気付いた。
北東西さん……南さんの肩越し、少し離れたところ。ゴリラみたいに堂々とした体格のひとたちが並ぶ、なんだかうるさい感じの中で、そこだけが凪いだ湖面みたいに静かだ。
……確か、自衛隊に入ったんだっけ。
「……西園寺、くん」
西園寺くんは、大きな帽子を深くかぶりなおすと、静かに
「……羽京でいいよ」
とだけ、言った。
私が「目覚めた」ときにいた、ツカサ、と名乗った。ツカサはまた別の人を起こすのだと言って数人を連れて去り、南さんと……羽京くんが、私を案内してくれることになった。
「とはいえ僕たちも、少し前に目覚めたばかりなんだけどね」
「世界が急にこんなことになってて、びっくりしちゃう子も多いからね〜。目覚めたひとへの説明係も任されてるのよ」
私はもともと司さんのファンだったからね、司さんがいてくれればどんな世界でも楽しめちゃうんだけど。
ごつごつの荒地を裸足で歩きながら、南さんは嬉しそうにツカサン、ツカサンと繰り返す。それでようやく気が付けた。
「あ、ツカサって……獅子王司!?」
格闘技界の若き帝王! 確か南さんがほぼプライベートのファンだったはずだ。あれ、じゃああの人、私より歳下なの!?
「気がついて、なかったの?」
羽京くんが、虚を突かれたような顔をしている。分かんないよそんなの、と肯首した。
分かるわけがない。そもそも格闘技に縁のない人生を歩んできたのだ。電車の吊り広告とか、デマっぽいネットニュースだとかで辛うじて見たことがあるだけ。どちらかというと、大人が殴る蹴るを楽しむ世界に未成年が混じってる違和感のほうが気になって、苦手意識すら持っていた。
でも、あれだけ迫力のある人なら、確かに大人とも対等に渡り合えるのかもしれない。
そのくらい獅子王司には、コンダクターにふさわしい、帝王の風格があった。
「じゃあ、もう一人の有名人にも気付いてないね。あさぎりゲンもいたんだよ。司が、真っ先に目覚めさせた男だ」
「えっ、ホント!?」
あさぎりゲンは、さすがに分かる。深夜番組でギラギラ光るスーツ着て、トランプ当てるゲームやってた人だ。
「細身で、白黒頭に頬の傷、長い羽織の男がいたでしょう? 彼がゲン」
南さんが教えてくれて、ようやく思い至る。いた気がする。獅子王司と一緒に、次の人を目覚めさせるって去って行った細身の人がいた。あれ、あさぎりゲンだったんだ。髪もすごかったけど、それ以上に怪我でボロボロだった印象のほうが強い。ちょっと怖かった。
「あの、すごい怪我してた人ですか?」
そう聞くと、南さんは少しだけ言い淀んで、
「そう。私もまだよく分かんないんだけど……一人で敵地の偵察に行って、大怪我して帰ってきたのよ」
と、教えてくれた。
「敵、地……」
どういうこと? と羽京くんを見る。羽京くんは目を伏せて、苦々しく黙ったままでいる。
南さんは、敵地、とわざわざ言った。つまり相手は自然や野生動物じゃない。人間ってことだ。人間どうしが争っているの。こんな荒野で?
「ごめんね、情報量が多いよねえ」
「南さん、私、何がなんだか」
「そだよね〜。私も話の順番が変になっちゃった、ごめん。順追って説明するけど……まずは、私たちの国にご招待するね!」
そう言って、南さんが迎え入れてくれたのは、切り立った山肌のはざま、自然物にしては妙に規則正しく組み上がった、天然の要塞のような場所だった。
「変、な……形ですね、ここ」
「骨組みの隙間がいい感じに埋まってて、蜂の巣みたいになってるからね。案外プライバシーもあって悪くないよ〜?」
南さん、たくましいなあ。なんて思いながら、組み上がった骨を調べる。人工物の名残りかもしれないけれど、腐食も堆積も進んでいて、もう分からない。
たとえ人が作ったモノだったとしても、数千年経てば、それはもう自然物なんだろう。
……数千年?
「そういえば、司さんが言ってる『数千年』って、どうやって分かったんですか?」
私にとっては何の気なしの質問だったのだけれど、二人は言葉に詰まった。
「あの、聞いちゃまずいことなら、別に」
こんな世界だ。タブーもあるんだろう。そう思ったのだけれど。
「聞いちゃまずいってわけでは、ないんだけどね」
と、南さんが少しだけ困ったような顔でフォローしてくれた。
「司を起こした男が、そう言ったらしいよ。司はその相手と決裂して……殺して。それで、新しい国を作ろうとしている」
「殺……?」
羽京くんの声は、苦々しい。
二人の様子から、もうこの世界は以前のようなルールでは動いていないことが、よく分かった。
「起こせる人間の数は限られているからね。起こす人間を南ちゃんが推薦して、司が順番を決めてる」
「そう、ですか」
声に感情が乗らないように、少しだけ努力した。命の選択権が個人に握られいる。それは、怖いことのはずだ。
なのに、皆に……とくに南さんに悲壮感がないのは、きっと、獅子王司をそれだけ信用してるから、なんだろう。
「私は、司さんを手伝ってくれる子、司さんの理想に賛同してくれそうな子を選んでるからね。起こされた以上、それだけの仕事はしないと」
南さんはお仕事モードのとき、すごく頼もしく笑う。
起こされた者には、その者のための仕事がある。じゃあ、私にもあるってことだ。
「……私の仕事は、何ですか?」
私は何のために起こされたんですか。
ここで生きるために、この世界のルールに従って、食糧と安全の分配を受けるために……私は何をすればいいんですか。
生きるためのルールを教えてください。
真っ直ぐに二人を見て、問う。
南さんと羽京くんが目を見合わせ、「話が早くて助かる」みたいな顔をした。
「カナデちゃんにお願いしたいのは、工芸。こんな世界だから、人手の量としては重労働担当がいちばん必要なんだけど、彼らの使う動画や狩りの武器、こまごました日用品なんかは違う技能でしょう? それで、自然素材の扱いに長けた人として、若き楽器職人として注目されてた……本当は、ドイツ留学も目の前だったあなたに、木工全般を任せたいの」
「もちろん、力作業にはサポートを付ける。体力担当のすごくタフな奴がいるから、彼と僕が手伝うよ。それに、こういう環境では音楽も必要になるから、指は守ってほしい」
音楽も担当。ついでのように付け足された言葉は、きっと羽京くんの独断の一言だった。胸が、小さな針で刺されたように痛む。
その痛みの理由を知らぬはずもない羽京くんが、他ならぬ羽京くんが私にそれを任せようとすることに少しの苛立ちを感じはしたのだけれど。
彼にはもっと適した、そしてより重要な仕事があるってことなんだろう。
「……わかりました」
あなたの下位互換スキルでいいなら、という言葉は、ギリギリで飲み込んだ。